7 ペタペタ
終業式が終わり、私と綾里はいち早く教室を抜け、さっさと部室へと向かった。
カギを開け、部室に入った瞬間に、私は大声を張り上げた。
「夏休み!」
「っだー!」
綾里も実に愛らしい声をあげ、横からタックルをする勢いで飛びついてきた。そうです、これは間違いなく、無邪気で天使な綾里です。
腰に絡みついてきた綾里の背中を、なだめすかすようにさすってやった。
「夏休みではしゃぐなんて、小学生じゃないんだからさ」
「最初に叫んだのはどこの誰」
先ほどとは一変して声のトーンを低め、綾里が私のわき腹をくすぐりはじめた。
「ああっ、やめっ……ん、やめ、やめてえ!」
「ごめんなさいは」
「ごっ、ごめんなさい!」
「『申し訳ありませんでしたご主人様。調子に乗った罰として何でも言うことを聞きます』。はい復唱、どうぞ」
「あはっ、ひっ、もっ……もうすでにそうだから!」
「ん、確かに。……でも言って」
「ひいいっ、んあっ……も、申し訳ありませんでしたご主人様! 調子に乗った罰として何でも言うことを聞きます!」
そこでようやく、「ん、よろしい」と言って解放してくれた。
フラフラと覚束ない足取りで、テーブルまでたどり着く。両手をついて、乱れた呼吸を整えた。
「はあっ、ごしゅじんしゃま、ひどいじょ……」
「じょ?」
綾里が口に手を当てて、可笑しそうに笑いをこぼした。
というか、真夏に締め切られていたプレハブ小屋、なんと暑いことか。まるで蒸し風呂だ。
綾里にこちょこちょされたせいもあって、すでに汗だくだし。
まだ制服から体操着に着替えてないのにどうしてくれる!
「あじゅいよお、クーラー……」
壁際のリモコンに近づいて、スイッチを入れる。
このエアコン、起動するまで長いし、起動してから冷房が効き始めるまでもえらく時間かかるんだよなあ。
すると、綾里が入り口のドアと、それから対面それぞれについた二か所の窓を全開にしてくれた。吹き抜ける風が気持ちいい。
ああ、プレハブ小屋に天使様がいる……あ、天使様が私に手招きしてる。お迎えかな?
暑さにやられて血迷ったことを考えつつ、反対側の綾里のそばに歩み寄った。
綾里がクスリと笑って、人差し指で私の頬をつついた。
「普通窓から開けるでしょ」
「暑すぎて脳みそ働かなくなっちゃった」
「ことりの脳は百合のためだけにあるもんね」
「それいつもじゃん」
「うん、いつも働いてないんじゃない?」
こいつ……勉強は私の方ができるもんね! まあ、総合的にみればほとんど差はないけど。
綾里がまじまじと私の顔を見つめてくる。風が吹いて、綾里の髪がさらりとなびいた。
おもむろに、また私の顔に手を伸ばしてきた。その指先が、私の頬に触れた。
綾里の指が、いやに
なになに、何なの!
ドギマギして、唖然として、声が出ない。
綾里がゆっくりと口を開く。
「ことりって、ほんと汗っかきだよね」
「……は、それだけ?」
綾里がきょとんとして、「うん」と返事をした。
なんだよ! 今の雰囲気ちょっとアレな感じだったじゃん! 別にいいけど! ……別にいいけど!
この小悪魔め、無自覚にそんなことやってるの? 有罪だぞそれ!
私が心の中で叫び声をあげていると、綾里は「ああ」と声を漏らして、
「なあに、わんこ。どうかしたの?」
「ど、どうもしませんけど」
綾里が、ふーんと言って、私に背中を向け、窓の淵に手をかけて外に顔を出した。
そして後ろを振り返り、
「わーんこ、隣においで」
と私を呼んだ。
何か企んでやがる……。そう思いつつ、おずおずと綾里の隣に移動する。
綾里が隙間を詰めて、ぴったりと身体がくっつくまで私に身を寄せた。
「こっちの窓からは温室しか見えないね」
「う、うん……知ってる」
「ねえ、カーテン閉めて」
綾里に言われるまま、カーテンを引っ張る。綾里が私の手からそれを取り、ふたりの身体をくるんでしまった。
「そっちの端っこ、ことりがちゃんと掴んでてね」
「えっ、うん……掴んだ」
「窓もドアも開け放ってるけど、これでもう後ろからは見えないね。先輩たちが来ても、私たちが何やってるかわからないね」
いやいやいや、脚は思いっきり見えてると思いますけど! 大丈夫ですか、暑さで脳みそ溶けてませんか!
綾里が私の制服の
「近いね」
「ちかっ、いやもう……こ、これくらい慣れたもんよ。なーんにも思わないね」
「うそだあ。じゃあ、じっとしててね」
そう言って、綾里の手が私の首に触れた。中指と薬指が、脈を探して首筋をまさぐる。
綾里が口角をあげ、目を細める。
「嘘つき、すっごくドキドキしてるじゃん。正直に言ってよ」
「き、気持ちとしては慣れた!」
「なにそれ」
綾里がクスクスと笑いながら、私の首を優しく撫で始めた。
うううう、ご主人様のおててが、おててが! やばいやばい、私の首ってこんなに敏感だったっけ!
「ことり、首が汗で濡れてるから、私の手のひらにことりの汗がいっぱいついちゃってる」
何言ってるの、この人! なんか色々と私に影響されてない? 思考侵されてない? 大丈夫?
「ことりー、ごめんなさいは?」
「ご、ごめんなさい」
「えへへ、ことりの汗好きだからいいよー。ペタペタ」
だったらどうして謝らせたし! こいつ、私にごめんなさいって言わせるの好きだな!
綾里が私の肩に顔を乗せて、子猫のような声を漏らしながら尚も首を撫で続ける。
首筋に吐息がかかってくしゅぐったい!
これはふにゃふにゃタイムがきたな。
こういう展開になるとたいてい、どこかのタイミングで綾里の雰囲気がふにゃりと緩む。
私はそれを“ふにゃふにゃタイム”と呼んでいるのだ!
可愛いけどなんなんだろうなー、これ。実に不思議だ。
綾里は「ペタペタ」と言いながら、私の首を手のひらで執拗に触っていた。
そうして、しばらくして満足したのか、掴んでいたカーテンを手放して、私から身体を離した。
「そろそろ冷房効き始めるころかな。ドアと窓閉めなきゃね」
「うん……綾里は手を洗ってきなよ、そのままは嫌でしょ」
「ううん。嫌じゃないよ」
そう言って、綾里は私に手のひらを突き出し、「しお味、舐める?」と首をかしげた。
ご主人様の頭大丈夫かなあ、私の影響だとしたら、本当に申し訳ない。
今だに綾里が保管している『先輩ノート』のせいなのか、はたまた私そのものがいけないのか……。もしかしたら私は、かなり罪深いことをしたのかもしれない。
でも案外、最初からこうだった可能性も……。そもそも、綾里の小悪魔っぷりを考えればそっちの方が妥当なのか?
わからん、ご主人様のことがさっぱりわからん。
「ふーん、無視するんだ……舐めなさいって命令してもいいんだよ」
綾里の威圧感満載な声で我に返った。そして、瞬時に、
「わっ、な、舐める!」
と声を発していた。
「えっ……」
「……え?」
綾里が目を泳がせて、手を引っ込めた。引っ込めた手を、胸の前で握り締めている。
あれれ、今私、咄嗟におかしなことを答えましたね。本心じゃないですから! ついうっかりですから!
ああああ、条件反射で命令に従おうとするとか恥ずかしいよおおお!
「ほんとに?」
顔をこれ以上ないほど真っ赤に紅潮させて、綾里が瞳を潤ませて聞き返した。
あっ、意に反する答えにうろたえちゃうご主人様かわいすぎます。心の中で拝んでおこう。ありがたやありがたや。
「ごめんね、ボーっとしてて反射的に答えちゃった」
「う、うん……そっか、そうだよね」
「あっ、わっ、あれだ! さっさと窓閉めなきゃね!」
大慌てで二か所の窓と入り口のドアを閉めながら、この空気に何故か居心地の良さを感じていた。
「来週の金曜日だ!」
何の脈略もなくテーブルを両手で叩いてそう言ったのは、
ああっ、そういう何気ないやり取りがいいんです! そういうのもっとください!
「勢いに任せて喋るな」
「出だしはこうでないと締まらんからな、あたしが。今からちゃんと説明する」
そう言って、部長さんが来週の金曜日の予定について説明を始めた。
要約すると、部活動の一環として、近くの植物公園に出かける、ということだった。
「あそこってこの辺りに住んでたら小学校の遠足とかで何度も行きますよねー」
「ははは、園芸をなめるなよ夢川ちゃん! 園芸は生ものだ! 今見られる景色は今しか見られんのだぞ! 植物の有りようは刻一刻と変化しているのだ! あそこは季節ごとにデザインも一新されるしな!」
「な、なるほど……」
生ものか……私的には目の前のおふたりが生ものの対象ですが……確かに、今この瞬間に見られるものを大事にせねば、目に焼き付けねば。(注:琴莉の言う生もの=現実世界の百合)
はっ、いかん、大変失礼なことを考えてしまった。心に塩をまけ! 邪気を払え!
「というわけで、来週の金曜はみんなでお出かけだ!」
部長さんが拳を突き上げるのに合わせて、先輩も控えめに握りこぶしをつくっていた。
そんな微笑ましい光景をありがたく眺めていると、ふと、先ほどから綾里が静かなことに気が付いた。
私の横に座る綾里は、どこか上の空という感じで、宙の一点を見つめてぼんやりとしていた。
ご主人様、まださっきのことを気にしてるんですか? そんなに尾を引くタイプでしたっけ?
「そういえば綾里は植物公園初めてだよね? こっちに越してきてから行った?」
綾里はもともと遠くに住んでいて、この四月に親の転勤にともなってここに引っ越してきたのだ。
私に話しかけられた綾里は、ゆったりとした動作でこちらを向いて、顔をほころばせた。
「うん、行ってみたいって思ってたから、楽しみ」
さて、明日から夏休み。
部活に、部長×先輩の観察に……それから綾里との関係に……一体どんなことが待っているのでしょうか。
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