23 ご主人様以外にしっぽを振るなんて
夏休みが終わった。
高校ではじめての夏休み。何と言おうか、綾里を濃縮して小瓶に詰めたような日々だった。うむ、我ながら意味不明だ。
ところで、私と綾里が密着イチャラブスキンシップをしているところを部長さんに見られたことについて、部長さんはというと、それについて言及しないまま不思議なほどにいつも通りに接してくれている。
まあ、一安心と言えばそうだが、一切言及してくれないのもそれはそれで少々不安になる。
そのことを古水先輩に訊いたところ、先輩にも何も話していないそうだ。
部長さんなりの気遣いなのか、本当に何とも思っていない、もしくはあれの意味を理解すらしていないのか、それとも……。
それから、私は相変わらず綾里のわんこのままで、未だに綾里との関係をどうするべきなのか決心がつかない。
綾里の話しようからも分かるように、もしも私たちが恋人同士になったとしたら、間違いなく今の主従関係は解消される。
その未来を想像すると、どうしようもない孤独感と不安に襲われる。
今の関係に依存して、固執して……早く抜け出したいと思っていた最初のあの頃が懐かしい。
ぼんやりとそんな思考を巡らしつつ歩みを進めていると、廊下の先に古水先輩の姿を視認した。
先輩もこちらに気が付いて、にこりと微笑みをくれた。
何だか嬉しくなって、私は思わず小走りで駆け寄った。
「先輩こんにちは」
「こんにちは。部活以外に学校で会うって珍しいね」
「そうですね、今日はラッキーデーです」
私の何気ない言葉に、鈴を転がすような声で先輩が笑いをこぼした。
「そんなこと言ってると緋野さんに怒られるよ。ってあれ、そういえば緋野さんがいないね」
そう言って、不思議そうに目を丸くして、先輩はきょろきょろと辺りを見回した。
「次の授業で数学の小テストがあるので、せっせと勉強してますよ。あの子数学だけはからっきしなので」
「へー、意外。夢川さんは大丈夫なの?」
先輩の問いに、私は大げさに胸を張った。
「私は完璧です。なにせいつも綾里に教える立場ですから」
すると、先輩が私に向かっておもむろに手を伸ばしてきた。その瞬間が、私の目にひどくゆっくりと、スローモーションに見えた。
思わず首をすくめる。先輩の手のひらが私の頭に乗せられた。
「そっか。偉いね」
「え、偉いですかねえ、えへへへ」
気恥ずかしさに目を伏せて頬を掻く。
やばいなあ、こんなところを綾里に見られた日には私の身がどうなることやら。
「そ、それじゃあ私は購買部に行ってきますので」
「うん、また放課後にね」
先輩が控えめな動作で手を振る。その仕草、満点花丸です。
頭の中で両手を合わせつつ、私は「はい」と頷いて、先輩に背中を向けた。
教室に戻るや否や、綾里がガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。その勢いに、一瞬クラスの大勢の目が綾里に集中した。しかし、それもほんの数秒のことだ。
立ち上がった綾里は、ずんずんと私に詰め寄ってきた。
「どこ行ってたの、ことりの可愛いお顔が緩んでる……」
ひえええ、気づくの早いわ!
綾里が私の頬に両手を添えて、ムニムニと揉んでくる。
「浮気か……」
「断じて違います」
口元を引き締め、毅然と否定する。すると、綾里は私の全身を、顔を限りなく近づけてくまなく観察し始めた。
な、なんだこれ。
「他の女の匂いが……しない」
「そりゃしないわ」
だって匂いがつくようなことしてないもの。ふふ、私は無罪なのだよ!
綾里が腕を組み、「ふん」とそっぽを向いた。
「どうせ古水先輩にでも出くわしたんだろうけど、ニヤニヤしてたからお仕置き決定ね」
すごい、ドンピシャだ! でもちょっと頬を緩めていただけでお仕置きって、ひどい仕打ちですわねご主人様。
綾里がごそごそとポケットを探り、取り出したのは赤いひも状のアレだった。
手に持ったリードと私とを見比べて、綾里がパチパチとまばたきをした。
「ここでつけたらさすがにまずいかな?」
まずいどころじゃないよ! 教室でそんなことしたらクラスの人気者だよ!
私はとりあえず、頭をさげて謝罪することにした。
「ごめんなさい」
「ん、よろしい。脱走して、あまつさえご主人様以外にしっぽを振るなんて、いけないでしょ」
綾里が一見優しく純粋な笑みをこぼしたと思った瞬間、
――カチャッ
手元で小さな金属音が鳴った。
んふふ、綾里に手首を掴まれているわけですけど、下に顔を向けるのが怖いわ。
目だけを動かしてちらと周囲を確認する。誰の目もこちらに向いていない。
綾里だけはまっすぐに私の顔を見つめている。とても素敵な笑顔で。
段々と鼓動が速まって、同時に焦りが出てくる。
「わ、私はここからどのような行動をとればよろしいのでしょうか、どのような行動が最善なのでしょうかっ」
限りなく小声で、それでいて必死な思いで綾里に問う。
綾里は眉根を寄せて、困ったという風に小首をかしげて見せた。
「私にきかれても困る……」
ええええ、そこで困られたら私の方が困るよ! 何、私今崖っぷちなの?
『あの二人ってそういう関係なんですって』
『まあ、夢川さんはとんだド変態で救えない犬畜生だったんですわね』
『お盛んな犬だこと、おほほ』
なんて噂が流れたら、私がガチの百合の園出身ということがバレるよりも尚ひどいぞ!
現実感のない想像に冷汗が額に浮き始めた時、
「ま、冗談だけど」
綾里は手に持ったリードを私の顔の前に持ち上げ、これ見よがしに親指でフックをカチカチと鳴らした。
「さて、そろそろ授業がはじまるかなー」
何でもない風にそう言って、後ろ手にリードの持ち手を握り締め、なぜかフック部分を引きずって戻るのだった。
いやあ、ご主人様、今あなたクラスの注目の的ですよ。そりゃあ教室の真ん中でリードをカラカラと音を立てながら引きずる人がいたら見ちゃうよね。
私もクラスの大勢の一員として、無言で呆然と綾里の背中を眺めるのだった。
放課後になり、綾里と仲良く手を繋いで部室へと向かった。
もうこれくらい余裕、慣れたってもんですよ。他人の前で手を繋ぐことなんて、呼吸をするようなもの。どこの誰が呼吸を恥ずかしがるんだって話ですよ。
部室の扉を開くと、椅子に座って参考書か何かを開いていた西原部長が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「おっ、ごきげんようおふたりさん、今日も仲良しだな。いいことだ」
そう言って、部長さんは満足そうにウンウンと頷いた。
「こんにちは。古水先輩と一緒じゃないんですね」
「ああ、体育祭がどうとか言って生徒会室に行ったぞ。もう会長じゃないのに忙しいヤツだなー」
「た、体育祭……イヤな響きだ」
顔をしかめる私を見て、綾里が可笑しそうに笑う。繋いだ手を無意味に揺らし、なぜか嬉しそうな表情で口を開いた。
「ことりって運動音痴だもんね。変な動きが最高に可愛くて好き」
うへへと笑いをこぼす綾里。
変な動きで悪かったな! ……いや、可愛いって言ってくれたし悪くはないのか。
テーブルをはさんで部長さんの対面の椅子に腰を掛ける。部長さんが背もたれに背中をあずけ、軽く伸びをした。
「ま、私たちの本番は文化祭だけどな。中庭もいい感じになってきたし、楽しみだなあ」
「あんな端っこに人来ますかね?」
「当日は中庭に売店が出されるからな、遠くからでも目につきさえすれば集まるさ。ベンチでも置いておけば休憩もできる。お、それいいな、素敵な憩いの場になるぞ」
「ひとりでまとめちゃった」
そうこう話しているうちに古水先輩が部室に姿を見せた。
毎度のことだが、部長さんが古水先輩を見るとき、表情の光量が一段階上がる。パッと表情を明るくして、目が僅かに大きく開かれる。
ふふふ、ありがたやありがたや。それを目の当たりにする度に、私は深く感謝を申し上げるのだった。
花壇のそばで作業をしているところへ、部長さんが私に声をかけてきた。
「おーい夢川ちゃん、手が空いてたら部室に行って、私のカバンの中から
「はい、今すぐに!」
私は即答して、敬礼した。
すると、すぐ隣にいた綾里が立ち上がり、「んじゃ私も」と言った。部長さんが笑い声をあげ、片手をあげる。
「あはは、じゃあついでに緋野ちゃんは短めの支柱を一本持ってきて」
「はーい、わかりました」
んー、部長さんは気が利いて優しいなあ。綾里のわがままに柔軟に対応するんだもの。
私だったら、真顔で「え、何言ってんの」とか口走ってありがたいお仕置きを受けることだろう。
部室に戻り、部長さんがいつも持ってきている手提げバッグを開いて中を探る。
私の手元を横から覗き込んでいた綾里が、神妙に、それでいて冗談っぽく、
「何か重要アイテムを見つけるフラグだよ」
とつぶやいた。
「勘弁してよ、それが先輩にとって良くないことだったらどうしてくれるの」
「言霊だ、言霊だ」
「もー、やめてってば」
私も冗談半分に返しつつ、手のひらよりも一回り大きめの巾着袋を取り出した。
部長さんは、いつもそこに鋏やら何やら小物を入れている。
袋を開いて小さな剪定鋏を抜き出した時、同時に、カサリと音を立てて何かが床に落下した。
「はっ、本当にきた」
綾里が落ちたそれを見下ろして、依然おどけた口調で言う。
私も何だか気が気じゃない思いでそれを拾い上げる。紙でできた、十センチ角くらいの正方形の袋だった。少し歪んでいて、おそらく手作りだろうとわかる。
傾けると、中で何かが滑ってカサカサと音を鳴らす。
その表面には、文字が書かれていた。文字の感じから察するに、幼少期のものだろう。
「『はなちゃんへ おたんじょうびおめでとう。だいすきだよ』。だってさ」
書かれた文字を読み上げ、綾里が私に目を向ける。
私は無言のまま、そっとそれを巾着袋と一緒に手提げバッグに仕舞った。
ああああ、最高かよ……ありがとうございます、ありがとうございます。
推定小学校低学年あたりにもらったであろうプレゼントを、今でも大事に持ち歩いてるってなによそれ……。
両手を合わせて部長さんの手提げバッグを見つめる私に、綾里は不審者を見るような視線を向けてきた。
「なんかアレだね……ことり、気持ち悪い」
「うっさいわ!」
「お口悪いよ、わんこ」
その気持ちの類は置いておいて、先輩たちが相思相愛なのは間違いない。
でもだからこそ、古水先輩はなかなかその先へ踏み出せないのだろう。幼い頃から心を通わせて親密だからこそ……。
ふと考え込む私の手を、綾里の方からそっと取ってきた。そして、訳知り顔の微笑みと共に、身を寄せてくるのだった。
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