1 私たちだけの秘密だよ
「いひひひ、我ながらこのイラスト最高です、先輩マジ女神様」
七月上旬。
先輩と運命の出会いを果たしてからというもの、私は『先輩ノート』なるものを作っていた。
またれよ、ドン引きすることなかれ。『先輩ノート』とは、私の妄想の限りを尽くした、先輩とのイチャラブ満載の素敵ノートなのだ!
イラストと文章で、はち切れんばかりの想いを綴っている。
小学生の時の失恋をこじらせた私は、いつしか創作の世界で百合に浸ることを覚えていた。
すべての百合クリエイター様に敬意を!
しだいに、私自身も絵を描いたり文章を書いたり、妄想に妄想を重ねたりするようになった。
そして今、古水先輩に一目ぼれをしてからは、自らの創作の中で、思うままに女の子との恋愛をしていた。
創作に自らを映し出すことは初めてだった。
その中では私は怖がることなく「好きです」と口にするし、先輩もそれに応えてくれる。
こんなに幸せなことはないだろう。
不意に、両手で持っていたノートがすり落ちて、ベッドで仰向けに寝転んでいた私の額に落下してきた。
固い角が直撃して、「あうっ、うぅ……」と声が漏れた。
ふと目だけを動かして時間を確認する。
「ああもう、日付変わっちゃってるじゃん。明日の準備して寝なきゃ……いや今日か」
額をさすりながら独り
やっちまった!
朝、自分の席に座ってカバンを開けたところで、思わず大声をあげそうになった。
ふう、危ないところだった。
大声をあげそうになったその原因である『先輩ノート』を、カバンの中に入れたままでじっと見つめる。
こんなところまでついて来ちゃって。書いてほしくてたまらないのはわかるが、
なんて心の中で言ってみるが、うっかり持ってきてしまったのは私自身なのだが。
そうして、いつも通りの学校での時間を過ごし、放課後がやってきた。
自分の席で帰る支度をしていると、クラスメイトであり高校でできた一番の友人、
綾里は入学当初から何故か私によく懐いていて、その無邪気で天使のような笑顔を振りまいてくる。なんというか、尻尾を千切れんばかりに振り回す、ペットのわんちゃんを見ているような気分だ。
綾里が私の席の前で屈んで、机の上に目から上だけをひょっこりと覗かせる。
「ことりー、来週期末試験だよ。今日から部活禁止なの」
「うん、綾里は準備万端ですか? お互い頑張りましょうね」
私の何気ない返事に、綾里は潤んだ瞳を上目遣いにして、じっと見つめてきた。
「ことりー、今のは『一緒に勉強したい、勉強教えて』って言ってるんだよ」
……なるほど。
「女の子の言葉の裏にはいろいろ隠れてるんですね、参考になります」
「もおー、ことりも女の子でしょ、わかってよ」
「あはは、面目ねえでございます」
そう言って、わざとらしく頭をポリポリと掻く。
綾里が
「ねえことりー、今から勉強しよ」
小首をかしげて再度尋ね直してくる綾里。
これを断れますか? そんなことがあるわけないでしょうが。ええ、あり得ませんとも。
「うん、どこでする? 図書室にでも行きますか?」
「ここでいいよー、どうせみんな帰っちゃうし。今は騒がしいけど」
周囲を見回して綾里がにっこりと微笑む。
「数学教えて、数学! もうチンプンカンプンだから!」
「チンプンカンプンなまま放っておいたんですか? 綾里は悪い子ですね」
「えへへ、ことりに教えてもらうために放っておいたのー」
綾里がすっくと立ちあがり、パタパタと自分の席へ駆け戻っていった。
か、可愛いこと言いやがる、なんて恐ろしい子なんだ……。
ふう、毎度毎度、危うく勘違いしそうになるよ、困った子だ。
人も
「少し席外しますね」
「どこいくのー?」
「お花を摘みにいってきます」
「はーい、おトイレがんばってね」
トイレを頑張るとは。
というか、いつもならば「私もー」と言ってついてくるはずなのだが、今はそうじゃないらしい。
まあ、そんな時もあるか、珍しいけど。
お手洗いから戻って教室の入り口に差し掛かったところで、私は思わず足を止めてドアの陰に身を潜めた。
教室には綾里が一人。だが、様子がおかしかった。
顔を俯けて、私の机の周りをうろうろと落ち着きなく動いていた。
はて、どうしたのだろうか。
そんなことを
どうやら綾里には聞こえなかったらしい。依然、ノートを握り締めたまま、どこか苛立ちを隠すかのように動き回っていた。
私は自分の口をおさえて、その場にへたり込んだ。
どうするどうするどうするどうするどうする。
というより、どうして。
あれは私のカバンの中にあったはずなのに、どうして綾里が手に持っているの。
いやだ、いやだいやだ。気持ち悪がられる? 嫌われる? 最悪だ、だから持ってこないようにしてたのに、どうして。……いやだ。
ごちゃごちゃと考えても、動揺しすぎて全然思考がまとまらない。
頭をかかえてため息をつく。その時、
「ことり、大丈夫?」
頭上から声が降ってきた。
確かに心配気ではあるが、いつもよりもトーンが低い綾里の声だ。
顔をあげると、心配に眉をさげた綾里が、いつの間にか教室の入り口に立って私を見おろしていた。
「うん、大丈夫大丈夫。何もないところでつまずいちゃいました、運動音痴だなあ……あはは」
「そう、けがはない?」
「うんうん、全然平気、このとおり」
震える足に鞭を打って立ち上がると、綾里は「よかった」と言ってほっと息をついた。
何も言ってこないのかな。
そう思って、ちらと綾里の手元に目を向ける。やはり、ノートはまだそこにあった。
恐る恐る綾里の顔に視線を戻す。
綾里は何かを
「あの、綾里……」と、声を出すと、それを遮って綾里の唇が動いた。
「入ってよ、話したい事があるの」
「はっ、はい!」
聞いたことのないほど抑揚がなく冷たい綾里の声音に、反射的に返事をして、教室に入った。
綾里のあとについて私の席まで戻る。
机の横にかけている私のカバンが開いていた。私はノートを気にしてしっかり閉めたはずなのに、開いていた。
それを横目で見ていると、
「『先輩ノート』、コレ何?」
綾里が顔の横にノートを添えて、相変わらずの冷たい口調で訊いてきた。
「そ、それは……中を見ましたか?」
「見た」
綾里が簡素に即答する。
はあ……どうしてこんなことになったんだろう。……あっ、私がうっかり学校に持ってきちゃったからか。
「その……見たんだったら、それ以上の説明はいらないかと……」
一瞬、綾里が奥歯をギリッと噛みしめたのがわかった。
しかしすぐに深呼吸をして、無表情で私を見据えた。
「古水先輩とは、こういう関係ってこと?」
「いや、それは違う……全部私の妄想なので」
綾里が、ふーん、と言って、手に持ったそれをゆらゆらと振ってみせた。
「古水先輩がこんなこと知ったら、どう思うかなあ」
言葉がみつからない。心臓が暴れて体が揺れる。
『知られたら』?
そんなこと、考えたくもない。怖い、怖い、ただただ怖い。
「勝手にこんな風にいいように書かれて、可哀想。こんなの、ひどいよね」
口をつぐんで縮こまる私を見て、綾里が「ねえ」と冷たい瞳を
「隠してるんでしょ? バラされたくなかったら……分かるよね、私の言うことを聞きなさい」
私は体が勝手に動くままに、綾里の足元で土下座をしていた。
「は、はいいぃ! お願いします、お願いします! 言うとおりに従うのでどうかお願いします! どうかどうかどうかご内密にいいいい!」
バラされる、それだけはどうにか阻止したくて、私は必死に懇願した。
泥でも啜ってやる! 針の
すこし間をおいて、綾里がそばでしゃがんだのがわかった。
床を見つめたまま固まっていると、頭に何かが触れた。それがゆっくりと、優しく、まるで慈しむように私の頭を撫でた。
「いい子だね、私のわんこちゃん」
わ、わんこ……犬かよ!
でも、あれ……なんだろう、綾里の手がすごく優しい。安心感に包まれているようだ。
そっと顔をあげる。
私の頭に手を乗せたまま、綾里がにこりと微笑んだ。
……いつもの綾里の微笑みだ。先ほどまでの心が凍えるような目は何だったのだろう。
綾里が微笑んだまま、口を開く。
「うん、黙っててあげる。私たちだけの秘密だよ」
それを聞いて、私は素直に胸を撫でおろした。
私を見つめる綾里が頬に右手をあてて、「うーん」と何か考えるそぶりを見せた。
そして、
「じゃあさっそく命令ね。わんこなら、ご主人様にとびついて、ぎゅーってしなさい」
そう言って、綾里はしゃがんだまま両手を広げた。
その手には、『先輩ノート』はなかった。一体どこにいったんだ!
「ねえ、早くして」
綾里が不満気に唇をとがらせる。
はわわ、ご主人様がお怒りでございます! でも、なんだか、いつもの綾里っぽい仕草で安心する。
私は少し
綾里はいつも私に対して距離が近いけど、しょ、正面から抱きしめるのってなんかこう……ヤバいね!
ぼーっとする頭で、ただただ綾里の身体の柔らかさと温かさを堪能していた。
「ことりー、もっとぎゅってして、もっと強く」
綾里が幼い子どもがわがままを言うような口調で言う。
床についた綾里の両膝にまたがって、太ももに座る体勢でさらに身体を密着させる。そうすると、自然と抱きしめる腕に力がこもった。
「うー、くるしいよことりー」
綾里が嬉しそうな声で私の背中をさすってくる。
そこで、私はふと我に返った。
あれ、今更だけど、何なんだこの状況は……。
放課後の教室で綾里とふたりきり、並ぶ机の陰で抱き合って……って本当に何だこれ!
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