第15話 好敵手
十五 〈 好敵手 〉
ラディナス邸を町の中心に向かって、石壁の間を抜けて歩くと、小さな広場に出る。広場の中央には井戸と花壇があり、日中は、その側で婦人たちが立ち話に興じる姿が良く見られた。
井戸には年老いた番が居た。難しい顔をして、誰もがこの井戸を利用できるわけではない事を、周囲に知らしめている。
そんな老番に、
「喉渇いてなあ、一杯おくれよ」
と、悪びれる様子もなく声をかけたのは、ルウメという小柄な城兵だった。
老番は、お前か、とでも言う様に眉を上げると、特に断りもせず、水桶を垂らして、一杯の水を彼に差し出した。
懐から木の小さな碗を取り出して掬うと、ルウメは一気に飲み干して喉を鳴らした。
「酔い覚ましにやあ、良いなあ」
誰にともなく呟き、視線を周囲に送る。
この時分、彼女がよくこの広場を通るのを、ルウメは知っていた。邸宅の女達が、洗い物をするために、水路に向かう時間だからだ。
女達の話声に耳を傾けながら、年老いた水番に、返事のない話を続けていると、ようやく、目的の相手が姿を見せた。
クックと笑って、ルウメは素早く近づいた。
小柄な城兵が突然目の前に飛び出したことに、相手は一瞬驚いた様子だった。
「お嬢様、ご機嫌、麗しゅう・・・もないようで」
声をかけると、リネットは、まあ、と口を開いた。
「誰かと思えば、ルウメ。・・・脅かさないでください」
「脅かすなどと、滅相もない」
ルウメは手もみしながら、にやけた笑いを浮かべる。
「私に、何か用です? 生憎私には用はありませんけれど」
「それは冷たいお言葉で」
してやられた、という顔でぴしゃりと額を叩く。憎めないその挙動に、リネットはため息をついて、仕方なしに足を止めた。
「また誰かの使いですか? 探し物でもしているのかしら」
「流石はお嬢様、話が早い」
ルウメはよくこういった使い走りをしている。昔は城の道化だった。それが、今のエイノール王に不興を買って、城兵の末席に身を落とした頃から、彼は持ち前の愛嬌で人の間を上手く生きてきた。
「それで、どのような話ですか」
「はい、それが実は人を探しておりまして。・・・その方がどうも、昨日お嬢様のお屋敷をお訪ねになったと、耳にしたもので」
ルウメの目がせわしなく動く。リネットはキリアムと会った事を思い出し、僅かに体を緊張させた。
ただ、その事に関しては、特別後ろ暗い事があるわけではない。
「それは、キリアム卿の事ですか」
「いえ、お連れの方です」
ルウメの言葉に、一瞬ほっとする。しかし、すぐに思い直し、
「何かあったのですか?」
不安になり、逆に尋ねた。
「実は、昨日から城に戻らないと、そのオークニーの王様が探してんです」
「まあ」
リネットは、小柄でいかにも利発そうな従者の姿を思い出した。
リネットの前では一言も発しなかったが、帽子の下から覗く瞳には、何かしら強い意志のようなものが感じられた。あのキリアム卿に従う従者であれば、やはりひとかどの人物なのではないかと思った程だ。
「お屋敷を出た後、用事があるとかで別れたらしく、それ以降姿が見えないと、心配なさっておいででね」
自分がオヴェウスの正体を探って欲しいと頼んだ後の事だ。だとすれば、自分の依頼と、何か関係があるのだろうか。リネットは、少し躊躇って、ルウメにどう話すべきかを考えた。
ルウメは決して心根の卑しい男ではない。だが、見た目には決して良い印象を与えるとは思えない。城に来たばかりのキリアム本人が、果たして彼に、このような事を頼んだのだろうか。
「それで、私が、何か知っていると?」
「いや、そういう訳ではないんですがね。・・・ただ、ほら、あの、ラディナス様に直接お話をお聞きするのは、ちょっと恐れ多いっていうか、憚られますんでね」
ルウメは誤魔化すように笑って、困ったような顔をする。
リネットは城の方角を見つめ、心に重いものがのしかかるのを感じた。
もし、彼の言うことが本当なら、キリアムは確かに心配している事だろう。城門で父ラディナスをやりこめたのも、その従者だったと聞いている。もしこの件に自分がオヴェウスについて探るよう頼んだことが関わっているとしたら、自分にも責任がある。
「お嬢様?」
再び声をかけられ、はっとしてリネットはルウメに視線を戻した。
少なくとも、一つだけ言えることがある。この小柄な元道化師は、オヴェウスを嫌っている。その意味では、彼は信頼に足る。
ルウメはその外見から、オヴェウスにさんざん笑いものにされ、侮蔑的な扱いを受けた。そんな事さえも、笑いに変えてしまう彼だが、彼が気にも留めない事を、オヴェウスは面白くないと感じたのだろう、ある夜、彼を仲間内で示し合わせ、袋叩きにした。
それ以来、ルウメはオヴェウスを避けている。言葉にこそ出さないが、彼を憎んでいるのは間違いない。
リネットは体をかがめ、彼の耳元で、囁くように、昨日のやり取りを伝えた。
ルウメは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの薄笑いに戻った。
「そりゃあ、お嬢様もやるもんですな」
本気で感心したような声になる。
「私も、あと一年もすれば、大人の仲間入りです。騎士の娘とはいえ、自分の将来の夫を確かめるぐらいの事はしてもいいはずです。少なくとも、自分が納得できる程度には」
リネットがきっぱりと言うと、ルウメは何度も頷いて見せた。
「なるほど、なるほど。・・・って事は、もしかしたら、その従者の方は、何かあの男について調べようとしたのかも、しれないって事ですな」
ルウメが一瞬思案顔になり、一人で何やらぶつぶつと呟き始める。
「私がお話しできるのは、この程度です。よろしいかしら」
リネットが、体を起こした。
「へえ。なんとなく、糸口が見えてきました」
「良かった。ところでルウメ」
「はい?」
「その方の事、何か分かりましたら、私にも教えてくださいますか」
「は、そりゃあ構いやしませんが」
「それでは、頼みます」
リネットは何事もなかったかのように、彼の前を横切る。ルウメは軽く会釈して、その後ろ姿を見送った。
ふうと、一息吐くと。
「オヴェウスの野郎か。お嬢様も、俺に頼んでくれりゃあ、幾らでも調べてやったのにな。とはいえ、・・・あいつはちょっと厄介だな。やけに鼻が利きやがるしな。少し、周りから調べてみるかね」
誰にともなく呟き、また、素早い身のこなしで、路地の奥へと姿を消していった。
昼を少し過ぎた時分。
キリアムは二の城壁を出て、市井を歩いていた。
グリンガレットを待ち続けたが、いっこうに戻る気配がない。いずれにしても時間はあるのだからと、当てはないが街に出てみる事にしたのだ。
外出を告げると、ケルンナッハはフードのついた茶色いローブを用意してくれた。三の城壁を出た周辺は治安も悪く、下手に立派な身なりで歩くのは危険だ。腕は立つといっても、余計な諍いに巻き込まれるのは避けておきたい。
広場には活況というには乏しいが、いくつかの行商も訪れていた。そのうち、やや大きい隊商を率いているのは、ローマから来たイアソンという男であろう。
彼の姿は見えなかったが、実戦向きの防具や武器が幾らか並べられ、城兵らしき男たちが珍しそうにそれらの武具を眺めていた。
グリンガレットの姿はなかった。
似たような帽子の姿を見るたびに、はっとして振り返る。結局は落胆を重ねるばかりなのだが、それでも探さずにはいられなかった。
もしかしたら、入れ違いで、戻っているかもしれない。淡い希望を思い描いて、踵を返そうとした時、見覚えのある鎖帷子に視線がとまった。
小さなテントの外に、無造作に並べられたそれは、初めて会った時、グリンガレットが身に着けていたものだった。
彼女はここで、身支度を変えたのか。
思わず手を伸ばし、つかみ上げる。思った以上に古いものだ。傷だらけで、幾つもの戦場をくぐり抜けた証が刻まれている。もとは余程の名工が手にかけた品だっただろうと、すぐに分かった。
間延びしたような声がテントの中から聞こえた。
「そいつは、あんたにゃ、小さすぎるね。鎧が欲しいなら、もう少し良いのがあるよ」
痩せこけた行商の男が、のっそりと姿を見せた。
「すまない。買いたいわけではないのだ」
「ああ、そうかい」
つまらなさそうに言い、値踏みをするようにキリアムを見る。
「大きさを除けばね、なかなか良い作りだよ。南方の品だろうさ。・・・買わないなら返してくれ」
帷子を置くよう、指をさす。
キリアムはそっと手を離した。
「つかぬことをお聞きしたいのだが、この鎖帷子を売った者を覚えているか」
男は少し不審そうな顔をした。
「ああ、数日前だからねえ。覚えているよ」
「では、その者に帽子と、服を売ったのは貴方か」
「俺だよ。それがどうかしたのかい」
「実は、その者を探している。昨日か今日、この辺で見かけなかったか」
キリアムがそう尋ねると、男は少し戸惑ったような顔をした。
「見ちゃあいねえけど、・・・おかしなこともあるもんだな」
「おかしなこと?」
「ああ、この帷子を売ってくれたのは、なんだ、家出人か何かかね?」
キリアムは、男が何を言い出すのかと、思わず額にしわを寄せた。
「いやね、こいつの前の持ち主について聞いてきたのは、あんたで二人目なんだ」
「何だって? それは、いつ、誰なんだ」
驚いて声を荒げると、男は首をひょいと上げた。
「そんな大声を出さなくても・・・、昨日の話だよ。まだ、その辺にいるんじゃないかな。近くで野営しているって話だったからな。見かけたら、教えてくれって言われててよ。金は出すからって・・・」
「野営か。すまない、場所を教えてくれ」
「大体しか分からないぜ。まあ、良いけどよ。なんだ・・・訳ありみたいだな。どうでもいいが、何かあっても俺を巻き込まないでくれよ」
男がたどたどしく道を説明する。
聞き終えると、キリアムは礼もそこそこにその場を後にした。
無節操に広がる旧市街の一角に、幾つかの野営地があった。
市が開かれる広場から、半刻も歩かぬうちに、周囲の景色は一気に変わった。戦火を逃れて、ルグヴァリウム城を頼りに集ってきた民が、木片を組み合わせ、布を張っただけの粗末な家屋を建て、やむを得ない生活の場としていた。
少し広けた場所には、焚火台が設けられ、幾つもの集団が出来ている。
馬や犬が、荒縄につながれて唸り声をあげ、恨みがましい目をキリアムに向けた。
一つずつ、それらしい野営地を訪ねた後、キリアムはようやく目当ての集団を見つけた。
五つから六つの野営用のテントが並べられ、数人の男が火を起こしていた。
土の色を見る限り、まだこの地に着いて間もない。長い旅用のローブにフードを被った者が多く、素性は分りにくいが、その内の一人が顔を上げたのを見て、キリアムは確信した。
グリンガレットの鎧について訊ねてきた男の一人が、鼻を怪我していた。顔に包帯を巻いていたからすぐに解ると、商人は話した。
目の前で薪をくべる男が、まさにその男だった。
相手もまたこちらに気付いた。最初は訝し気にキリアムを見ていただけだったが、彼が立ち去りもせず、その場に立っていると、何やら仲間内で話しはじめた。そのうちに、一人がゆっくりと歩み寄ってきた。
キリアムよりやや背は低いが、がっしりした体形の男だった。両肩が妙に張っていて、何かを背負っているように見える。フードを深くかぶっているため、表情は読めないが、友好的とは思えない雰囲気だけは伝わってきた。
「何か用か」
「訊ねたいことがある」
ほぼ同時に、二人は声を発した。
「ほう」と、ローブの男が小さくつぶやいた。
口元に無精髭が見えている。
「人を探している」
キリアムは言った。
「知らんな。他を当たりな」
「話を聞いていただきたい」
「こちらには用はない」
空気が張り詰める嫌な感覚が広がった。
遠巻きに、男たちが二人を囲み始めるように距離を取り始めた。ただの市民や商人ではない。少なくとも、訓練された集団の動きだ。
キリアムは、この男達の正体に心当たりがあった。
グリンガレットは、騎士崩れの集団に追われていた。ビオランという森の少年が言っていたのは、この男たちの事ではないのだろうか。だとすれば、彼女がここに居る可能性がある。
哀れな老婆に追剥のまねをさせていた卑劣な騎士の話。彼女に鼻を折られた三人の男。森の中で野宿をした時、キリアムは本人から聞いていた。
騎士道の風上にも置けぬ。
その思いが、知らずにキリアムの態度を硬化させていた。
テントの幕の奥に、彼女が囚われているのではないか。いや、居るならばまだ良い。人の命をも顧みぬような奴らなら、・・・万が一という事もある。もし、手遅れであったならば、どうしてくれようか。
「娘だ。騎士の身なりをした娘。貴公ら、心当たりがあるのではないか」
言葉が終わる前に、周囲に殺気のようなものが走った。特に、鼻に包帯を巻いた男は緊張に身を固め、今にもローブの内に隠した剣に手をかけようとしている。
察したのか、軽く左手を上げ、顔前に立つ男はフードの奥の唇を微かに吊り上げた。
「知らんと言ったろう」
「知らぬ筈がない。昨日、市場で訊ねて歩いただろう」
「人違いだ」
「しらを切るのか」
キリアムの声に怒気が混じった。
男の、少し人を小馬鹿にするような口調も耳に触る。明らかに、この男は嘘をついている。知らないと言って、こちらの反応を楽しんでいる顔だ。
「いい加減目障りだ。失せろ、さもないと、少々痛い目にあうぞ」
男が言った。
「ならば、その幕の内側を見せていただきたい。さすれば、引こう」
「見せる道理が無い。断ると言ったらどうするね」
「無理を通すまで」
「強情だな。それでも騎士かね」
男は、キリアムが騎士である事を見抜いていた。キリアムは一瞬言葉を詰まらせかけたが、すぐに、相手の素性を思いだした。
「言われる筋合いはない。・・・貴様らが、己の行いにも恥じず、意趣返しに彼女を追ってきた事を、この私が知らぬと思ったか」
「おやおや」
と、男は呆れたように笑った。
同時に、これ以上は話をしても無駄と思ったのだろう。ちらりと仲間の方を向き、少し離れるように手を振った。
「マイルス、お前みたいなくだらん仲間を持ったせいで、酷い言われようだ。・・・しかしな、本当に俺は知らんのだぜ。少なくとも、今のところはな」
「ならば、見せていただこう」
「しつこいな。やるかね」
男が、そっとローブの留め具に手をかけた。
ばさりと、長い布を取り払う。革鎧に包まれた戦士が、キリアムの眼前でその姿を現した。背に二本の剣を掛けた戦士。野性味を帯びた精悍な顔に、鋭い眼差しが、相手を射抜くように見据えている。
キリアムもまた、瞳の内に静かな怒りを湛えて相手を睨んだ。ローブを捨て、いつもの黒い鎧姿になると、背負った長剣を握る。
「無駄な血を流させたくはない。だが、やむを得ん」
「良い度胸だ。名乗ろうか」
「必要ない」
「だろうな」
戦士と騎士、ベリナスとキリアムは、ほぼ同時に剣を抜き、相対した。
空気が一変した。
ベリナスの二刀流の異様さと、キリアムの剣が帯びる神聖な程の輝き。そして、互いの類まれな技量の高さが、二人を取り巻く男たちを一瞬にして圧倒した。
ぺろりと、ベリナスが唇をなめた。
甘く見たつもりはなかったが、これは、想像以上だ。
前線を離れた町に来ると、見かけは立派だが、中身のない名ばかりの騎士が多い。この男もそんな一人かと思ったが、どうやら見誤ったようだ。
ベリナスは、思わず半歩足を引いた。
仲間に動揺が見えた。これまで、ベリナスは相手に対し退いた事が無い。それが、僅か半歩でも下がった。それだけで、この黒騎士の技量が只ならぬことを物語っている。
キリアムも、冷静に見える相貌の奥には、微かな驚きを隠していた。
オヴェウスとも、また違う野生がそこにあった。
オヴェウスを本能のままに暴れる野獣とするならば、ベリナスは訓練された狼だ。獣の鋭さを、理性の中に閉じ込めて、静の中に潜めている。
先に動いたのはキリアムだった。
鋭い踏み込みから、剣を突く。ベリナスは体を一杯に反らして一撃を避けると、キリアムが腕を戻す隙をついて、反動で右手の剣を横に薙いだ。
キリアムは退くのではなく、剣が走る方向に身を走らせていた。無理な体勢からの横への一撃は、威力も範囲も狭い。その微かな距離を逃れる。ベリナスはもう一方の剣を振り上げかけて、咄嗟に腕を止め、正面にキリアムをけん制するように距離を取った。
危うかった。
ベリナスはキリアムに誘われていた。
あのまま左の剣を出していれば、両の腕を中心に集められてしまう。双剣の強みは円の動きにある。点になれば、死角を生む。
僅かな一瞬の対峙の中で、そこまで剣筋を見切られたと感じたのは初めてだ。
キリアムは再び正面に剣を構え、こちらも一度呼吸を整えた。
一撃必殺の突きを躱されたのは、彼にとっても驚きだった。ガラティンは長剣だ。リーチのあるこの剣は、彼が得意とする槍と同じく、相手との距離を一瞬で縮める戦い方が出来る。こういった徒歩での戦いにおいても、その差はある筈だが、この相手はそれをものともせず、躱したばかりか、すぐに反撃の手を打ってきた。
思わぬ強敵に、キリアムの騎士の血が滾りはじめた。
じり、と、キリアムが間合いを詰め始める。
ベリナスは両手を広げ、さあ突いてこい、とでもいうように体を開いた。
勝負は一瞬で決まる。
誰もがそれを予感した。
またも、先に動いたのはキリアムだった。
剣の切っ先は、一瞬下を向き、跳ね上がるようにベリナスの喉元を狙った。思った以上に低い位置からの一撃は、ベリナスの双剣の軌道を掻い潜るものだった。
ベリナスは退かなかった。
瞬間的に、キリアムの太刀筋を見失った。致命的なミスだが、彼は恐れる事をしなかった。死地に活を見出せずも、ただ負ける事は、自分自身に許さない。剣に自ら向かうことで軌道を修正し、横薙ぎに剣を走らせる。
互いの目が、かっと見開かれ、すぐ間近に交錯した。
声をあげたものは一人もいない。
息を洩らすことすら許され無い程の、刹那の時が流れた。
二人は抜身の剣を、互いの首筋に、僅か皮一枚の所に触れさせたまま静止していた。
ふっと、ベリナスの、頬の筋肉が緩んだ。
それが合図かのように、キリアムが剣を引き、ベリナスが双剣を戻す。
沈黙のあと、
「黒騎士さんよ。もう一度だけ言うぜ。俺は知らねえ」
ベリナスは吐き捨てるように言った。
キリアムが剣先を野営テントに向ける。
ベリナスは顎で指示すると、仲間に入り口を覆っていた布を開かせた。
言葉に嘘はなかった。
中には粗末な旅の道具が少しと、小さな樽、それに薄い寝具が巻かれているだけだった。
「他も見るか。あんまり変わらんがな」
「いや、・・・結構だ」
キリアムはガラティンを鞘に戻した。
勝負は引き分けだ。どちらかが、いや、どちらも剣をひかなければ、二人とも死んでいた。それ程の命のやり取りを瞬時にできる相手が、嘘を言っているとは思えない。
普段のキリアムであれば、これほどの好敵手に出会えた事に興奮したことだろう。だが、今はそれ以上に失望感が強まっていた。
ここに、グリンガレットはいなかった。
「残念だったな。だがな、貴公も悪い。あのように殺気だった態度で来られてはな、因縁をつけられたかと思ったぞ」
ベリナスは深く息を吐いた。声からは、相手を馬鹿にするような調子は消えていた。
「あんたの恋人か。居なくなったのは?」
「そのような者ではない。ただ、主従の立場にあるのだ」
「ほう、女と主従か。変わっているな」
「騎士の腕を持つ者だ。貴公らも、それは知っていよう」
「これ以上は誤魔化せんな。ああ、あいつらに聞いている」
ベリナスもまた、双剣を収め、腕組みをしてキリアムの前に立った。
「名乗らせてもらうぜ、ベリナスだ。見えねえかもしれんが、これでも騎士の端くれだ」
「キリアム。我が名はキリアム・グレダヴ・コホ。バースで騎士の叙勲を受けた」
「なるほど、貴公か。街で噂になっていたぜ、バースの黒騎士。おっと、今はオークニーの王らしいな」
キリアムは軽口を無視した。
「ベリナス卿は、どちらから参られた?」
「放浪軍さ」
「今は、皆似たようなものだ。かつては?」
「あまり思い出したくもない話だが、フォルカークの城で、グリム王に仕えた。一時な」
フォルカークは、サクソンとの激戦地になった城だ。グリム王は賢王として名高く、晩年、偉大なる王に忠誠を誓ったが、病に没したと聞いている。
ベリナス達は彼の地の生き残りということだろうか。
「グリム王に仕えたとあれば、正騎士だな。なぜ、追剥のような真似をしている」
「あれは俺じゃねえ。仲間の一部が勝手にしていた事だ」
「それでは、なぜ彼女を追う?」
キリアムはまだベリナスを信じ切ってはいなかった。素性も、その剣技も認めるが、かといって信じるに値する相手と断ずるには早い。
ベリナスはそんな思いを察したように。
「信じるかどうかは任せるが。礼を言いたくてな」
「礼を?」
「ああ」
少し苦笑いを浮かべ、鼻を負った騎士を親指で指した。
「迷惑を掛けちまったからな。俺の仲間がな。その詫びだ」
ベリナスは仲間に声をかけると、席を設けさせた。たき火の側に座るよう、彼を促す。
注意深く、キリアムはベリナスの隣に腰を下ろした。
「実を言うとな。女を、その騎士の格好をした娘を探していたってのは本当だが、俺たちがここに来たのはその為だけじゃない。言ってみれば、そっちはついでだ」
ベリナスは淹れたての茶を木のゴブレットに次いで、キリアムに渡した。この辺で良く飲まれている、滋養のある飲み物だ。苦みが強いが、慣れていれば問題ない。
「俺たちは、はぐれ者の集まりだが、ならず者ではない。戦えるだけの組織を作って、サクソンの北伐に抗ってきたつもりだ。しかし、最近は流石に限界でな」
ベリナスが周囲を見渡す。
男たちが火を囲んで座り始めた。フードを外すと、皆、戦士らしく精悍な顔をしていた。ただ、鼻を折られた男と、もう数人は、それだけでなく、頬やら目の上やらを随分と腫らしている。
「規律も乱れちまうと、こういう、悪事に手を染める奴も出てくる。・・・根は悪い奴らじゃないんだがな。まあ、この通り、俺からも少しは罰を与えておいたから、許してやってくれ」
ベリナスがじろりと一瞥すると、鼻を折られた男が、顔を赤くして俯いた。
「今までも、何かしら隠れてやっていたんだろうが、俺もそこまで目が届かなくてな。・・・正直あんたの従者?か、その娘にこいつらが鼻を折られたって話を聞いた時、俺は、痛快だったぞ。で、懲らしめてもらったお礼に、一目その変わった娘を見てみたいと思った。ただ、それだけのことよ」
「そのために、この城まで」
「言ったろう、それはついでだと」
体躯の割に大きな手を、ルグヴァリウム城に向ける。
「用があるのは、あそこさ」
やや、厳しい目をした。
「仕官する気か」
「まだ様子見だ」
ベリナスは完全には否定しなかった。
「こう見えて、大所帯になってきている。長城の近くに、砦がある。そこに50人程残してきた。戦えない奴も含めれば、もう少しかな。・・・増えすぎると、食うにも事欠く有様だ、かといって無下にも出来ん」
「孤軍で、戦い続けているのか」
「今のご時世、どこに援軍が期待できるよ? ・・・まあ、今は斥候部隊との小競り合いばかりだから、なんとかやってきたが、いずれ大軍がくれば、ひとたまりもあるまい。不本意ではあるが、そろそろ砦を捨てて、どこかの城に身を寄せるべきかと思ってな」
「それで、ルグヴァリウム城にか」
「ああ、俺たちが身を寄せるにふさわしい場所か、また、それだけの器のある王かを見極めに来た。だが、・・・正直噂とは違うようだ」
否定できず、キリアムは小さく頷いた。いかに先日の決闘で汚名を雪いだとはいえ、一度は剣を折られ、城を追われた事実がある。自分にとっては、消えることの無い屈辱だ。
「私も、この城を訪ねたのは、サクソンと戦うための拠点かと思えばこそだ。しかし、私はどうやら歓迎されぬ客将となってしまった」
「そうなのか、王は狩りで貴公をもてなすと聞いているぞ」
「歓迎は上辺だけのものだ。エイノール王は、私を警戒している。ノヴァンタエの王位を脅かすものとでも、考えておられるのだろう」
「愚かだな。仮にもオークニーの王位継承者が身を寄せたとなれば、むしろノヴァンタエにとっても箔がつくだろうに」
ベリナスは少し難しい顔になった。
しばらくの間、沈黙があった。これからの事を思案しているのだろう。ルグヴァリウム城に期待が持てないとすると、次の選択肢はあるのだろうか。ベリナスは小声でなにやら呟いていたが、思い出したようにキリアムに顔を向けた。
「あんたの従者は、何処で居なくなったんだ」
「うむ、まだ居なくなったと、決めつけるわけではないのだが。昨日の夕方、街から城に戻る折、調べ物があると街に残って、それきり戻らないのだ」
「そうか、やはり街でか」
「やはりと言うと?」
ベリナスは自分の失言に気付いて、少し慌てた表情をした。キリアムが思わず身を乗り出すと、仕方なさげに彼は髪を掻いた。
「実は、俺も女を待っているのだ」
「貴公も・・・、か?」
「ああ、森の民の女でな。名前はデリーン。昨日の昼には街に居た、とまでは分かるのだが、昨夜から姿を消した」
「森の民か。目立ちそうなものだが」
「それだけに、少し心配なのだ。・・・ちょっと事情のある女でな」
ベリナスの顔に、心底不安そうな影が浮かんだ。キリアムはようやく、このベリナスという騎士を信じる気持ちになった。この男は、敵ではない。いや、同じブリトンの民として、志は同じなのではないだろうか。
「そうか、貴公も心配だな。では、私も、そのデリーンという森の女について、何かわかればお伝えしよう」
「すまんな、黒騎士」
「キリアムで良い。どうやら我らの間には誤解があっただけのようだ」
「そう素直に出られると、仕方ねえな」
ベリナスが片手を差し出す。キリアムは軽く握り返した。
「貴公達に、蒼天の祝福がありますよう」
「では、こちらも従者殿を見かけたら、伝えよう。それはそうと、その娘の名前、まだ知らんのだがな。良ければ、教えてもらえるか」
「グリンガレット」
キリアムは言った。
ベリナスが不思議そうな顔になった。
「グリンガレットだ。本人がそう名乗っている」
僅かの間、デリーンは眠っていた。
グリンガレットの力で癒されたとはいえ、体力を消耗している。彼女の告白を聞いた後、互いの気持ちが落ち着くのを待って、二人は交互に休む事にした。
囚われの身だ。油断はできない。それに、お互いに女だ。生かされている以上、いずれ何らかの辱めを受ける可能性がある。
むざむざと、恥辱を受けるつもりはないと、グリンガレットは言った。彼女も同意した。逆に僅かでも隙を見つけて、この牢獄を逃げ出す手を考えなければならない。しかしそれには、少しでも体力を残しておく必要がある。
最低でも、誰かはいずれここに顔を出すはずだ。それまでは、待つ。
グリンガレットはめっきり口数が減っていた。
出会ったばかりの見ず知らずの女に、自らの秘密を打ち明けた事を、後悔でもしているのだろうか。彼女の言葉は真実であるのだろうけれど、そうそうすぐに納得できる事でもなければ、完全に理解が出来る事でもない。デリーンはそっとしておく方が良いと考えた。
グリンガレットの表情には、本来の彼女らしい冷静さが戻っていた。
そろそろ、交替しようかと、声をかけようとした時。グリンガレットがさっと彼女に布を覆いかぶせた。
「静かに、そのままじっとしていて。声を立てないで」
小声で、グリンガレットが言った。
足音が近づいていた。
重く、鈍い足音。それが誰なのか、姿を目にするよりも早く、彼女は察した。
「オヴェウス卿。ですね」
グリンガレットは闇に向かって声をかけた。
ランタンの灯りが、少しずつ大きくなった。獣のような巨体が、ますます大きな影になって浮かび上がる。
凶暴な相貌はそのままに、口元を歪めた男が、格子の向こうに立った。
「目覚めていたか、女。確か・・・グリンガレットと、言ったな」
「けだものの分際で、よく我が名を覚えていましたね」
怯みもせず、グリンガレットは言った。
「口は達者だな。まあいい。しょせん負け犬の遠吠えってやつだ」
オヴェウスはランタンを側に下ろすと、片手で鍵を開けた。
巨体が牢内に入り込む。以前よりさらに巨大に感じられ、グリンガレットは身構えた。
おもむろに手が伸びた。
枷で不自由な腕をひかれ、体勢が崩れる。頭を抑え込まれると、そのまま地面にたたきつけられた。
痛みそのものよりも、グリンガレットは予期せぬ暴力に驚いた。
少しくらいは紳士的なやり取りを期待したのが馬鹿だった。いや、挑発したのは自分が先だったかもしれない。後悔したが、どうしてもこの男にへりくだるのは許せない。例え、囚われの身だとしてもだ。
「なあ、グリンガレット。少しばかり仲良く話をしようぜ」
オヴェウスが薄笑いを浮かべて言った。無様に這いつくばる彼女の姿を満足げに見降ろしたのち、その眼を、布にくるまれたデリーンの姿態に向ける。
「そっちのは、まだ生きているみたいだな」
手がデリーンに伸びた。咄嗟に、グリンガレットは渾身の力で体をひねり、地面から頭を逃がした。体勢を崩しかけて、オヴェウスは忌々しげにグリンガレットを再び抑え込んだ。
「大怪我をしているのです。あとどれくらい持つかすら、分からないくらい・・・貴方の仕業なのでしょう、これ以上、もう手を出さないで」
必死の思いで、相手を睨み上げる。オヴェウスは口元を野蛮に吊り上げた。
「そういうお前は、まだ随分と元気があるようだな。・・・昨夜は、死にそうな様子だったってえのにな。・・・さて、一体全体、こいつは、どういう事になっているんだか、説明をしてもらいたいもんだ」
オヴェウスは無造作に手を離すと、またもグリンガレットの腕を引いて、自分のもとに引き寄せた。。
体がよじれ、意図せずに彼女の体はオヴェウスにもたれる形になった。オヴェウスの体臭を吸い込み、グリンガレットは吐きそうな気分になった。
「思った通り、柔い体だな。力を入れれば、簡単に折れそうだ」
オヴェウスが嘲るように体を押し付ける。しかしその眼は、笑ってはいなかった。
「昨夜、俺に何をした。ドルイドの魔女め」
グリンガレットは呻いた。無理な体勢になったため、わき腹が痛んだ。
「私は、何も。何もしてなど、いません」
「嘘をつくな。昨夜の出来事、夢であったなどとは言わせんぞ」
オヴェウスの手が巨大な拳となり、グリンガレットの眼前で振りかぶる。
一瞬だけ怯えた顔を見せてしまったが、気丈にも彼女は目を開いたまま、唇を結んだ。
オヴェウスは、殴らなかった。
「なあ、グリンガレット」
少しだけ、声に柔らかさを演じて、オヴェウスは語りかけた。
殴るかわりに、掌でグリンガレットの顔をなぶり始める。彼女の整ったあごを、唇を、鼻を、オヴェウスは弄び始めた。
「お前は俺を斬った。それなのに、斬られたように苦しんだのはお前の方だった」
グリンガレットは、オヴェウスの生暖かい掌の気色悪さに、身を悶えさせた。
「俺は背中から矢を射かけられた。そこの女にだ」
オヴェウスは続けた。
「またしても、苦しんだのはお前だった。そして、俺はこうして生きている。たった一晩で、ほら、この通り、俺の体には傷一つ残っていない」
言うと、自らの胸元を開いて見せる。たくましい胸襟が、うっすらと汗で湿り、若く張った肉体が微かに動悸している。グリンガレットは悔し気に眉根をゆがめた。
「どうしてこうなった。・・・俺は生きている。そいつは良い。だが、昨夜からずっと、何かが疼いていやがる。自分が自分じゃねえみたいだ。・・・この気色の悪さは何だ。お前が、・・・なんでお前が、・・・俺の痛みを受けていたのだ」
オヴェウスの声が、地下牢に響いた。
「知るもの・・・ですか」
「何だと」
グリンガレットは必死に感情をこらえつつ、毅然として答えた。
「貴方に何が起きようと。・・・私が知った事では、・・・ありません。たとえその訳を知っていたとしても、・・・話す理由などないでしょう」
「ほう」
一瞬、オヴェウスは彼女を離した。
ほっとしたのもつかの間だった。オヴェウスは悪鬼のような表情で
「手前、自分の立場が分かっているのか」
叫ぶと、グリンガレットの髪を乱暴に掴み、そのまま突き飛ばした。勢いよく地下牢の壁に背中と頭を叩きつけられた形になり、彼女は苦悶の声をあげた。
拍子に、髪留めが外れ、長い髪が舞った。
勝ち誇るようにオヴェウスが歓喜の表情で吼える。
その眼が、一瞬、止まった。
男装が解け、グリンガレット本来の姿がそこにあった。
「こいつは・・・」
再び伸ばしかけたオヴェウスの手が、ぴたりと静止する。
髪が下りただけで、これ程までに印象が変わるものだろうか。
美貌の奥に、静かな怒りの色を浮かべ、グリンガレットは長い髪の下から、彼を睨み上げていた。
ざわりと、全身に冷気が走った。
女の眼差しが、ただの視線が、彼を竦めさせた。
「・・・これ以上」
グリンガレットが、震える声を絞り出した。
「これ以上の、狼藉は、・・・おやめなさい」
苦しげに呻く、弱々しい女の声。それなのに、なにかが違っている。
その声を、デリーンも聞いた。まぎれもないグリンガレットの声だ。だが、その声の底から、彼女の知らない誰かの声が聞こえる気がした。
空気が冴えていく。それは単なる気のせいではなかった。
デリーンは震えながら、全身にじとりとした汗が滲み出すのを覚えた。
この牢獄の中に、何かが集まり始めている。それは、憎しみや、恨み、悲しみといった負の力、・・・おそらく、地下牢というこの場に残された数多くの思念であった。
力のある者ならば、墓地で彼女を襲ったものと同じ、悪霊の群れが見えたかもしれない。それらは明確な形を持たないままに、グリンガレットを取り巻き、次々に怨嗟の声をあげはじめている。
「私に、・・・触れないで」
よろりと、グリンガレットが立ち上がった。
直後に、デリーンは鈍い音を聞いた。
彼女はその姿を見ることは無かったが、オヴェウスが尻もちをついた音だった。
完全に彼は気圧されていた。声を失い、恐怖をその顔に張り付けたまま、思わず後ろに体をそらす。
グリンガレットはその様子を睨みつけたまま、ふいに前方に崩れ、膝をついた。
乱れた髪が、頬に張り付く。肩息をして、彼女は再び顔を上げた。
グリンガレットの表情に戻っていた。
「オヴェウス卿、私を、私達を解放なさいませ」
苦し気な様子はそのままに、確かに彼女の声だった。
「その方が、貴方にも、良いのです」
すうと、周囲にから邪気が散っていく。
オヴェウスは、少しだけ気を取り直すと、自分が無様に腰をついた事に気付いて、顔を真っ赤にした。
「グリンガレット、手前はやっぱり・・・」
言いかけた言葉の続きを、彼女は察した。
「私を魔女とお思いですか。・・・確かに、あながち、それは間違いではないでしょう。でも、お判りですね。私は貴方の手には負えませぬ」
「俺を、脅しているのか、手前は」
「脅す? 私が? そのようにお感じなのですか?」
グリンガレットは薄く笑った。少なくとも、オヴェウスにはそう見えた。
もはや、立場が逆転していた。オヴェウス自身にも、それが分かった。それが分かっていながら、心の奥で、彼女に対して抱いた怯えを拭うことが出来なかった。
オヴェウスは、言葉を失ったまま立ち上がった。後退りに格子の外に逃れ、鍵をかける。その姿が、あまりも小さく滑稽に映った。
「何者なんだ。お前は。俺は、どうしちまったんだ」
呟くように言いながら、格子越しに彼女を見つめる。
彼女もまたオヴェウスを見返した。
視線が合った。
瞬間、ぶわりと、全身に汗が噴き出した。今度のは、恐怖からではなかった。
美しすぎる。
あまりにも美しく、煽情的で可憐、そして淫蕩さを纏った女を、彼は見た。
オヴェウスの心は引き裂かれた。恐怖と欲望に。
オヴェウスは叫んだ。転ぶように走って、地下道を駆けていく。
その姿を見送る、グリンガレットの表情を見たものは、誰も居なかった。
地下通路を抜け、入り組んだ城内を走り抜けて、オヴェウスは中庭へ駆け出していた。
夕暮れが近づいている。空が蒼褪めた灰色に包まれ、闇が這うように迫ってきていた。
彼自身、何が起きたのかわからなかった。
今はあの地下牢に戻ることが出来ない。戻れば、なにか取り返しのつかない事になると、本能が叫んでいた。同時に、彼はその場を逃れた事に、強烈な苦痛を感じていた。すぐに戻って、あの女をもう一度見たい。いや、この手でもう一度抱き、欲望を満たしたい。それが出来るならば、どうなっても良いと、肉体が叫んでいる。
呻き声をあげながら、僅かに勝る理性に従って、彼は走った。
幾人かの見回りの城兵が、不思議そうに彼を振り返る。
その中に紛れて、ルウメは小柄な体を、更に縮こめた。
・・・オヴェウスめ、地下牢から出てきやがった。
彼を見張っていたのは、どうやら間違いではなかっららしい。読みが当たったと、ルウメはにんまりと微笑んだ。
地下牢に、昨夜誰かが運ばれたところまで、彼は既に突き止めていた。それが誰かまでは分らない。ただ、オヴェウスが指示をしていたという証言も手に入れていたし、何よりも彼が其処から出てきたという事実がある。
修練の際、オヴェウスがキリアムの従者に因縁をつけていたことも、周囲の眼が見ている。
繋ぎ合わせて考えれば、地下牢に居るのが、その従者である可能性は、限りなく高いのではないだろうか。
とはいえ、だ。
・・・中に入るにゃあ、目が多すぎる。
ルウメは周囲を見回して思った。
地下牢の入り口にも番兵の姿はあるし、同じ城兵とはいっても、ルウメの持ち場とは管轄が違う。
・・・ケルンナッハ様にお頼みするか。もしくは、手薄になった時を見計らうしかないね。
ルウメは仕方なしに、一度その場を離れる事にした。
・・・それにしても、妙な様子だった。もう一度、オヴェウスを見張るかな
思い直して、オヴェウスが走り去った方へ向かう。と、城門の外、厩の前まで来た所で、彼は、城外より戻ってきたキリアムの姿を見止めた。
難しい表情で、厩に入っていく。従者が姿を消した事に、かなりの心痛を覚えている様子だ。興味を覚えて、ルウメは彼の様子を見る事にした。
厩の中で、彼は自身の馬の鼻先を撫でていた。
何やら呟いていたが、流石に聞き取れなかった。
遠目にも、良い馬だ。
キリアムがオヴェウスを手玉に取った時、ルウメは一人喝采を送った。オヴェウスの馬を避けて、足を折ったのは、見事な動きだった。
キリアムが、老馬に向かってため息をついたように見えた。
・・・オークニーの王様になる男か。そうは見えねえなあ。
キリアムに声をかけて、自分が、居なくなった従者を探している事を伝えてみようかとも思った。でも、余計なことをして、ケルンナッハに怒られるのも困る。もし酒代を減らされては、たまったものではない。
今のところはそっとしておくか。
ルウメは厩を出ようとした。と、その時。
「そこの方、なにか私に用か」
キリアムの声がルウメの背に冷や水をかけた。
覗いていたのがばれていた。ルウメが恐る恐る振り向くと、気難しい顔をしたキリアムが、すぐ真後ろに立っていた。
「あ、いやその、用ってわけじゃありませんがね」
じろりと、キリアムが彼を一瞥する。
ルウメは人以上に短躰だ。かつてはその為、道化をしていた位だ。誰もが彼を見た瞬間、独特の表情を浮かべる。侮蔑。憐憫。好奇。同情。嫌悪だ。
ルウメはそれを笑みの仮面で堪える。それがいつもの事だ。
おや?と、ルウメは気付いた。
キリアムはいずれの表情も浮かべず、ただ、ルウメを在るがままに見つめていた。
「ならば、なぜ覗き見をする」
キリアムが静かに聞いた。咄嗟にルウメは誤魔化した。
「馬の世話を、してる者です。見慣れない方が、来たと思ってしまったもんでさ」
「そうか、馬の世話は貴公が」
キリアムの表情が微かに和らいだ。
「それは、こちらが悪かった。すまない、わが友が世話になっている」
「あ、いえいえ、これが仕事ですんで」
礼を言われるとは思わなかった。違う意味でルウメは焦った。
「明日、狩りに出るのだ」
「は、はあ?」
「狩りなどは久しぶりだろうからな、今日は、少したっぷりと食べさせて欲しい」
「あ、そりゃ、勿論」
「頼む」
キリアムはぺこりと頭を下げると、疑う様子もなく厩を後にする。
見送って、ルウメは首を傾げた。
オークニーの王にしては、偉ぶるところもなく、自分を馬鹿にするようなことも無い。
周囲の声は様々で、ペテン師ではないかとの声も聞こえていたが、どうして、なかなかの人物なのではないだろうか。
ルウメはそろそろと馬に近づくと、慣れない手つきで枯草を運んだ。馬が、嬉しそうにたてがみを振るった。
「久しぶりだろうから? って、自分の馬なのに変な事を言う王様だな」
何とはなしに馬に向かって話しかける。
老馬は何も答えず、枯草の中に鼻先を埋めた。
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