第21話 月下の剣舞
二十一 〈 月下の剣舞 〉
夜が巡る。
窓の外に再び漆黒の空が広がり、室内は燭台の蝋燭が揺れて、まるで彼女の不安定な心象風景を描くかのように踊っていた。
デリーンは眠っていた。
寝台に横たわる彼女に背を向けて、グリンガレットは、小さな鏡台の前に腰を下ろした。
先程、ルウメが戻った。
ラディナス卿が囚われたとの話には、少なからず衝撃を受けた。これで、城内で頼るべき者が居なくなった。文字通り、手も足も出ない状況に追い込まれたようなものだ。
サヌードが裏で糸を引いているのは疑いようがない。
それにしても、なぜラディナスを捕える必要があったのだろうか。
グリンガレットは晩餐会での様子を思い返した。
あの場にいた中で、主戦派だったのは、エイノール王とサヌード卿、それにアブハス宰相の三人だった。オヴェウスとダリウス卿は、立場を明らかにしていなかった。ラディナス卿だけが、内政の充実を訴えた。いわば、穏健派だった。
サヌードは、なぜそこまで王位にこだわるのだろう。彼が王になる事で、この国はどう変わるのだろうか。
同じ主戦派ではあっても、エイノール王にはまだ迷いが見えた。アブハスは、ある意味では日和見なだけかもしれない。もしくは、とんでもない食わせ者かのどちらかだ。
そうすると、サクソン人の勢力との開戦を最も望んでいるのは、実はサヌード卿一人なのではないだろうか。
サヌードが王位に就けば、戦乱は一気に加速する。それも、悪い方向へ。その先には、きっと破滅という未来が待っている。それだけは、避けなければならない。
だが、この違和感は何だろう。
グリンガレットはサヌードの相貌を思い浮かべた。
モルガンに、僅かにも似ることの無かった、哀れな王子。しかし、ケイネス卿という彼を育てたという騎士は、決して彼を邪険には扱わなかったはずだ。サヌードは騎士としての所作を、しっかりと身に着けている。エイノールの信任を得るほどの人格を演じるのは、付け焼刃で出来る事では無い。部下を掌握しているところを見ると、決して策謀だけに長けているのではなく、それなりの実力も有している。それは、素養の無い者には出来ないことだ。
そうだ、サヌードは決して野心だけの男ではない。狡猾さの裏には、彼の頭脳の明晰さが隠れている。優れた教養も備えているし、物事の真偽を見抜く目も持っている。
なのに、なぜ、愚かな戦を求めるのか。
そして、あの自信はどこからやってくる。
彼は全ての物事が、自身の掌の上で回ると信じている。
私自身に対してもそうだ。キリアムを盾に取れば、私が言いなりになると・・・事実そうではあったのだが、なぜ思いこめる。
その答えは、何処にある。
グリンガレットは窓を見上げた。
答えは、この音にあるのか。
エイノール王が、タリエシンと信じた竪琴の音。サヌードが連れてきたという、謎の詩人。いや、これが人の奏でる音でないことは、もはや確信に近い。
いかにタリエシンといえど、これ程に長い時間、琴の音を奏でられるものではない。それに、よく耳を澄ませ。そうすれば、この音が音楽ですらないことが、わかるではないか。
これは魔法の音だ。
それを聞く誰もが、疑問すら覚えることが出来無い程の、強い古き力の音流だ。
この音は、聞く者の心を惑わす。
高揚、興奮、不遜、不安、盲信。おそらくは、その持ち主の欲望に合わせて、心を操る。そう、その気になれば、この音で人の思考を操る事さえ、出来るかもしれない。
サヌードはこの力を手に入れた。私に対して、あれほどの強気で振舞えるのも、いざとなれば、私を琴の魔法で操れると思っているのではないだろうか。
いや。
グリンガレットは首を振った。
この力はあまりに強い。モルガンの血を引くとはいえ、只の人間であるサヌードごときに御せるものだろうか。
強い魔法は、その持ち主の心すら操る。それと気付かせることも無く、戦に駆り立て、滅びに駆り立てている。根底にあるのは、サヌードの願望ではない。これを、・・・魔法の琴そのものを生み出した者の悪意だ。
身震いがした。
グリンガレットにはそれが誰の手によるものか、直感した。
目的が自分と同じだ。騎士の世を憎み、貶め、破滅させる為に作られたのだ。
周到に、陰湿に、執念深く。このやり方を、私はよく知っている。
音が、聞こえ難くなった理由も、これで説明がつく。
緑の革帯の力だ。
私と琴の力は、その源流をたどれば、同じ古き力から生まれている。オヴェウスを斬った時から、緑の革帯の力は増した。それが、一時の間、琴の音を打ち消したのだ。
同質の力が重なる時、その輪郭は失われ、より強い力に飲み込まれる。単純な法則だ。
琴の音は、城下を支配している。その音によって、無意識のうちにこの城の住民を蝕み、その感情を様々に操っている。それが、この城全体を包む、不快感の正体だ。
では、ラディナスはなぜ惑わされない?それを言うならば、キリアムもだ。
キリアムは、おそらく剣に守られた。
彼はガラティンを手にした。ガラティンの力の根源も、同じではないが、古き、失われゆく定めの力から生み出されている。かつて、この世ならざる乙女が生み出した希望の力だ。
では、ラディナスはどうだ。
少し考えて、グリンガレットは思い当たった。
あの館か。
ラディナス邸には多くの古い武具があった。
おそらくあの武具の中にも、聖なる力を持った物や、この世を去った騎士達が残した想いを閉じ込めた物が、幾つか残されているのだろう。それら武具の数々が、あの館を琴の音から守っていたのだ。
少しずつ、答えが見えてきた。
だとすれば、サヌードが元凶なのではない。彼のしている事を許すわけにはいかないが、彼もまた、琴の持つ力に操られているのに過ぎないのかもしれない。
だが、どちらにしろ、このままでは手詰まりだ。
無意識に、鏡を見た。
紛れもないグリンガレットの顔が、意志を持った、一人の人間の顔がそこに映っていた。
彼女は問いかけた。
さあ、私よ、あなたなら・・・私なら何を選ぶの。
選択肢はある。自分自身として生きている限り、私には。
あの「御方」の意志ではない。
グァルヒメイン様の遺志でもない。
私が今、欲するものは。
キリアム卿・・・・我が殿の命と、この私を、私のような頼りない「人間」を、友と言ってくれた、デリーンの命だ。
グリンガレットは立ち上がった。
横たわるデリーンの相貌を見下ろし、静かにその傍らに膝をついた。
「デリーン。私は貴女を護ります。わが心に従い、蒼天の・・・いや」
彼女は言いかけて、ふっと笑った。
「・・・あなたとの友情にかけて」
迷いはない。私はグリンガレットなのだ。
この先、どのような名で呼ばれようとも。どう名乗ろうとも。
翌朝を待って、グリンガレットはデリーンに計画を話した。
デリーンは驚きを隠さなかったが、彼女の決意が固いことを知ると、その計画に同意した。
肝心なのは、彼がどうするかだった。
「マルドルーク様、折り入って話があります」
いつものように朝食を運んできたルウメを、グリンガレットは引き留めた。
ルウメは明らかに怪訝そうな顔をした。昨日、彼女の話術に上手く乗せられた事もあり、何を言い出すものかと、警戒しているのだ。
グリンガレットは鏡台の前から、革の水筒を取って、彼に手渡した。
「これは?何ですかい」
不審げにルウメが目を上げた。
グリンガレットは微笑んだ。
「賄賂です」
「へ?」
「中身は林檎酒です。昨夜の夕食にお持ちいただいたものですよ。この地方の物なのでしょうね。若いですが良い味がします」
酒と聞いて、ルウメはごくりと喉を鳴らした。
巷で手に入るのは安い麦酒ばかりだ。林檎酒は、昔はこの地方の名産だったが、戦乱が拡大してからは、ほとんど目にしなくなった。
「え、と、でもよ、賄賂って・・・? 危ねえ、危ねえ、そんなもん受け取れませんや」
「良いのですか。では、返していただきますよ」
意地悪に笑って、グリンガレットは手を出した。
「デリーンと私だけで、いただきます。折角のおすそ分けでしたのに」
「あ、・・・それは、ちょっと待った」
いざとなると、惜しくなった。ルウメは困った顔になって、手にした水筒とグリンガレットを何度も見比べる。向こうで、デリーンが苦笑いを浮かべていた。
「お嬢様方、いったい何を企んでいるんでさ」
たまらず、ルウメは訊いた。
「今夜、ここを脱走します」
はっきりと言われて、ルウメは開いた口がふさがらなくなった。
「っと、そんな真似、いくら何でも、させるわけにはいかねえですよ」
「困ります。そう仰られると」
「いや、困るのはこっちでさ」
この姫とやらは、どうにも手ごわい。おそらく、相性が悪いのだろう。口は立つはずのルウメが、すっかり相手のペースに飲まれてしまう。
「お嬢様方を逃がしたとあっちゃあ、いくら俺でも罰を受けちまう」
しかめっ面になって頭を掻くと、グリンガレットは膝を折って目線を合わせた。
「マルドルーク様は、私達を助けて下さると、約束されたではありませんか」
「いや、あれは地下牢の話、で、ございやして」
「牢はここも一緒でございます」
そういわれると、返答に悩む。いっそ自分が逃げ出したいと、ルウメは思った。
「マルドルーク様には、迷惑がかからぬようにします。私を、信じてくださいませぬか」
少し真面目な表情になった。彼女の深い碧眼が、ルウメを飲み込むように見つめた。
「お嬢様は、一体何者なんでさ」
「私は、キリアム卿の従者、グリンガレットです」
彼女は一語一句、はっきりと答えた。
「その名の意味する通り、つまらぬ者です」
「へ、グリンガレット? 姫様ではないので?」
「彼らが、勝手にそう呼んでいるだけの事です」
ルウメは覚悟を決めると、じっとグリンガレットを見つめ返した。
グリンガレット。つまりは、馬の骨。
意外にも、ここまで正面から彼女を見たのは、これが初めてだった。
おや、とルウメは思った。
彼女に感じていた近寄りがたい雰囲気、それが、彼女の名を知った瞬間から消えていた。
随分と可愛い顔をしている。輪郭には、微かに幼ささえも残すようだ。そして、壊れそうなほどに儚い。
「グリンガレット・・・」
つい、その名を呼んだ。
「はい」と、静かな声で彼女は応えた。
その声を耳にした時、ルウメの脳天を、何かが強く打ったような衝撃が走った。
彼女は、彼が考えていたような姫ではない。おそらく、同じ苦しみを持った者だけにしか感じ取ることのできない、同胞の匂いを、ルウメは嗅いだ。
ルウメとグリンガレット。容姿も声も、全てが異なる筈なのに、何かが共通している。
彼は、グリンガレットの美貌の裏に、ようやく本当の影を見た。
それは、ルウメが心に宿しているものと、同じ影だった。孤独という名をした影だ。。
「ああ、なるほど。グリンガレットだね」
ルウメは無意識に呟いて、頷いていた。
グリンガレット、つまり、馬の骨だ。自分と同じだ。体が小さいというだけで、顔が少し醜いというだけで、まともな人間としてさえ認められてこなかった自分と。
彼女は美しい。でも、その美しさと高貴さが、勝手に彼女を決めつけてしまう。誰の視線からも、彼女の本当の姿を認めさせてくれないのだ。
なるほど、彼女は馬の骨だ。
ルウメは、ようやく彼女の事が理解出来た気がした。
「あんたがグリンガレットなら、俺は、やっぱりルウメ(流行り病の意味)でさ」
ルウメは言った。
「俺はガリアの出でね。昔から、俺と話すと、病気がうつるって馬鹿にされたのさ。ついたあだ名がルウメ。へへ、グリンガレットにルウメじゃ、なかなか良い組み合わせさね」
ルウメは顔をくしゃくしゃにして、笑った。
「では、これからはルウメ様とお呼びしていいですか。貴方は、その名前に、誇りを持っているのですね。私が、このグリンガレットという名に、誇りを持っているのと同じように」
「どう呼ばれても、俺は俺さね」
自然と、どちらからでもなく手を伸ばしていた。
小さな節くれた手と、白く滑らかな指が、触れ合い、お互いを確かめ合う。
「お嬢様は、もう止めますぜ。えと、グリンガレットさま、でいいかな」
「呼び捨てでも結構です」
「さすがに気が引けますや」
ルウメは頬をポリポリとかいた。
「で、俺は、何をすればいいんでさ?」
その眼からは、彼女を疑っていた時の色は、すっかりと消え去っていた。
日の射さない冷たい廊下を進んだ先には、重い金属の扉があった。城兵が二名、固い表情を崩さずに立っている。無言で二人を下がらせると、ダリウスは中に入った。
木製の椅子に腰を下ろして、ラディナスは待っていた。
室内には窓一つない。
テーブルを挟んで、椅子が数個。燭台の灯りも最小限で、非常に殺風景な一室である。
「ダリウス卿でしたか」
ラディナスは少し安堵した声になった。
ダリウスは目の前の椅子に腰を下ろした。
ちらりと、探る様な目を向けてから、白い顎髭に手を当てる。
「此度は」
重い口を開いた。
「貴公のせいでは無いと、儂は見ている」
ラディナスは頷いた。
彼に対し、余計な弁明は不要だ。騎士として認め合えばこそ、お互いに妙な策を弄するような人間では無いと判っている。
「だが、オヴェウス卿はな、・・・あれを認めたのは、貴公の誤りであったな」
痛いところを突かれた。
「私には、まだ信じられませぬ」
ラディナスは自分を訪ねてきた時の彼を、まだ忘れてはいなかった。
彼の粗暴さ、野蛮さは、よく理解している。だが、あの時自分を訪ねてきた時のオヴェウスは、明らかな悲しみと苦痛を背負っていた。そして、その眼の中に、彼は騎士の魂の片鱗を見た。それは、本当に間違いであったのだろうか。
「オヴェウス卿が、謝ってキリアムを逃がしたというのならば、おそらくその通りなのでしょう。もし、手違いで殺してしまったならば、正直にそう答えるはず。・・・あの男は、そういう男です」
「儂もそう思う。だが、なぜ、貴公を讒言したかだ。オヴェウスは、貴公を恨んでいたわけでもあるまいに」
ダリウスは、思い出したように、背負っていた包みを、テーブルの上に置いた。
「ラディナス卿よ、貴公、誰かに嵌められたのではないか」
「私も、そう考えております」
「であろうな。心当たりは」
「ありませぬ。ですが、此度の投獄を指示したのは、アブハス宰相殿と聞いております」
「奴ではあるまい。あれは日和見の風見鶏だ。多少弁と才が働くだけのな」
ラディナスも同感だった。アブハスと自分の間には、微塵の諍いも無かった。むしろ、エイノール王と間で、軍備の方針が違えた時などは、彼が仲裁をしてくれた位だ。
「では、アブハス宰相に、誰かが」
ダリウスは頷いた。
「わしは、サヌード卿が臭いと、睨んで居る」
「近衛騎士長ですか」
「うむ。奴め、宰相とも親しい。少し前、北部との外交を通じた際、サヌード卿が人を仲介したと聞いている。大分、旨い汁を吸ったらしい」
「よくある話ですな」
ラディナスは政治からは、一歩引いていた。
彼はあくまで武人である。いかに戦に勝つかが彼の本分で、国を富ますことが本分ではない。だが、戦に勝つ事とは、戦場で勝つ事だけを意味していない。全ての前提として、正しく国が栄える必要性がある事も、誰よりも理解している。
「陛下が射られたとき、奴は誰よりも冷静に見えた。儂も、その時は動転して気付かなかったが。今になると、どうも気になる」
ダリウスは包みを開けた。
鏃の取れた、金属製の矢が姿を見せた。羽根に黒い線が引かれている。
「陛下を射た矢だ」
ラディナスは思わず眉根を顰めた。この矢が、陛下の命を奪ったというのか。
「儂も、この年になると、どうも疑い深くなってな」
ダリウスは矢羽にそっと触れた。
水鳥の羽根を用いて作られた矢羽に、黒ずんだ血の跡がまだ残っていた。
禍々しいものに見えた。馬上弓のため、やや短いものの、よく見ると華美さの中に強い剛性を秘めている。獣の骨を砕き、確実に殺すための道具だ。
「この矢を鋳した鍛冶を訪ねてみた。・・・ところがだ、ちょうどあの狩りの日に、石段から転げ落ちて死んだとよ。偶然にしては、よくできているではないか。・・・ラディナス卿よ、貴公なら、どう見る?」
「口封じ、ですかな」
「かもしれぬ。だが、そうでないかもしれぬ」
言うと、ダリウスは腰を上げた。
矢を再び包みへと戻しながら、片目をあげてラディナスに不安げな視線を送る。
「いずれにせよ、貴公、気を付けられよ。少しなり、口を添えてはみるが、あまり期待はせんでくれ」
「かたじけない」
ラディナスは深々と頭を下げた。
ダリウスが部屋を出ようとするところへ
「ダリウス卿。ひとつだけ、お願いがあります」
思い出したように声をかける。。
「我が娘を、リネットの安否を、後でお伝えいただけませぬか。あれは、身寄りがない」
ダリウスは、微かに目を伏せて、ゆっくりと頷いた。
一人その場に残されると、ラディナスは大きなため息をついた。
自分も、キリアムも、嵌められた。
ダリウスが一人でも味方になってくれるのは有難い限りだが、はたして、彼の言葉がどれだけ伝わるものだろうか。
そもそも、今の権力者は誰だ。アブハス宰相が担うべき役割を、彼がその責任を全うできていないとするならば、この国は瓦解している。
王が必要だ。だが、王を選ぶ権利は、もはや自分にはない。
王を選ぶのは、彼らだ。そして、王にふさわしい者は、果たしてこの国に居るのか。
自分の運命も、そこで決まる。
リネットの相貌を思い出すと、心が痛んだ。
不憫な目に、会わせてしまう。私が騎士などであったばかりに。
誰よりも辛いのは、娘ではないか。
ラディナスは、己の不甲斐なさを呪った。
満月が近づいている。
脱走には、最も不似合いな夜だ。それでも、今夜しかない。
ルウメが用意した短剣を受け取って、鋭利さを確かめると、おもむろにスカートの裾を膝丈に残して切り裂いた。
布をよって一本にしてから、短剣をデリーンに手渡す。彼女も同じことをした。
「本当に、上手くいくんですかね」
心配そうに、ルウメは見守っていた。スカートが短くなって、二人の細い足がのぞくと、思わず目を背けた。美しいが、眼の毒だ。見てはいけないと思いつつ、薄目を開けてしまう。
「ルウメ様」
グリンガレットに呼びかけられて、彼はびくりと背筋を伸ばした。
「剣を」
「ああ、そうでしたね」
彼も一応は城兵だ。一応の武器は身につけている。決して立派な剣ではないが、護身の役くらいにはなるだろう。腰から鞘ぐるみ外して、彼女に手渡した。
「あとは、じっとしていれば良いので?」
「ええ、少しの間、我慢していただけますか」
グリンガレットはスカートの切れ端を使って、彼を椅子に縛り付けた。燭台の蝋燭に爪で痕をつけて、
「蝋燭がここまで燃えたら、大きな声をあげてください」
ルウメは頷きながらも、小さな声で呟いた。
「さえねえ役割ですなあ。女の人にやられちまったなんて、また笑いもんになっちまう」
グリンガレットは申し訳なさそうな顔になった。デリーンも自分の準備が整うと、ルウメの側にかがみこんだ。
「悪いね。でも、あんたがいないと、何も出来なかった。感謝してるよ」
「感謝、だなんて、・・・いや」
顔が赤くなった。デリーンに直接話しかけられたのは、もしかして初めてなのではないだろうか。
「でも、声をあげちまって、良いんですか。明日まで気を失っていたことにすりゃあ」
「貴方が疑われない為です。それでも、危険な位ですが」
「まあ、俺は大丈夫だけど、下の兵隊は、本当にうまくやれるのかい」
グリンガレットは頷いた。デリーンと視線をかわすと、彼女は短剣を手の中でくるりと回した。手慣れた剣捌きを見せて、彼に微笑む。
「任せな」
一言だけ、彼女は言った。
これで準備は出来た。
ルウメに最後の声をかけて、部屋を出る。成す術もなく後ろ姿を見送って、ルウメは二人の無事を祈った。
問題の城兵は、全部で三人だ。二人が正面に、一人が塔の背面に居るはずだ。月明かりが無ければ、二人を斃すだけで良かったが、もう一人も黙らせる必要があるだろう。中庭を走り抜けなければ、陰になりそうなところまで辿り着けない。
階段を降り、塔の出口が見える所まで来ると、グリンガレットは持ってきた果物をとりだし、下に落とした。
物音がして、城兵が中を覗き込む。暗い塔内で良く見えないが、気になったのだろう、一人が数歩、中に足を踏み入れた。
果物を見つけて、体をかがめる。そこへ、デリーンが躍りかかった。膝を首筋に叩き込み、そのまま組み敷く。もう一人の衛兵は状況が飲み込めず、あわてて中を覗き込んだ。
そこを、グリンガレットが襲った。
衣服を割いて作った縄で相手の首を絞めつけ、一気に絞り上げる。暴れそうになったところに、一人目を倒したデリーンが加勢した。みぞおちに思い切り蹴りを見舞うと、二人目も程なく失神した。
一瞬にして見張りの城兵を片付けると、二人は無言のまま頷いて、外に出た。
最後の一人も、難なく黙らせた。
中庭を抜け、城の城壁沿いを進む。
彼女の記憶と照らし合わせれば、この区画は本城に繋がっている。少し迷路上に進まなければならないが、このままいけば、知っている場所に繋がる。
月の灯りが二人を無情に照らしていた。
城兵の哨戒は、以前よりも増えている。おそらく、王の死が影響しているのだろう。よく見ると、近衛騎士と思われる人影も混じっていた。
少しでも影を頼って、二人は先を急いだ。
多少時間がかかっている。ルウメが声をあげる時間まで、そんなには長くない。
目の前を、ランタンを持った城兵が通り過ぎるのを幾度かやり過ごしながら、グリンガレットは目的の場所を見つけた。城壁と一体化した見張り台の横を過ぎ、庭園に出ると、小さな小屋の横に狭い小さな入り口があった。中を進むと、石の質が古いものになっていく。
壁を押し、ケルンナッハが教えてくれた、王妃の隠し部屋に続く地下道に出る。堀の手前あたりで行き止まりになるように見えるが、この先に、さらに抜け道がある。
狭い空間に出た。
「ちょっと、行き止まりじゃないか。道を間違えてないか」
焦ったように、デリーンが小声で言った。
「大丈夫です、ここで間違いありません」
グリンガレットは手をかざした。
白く細い指におさまった指輪が、血のように赤い輝きを放った。
光が壁面に届き、徐々に漆黒の輪郭を浮かび上がらせていく。
言葉を失って見守るデリーンの目の前で、巨大な空洞が姿を見せた。
何を思ったのか。
グリンガレットは指輪を外し、デリーンに手渡した。
「これは?」
「嵌めてください、それがないと、この先には進めません」
「そうか」
デリーンは疑う事なく、指輪を身につけた。それは、何の抵抗もなく、彼女の指におさまった。
「良かった。貴女なら、身につけられると思っていました。でも、・・・許してください」
「え、何を?」
「貴女を、その指輪を持つにふさわしい者にしてしまった事です。それが、この先どのような宿命に繋がるのか、私にもわかりません。ですが、いつか、その指輪を持つ事で、貴女は苦しむかもしれません」
「ごめん、グリンガレット。あんたの話す意味が解らないよ」
デリーンは困ったような、少し悲しいような顔になった。
彼女は知らない。
誰もが、その指輪を身につける事が出来る訳では無い。それは、モルガンの指輪だ。少なくとも、彼女の力を受け入れた者にしか、その指輪は所持する事すらも許さない。
あの時、デリーンの命を救うために、彼女に力を与えた。それが、今は良い方向に動いているように思うが、その反動は、どこかで彼女を苦しめる事になるだろう。それが、近い将来なのか、遠い未来になるのか、それはグリンガレットにも解らない。
「時間が無い、行こうグリンガレット」
デリーンが彼女の手を引いた。
彼女は、動かなかった。
「グリンガレット?」
デリーンは振り向いた。そこで、何かをこらえるように肩を震わせる彼女を見た。
「行ってください。私は、ここまでです」
「え、何を言ってるのさ」
「行ってくださいデリーン!」
グリンガレットは叫んだ。
デリーンが初めて耳にするほどの、強い剣幕だった。
「そんな、あんた最初から」
「私は、我が殿を。キリアム卿を見捨てるわけにはいかないのです。でも、・・・貴女だけは、貴女だけは巻き添えに出来ない」
「馬鹿を言ってるんじゃないよ、逃げよう。キリアムの事は、それから助ける算段をすればいいじゃないか!」
グリンガレットは首を横に振った。
「手遅れになっては、困るのです。私は貴女を、我が殿を、どちらも救うと決めたのです。だから、もう行ってデリーン。貴女と知り合えたこと、私には」
言葉がもつれた。
思うように言葉が出ないのだ、感情が先走っている。それでも、グリンガレットは必死に耐えていた。
「行ってください。それが、私の為なのです」
デリーンは退かなかった。
「駄目だよグリンガレット、あんたの事は、あたしが助けるって、言ったじゃないか。約束を、破らせる気かよ」
声を詰まらせて叫ぶ。
それでも、彼女は首を横に振った。
「もう、十分に助けていただきました。貴女のおかげで、私は覚悟を決める事が出来た」
「覚悟だって・・・」
こくりと、彼女は頷いた。
「これから先も、私はグリンガレットとして生きます。例え、私が誰を名乗ろうと、誰に、どう呼ばれようとも」
その言葉に、デリーンは悟った。
もはや、彼女の決意は、変えることが出来ない。
そして、これからの彼女にとって、側に居る自分は足かせに過ぎないのだ。それが、悲しい程にはっきりとわかった。
デリーンは唇をかみしめた。血が滲むほど、強く。
一歩、また一歩、ゆっくりと通路へと、足を踏み出していく。
涙が出た。
畜生、グリンガレットと出会ってから、自分は泣くことしかできない。
彼女を助ける力も、術も、何一つ持っていないじゃないか。
声にならない叫びをあげ、デリーンは走った。
グリンガレットは、俯きながら、その背中を見つめ続けていた。
自分の事を、生まれて初めて友と呼んでくれた女性の姿を、彼女は目に焼き付けたかった。
その姿が消えるまで、ずっと。
「さようなら。デリーン、貴女は生き延びて、下さい」
誰にも聞こえ無い声で呟く。そして、堪えた。
どこかで音がした。ルウメが声をあげたのだろう。脱走が知れた。
ここからが、勝負だ。
グリンガレットは、唇を引き締めた。
ケルンナッハは、この通路を知っている。先廻りされないようにするには、騒ぎを自分に集中させなければ。
鞘に納めた剣を抜き、地下道を戻る。
月光が彼女を迎えた。冴えた光だ。蒼天よりも、今は自分に相応しい。
見張り台を駆け上り、楼上に身を踊らせる。
中庭を見下ろした。兵士たちが右往左往する姿が見えた。
誰が逃げたのか、何が起きたのか、わからないままに混乱だけが大きくなっている。良い傾向だ。これならば、時間を稼げる。
誰かが、グリンガレットの姿を見とめて、指をさした。
視線が一斉に彼女を向いた。
城兵は、月光を浴び、三の城壁の上に立つ青白いドレスの女を、まるで天から降り立った女神でもあるかのように見つめた。一瞬の間、誰もが声を失い、耳鳴りを生むほどの静寂が生まれた。
風が吹いた。
濃金色の髪が踊って、漆黒の空を輝かせる。
捕えよ、と誰かが叫んだ。
我に返った兵士たちが石段を駆けあがってくる。
グリンガレットは剣を手に身を躍らせた。
軽やかな手さばきで、相手を手玉に取る。一突きで先頭の男を転倒させ、続く相手を蹴り倒す。雪崩のように、兵士たちが階段を落ちていった。
グリンガレットは剣先をくるりと返して、再び中庭を見下ろした。
どうした、その程度か。と、その姿は語っていた。
艶めかしく白い指を口元に添えると、ありもしない口髭を撫でるような仕草をする。
これは、彼女の師でもある、アグラヴェイン卿の癖だった。
傲慢な剣士であった彼は、若い騎士に剣を指南するとき、決まってこの仕草を見せた。彼女はそんな彼の所作が可笑しくて好きだった。
折角の機会です。お見せしましょう。
彼女は心の中でそう呟くと、師匠譲りの剣を構えた。
群がる城兵を打ち倒しながら、城壁を走り、少しでもデリーンが逃れた方角とは逆に相手をひきつける。
反対側からも敵の姿が見え始め、挟み撃ちになると、グリンガレットは中庭に安全な場所を探した。少し遠いが、小屋の屋根を見つけ、跳ぶ。
着地の時、少し足を捻った。痛みはあるが、まだ大丈夫だ。転がるように中庭に走って、そこで止まった。
近衛騎士が立っていた。
背が高く、両腕がやけに長い。
ダンヴェインとかいう男だ。サヌードと一緒に居たところを、一度見た。
相手にとっては不足ない。
グリンガレットは剣を片手に持って、体を斜めに向かい立った。
ダンヴェイン卿は、盾を持っていた。
腕が長く、やりにくい相手だ。だが、動作がそれ程速いとも思えない。
様子を見るために剣を数度突き出すと、彼は難なく防いでみせた。
いつのまにか、とり囲まれていた。
グリンガレットとダンヴェイン卿の周囲を輪にするように、城兵や、幾人かの騎士が取り巻いている。まるで遊戯でも見るように、幾重もの目が二人の戦いの行方を追っていた。
どうやら、ここまでか。それでも、もう少し時間は稼ごう。
グリンガレットは視線を上げた。
西の塔が視界に入っていた。
できればあの塔まで行きたかった。そうすれば、琴の正体くらいは目にする事ができたかもしれない。どうせ暴れるのなら、そこまで辿り着ければ良かったのに。
「どこを見ているか!」
叫びながら、ダンヴェイン卿が剣を出してきた。
腕の立つ剣士だ。怪我をさせるのもしのびは無いが、やむを得ない。彼は敵なのだ。
「甘い」
グリンガレットはダンヴェインの剣をいなして、剣を上げた。盾で避けようとするのを、見越して、一気に間を詰め、跳ねる。盾を足場に利用して、彼の頭上を越えると、反転して斬った。
左の肩口に一撃を受けて、ダンヴェインは悲鳴を上げ乍ら倒れた。
喝采と、怒号が上がった。
「ダンヴェイン卿!、馬鹿め、油断したか!」
また次が躍り出た。
グリンガレットは立て続けに三人の騎士を相手した。決して弱い者ばかりではなかった。それなりに腕の立つ騎士ばかりである。
しかし彼女は、そのすべての相手から剣を奪って見せた。
自らの前に三本の剣を突きたて、再び不遜な仕草を、彼女は演じた。
その頃になると、さすがに、一人で立ち向かおうという騎士は居なくなっていた。
逃がすことも出来ずに、囲みを作っている。だが、かといって進み出るものもいない。
彼女を囲む誰もが、彼女の剣捌きへの畏怖と、ある意味では感動を覚えていた。そして、なによりも、剣を振るう姿の美しさと妖艶さに、魅入られていた。
グリンガレットは、頃合いとみた。
左手を鷹揚に掲げ、周囲を見回す。
濡れた唇が、微笑を帯びて開いた。
「者どもよ、この地の騎士は、かほどに地に落ちたか」
その声は、騎士を、城兵を圧倒した。侮蔑の言葉にも関わらず、誰もがその声に委縮した。
「無礼であろう。もはや、礼すらも失したか。わらわのこの姿を、よもや忘れたのではあるまいな」
突然、一人の男が、悲鳴にも似た声をあげた。
皆がその男を見た。
男は老兵だった。身分は高くはないが、長い間この城に仕え続けてきた男だった。
男は輪の中から、数歩グリンガレットに歩み寄ると、崩れるように膝をついた。
一人ではなかった。
彼に呼応するように、何人もの男が、彼女の前に進み出て、膝を折り始める。その誰もが、老兵だった。
若い騎士や城兵は、何が起こったのか、茫然と立ちつくした。
「モルガン様」
一人がついにその声を発した。
ざわざわと、声が広がっていく。
「モルガン様だ。・・・モルガン様が、お戻りになられた」
その声が、驚愕と羨望を孕みながら、徐々に真実味を増して、彼女を知らない筈の城兵まで伝わっていった。一人が二人になり、ついには殆どの兵が次々と、膝をつき始める。
その先に、彼女は憤然とした表情で睨みつけるサヌードを見た。
サヌードは城兵を蹴るように割って入ると、彼女の前に立った。
「何をしている! グリンガレット」
彼は耳元に口を寄せ、怒気を孕んだ声で言った。
グリンガレットは微笑んだ。
「戯れです」
「このような騒ぎを、戯れだと」
「私のしたい様にしたまでの事。貴方の筋書き通りに事を運ばせるのも、癪でしたので」
「キリアムが、どうなっても良いというのだな」
「貴方には、彼を殺せませぬ」
「何?」
少し体を話し、涼やかな笑顔を彼に向けた。
「あの方を殺せば、貴方は私に対する切り札を失います」
「本気で、そう思うのか」
静かに、グリンガレットは剣を捨てた。
「ええ、何故なら。私はその為に、これ以上逆らう事は出来ませぬ」
瞳に冷たさが増していた。何かを覚悟した光を湛え、彼女は指を開いた。
「私は、貴方の筋書きに乗りましょう。ただし、全てではありませぬ。私は私のやり方で、貴方を王位に導きましょう」
指は、地面を指していた。
自分に跪け。そう、グリンガレットの眼は言っていた。
サヌードは怒りに震えた。しかし、もはや幕は上がっていた。彼は、従うしかなかった。
近衛騎士長が膝をつくのを、信じられない思いで、残る騎士達は見つめた。そして、自分たちが立ち尽くすことの無礼さに気付き、慌てて膝をつき始める。
不遜に周囲を見回し、グリンガレットは息を吸った。
「出迎えにしては、面白い余興であったぞ、サヌードよ」
グリンガレットの声が、妖艶さと傲慢さを湛えて響いた。
「エイノールめが死んだ。このルグヴァリウムを継ぐ者を決めねばならぬ」
ざわめきが走る。エイノール王の死を、まだ知らない兵も多かった。
「わらわはその為に、かりそめの命を頂き、アヴァロンより戻った」
天を指す。指先が月面に重なった。
「わらわの命は、この月が満ち、新月となり、次なる満月を迎えるまでの間である。それまでに、次なる王を指し示さねばならぬ。者どもよ、道を開けよ」
グリンガレットの声は、まさに王妃モルガンの声だった。
老兵たちが彼女のために道を開け始めると、彼女は横柄に頷いて、サヌードの肩を叩いた。
「露払いをせよ、サヌード」
「は」
サヌードは従った。
一瞬、目が合った。彼女を睨みつける眼差しには、彼を捨てたモルガンへの怒りがそのまま焼き付いているように見えた。
「そう怒りまするな」
小声で、グリンガレットは囁いた。
「貴公の筋書きを、私なりに進めてあげたのです。感謝してもいいのですよ」
その声は、グリンガレットのものだった。だが、そのたたずまいからは、少女じみた彼女の面影が消えていた。誰もが疑う事を忘れるほど、彼女は在りし日の、若き、モルガン・ル・フェイ、そのままの姿をしていた。
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