第16話 狩り

十六 〈 狩り 〉


出発を告げる角笛が、勇壮に鳴り響いていた。

城門を、騎士の集団が旗を掲げて通り過ぎるのを、誰もが神妙な面持ちで見た。

エイノール王が城を出る。最近では非常に珍しい事だ。

王の狩場はルグヴァリウムの北東に広がる草原の先にある。比較的穏やかな丘陵地を進むと、少しずつ木々が増え始め、本格的な森の入り口に辿り着く。周囲には巨大な岩が目立ち始め、この地方独特の景観を形作っていた。

奥に進めば進むほど、高地になる。

高地の先にはゲイブルズと呼ばれる巨大な湖がある。湖の乙女の伝説が残り、森に住む者たちからは、神聖な領域として代々護られてきた。そこからの流れが、この一帯に潤いを与えている。起伏と森の多い地形は、人の侵入を固く拒み、それ故に、狩場としてだけでなく、騎士の修練の地となっている。

霧が濃かった。

肌寒い程に、周囲が白んで見える。キリアムは馬上に身を置きながら、この行進がひどく苦痛なものに感じられた。

グリンガレットが戻らない。それが、今の彼にとっては全てだ。彼女の安否が知れなくなったことが、これ程に苦しいものであろうとは。

「気分が、宜しくないのではありませんか」

声をかけてきたのは、馬首を並べて歩く近衛騎士長のサヌード卿だった。

キリアムの隣にはサヌードが、さらに数人の正騎士を挟んでエイノール王、オヴェウスが後方に控えている。ラディナスは同行していなかった。

「ご心配には、及びませぬ」

キリアムは努めて冷静に答えた。

「顔色が優れぬようですが、もしや貴殿、狩りはあまり好みませぬか」

言葉ほど、心配する素振りでもない。今日のサヌードは、普段に比べて饒舌なようにキリアムは感じた。

「確かに狩りはさほど嗜みませぬ。ですが、良い弓もいただきました故、ご恩返しに、何かしら仕留められれば良いのですが」

「それは、ご謙遜なさる」

「サヌード卿こそ、自信がおありのご様子ですね」

「生来好きなのです。合っているのですよ。獣を討つのは、戦争よりも、むしろ良い」

サヌードは笑った。この男が笑う所を始めて見た。仮面のような笑いだ。

「ところでオークニーの御君よ、一つ提案があるのですが」

「提案?ですか」

キリアムは少しだけ嫌な予感がした。

「私と、今日は一つ勝負といきませんか」

「勝負ですか。・・・何もその様な事」

「私も、貴殿と戦ってみたい」

サヌードが体を少し寄せた。小声になって。

「貴殿はオヴェウス卿との立ち合いに勝ち、また、槍試合ではラディナス卿に負けを認めさせました。私も貴殿と競うてみたい。そう思うのです」

「競うなどと」

「我が名誉のためでもあるのです。ルグヴァリウムの騎士として、このままでは私も納得がいきませぬ。お互い、矢数も同じ十二本。獲物の数で勝負といきましょう」

断ろうとするキリアムの言葉を押し切って、サヌードは決めてしまった。

馬を少し離し。

「負けませぬぞ」

にやりと笑い、歩みを早める。

「仕方のない。私は、不得手であると申しましたのに」

キリアムは一つ嘆息すると、自分も馬を早めた。


太陽が白天に隠れ、今一つ時分が読めない。隊列が間延びしたように続いているのを、ビオランは森の端に立って見つめていた。

グリンガレットは居るのだろうかと、目を凝らす。

しかし、それらしい姿は見つけられない。そもそも、女性の姿は一人もなかった。

・・・無駄足だったな。ちぇ、せっかく通り道を教えてもらったのに。

ビオランは落胆して、それ以上興味を失ったようにその場に座り込んだ。

・・・俺ら、何してるんだろう。

相変わらず曇った空を見上げ、ぼんやりと考え込む。

そろそろ、南の森に帰ろうか。結構長い事森を離れた。こんなに長い事森を離れた事がなかったし、少し故郷の村が恋しくなってきた。

視線を、無意識に隊列へと戻す。

まるで幽鬼の行進だ。霧の中で、黒い影の集団が、延々と続いている。

その中から、二人の騎士が、馬の速度を上げて森の方へと向かい始めた。

野次のような、喝采のような声が聞こえてくる。

ビオランの眼が見開いた。

・・・あれは、あの時の黒騎士だ。それが、なんで姫様の馬に乗っている?

彼女の姿はない。だが、森の民である彼が馬を見間違える筈はない。あれは確かに、グリンガレットが連れていた馬だ。

ビオランは、咄嗟に身を伏せ、馬の走る方角を見定める。騎士の隊列に気付かれないように注意を払いながら、素早く駆けだした。

あの黒騎士め、姫様をどうにかしたのではないか。

不安が胸に押し寄せてくる。幸い森は自分の領域だ。たとえ相手が馬でも、追いかける事くらいできる。

ビオランは故郷の森を恋しく思ったことなどすっかり忘れていた。あの騎士を追いかけて、問いたださなければ。それだけしか、もはや頭には無くなっていた。


どれほどの時間が経ったのか。

眠っても、最近は悪い夢ばかりだ。それでも、目覚めた時に人がいるのは心地良い。

うっすらと瞳を開け、グリンガレットは側に座るデリーンの膝を見つめた。

地下牢の明るさにも大分慣れてきた。いつまでここに幽閉されるのかという不安はあるが、少なくとも最初の試練は切り抜けた。緑の革帯がもたらす呪いの成就を、オヴェウスが本能的な恐怖で拒んでいるうちは、まだこちらに分がある。

とはいえ、そろそろここを抜け出す方法を考えなければ。

「起きたのかい、グリンガレット。まだそんなに寝ていないよ」

デリーンが気付いて声をかけた。

「起きてしまいました。ですが、大丈夫です」

グリンガレットは体を起こそうともせずに答えた。

その様子を見て、デリーンが安心したように微笑んだ。

「良かった。怖くない方のあんただね」

「何ですか、それ?」

「だってさ、あんた時々おっかない感じになるじゃない。オヴェウスが逃げ出した位にさ」

「あれは向こうが悪いのです」

自分ではそんなに怖い顔をしているつもりはない。不本意ではあるが、これも彼女であるから、仕方のない事だ。

デリーンがふいに手を伸ばした。グリンガレットの頭に触れると、髪をそっと撫で始める。

「怪我しなくて良かった。あの野郎、乱暴にしやがって」

髪をすく指が気持ち良い。もぞもぞと、グリンガレットはデリーンに身を寄せる。そんな彼女にデリーンは優しく頷いた。

「ありがとう。グリンガレット。あたしを庇ってくれて」

「礼を言われる事ではありません。私はあの男が許せないし、嫌いです。ベイリン卿を殺したのはあの男です。カラドボルグを奪っただけではなく、幾人もの罪のない者達を、あの男は苦しめてきたのでしょう。・・・だから、あれほど私を恐れたのでしょうけれど」

「そういえば。変な寒気がしたもんね、まるで幽霊でも集まってきたみたいにさ」

「そうかもしれません。私の呪いのせいです。呪いが強まる時、本来、この世には非ざる力が集まってきます。革帯の主が業の深き者であれば、それを重ねた分だけ、彼を恨む声もまた集まってくる。おそらくあの男はそれを見てしまった」

革帯を持つ資格のない男であればこそ、余計に。だが、それを打ち破る程に彼の心が強かったなら、今頃どうなっていたことだろう。

「少なくとも」

グリンガレットはわずかに期待を込めて言った。

「あの男が帯の魔力に気付き、呪いへの恐怖を克服しない限りは、私との絆は、完全には成立しません。まだ、帯を奪う機会も、私たちの手で、あいつを打ち倒せる可能性もある」

デリーンは、彼女があえて「私たち」と言ってくれたことに満足した。

それが、彼女にとって非常に大きな変化であることまでは、気が及ばなかったが。

「それにしても、グリンガレットはよく平気だね」

デリーンが不意に言った。

「何がですか」

「この音だよ。ずーっと鳴り続けているじゃないか。頭が狂いそうだよ」

「え?」

「・・・まさか、あんたには聞こえてないのかい?」

驚いたように、デリーンが目を見開いた。

グリンガレットは耳を澄ます。だが、何も聞こえない。

「琴の音だよ。ここに入れられてから、ずっと響いているだろ、嘘?、本当に?」

グリンガレットは頭を殴られたような思いで、体を起こした。

もう一度耳を澄まし、琴の音を探す。意識を集中し、余計な思考を抑え込む。

すると、確かに。

「あっ、聞こえます! 本当に、なんで今まで・・・」

 それは琴の音だった。タリエシンが爪弾くという竪琴の音。城に着いて以来、あれほどに煩く耳についていた音が、何故か今の今まで、彼女には聞こえなくなっていた。

 狼狽をしつつも、理由を探す。

やがて、グリンガレットは、二つの事に気付いた。

 一つには、ここはやはり城の中だという事だ。この堅牢で古めかしい様子から予測はしていたが、この竪琴の音でそれが明らかになった。

もう一つは、この竪琴の音の正体だ。これはタリエシンの琴ではない。おそらくは、彼はここには居ない。それが、確信に変わった。

タリエシンを連れてきたのはサヌードだと言っていた。という事は、この音を城に響かせている背景には彼の意志があり、何らかの理由がある。

「まるで、魑魅魍魎の巣ですね、ここは」

自分もその一人かもしれないと思いつつ、グリンガレットは呟いた。

「何だよ、一人だけ納得したような顔してさ、あたしにも説明してほしいんだけど」

デリーンがすこし唇を尖らせる。

「すみません・・・?」

苦笑いしたグリンガレットの顔が、急に真剣な顔になった。

「どうかした」

「誰かいます」

デリーンがはっとして振り向く。

闇の中に、小さな影が、ひっそりとたたずんでいた。



狩りの始まりは静かだった。

王の一行は、森の端に陣地を作り、隊を留める。

森から獣が逃げないよう、歩兵の一団が左右に展開していく。配置が整うのを待って、エイノール王を先頭に、幾人かの正騎士が狩猟犬を引き連れて森に入っていった。

オヴェウスは自ら申し出て、陣に残った。

いつもなら人一倍に騒がしいこの男が、本陣に残ったことを訝しむ者もいた。とはいえ、エイノール王自身もオヴェウスを供させる事に対し、あまり快く思っていなかった。

エイノールがオヴェウスに求めているのは、その武技と血筋、そして彼が有する剣名のみだ。だからこそ、城兵とともに過ごす彼を看過しているし、その狼藉にも目を瞑っている。オヴェウス自身も、その位は自覚していた。

エイノールは、騎士の競技として、狩猟という行為そのものは好んでいる。だが、正直に言って、弓技に関しては得意という程でもない。心得がある程度である。

どれほどに研鑽を積んでも、義兄ほどの腕にはなれない。いつからか、そんな諦めが彼の中にはあった。それが、彼自身の武芸を、そこまでのものにしてしまった。

だからこそ、王の証たる剣そのものに憧れる。

王の中の王が持つべき剣に。それを「所持するというだけの事実」が持つ意味に。

サヌードとキリアムの姿はとうに見えなくなっていた。

追いつく気は毛頭ないが、上手くやらねばならない。

サヌードは彼に剣を約束した。その約束を信じればこそ、自分も狩りを命じた。

この狩りが終わる時には、王の剣は我がものになり、代王として即位以来、彼の背に覆い被さってきた空虚な憂いは断たれる。

狩猟犬が獰猛なうなりをあげて走る。

追い立てられて、目の前を、兎がはねた。

エイノールは矢をつがえた。

白地に赤い線を入れた矢羽が、空を切る。

ただの一矢で獲物を弾き飛ばすと、周囲から喝采が起きた。

幸先が良い。

王が最初の獲物を捕らえた。いざ、狩りを始めよ。

合図を示す角笛の音が、勇壮に鳴り響く。周囲の騎士たちもまた、勇んで馬を走らせ始める。静謐な森に、騎士たちの戦場が生まれた。

森の奥ではキリアムとサヌードもまた、角笛の音を聞いていた。

「始まりましたな」

サヌードがキリアムに不敵な笑みを向けた。

キリアムは無言で頷く。

霧が異様に深い。まるで、白銀の薄絹に包まれたようだ。

この季節はいつもこうなのだろうか、少しでも目を離せば、サヌードの姿も見えなくなる。

これでは、獲物も見えぬのではないか。

思いながら、弓を握る手が、どうしても定まらない。

勝負などと言っても、最初から勝とうという気持ちが起きなかった。もしグリンガレットが戻っていれば、喜ぶだろうか。いや、彼女は動物が好きだった。生きるために必要な狩猟とは違って、このような騎士の嗜みと称する戯れを、本心からは快く思わないだろう。

彼女の相貌が脳裏に浮かんだ。同時に、再び心が重く沈む。

早々に矢を射つくして、降参とすればいい。ルグヴァリウムの騎士の面目が、その程度で守れるのなら、それも良い事だ。サヌードを喜ばせるのも悪くはない。

キリアムは、馬上で矢をつがえると、適当な木の幹に狙いを定めた。


「どなたですか?」

グリンガレットの滑らかで透き通る声が、闇に包まれた地下通路に響いた。

影は、体を微かに振るわせ、動揺したように身を乗り出した。

皺ばった、お世辞にも美しいとは言い難い男の顔が、格子の向こうに浮かび上がる。

「こりゃあ、見当違いか」

呟くような声が聞こえた。

呆れたような、落胆したような様子で、目を何度もしばたたせる。

「あなたは、どなたです。ここの番の方ですか?」

再び、グリンガレットは訊いた。

小柄な男・・・ルウメは困ったように首を傾げた。

「それがなあ、ちょいと違うんだ。・・・にしても、まさかこのように麗しいお嬢様方が、こんな所にいらっしゃるとはね。オヴェウスの野郎、助平な奴だとは思ったけど、かどわかしまでやるとはなあ」

「ここの方ではないのですね。良かった、私たち、そのオヴェウスに囚われて居るのです。どうか、ここから出して頂けませんか」

「それはその、助けたいのは山々だけど、本当は、別のお人に用事だったんでねえ」

仕方なさげに、ルウメは格子を調べ始めた。

「別用ですか?」

「ああ。ちょいと探し人が居てね。とある騎士の従者で、まだガキなんだがね。お嬢様方、見かけなかったかなぁ。こう、ちょっと洒落た帽子を被っていてね」

「それは? もしかして、オークニー王の?」

「へえ、知ってるのかい」

ルウメが驚いてグリンガレットを見る。その眼が、くるくると動いて、ふと、何かに気付いた。この娘、男の服を着ている。それも、どこかで見た服装だ。

「待てよ、もしかして、・・・もしかしてあんたが?」

グリンガレットは、頷いた。

この男は自分を探しに来た。あのオヴェウスに対する言葉遣いといい、もしかしたら、キリアムが遣わせてくれた者だろうか。だとすれば、助かる希望が出てきた。

「へえ、驚いたなあ。従者様が、まさかお嬢様だったとはねえ」

あらためて二人を見る。

地下牢が、これ程に似合わない囚われ人を見たのははじめてだ。目の前にいる金髪の娘の美貌はさることながら、奥でこちらを見つめる森の民の野性的な美にも見とれてしまう。

肌の色が、やや褐色に日焼けして、痩身がますます引き締まって見える。気の強そうな顔に、細い切れ長の瞳がまるで水晶のようだ。

「やっぱり、助けに来てくれたのですね。我が殿・・・キリアム様の頼みですか?」

「うーん。直接頼まれたわけではねえんだけど、多分そうじゃないかな。俺はケルンナッハ様に探すよう言われてよ」

ルウメは鍵穴を見つけて、何やらガチャガチャと触り始めた。

「ケルンナッハ殿、ですか」

僅かに落胆を覚えたが、考えてみれば、キリアムに人脈があるわけではなし、彼が城内で頼むとしたらやはりケルンナッハしかいないだろう。

「駄目だな、こりゃあ」

ルウメは、頑丈な鍵に苦戦して、思わず呟いた。

つい声に出してしまった事に気付いて横目で牢内を見ると、二人の娘は明らかに落胆した表情を浮かべていた。

「そんな顔されてもなぁ。今日は忍び込むだけで精いっぱいだったんだよ」

「すみません、責めているつもりでは」

「鍵開けなんて、やった事ねえからなあ」

ルウメはキョロキョロと周りを見回すが、使えそうなものは見当たらないらしい。仕方なさそうに格子に顔を押し付けると

「お嬢様方、もう少しお待ちになれるかい」

諦めた様子で訊いた。

「大丈夫です。でも、いつオヴェウスが戻って来るか」

「あいつならしばらくは大丈夫だ、狩りに出たからな。おかげでここの警備も薄くなって助かった。次に来るときには必ず助けてやるからよ」

「恩に着ます・・・ええと」

「ルウメ。俺、ルウメってんだ。本当はマルドルークってんだけど。偉そうに聞こえちまうだろ。だからルウメで通ってる」

「わかりました。マルドルーク様ですね。お待ちしています」

「さ、様はやめてくれよ」

ルウメは顔を真っ赤にした。何だか自分がとても良い事をしているようで、気恥ずかしくなる。同時に、何だか誇らしい気分になった。

「ルウメでいいよ。安心して待っていな。そっちのお嬢様もな」

「お嬢様って、アタシの事かい」

デリーンがきょとんとした声を出した。

「一旦上に戻る。じゃあな」

グリンガレットが頷くのを見て、ルウメはまた闇に体を紛れさせた。

音もなく、静かに通路を抜け、気配が遠ざかってゆく。


ルウメは思案した。

・・・ああ言ったものの。鍵を手に入れるのは難しそうだ。ここは、正直にケルンナッハ様に報告するのが良いだろう。きっと、助けて下さるはずだ。

ケルンナッハは、ああ見えて城の実力者だ。おそらく、この牢の管理にも口を出すくらいの事は出来るだろう。

それにしても、マルドルーク様か。

彼女の声を思い出すと、自然に顔がにやけてしまう。

・・・助け出したあかつきには、お礼に口づけの一つも欲しいもんだ。ああ、それより、酒代が増えるのはもっと良い。

そんな不埒な事を考えながら、ルウメは依頼主の元へ走った。


木の枝から、木の枝へ。ビオランは伝うように移動していた。

いくらビオランでも、身を潜めながら馬に追い付くのは至難の業だ。それでも、森に詳しくない連中が、ある程度の速度で馬を進めるとしたら、その道程は予測する事が出来る。馬は賢い生き物だ。騎士に操られているように見えて、自分が安全に駆け抜ける事のできるルートを選んでいく。草の生え方や勾配、そう言ったものを観察しながら、ビオランは進んだ。

程なく、ほんの少し開けた所に出た。

霧が晴れていれば、おそらくは日溜りができ、森で仕事をするものにとっては、格好の休息所となりそうだ。案の定、中心部には炭を処理したであろうむき出しの地面があり、人為的に打たれた杭の跡も見える。

そこに、一人の壮年の男が馬を留めていた。

狩りの衣服も豪華で、単なる騎士とは思えない。白銀のマントが、周囲の霧と一体化して、どことなく幽玄な雰囲気を湛えている。

ノヴァンタエの王と、ビオランは直感した。

どうしたのか、供を連れず、単騎で佇んでいる。

ビオランの眼が、その乗馬にとまった。

堂々とした体躯の馬だが、王の愛馬にしては、少し野性的すぎる。馬にも相がある。ルグヴァリウム城ほどの城に、伯楽がいない筈はない。それにしては、この馬は王の威風を感じさせるには、あまりにも軍馬然としすぎている。

しばらく様子を見ていたが、エイノールはどこに向かうでもなく、その場でしきりに思案しているように見えた。

エイノールは馬上に身を置いたまま、そっと、佩刀を手にした。

すらりとした刀身が閃く。剣の事は全く分からないビオランにも、大層な剣なのだろうとは想像がついた。しかし、エイノールはその剣をしばらく凝視したのち、少し物憂げな表情になった。剣を鞘に戻し、再び周囲に視線を回す。

王の馬が低く嘶いた。

エイノールは何かを待っている。

ビオランの足元を、数人の騎士が駆けた。

あの黒騎士ではない。

王が両手で何やら指示を出すと、畏まった様子で頷き、そのまま森の奥へ向かっていく。

森のざわめきが大きくなってきた。

方々で狩りが始まっていた。森の掟を騎士たちは知らない。いかに彼らの行為が、森に住まう者たちを乱すのかを彼らは理解しない。

下手に動いて、獲物と間違えられても敵わない。もう少し、様子を見よう。

ビオランは、その場に留まって、木々の茂みに気配を溶かし込んでいった。


白に黒の線を引いたキリアムの矢が、白い木の表皮に突き刺さった。

12本あった矢は、もはや半分以下になっていた。

少し先でも矢音が鳴った。

サヌードが素早く馬を進め、射止めた獲物を拾い上げる。

「小物ばかりですね。でもまあ、こちらは三匹目です。」

言いながら、キリアムへ視線を送る。得意げな顔でもすれば、少しは付き合う甲斐もあるものを、いたって冷静な表情だ。

「サヌード卿の腕前には、正直脱帽いたします」

キリアムは肩をすくめて見せた。

サヌードの矢筒は、腰に下げる形をしていた。肩掛けで背負うものと違って、矢を取り出しにくい欠点があるが、森の中で、しかも馬上で使うには勝手が良い。矢羽の部分には蓋がついていて、中の本数が見えない。おそらくはキリアムの残数よりも、多く残しているのは想像がついた。

「この森には何度か足を運んでいます故、多少は分があっただけの事ですよ」

「謙遜なさる。この勝負、もはやついたも同然。御覧の通り、私はただの一匹も仕留めておりませぬ。ここは、潔く負けを認めましょう」

精一杯の笑みを湛えて、キリアムは言った。

サヌードは薄く笑った。

「そうは言っても、貴殿もまだ矢を残しておられる。私は数多いものの小物ばかり。鹿などの大物を射止めぬ以上は、まだ油断はできませぬよ」

「そのような事」

思わず苦笑いする。

サヌードは体を捻り、鞍の臀部に下げた鉤に獲物の耳を通した。はずみに、彼の首元を覆うスカーフの留め具が外れ飛んだ。

「あ」

常に冷静な近衛騎士が、少しだけ慌てた様子で周囲を見渡す。しかし、馬の足首までも草が茂っているため、容易には見つからないようだった。

「この辺りではないですか」

キリアムは馬を降り、膝をついて草叢を掻いた。

程なく、指先に金属の感触を得た。

拾い上げると、見事な装飾のブローチだった。黒ずんではいるが、銀細工であろう。瑪瑙がはめ込まれ、何らかの紋章が象られている。

よく見るとルグヴァリウムの古い紋章だ。今のエイノール王が用いている紋章ではない、山形になった太い黒線の上下に、三匹の烏を配したこの紋章は、彼の知識ではウリエンス王の治世によく用いられていた物だった。

「こちらですね」

キリアムは馬上のサヌードへ、ブローチを差し出した。

サヌードは自身の非礼にすぐ気付いた。馬を降り、恭しく腰を折ってからブローチを受け取る。幸いにも外れただけで、壊れた所などは無いようだ。

身につける様を見ながら、キリアムは彼が古参の騎士ではなかった事を思い出した。

「大事なものであったようですね。・・・エイノール陛下よりの賜りものですか?」

サヌードは少し驚いたようにキリアムを見た。

「いえ、これは・・・」

少し思案気な表情になる。しかしすぐに、もとの冷静な様子に戻った。

「賜りものではありません。幼き頃より、私の身の証として持っていた、唯一の物です」

「身の証、ですか」

「ええ、私がこのルグヴァリウムに身を寄せたのは、この紋章が理由なのです」

サヌードの目が、微かに遠い光を捉えたように見えた。

「キリアム卿、貴殿はコホ家の生まれでしたね。ご家族はいかがされました?」

「私の家族ですか。両親はとうに亡くなっております。姉が一人おりましたが、バース城が陥落した折、夫の死を知って自害して果てました。故に、今は天涯一人の身です」

「左様でしたか、御姉君の事は、心中お察しいたします。しかしながら、家族の思い出があるのは良い事です」

「と、申しますと?」

「私は家族というものを知りませぬ」

サヌードは、言いながら鞍に手をかけた。体を馬上に戻し。

「生まれはこのルグヴァリウムだと、人づてに聞いております。幼くしてアバティーンの地に移り騎士ケイネスに預けられました。騎士の受勲は彼の地のファーガス王より受け賜わりました」

「なんと、それでは、アバティーンの騎士でしたか。ファーガス陛下のご有名、私も聞き及んでおります。かつては円卓にも、その名を連ねておりましたな」

「確かに。当時は既に老齢でありました故、戦働きもないままではありましたが」

アバティーンは此の地より北東にあたる。先の戦乱においてはピクト人の反乱にあって、滅びはしなかったものの、城は衰退したと聞いていた。

「アバティーンは要所とはいえ、ゴドディンの地を守るには適しませぬ。私も騎士の端くれとして、彼の地で徒に生を終えるよりは、抗う道を選ぼうと思い至りました。そこで、記憶の一つもありませぬが、せめて私の生まれ故郷と聞く、このルグヴァリウム城に奉公をと、そう思ったまでの話です」

「左様でしたか。それは、ご立派な決意です」

キリアムは正直に頷いて、自らも再び馬に乗った。

「立派などと、ただの感傷ですよ。私にも女々しい所があるだけの事です。それに、ここに来れば、会えるかもしれぬと思いましてね」

「会うとは・・・一体どなたにですか?」

「生き別れの兄弟に。です。・・・もしそれが本当であればの話ですが。ケイネス卿の話では、私にはどうやら妹がいるらしい」

「それは、女々しいという話では無いでしょう。妹君が居られるというのなら、誰しも会いたいと思って当然の事。むしろ、そう思わぬ方が不自然というもの」

「それは、どうなのでしょうね」

サヌードはふっと笑いを浮かべ、おもむろに馬首を返した。

「身の上話はもういいでしょう。それよりも、いま少し、奥へまいりませぬか。少し険しい道にはなりますが、より大きな獲物が居るやもしれませぬ」

「さらに奥ですか」

「以前見つけた、良い狩場があるのです。刻限もあります故、少し急ぎますぞ」

サヌードはキリアムの返事もまたず、馬を進め始めた。

「やれやれ、仕方のない」

呟きながら、慌ててキリアムも後を追い始める。

霧が一層濃くなって、サヌードの姿が朧げになった。

「これは、油断すれば迷うやもしれん」

更に馬の歩みを早める。だが、サヌードはさらに早かった。

キリアムは、焦りを覚えた。

「サヌード卿、少しお待ちくだされ」

声をあげると、

「これから先は、あまり大声をたてませぬよう。獲物を驚かせるかもしれませぬ」

前方からサヌードの声だけが聞こえてきた。

・・・とはいえ、これでは、何も見えぬ。

キリアムは小さく舌打ちをして、サヌードの姿を探した。


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