14 愛の叫びを邪魔しないで
「はー、ここが綾里の住んでたところかあ」
電車で一時間、私たちは花火大会の会場の最寄り駅についた。
どちらからともなく、手を繋いで歩き出す。
駅で降りた大勢の人々も、皆一様に同じ方向へ進んでいた。
その光景を眺めつつ、「人が多いなあ」と何気なくつぶやいた。
「駅に停まる度に人が増えていったけど、みーんな花火大会に来た人なんだねー、物好きな」
「綾里がそれを言うか」
暗くなり始めた空を見上げて、綾里が繋いだ手を前後に揺らす。
「だって好きな人とこういうこと、してみたいじゃん」
そう言って、綾里は私の顔に視線を移して、にこりと微笑んだ。
「うん……そうかもね」
好きな人か……私の好きな人は……。
必死に思考を巡らせて、どこか義務的に古水先輩の姿を想起する。もうとっくに分かっていたことだが、それ以上の、例えば古水先輩とこんな風に、花火大会や夏祭りに出かけたりだなんていう妄想には至らなかった。
私が恋をしていたフィクションの先輩は、いつの間にか、私の中から去ってしまっていたらしい。
不意に、綾里が肩に頬を寄せて、からかうような声と甘ったるい猫なで声が交じり合った声を出した。
「ことりー、今、何考えてたの?」
綾里を横目で見遣ると、綾里は小首をかしげて、「ん?」と目を細めた。
「え、どうしてそんなこと訊くの?」
なんだか答えづらくて訊き返す。すると、綾里は目を丸くして、クスリと笑いをこぼした。
「ことり無意識なの? これ――」
綾里が繋いだ手を持ち上げ、力を入れたり抜いたり、にぎにぎとしてきた。
繋がれた手は、先ほどまで普通に繋いでいただけだったはずなのに、知らぬ間に恋人繋ぎになっていた。
まあ別に、この繋ぎ方も慣れたものだけども……。
「ってあれ、無意識ってなに、私からこうしてた?」
綾里がコクコクと何度も首を縦に振った。
なにそれ怖い! 私の手には意思が芽生えたらしい。この右手め、勝手なことしやがって、許さないぞ。
綾里がなおも、「ねーねー」と肩をぐりぐり押し付けて、先ほどの質問の答えを催促してくる。
少し間をおいて、私はゆっくりと口を開いた。
「綾里、好きな人とこういうことしたい、って言ったでしょ?」
「うん。あっ、私の好きな人ってことりのことだよー知ってた?」
「知らなかった」
「むっ、だったら分かるように今ここで叫んじゃおうかな」
おおおい、やめなさい! どれだけ人が多いと思っているんだ!
これ見よがしに息を大きく吸う綾里の口を慌てておさえる。手の中で綾里がわざとらしく息を吐き、熱いようなくすぐったいような感覚が手のひらに広がった。
「私の愛の叫びを邪魔しないで」
「綾里が私を好きだということは存分に承知してますので勘弁してください」
綾里が演技っぽく「ふーんだ」と言って、そっぽを向いた。
はあー、あざといあざとい。でも、わかっててもこれがかわいいんだから卑怯だよなあ。
顔を逸らしたまま、「それで?」と手を強く握ってきた。
「あ、うん……そういうのってさ、自然とその人の姿を思い浮かべることができるものじゃん」
「ことりことりことりことりことりがいっぱい……うへへ」
綾里が楽しそうにして、口元をニヤニヤと緩める。
どうやら今日のご主人様はいつもよりも少々壊れ気味らしい、放っておこう。
「それでね、たぶん私、もう古水先輩に恋できてないんだなあって思った。妄想が働いてくれないや」
「まあ……あれだけ部長と古水先輩のことばっかり考えてたらねえ」
「うぐ、だってあそこはもう聖域過ぎて踏み込めないよ」
「その言い方だと諦めたみたいに聞こえるけど?」
「それは違うなあ……あんなに好きだったはずなのに、こんなにあっさりしてるものなんだって、自分でも驚きだよ」
「ふーん……あれ、それを考えながら私のことを熱烈に求めてくれたってことでしょ?」
「言い方を考えなさい、手の握り方を変えただけです」
「ということは、ことりの好きな人ってまさか……キャーどうしよ」
「あー、私の話全然聞いてませんね、そうですか」
「否定しないね、確定だ」
「それでいいんですか、ご主人様」
そうこう話している間に、会場らしき場所についていた。かなり広い河川敷と堤防に、たくさんの人影が集まっていた。
歩みを止めて、奥に臨む川を眺める。種々の明かりが水面に揺れて、どこか幻想的だった。
「どこかに座って休もうか」と、キョロキョロと辺りを見回す。すると、綾里が私の服のそでをちょんとつまんで、遠くに並ぶ屋台を指さした。
「わたあめ」
「せめて晩ご飯代わりになるものを食べようよ」
「ことりは何か別のもの買っていいよ。半分こしよ」
ご主人様はどうしてもわたあめを食べたいらしい。
子どもの時ならいいが、正直今となってはあんな砂糖の塊食べたくない……。
でも、ご主人様がご所望ならば仕方がない。それがわんこたる私に与えられた唯一の選択肢なのだ。
結局、綾里はわたあめを買って、私はたこ焼きを買った。うむ、お祭りに来たという感じがする。
丁度あいていた石造りのベンチに座って一息ついた。
綾里が真っ白いわたあめを指先でちぎって、それを口に含む。
私に顔を向けると、顔をほころばせ、「あまー」と言って微笑んだ。
はあ、無邪気な綾里には癒されるなあ。もうずっとそうしていてくれませんかねえ。無理ですかねえ、そうですか。
綾里がまたわたあめをちぎって、今度はそれを私の口元に運んだ。
「わんこ、あーん」
言われるままに食べる。口の中に、ただただ甘さだけが広がっていく。
これを全部食べるとか、子どもってすごいんだなあ。三口も食べれば胸焼けしそう。
目を瞑って、頭の中でそんな感想をこね回していると、綾里に肩をつつかれた。
小首をかしげて、「おいしい?」と訊いてくる。私は、「うーん」と声を漏らしてから、
「ただの砂糖」
と答えた。綾里が呆れたように湿っぽい視線を寄越してくる。
そんな目をされたって、それ以外の感想が出てきませんもの。甘い、以上!
そうか、甘いと言えばよかったのか? 綾里も「あまー」としか言っていなかったのだから。
くそー、私としたことが間違えたな。
「じゃあ、次はそんなこと言えないようにして食べさせてあげる」
綾里がそう言って、ニヤリと口角を持ち上げた。
あらららら、嫌な予感がしますねえコレは! 今すぐに走って逃げだしたい!
逃げ出したいのに、私の手首に巻かれている首輪にはすでにリードがつながっていて、持ち手は綾里の手首にしっかりとかかっている。
そもそも、逃げたりなんかしたら後々が怖いのでそんなこと毛頭する気もないですけどね。
綾里が、「これ持って」と言ってわたあめを私に差し出してきた。
それを受け取ると、綾里はわたあめをちぎって、自分の人差し指の先に丁寧につけ始めた。
この時点でさせられることは察するが、賢くて偉い私はご主人様の命令があるまでじっと黙って待機をする。なんて健気な私、すんすん、その忠実な姿に涙が出てきます。
なんて、アホなことを考えている間にも、綾里は二度三度と、せっせと指先にわたあめを巻きつけていた。
少しして、ようやく満足したのか、「でーきた」と嬉しそうな声を発した。
そして、案の定、その人差し指を私に差し向けてきたのだった。
「わーんこ、お食べ。ちゃんと味わって食べること」
いいよ、もうとっくに心の準備はできていたさ!
微塵も迷うことなく、私は綾里の人差し指を口に含んだ。その瞬間、綾里がぴくりと腕から全身を震わせたのが分かった。
綾里の視線が私の口元に集中して、次第にとろんと溶けたような瞳になる。
そんな綾里を気にしつつ、口の中でわたあめを溶かし、ゆっくりと口を離す。綾里がハッとして、甘えた調子を含んだ声音で、
「こら、勝手に離しちゃダメでしょ。もっとちゃんとなめて」
と言った。
言われるままに、再び綾里の指をくわえた。まだほんのりと甘さを感じて、その甘さが本当に綾里の指そのもののような錯覚がした。
口の中で綾里の指に舌を這わせるたびに手が震えて、どんどんと熱を帯びてくるようだった。
なんだか頭がボーっとして、周囲の人に見られているかもしれないということもどうでもよく思えた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
綾里が私の口からそっと指を抜いてしまった。濡れたままの指を、今度は綾里自身がぱくりとくわえた。
はー、この子、躊躇いなく私のをなめとったなあ。
綾里がうっとりと潤んだ瞳のまま、私に笑いかけた。
「これ、すごいね……指先だけでことりをいっぱい感じられる」
うん……すごく気持ちが良さそうなお顔してましたね、ご主人様。
綾里が小首をかしげるような仕草で、私の顔を下から覗き込んできた。
「ことり、なんか呆けてるけど大丈夫? おーい」
そう言って、私の顔の前で手を振った。
「あ、もしかしてもっと私の指が欲しかったのかな?」
からかうように、私の口の前で人差し指をくるくると動かす。
すかさず、綾里の指に食いついた。
綾里が目を見開いて、熱く深い吐息を漏らした。指をくわえたまま、私は挑発的にニヤリとした。
「ふふふ、わらしの勝ちらね」
「もー、ことりったら。今日はそういう日なの?」
綾里がテレテレとだらしなく顔を緩める。
そういう日ってなんだよ。
しかし、私の完全勝利だ、私の意思による行為で綾里の照れ顔を拝んだぞ。
前歯で指を甘噛みしつつ、綾里の表情の変化を見逃すまいとじっと顔を凝視する。
綾里も熱っぽい目で私を見つめ返してくる。
周囲は喧騒であふれかえっているはずなのに、どうしてか私たち二人は静寂に包みこまれているかのようだった。私の感覚はすべて、綾里に関連するものだけに焦点をしぼってしまったかのようだった。
と、その時、どこか遠くからか近くからか、轟音が鳴り響いて色鮮やかな光を散らした。
「んあっ、はにゃびはじまっらじゃらいか!」
「ことりー、指くわえたまましゃべらないでよ、くすぐったいよ」
なんて情緒もへったくれもない始まり方だ! 綾里の指をくわえながら花火見物って何だこれ!
私はまた、苦し紛れに二回三回と甘噛みを繰り返してから、ようやく指を口から離した。
「ひどい花火大会になった」
「えー、私は最高に幸せだよー。ねーえー、もっとしてよー」
「はいはい、拭いてあげますからね」
ポーチからハンカチを取り出して、濡れた綾里の指を拭いてあげていると、綾里がおもむろに側頭部を私の肩に乗せてきた。
ハンカチを仕舞って、私はそのまま綾里の手を握りしめた。
寄りかかる綾里を肩に感じながら、一緒に花火を眺める。そうしていると、やはり、不思議なほどに大きな、とてつもない安心感に包まれるのだった。
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