第13話 ルウメ

十三 〈 ルウメ 〉


 鈍色の空が広がっていた。

 厚い雲に覆われ、蒼天は見えない。眼下の街並も陰鬱とした影に包まれたままで、朝の清涼とした風はどこへ消えたのか、水路から立ち上る腐臭にも似た悪臭が、どこからともなく周囲に漂っていた。

 キリアムは募る焦燥に駆られながらも、修練場で汗を流した。

 今朝に限っては、ラディナスも、サヌードも、オヴェウスさえも姿を見せなかった。グリンガレットが戻っている事に期待をして、急いで部屋に戻った彼を待っていたのは、今朝と一切変わらぬ室内・・・、彼女がいないというだけで一気に光を失った調度品や、冷たいままのベッドだった。

 今朝には戻ると、彼女は言った。

 グリンガレットと過ごした時間は長くはない。彼女は彼に全てを打ち明けてはくれていない。まだまだ心を開いてもらえたわけでもなければ、彼が思う以上に深い何かを抱えている。それでも、彼女が、自ら口にした言葉を破るとは、キリアムには考えられなかった。

 妙に胸騒ぎがしている。

グリンガレットに何か起きたのではないだろうか。そう思うと、気が狂いそうになる程、心が乱れた。

 たかが半日だ。たったそれだけの間、彼女の顔を見ていないだけだというのに、まるで何年もの間、離れてしまったようにさえ思えてくるのだ。

 落ち着いて座る気にもなれず、気が付けば窓辺に立っている。やはり外に出てみようかと思い直した時、ドアをノックする音に気付いて、キリアムは慌てて振り向いた。

 一瞬、歓喜した心は、すぐに失望に変わった。

 深い皺を相貌に湛えたケルンナッハが、恭しくそこに立っていた。

 「キリアム卿宛に、弓が届いております」

 「弓?」

 キリアムはケルンナッハが連れてきた召使の男から、弓具一式を受け取った。

 精巧な作りで、新しいものだった。軽すぎもせず、決して重くもない。多少華美すぎるきらいはあり、実戦向きとは言えないが、狩りには丁度いい具合だろう。

 矢羽は水鳥の毛が用いられていた。白地に黒の線が二本入っている。わざわざ染めたものらしかった。

 「明日の狩りにて、ぜひ腕前をご披露いただきたいと、エイノール陛下からの贈り物にございます」

 「それは、かたじけない。有難く頂戴したとお伝え願いたい」

 「畏まりました」

 狩りが明日だという事を、キリアムは忘れていた。グリンガレットが戻らないというのに、狩りになど行く気が起きないが、そうも言っていられない。自分が望む、望まないに関わらず、すでに物事は動き始めているのだ。

 ケルンナッハがふと小首を傾げた。

 「お連れの方は、いかがいたしました」

 キリアムははっとして彼の顔を見返した。

 ケルンナッハは彼女を誰かと間違えていると、グリンガレットは言っていた。つまり、彼女とケルンナッハの間で、彼が知らないやり取りがあったことを示唆している。

 ケルンナッハは、グリンガレットの事を何か知っているのではないだろうか。そんな思いがキリアムの脳裏をかすめた。

 少し答えあぐねたあと、彼は意を決した。

 「昨夜から戻らぬのだ、ケルンナッハ殿、どこかで見なかったか」

 正直に話した方が、かえって危しまれることも無ければ、何かしらの情報を得られるかもしれないと、キリアムは思った。そして、彼女の話が本当なら、ケルンナッハは彼女の事を気にしている。

 「はて、戻らぬと・・・」

 その顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。不安と困惑、何かを隠している様には見えない。

 「街に出られたのですかな」

 「そうだ、何かの用事があると言っていた」

 「心配ですな、最近はかどわかしなども多い。特に若い娘などは」

 「娘?」

 キリアムは思わず聞き返していた。すぐに、ケルンナッハは己の失言に気付いたのか

 「いえ、あのお方のように華奢な方だと、そのような輩に狙われる事も」

 ケルンナッハはグリンガレットが女であることを知っている。それが何を意味しているのか、キリアムは知らず知らずのうちに、自らの表情が険しいものになっていくのを感じた。

 キリアムの緊張を察したのか、ケルンナッハは仕方ない、というように少し首を曲げた。

 「キリアム卿、私に他意は御座いませぬ。お連れの方が戻らぬこと、さもご心配であられましょう。それでは私も、少しお手伝いをいたします」

 「それは、・・・かたじけない」

 「礼にはおよびませぬ。町の事に詳しい者もおりますれば、少し探らせましょう。まず、何よりも帰ってきてさえいただければ良いのですが」

 「そうだな、・・・すまぬ。頼めるか」

 「は。それでは」

 腰を少しばかり折って、ケルンナッハは辞した。

 見送ってから、キリアムは小さく息を吐いた。

 ケルンナッハは、彼女を一体誰だと思っているのか。そして、彼女と一緒に居る自分をどのように見ているのか。果たして、言葉通りに信用し、彼女を探させてもいいものだろうか。

 一度疑念を抱き始めると、その思いは尽きなかった、しかし、彼自身、この街に詳しいわけではない。グリンガレットが何をしに、どこに行ったのか、何一つ手掛かりはないのだ。

 唯一あるとすれば、オヴェウスについて、何かを調べようとしたのではないか、という事くらいだ。しかし、そのオヴェウスさえも、今日は城中でその姿を見ていない。

 キリアムは弓を手にした。

 ひんやりとした持ち手の皮が、しっくりと手になじむ。

 このような気持ちで、狩りなどできるものか。

 そう思ったが、彼には待つこと以外の術が、思い当たらなかった。



 離れを出て、ケルンナッハは一人門に向かった。

 あのお方が戻られた。それなのに、また街を出た。そして戻らない。

 そんな筈はない、と思う。彼が知る限り、この城は未だ彼女のためにあり、彼女が戻る日を待ち続けていたのだ。

 偽りの王の治世は終わり、正しき血の治世に戻る日が来る。そして、その日は近い。

 門の側にある、小さなくぐり戸から、塀の中に入る。

 この城の奥は迷路上になっており、ここに住まう者も、そのすべてを知る者はいない。ケルンナッハすら、知らない扉が幾つも残っている。そして、その中の幾つかは、彼女にしか開くことが出来ない。彼女はそこを開いた。それが、全てだ。

 折角、二人が揃った。あとは二人を正しく引き合わせるのみだ。

 死の匂いのこびりついた石の廊下を過ぎると、開けた部屋に出た。衛兵が数人、木製のテーブルを囲んでゲームらしきものに興じている。

 部屋の隅に目をまわした。

 小柄な男が、水桶の横で寝ていた。

 痩せていて、安い革製の袖の無い鎧を纏っている。全てが汚らしく、あちこちに綻びや汚れがあり、近づくと臭いが鼻につく。

「ルウメよ、仕事だ」

 一度声をかけたが、男は身動き一つしなかった。

 「ルウメよ、いつまで寝ておるか」

 軽く、足でつつく。

 それでもルウメというこの男は、少し鼻を鳴らしただけで起きようとはしなかった。

 「ケルンナッハ様、そいつは起きませんぜ。昨夜も大分飲んだみたいでさ」

 ゲームに興じていた男が、ケルンナッハに気付いて言った。

 ケルンナッハは軽くその男を一瞥してから、再び

 「起きぬか、城の『眼』よ。お前にしか出来ぬ仕事だ」

 軽く蹴ると、男はさも面倒そうに片目を薄く開いた。

 「酒代にはなるぞ、どうせ昨夜もあるだけ使ってきたのだろう」

 「街に出る仕事かい。だったら、前金が良いな」

 ルウメが酒でかすれた声で答え、何が楽しいのか喉の奥でクックと笑った。

 体を起こそうともせず、軽く掌を開いて、何かをせがむような素振りをする。呆れたようにケルンナッハは男に厳しい目を向けた。

 「先に渡しては、お前は仕事をすまい」

 クック、と男は再び笑った。

 むくりと体を起こし、だるそうに体を掻き始める。フケが周囲に漂い始めたのを見て、ケルンナッハは口元をハンカチで覆った。

 「で、何をすればいい」

 「オークニー王の従者を探してくれぬか。役に立つ情報なら、何でもよい。・・・昨夜、町に出て、もどらぬらしい。お前も、正門での立ち回りは目にしたであろう」

 「ああ、あの生意気そうな奴か」

 ルウメは広場の端から、キリアムとオヴェウスの決闘を見ていた。従者の顔はよく覚えていないが、小柄で、随分と華奢な印象だけは残っている。

 「街に出たって? 夜、外に出るなんざ、ご法度だろう」

 「ラディナス様の館に招かれ。それ以降の足取りがわからぬ」

 「ふうん」

 ルウメの目がくるくると動いた。

 皺が多く、お世辞にも器量が良いとは言い難い顔だが、不思議と愛嬌がある。唇の端を楽しげにゆがめながら、ケルンナッハの顔を見上げた。

 「それにしても、ケルンナッハ様が、直々に動くなんてねえ。珍しい事もあるもんだ。・・・あのオークニー王という男、それじゃあ本物なのかい」

 「お前が詮索するような事ではない」

 ぴしゃりと言われて、ルウメは肩をすくめた。

 「わかった、分かりましたよ」

 ひょいと立ち上がると、その背は驚くほどに小さかった。ケルンナッハの腰ほどもないのではないだろうか。それでいて、その動作は異様に機敏さを備えていた。

 指を三本立てて

 「この位は、いただけるかい」

 「良い情報を得られればな」

 「時間は」

 「早いほど良い。お前もその方が良いだろう。早く酒にありつけるぞ」

 「違いない」

 ルウメは三度クックと笑って、くるりと背を向ける。

 駆け出したかと思うと、一瞬でその姿は闇にまぎれていた。

 ケルンナッハは、懐に手を差し入れると、銀貨を数枚取り出し、無言で、ゲームをしているテーブルの中央に置いた。

 「分かってますよ。俺たちは何も聞いておりません。って」

 衛兵たちはめいめいに銀貨をつまみ上げると、今度はそれを賭けてゲームを始める。

 冷ややかな視線を残して、ケルンナッハは静かに部屋を後にした。

 


 茶器を運ぶ音に、ラディナスは少し遅く目を覚ました。

 昨日はキリアムを招いた後、一人で大層飲んでしまった。普段は自重していたが、自身が置かれたこの現状を振り返れば、やるせない思いもある。

 なによりも、オヴェウス卿の事だ。

 あのサバージュ卿の忘れ形見と思えばこそ、折々に目をかけ、士道を説いてきた。しかし、いかにその血が流れていようとも、いかな生き方を重ねてきたものか。・・・生きる術として身に着けてきた年月を、僅かな期間で変えようというのは、所詮、無理な話なのだろうか。

 オヴェウスには戦士としての素質がある。それは、疑いようがない。ベイリン卿から受け継いだ魔剣カラドボルグを、あそこまで容易に振るうことのできる腕は、正しく使えば大きな力になる。

 ただ一つ。あの粗野な性格と物腰は、もう少しどうにかならないものか。

 ベイリン卿も、野人とまで称されるほど、戦では激しい気性で知られていた。ただし、戦場に身を置いているときのみだ。

 ラディナスは、オヴェウスがルグヴァリウム城を訪ねてきた時の事を思い起こした。

 雷雨が、広天の怒りのように荒れていた。

 昼過ぎだというのに、夕暮れのように闇が押し迫っていた。

 堀の水が増水し、城門の架け橋を上げようとした時、彼が其処に立っていた。

 薄汚い襤褸を纏ってはいたが、手には一振りの剣を抱え、長い髪を頬に張り付けたまま、目だけがぎらぎらと光っていた。

 「俺はサバージュだ。叔父貴は死んだ。ここにラディナス卿はいるか」

 それが最初の一言だった。

 彼を介抱し、落ち着くのを待って事情を聴いた。

 ベイリンが殺害された事を知った。

 にわかには信じられなかったが、彼の持つカラドボルグは、それを証明していた。

 森で暮らしていた彼を、ベイリン卿が遥々尋ねてきたのは、僅かその数か月前の事だった。ベイリンは肉親が生きていたことを大層喜び、彼を騎士にするべく彼に剣を教えた。そして、ラディナスに師事を仰がせるべく旅に出たのが最後となった。

オヴェウスの存在を面白くないと考えるものがいた。

 ベイリン卿が異国を旅した際に目をかけ、従者として連れていた者であった。

 剣の腕が立ち、将来はひとかどの騎士にと期待されていたのだが、その実、カラドボルグの魔力に取りつかれ、いずれその魔剣を己が物にと考えていた。そこにオヴェウスが現れた。

 このままではオヴェウスに魔剣カラドボルグを奪われると考えたその男は、ベイリンを背後から襲い、亡き者とした。

 男はオヴェウスの命も狙った。だが、オヴェウスは想像以上に強く、結局は彼の手によって、返り討ちとなった。

 ラディナスはその話を聞いて、叔父の仇を見事に討った事に感心し、彼を城の騎士として迎えるよう推薦をした。

 しかし、日を追うごとに、その凶暴性や粗野な一面が現れるようになった。

 サヌード卿が城にきてからは、尚更だ。

 サヌードとオヴェウスの間に何かの関係があるようには思えない。しかし、あの頃から急速にこのルグヴァリウム城は変わっていった。

 気が付けば、騎士の多くがラディナスや古参の騎士達ではなく、サヌードをはじめとした新参の一派に心酔し始めている。オヴェウスも、どこかに妙な魅力があるのか、少しずつ取り巻きを増やしている様子がある。

 果たして、このままで良いものか。

 娘の事もある。

 ラディナスは、娘リネットを、オヴェウスに嫁がせ、名実ともにオヴェウスの後見人になろうと思っていた。それが、今のあの男の様子を見ると、果たして正しいのだろうか。

 「お父様」

 突然声をかけられ、ラディナスは驚いて声の主を探した。

 いつからそこにいたのか、リネットがテーブルの端に銀の食器を並べ、少し物憂げな視線を彼に向けていた。

 「熱い茶を入れております。酔い覚ましになるかと」

 「すまんな、頂こう」

 花を思わせる香りが鼻孔をくすぐる。

 口に含むと渋みとともに、蜂蜜にも似た、ほんのりとした甘さが広がる。

 「セヴィアが戻ったのか」

 訊くと、リネットは驚いたように目を丸くした。

 セヴィアは召使の名前だ。数日実家へと帰っていたが、今朝早く戻ったばかりだった。

 ラディナスは少し悪戯ぽく笑って

 「お前がいれると、渋いばかりだが、今朝のお茶には甘みがある」

 「まあ、知りません」

 呆れた様子で、リネットはぷいと横を見る。その横顔が、随分と母親に似てきたものだと、ラディナスはつくづくと思った。

 「すまん、悪い冗談だな。だが、旨いお茶だ。ありがとう」

 「セヴィアにそう伝えておきますわ」

 言いながら、リネットは再び彼に目を向けた。その瞳に、うっすらと憂いの色が浮かんでいるのを、ラディナスは気付いた。

 「どうかしたのか」

 彼女の髪を軽くかきながら、母親の面影に問いかける。

 リネットは、一瞬きっと唇を結んでから、少し厳しい声をだした。

 「私は、オヴェウス様を好きにはなれません」

 その話か、と、ラディナスの心は再び重くなった。

 「昔からの約束だ。私にとっては誓い(ゲッシュ)と同じなのだ」

 「それは、お父様の勝手に御座います」

 「騎士の元に生まれたからには、やむを得ぬことだ。それが分からぬお前ではあるまい」

 「お父様は、私が不幸になっても良いとお思いなのですか」

 「馬鹿を言うな。そのような事があるか」

 思わず、ラディナスの声が荒くなった。

子の幸せを願わぬ親はいない。しかし、騎士の家名を守る事もまた、騎士の元に生まれた者の宿命である。これはリネットが幼いころから話していたことではなかったか。

 確かに今のオヴェウスの姿を見て、彼自身にも迷いはある。それでも、少なくともそれを決めるのは父である自分であり、娘の意志に左右されるものではない。

 「正統な騎士の血を遺すことこそ、ギルバーン家に生まれた者の使命ではないか」

 「それは、よくわかっているつもりです」

 「では、何故今更にこのような話をする」

 「私は、オヴェウス様に騎士道を感じることが出来ないのです」

 リネットの言葉は、ラディナスの心に刺さった。

 まさに、ラディナスも同じことを思っていた。オヴェウスに騎士の血を感じない。それは本当にただ育った環境のためだけなのだろうか。

 ラディナスのその躊躇いを見て取ったのか、リネットは一つ大きく息を吸うと、意を決したように話した。

 「正当な騎士の血を遺すなら、もっと、素晴らしい方も居ります」

 ラディナスは何を言い出す者かと、娘の顔を凝視した。

 「何を、誰の事を言っているのだ」

 一瞬答えがよぎった。そうだ、そうに違いない。そして、彼もまた、彼女がそう感じたことはやむを得ない事だと思った。

 「昨日、お見かけ致しました殿方です。キリアム卿と、お伺いしました」

 やはり、その名前か。だが。

 「彼は駄目だ。お前を嫁がせるわけにはいかん」

 「何故で御座います? コホ家と言えば、バースの正当な騎士の末裔。円卓の騎士の末裔でもございましょう。サバージュ家は、名門とはいえ、円卓を外れた家柄ではありませぬか」

 「確かに。キリアム卿は名門の出には違いないが、彼はこのルグヴァリウムに留まる人物ではない。実領が無い以上、結局は放浪の者だぞ。」

 ラディナスは昨日、彼に街を離れるように助言した。それを、娘は知らない。

 「お父様も、幾年も居を変えられました。私は、その間、母上の姿も見続けて参りました。夫となる方についていく術は学んでいるつもりです」

 「黙るのだ、リネット」

 自身が思った以上に厳しい口調になった。リネットは弾かれたように体を固くして、少しだけ唇をわななかせた。

 感情的になるかと思ったが、そこは騎士の娘だった。

 気丈に声を押し殺し、軽く伏し目になる。

 「お父様、失礼が過ぎました」

 「わかれば良い。声を荒げて済まぬ」

 「いえ」

リネットはそれ以上何も言わず、静かに退室した。

 娘が消えた扉を見つめながら、ラディナスは大きくため息をついた。

 オヴェウスがキリアムの様な男であれば、何一つ問題はなかったのだ。つくづくと、この世が恨めしく思えてくる。

 本当であれば、キリアムにこそ、この城に留まって欲しいと思う。だが、それを受け入れるだけの器量が、エイノール王には、いや、この国にはない。

 王が望む、ブリトン人によるゴドディン4国の団結。それを欲しながら、今もっともその理想からかけ離れた行いをしているのは、このノヴァンタエ領ではないか。

 ラディナスにも、この現状を変えるだけの力はない。だからこそ、彼、キリアムをここにとどめ置くことは出来ないのだ。

 ラディナスは立ち上がった。明日の狩りは、同行を辞そう。少なくとも、キリアム卿との距離を取っておく方が良いかもしれない。今更ながら、彼にはそれが最善に思えた。


 

 岩の隙間をつたう滴が、ぽとりと零れ落ち、白い頬の上で跳ねた。

 細い目が微かに開き、まだ焦点の合わない瞳に、微かな光を集める。

 薄暗さに、最初は夜かと思ったが、そうではない。どこか暗く冷たい場所に、彼女の体は横たえられていた。

 体の下は、ごつごつとした石畳だ。血と苦しみの匂いが染みついている。

 格子が見えた。その先の通路が、ぼんやりと明るい。どこかに松明があるのだろうが、直接は見えない。

 生きている。とわかった。同時に、何故生きているのかと疑問が浮かぶ。そして、その答えは、おそらくは自分自身の胸の内にあった。

 グリンガレットは、痛む体を、ゆっくりと起こした。

 手枷がはめられている。革製だが、だいぶきつい。体の前で少し腕を動かす程度しかできない。それでも、ようやく半身を起こし、目を暗闇に鳴らしながら、ゆっくりと自分の姿を見た。

 気を失っている間に狼藉を受けた様子はなく、少しだけ安堵した。体が痛むのは、石畳に寝かされたせいだ。そして、斬られた痛みと背を射られた痛みだ。

 だが、グリンガレットの胸元にも、背にも傷は一つもなかった。

 あの時。

 確かにグリンガレットの剣はオヴェウスの胸元を切り裂いたはずだった。それなのに、斬られた痛みが走ったのは自分の方だった。

 思い出しただけでも背筋が凍るような感覚。あれは、死の感覚だ。

 死の苦痛と恐怖。過去にも数度あった。一度目はベルティラック卿が円卓の前で首を刎ねられたとき。次は、ユーウェインの剣にグァルヒメイン卿が胸を貫かれた時だ。

 それが何を意味しているのかを悟って、グリンガレットの体が震え出した。

 見つけたのだ。

 幾年もの間探し求めていた物を。

 やはり、あれは失われていなかった。そして、やはりグリンガレットは、宿命から逃れてはいなかった。

 気持ちを落ち着け、今の状況を冷静に考える。

 自分は囚われた。おそらくはオヴェウスの手に落ちたのだろう。あれからどのくらい時間がたっているのだろうか。もし、夜が明けているなら、キリアムが大層心配している筈だ。

 周囲に目を走らせるが、時間のわかるようなものは見えない。そもそも、あまりの暗さで、牢の奥すらもぼんやりとしか見えない。

 と、その眼が何かを捉えた。

 牢には、もう一人いた。

 牢の片隅で身動き一つせず、ぼろぼろのシーツにくるまれたその人物は、微かに苦しげな息を洩らしていた。

 グリンガレットは、這うようにして、その人影に近づいた。

 「そこのお方」

 小声で呼びかけるが、反応がない。もう少し近づいてみると、それが女だとわかった。

 グリンガレットと違い、女はひどく乱暴を受けた痕があった。

 体中に痣や傷が走り、血が流れている。シーツにはくるまれているが、それも大分湿っていて、彼女の体力を守るほどのものではない。触れると、思った通り熱が出ていて、微かに震えが始まっていた。

 首筋に絞められた痕をみとめて、グリンガレットは眉を顰めた。

 このままでは、死ぬ。

 グリンガレットは直感的にそれを感じた。

 「誰か、誰かいませんか!」

 グリンガレットは叫んだ。

 灯りがある以上、誰かしらは居るはずだ。しかし返事はない。

 「誰か、このままでは死にます、誰かいないのですか!」

 大声をあげているつもりだが、声がかすれた。それでも、少しは響いたはずだ。だが、やはり返事はなかった。

・・・誰も居ないのかもしれない。

 しばらく呼び続けた後、グリンガレットはようやくその答えに辿り着いた。

 もう一度、女に目を向ける。

 こうして居る間にも、女の震えは大きくなっていた。同時に、指の先が妙な形にひきつっていく。

 時間がない。このまま死なせるべきか。

 グリンガレットは少しためらった。

 見ず知らずの女だ。

 助けるすべが無くはない。しかし、その必要があるのだろうか。

 グリンガレットには、いくつかの術の心得がある。そのどれもが、古い力で、術を行うごとに、彼女自身にも、またこの女にも業が増えることになる。力は常に、その代償を求めるものなのだ。

 この女が、何をしたのか。なぜ、同じ牢にいるのか。

 グリンガレッドは、蒼天に自らの行為の正しさを問いかけた。

 もし、それが邪な力だとしても、その行為に正しき道があるのならば、それは正しい行為と言えるのだろうか。

 彼女の脳裏に、グァルヒメインの姿が浮かんだ。彼女に生きる道を遺してくれたかつての円卓の騎士。彼ならこんな時どうするだろう。

 グリンガレットはかっと目を見開いて、女を再び見た。時間はあまりなかった。

 自らの右の小指を必死に口元に近づけて、強く噛んだ。

 激しい痛み、微かに血が滲む。

 その血を自らの唇に塗って、女の唇に重ねた。背徳にも似た行為だが、今はそれを気にする場合ではない。

 ゆっくりと息を吹き込みながら、今は失われた言葉を口ずさむ。

 これは、癒しの術ではなかった。

 むしろ、呪われた血の力、というべきだろう。血の口づけは、その祝福を受けた相手に自らの力を分け与えることが出来る。しかし同時に、彼女は何らかの代償を追う。それがどのような形になるのか、いつその代償を払うことになるのかは、グリンガレットにも解らない。

 グリンガレットの力は、彼女にこの力を与えたあの御方程ではない。それでも、今ならこの女を救うことは出来るはずだ。

 グリンガレットはそのまま、女の顔を覗き込んだ。

 美しい女だ。野性的で、何よりもその相貌には邪気が無い。救う価値のある魂であることを祈る。

 程なくして、女の震えが収まった。

 息が軽くなり、表情から苦痛の色が消えていくのをみて、グリンガレットは安堵の色を浮かべた。

 唇を放し、全身で息を吸うと、そっと女の髪を撫でる。

 どれほど時間が過ぎただろう。女がゆっくりと目を開いた。

 「・・・ここは、どこだ」

 女が呟くように言った。

 グリンガレットは自分よりもわずかに年長にも見える女に向かって、少しあやすような口調で答えた。

 「ここは、牢の中です。だけど、大丈夫です、落ち着いてください」

 「牢の中、だと」

 「そうです。良かった・・・話せる程になりましたね」

 「あたしは・・・そうか」

 女の中で、それまでの記憶が混乱を起こしているようだ。あれだけ痛めつけられていたのだから、仕方がない事だろう。ショックで暴れ出したり、叫び始めたりしなくて良かったと、グリンガレットは思った。

 女の目が、少しずつ自我を取り戻していくように見えた。

 「あたしは、・・・やり損ねたのか。・・・くそ、情けない」

 視線が周囲を巡り、また、グリンガレットに戻る。

 ようやく彼女を認識したのか、視線があった。

 「あんた、あたしを助けてくれたのか」

 女の声には困惑の色が浮かんでいた。

 グリンガレットは努めて静かに答えた。

 「そのような大層な事はしていません。私も同じ囚われの身です。ただ怪我をしていたようですので、貴女の身を案じていただけです」

 「いや、・・・そうなのか。何だか急に体が暖かくなった気がした」

 女が不思議そうにつぶやく。グリンガレットは彼女の額に触れた。

 「熱が、下がったようですね」

 女は掌がふれる感覚に、少し緊張したように体を強張らせたが、すぐにその体温の心地よさに気付いた。

 「礼を言うよ。あたしはデリーン。あんたは」

 「私は、グリンガレットと申します」

 グリンガレットは微笑んだわけではなかった。だが、デリーンにはそう見えた。

 「グリンガレット? 変わった名前だね。・・って悪いね、命の恩人にさ」

 「それは大袈裟です」

 デリーンは、自分を見下ろす女の顔をしげしげと見た。

 同性の彼女から見ても、息をのむような美人だ。新しき神を崇める者たちが、聖女という言葉を用いる時があるが、この女はまさにそのような形容が似合う。

派手さはない。清麗な面立ちに、涼やかな瞳。しかしながら、その瞳をじっと見ているうちに、デリーンは例えようもない感情が沸き起こるのを感じた。それは恐怖や怖れに似ている。畏敬かもしれない。

 突然、グリンガレットと名乗る女の外見に、あまりにも不釣り合いな魔性の色が垣間見えた。それは、デリーンの思いこみにすぎないだろうか。

 デリーンが咄嗟に視線を外したことに、グリンガレットは気付いた。

 「ところで、あんたはどうしてこんな所に」

 気まずさを隠すように、デリーンが訊いた。お互いに、少なくとも、このような地下牢に閉じ込められる理由があるとは思えなかった。

 「そうですね、不覚を取ったとしか、言えませんね。・・・あの男に」

 「あの男・・・オヴェウスか?」

 「知っているのですか」

 「知っているさ。ああ、忘れたことがあるものか」

 言葉の奥に、憎しみの色が溢れている。グリンガレットは自身の求める答えがすぐそこにある事に気付いて、唇を微かに振るわせた。

 血の味がした。


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