第12話 ドルイドの秘術
十二 〈 ドルイドの秘術 〉
暗闇の中、星空の中に半月が浮かんでいた。
闇と光の両面を持つ夜天の輝きは、まだ薄紅のベールを覆わせている。
男装をした白磁の頬を持つ娘・・・グリンガレットは肌に張り付く街の湿気がもう少し薄れるのを待っていた。
ぼんやりと時を過ごしながら、脳裏に浮かぶ騎士の相貌を数えてみる。
グァルヒメイン卿、ペレドゥル卿、ユーウェイン卿、ライオネル卿、湖のランスロット。それに、グァルヒメイン卿の弟たち。
皆立派な騎士だった。
聡明なガレイスにガヘリス。いつも笑顔を絶やさない長身のボールス卿。
そして、アグラヴェイン卿は忘れがたい。
難しい性格で、決して誰とでも打ち解ける方ではなかったが、グリンガレットがグァルヒメイン卿の従者を務める事を、誰より先に認めてくれた。
細面の顔に、神経質そうな口髭。いつも濡れたような濃茶色の髪が肩口までのび、うねうねとカールして頬に張り付いている。口を開けば誰かの悪口で、その大半が的を射ていなかった。
しかしながら、騎馬や剣の扱い方を教えてくれたのは彼だ。彼女の馬術や剣技の殆どは、彼が自ら手ほどきをしたものだ。剣を持ちなおす時の癖も、馬の腹に力を加える時の癖や間合いも、アグラヴェイン卿から受け継いだものだ。
グァルヒメイン卿は始めのうち、グリンガレットを無視することも多かった。そんな時、アグラヴェイン卿は慰めるわけでもなく、そっと剣を合わせてくれた。
その意図がどこにあったのかは分からない。もしかすると、円卓の騎士の中でも、兄弟の中でも孤立しがちな彼は、同じ孤独さをもった彼女に、相哀れむ思いを抱いただけなのかもしれない。
騎士の中には、・・・特にランスロットとともに海を渡った騎士たちの中には、今でもアグラヴェイン卿を悪く言う者も多い。
けれど彼女は、彼もまた真の騎士であったと信じている。
今は誰も居なくなった。
現実は眼前の墓地のように静かだ。
数日前、夜を明かした墓地に、再び夜が深まる。
グリンガレットはふと、寂しさを感じている自分に驚いた。
ずっと一人だった。
彼らと別れた後、彼女は方々を旅し、ある時にはサクソン人の北征と戦う義勇軍に参加した。その時も多くの仲間が居て、同時にその殆どを失った。
人々が傷つくのを誰よりもその目にしてきたし、少なからず自分も傷を負った。
仲間と思った者たちを、大義を前にして見捨てた事もあった。冷酷だと、自分でも思うことがある。だが、そうでなくては、己を保てない・
ある時、ガリアに渡った騎士が彼女の事を聞き及んで使いをよこした。
彼女はブリトンを離れる気が起きなかった。グァルヒメイン卿の言葉を自らの使命と架していた理由もあったが、生き延びた僅かな騎士たちの名前を耳にしても、こんな感傷めいた思いにはならなかった。
何故そんな思いになってしまったのか。それを考える事はやめにした。
馬鹿げた思いだ。
自分は何のために生まれたのか。
騎士の格好をしても、彼女は騎士ではない。ブリトンのために戦っても、彼女は英雄になどはなれない。
なぜなら、彼女は騎士の栄華を貶めるためにこの世に生を受け、彼らを破滅させる事が、本来の生まれ持った宿命であったのだから。
いつからか抗い続けている。
彼女は数本の木片を取り出した。
森の少年ビオランの屈託ない笑顔が思い出されて、彼女は無意識に口元を緩めた。
彼には悪い事をする。折角森に来た時の合図のためにと渡してくれたものなのに、自分はそれを違う事に使うつもりだ。
彼女はそれがドルイドの祝福を受けたものだと知っていた。
聖なる力で清められたドルイドの木は、秘術を行う上で欠かせない。そして、彼女はそれを行うすべを、ドルイドの呪法を身につけている。
騎士の力ではない。魔術師や魔女と呼ばれるものの力だ。
グリンガレットはそれが意味するところを思った。
この姿を、誰にも見られたくない。特に、キリアムには。
彼はどう思うだろう。ドルイドの魔女に対する世間の眼は、偉大なる王の治世後、大きく変貌した。
かつては神聖なる存在として認められた時期もあったが、あの大魔術師マーリンでさえ、今は深き永久の眠りに逃れたほどに、古き力は失われている。
いかに言い繕ったとしても、新しき神を盲信する今の騎士にとっては異端の力である。
彼女の身に授けられたこの力は、偉大なる王が信じた道にはない。
古来よりこのブリトンの大地に染みついた、いずれ滅びゆく力なのだ。
偉大なる王は、滅びゆく力の祝福によって王となり、新しき神の祝福を得んとして滅んだ。それが過ちであったのか、正しき事であったかのを判じるのは自分ではない。グリンガレットに解るのは、どのような力にも必ず何らかの代償がつきまとう。そして、聖なる力も悪しき力にしても、人々が求める故に存在し、その善悪を決める事すらも、人の業が生み出す価値観に過ぎないという事だ。
もしその時が来れば、キリアムもきっと、新しき神を信じる道を選ぶ。それをどこかで感じ取っているからこそ、彼女は彼に対して心を開くことにためらいがある。
グリンガレットは、自分にそれらの術を授けた者の、青白く歪んだ瞳を思い出した。
美しい女だった。
「蒼天の先に何があるのかわかる?」
彼女は訊いた。
「全てを包む漆黒の天よ」
そして微笑んだ。
その美しさを超える存在を、彼女はまだ知らない。
記憶の中に焼き付いた相貌を頭上の半月に重ねた。光の中にグァルヒメイン卿の眼差しが、闇の中には女の眼差しが浮かんで、そこに立つ彼女を見返していた。
自分は半端者だ。
グリンガレットは、騎士にも魔女にもなりきれぬ自分を自覚し、その考えを押しやった。
頃合いが近づいていた。
火を起こし、そこに例の木片を数本投げ入れる。
煙が立ち上る様を、目を細めて眺めた。
古来より、この白煙を用いてドルイドの法は行われる。神聖な白煙は人の魂を導き、時には招き、時には払う。僅かな秘言が、唇の隙間を流れでると、緩やかに煙が揺らめき始めた。
数日前、キリアムと共に野宿した時には、悪霊の群れに襲われた。あの夜は油断していた。だが、おかげでこの地には不浄の魂が淀んでいる事を知った。
このドルイドの秘術にかけては、まだ経験が浅い。できることならば、あまり用いたくはなかった。
ふっと、彼女の周りを靄の様な物が漂い始めた。
最も力の弱い霊の群れだ。
白煙の力で追い立てられている。彼女は待った。
呻くような思念が渦巻く。その中にはあの夜のように、彼女に向かってはっきりとした怨嗟の声を投げるものもあった。怨嗟の理由も、この地の事を思えば理解できる。だがそれは、彼女に対して向けられるべきではない。
否定したい思いをこらえながら、それらの怨霊が離れていくのを待つ。
しばらくして、彼女はあの人影が現れるのを見た。
騎士だった。
老いた、剣を持たぬ騎士の霊が、彼女に向かって何かを訴えかけようとしている。先日の夜はキリアムがいた。その為に彼女は深追いをしなかった。だが、今は違う。
再び小さく秘言を唱え、騎士の霊を招き寄せる。
霊の姿が、これまで以上に鮮明な姿となって表れ出でた。
盾に描かれた紋章に、彼女は今度こそ確証を持った。
「やはり、貴方でございましたか」
ベイリン・サバージュ卿。
できる事なら、存命のうちに会いたかった。
その名を言葉にして話しかけると、ベイリン卿の霊は不思議そうに揺らめいた。
霊との交信を可能にするのも、ドルイドの力の一端だ。
自然界にある様々な精霊と交信し、その知恵を授かる。このように人の霊と干渉することは稀ではあるが、彼女の呼びかけに、ベイリン卿は応じた。
言葉で応じた訳ではない。ただ、彼女の問いに対して肯定したことは確かだった。
彼の肩口に大きな傷があった。
「酷い傷、この向きは後ろから斬られたのですね」
また霊は肯定した。その姿が激しく震えて見える。
卑劣な一撃だ。彼ほどの騎士にとって、これ以上不名誉な傷はあるまい。
霊は、残留した思念の塊だ。魂や精神とは、少し違う。
グリンガレットにできるのは、その思念の方向を探ることだけだった。厳密に言えば、意思の疎通による会話ではない。だから、肯定か否定を見分けられる質問を重ねる。方向性がずれてしまえばすぐに散ってしまうから、あまり長い時間も無かった。
誰が、貴方にこの傷を負わせたのですか。
違う、これでは答えられない。言葉を思案し、彼女はまた唇を開いた。
「貴方は誰が貴方をこのような目にあわせたのか、ご存じなのですね」
またも否定はしない。この方向は合っている。
「その者はあなたの剣を奪い去った。だから貴方は剣をお持ちでない」
肯定だ。少しずつ、ベイリン卿の影が揺らめきながら薄れていく。あまり時間は無い。
もし否定に入れば、彼をつなぎとめる言葉が途切れる。彼女はさらに慎重に思案した。
大事なのは、彼が殺されたという事実、同時に、その剣は誰かに譲り渡されたのではなく、凶行の果てに奪われたという事だ。
ベイリン卿は血縁のある者に剣を託することが出来なかった。
それはつまり。
「貴方を殺したのは」
その答えを口にしようとした瞬間、グリンガレットは襲い来る殺気に身を躱した。
悲鳴のような、激しい波動が生まれ、ベイリン卿の思念が散った。
全ての霊気が霧散し、振り向いた先に男がいた。
凶悪な視線。その体躯を見ただけで、それが誰か分かった。
長い階段を降りる間中、サヌードは鼻につく臭いに眉を顰めていた。
琴の音も届かぬほどに鉄を打ちつける鍛冶の音と、時折湿った熱い空気が立ち上り、自然と肌に纏わりついてくる。
これは鉄を焼く臭いだ。
この半年、この鍛冶場を補修するために、大分時間を割いた。
サヌードは周囲に視線をまわして、目的の人物を探した。
テオドラは奥にいた。数人の弟子に細々とした指示を出しながら、自身は鉄製の平台に並べられた狩猟用の鏃を神経質な目つきで点検していた。
年のころは五十を過ぎたあたりだ。鍛冶師の親方にしては線が細く、頬がこけている。土気色した肌の色は、それが地の色なのか煤で汚れているせいなのか分からなかった。灰色の髪は頭頂部が大分禿げ上がって、そこに幾つもの縦皺が走っていた。
「これはサヌード様」
テオドラは彼を見つけると、お世辞にも好相とは言えない笑みを浮かべた。
「進んでいるか」
短く、サヌードは訊いた。
「はい、総員でかかりました故、明後日には十分な数の弓矢が揃います」
「幾つかは仕上がっているようだな」
「無論、陛下の御弓は先に仕上げております。サヌード様や、正騎士の方々の分、それにご客人の分も」
サヌードは奥に視線を送り、保管庫に立てかけられた揃いの矢櫃を眺めた。
その一つ手に取り、十分な出来に目を細める。
「矢羽の色は、白のみか」
「白と茶がございますが」
「それでは見分けがつかぬな」
「と、申されますと」
サヌードは唇の端を少し斜めに吊り上げた。笑みのようにも見えた。
「狩りは競技だ。誰が獲物を仕留めたか、はっきりと判る方が良い」
「全てに、でございますか」
「そこまでとは言わぬ。だが、せめて陛下の矢と、主賓でもある客人の分、それに同行する正騎士四人分程度がわかれば良い」
「それならば可能でしょう。羽根に色を付けまする」
サヌードは頷いて矢を離した。
工房の暗い空間の奥で、炉が赤々と燃えていた。
サヌードがこの城に訪れた当時は、炉の火は絶えていた。一度火の消えた炉は傷みが早い。熱を失ってしばらくたつと、細かな皹が生まれ、新しい火に耐えられなくなる。それを元に戻すには、少しずつ焼きながら炉の内側を補修していくという、手間のかかる作業が必要になってくる。
それでも、この鍛冶場が使えたことは大きい。
ルグヴァリウム城は、歴史のある建物だ。
サヌードはこの壁の奥に、まだまだ彼も知らない空間があるであろうことを感じていた。
迎賓棟の地下にあるローマ風呂や、この鍛冶場。二の外壁に近い郭の地下には入るだけで逆毛がたつような地下牢もある。
城の地下はもはや迷路と言ってもいい。
これも先の城主、モルガンやウリエン、さらにはその先の城主が築かせたものなのだろう。
もっと調べつくしたい気もするが、エイノール王の手前、城を荒らす真似をする事は控えた方がいいと考えていた。
そのうちに、機会もある筈だ。
「万事任す。明日、また様子を見にこよう」
言うと、テオドラが深く頭を下げるのも見ず、もと来た階段へと向かった。
松明の火に彼の影が長くのびる。
光も届かない、地下の鍛冶場。
まるで伝説の妖精の住処だ。コインを一枚置いておけば、明日には数倍も価値のある魔法のリングに変わっているかもしれない。
馬鹿げたことを思った自分を自嘲して、彼は小さく首を振った。
「サヌード様」
影の中から、声がした。
サヌードは足を止めた。振り向きもせず。
「何用だ。城内ではあまり声を掛けぬようにと、言っておいたはずだ」
「お耳に入れたきことが、ございます」
影の中から、一人の人物がサヌードに寄り添い、何やら耳打ちをしてから、離れた。
サヌードの目尻が、一瞬ピクリと震えた。
「それは、・・・まことか?」
人影が恭しい様子で頷く。
「ほぼ、間違いなく」
「それが真実であれば、まさに好機ではないか。なんと・・・これぞ蒼天のお導きか」
声が、歓喜を帯びている。感情をあまり見せる事のないこの男が、明らかに心を乱している。
「手段は選ばぬ。すみやかに捕えよ。もっとも、騒ぎにしてはならぬぞ」
「承知しております。大切な御方ゆえ、丁重にいたします」
ふっと、サヌードは少し嘲るような表情を浮かべた。
「お前には、そうであろう。・・・とはいえ、情で動くなよ。仕えるべき主が誰か、分かっておろうな。・・・良いか、くれぐれも逃すな」
影が音もなく、去る。
気配が遠ざかるのを感じながら、サヌードは己の拳を固く握りしめた。
・・・これで、事が進む。
溢れ出す思いを、必死にこらえるかのようにサヌードは息を吸う。
臓腑の奥に沈み込んだ感情は、歓喜に似ていた。憎悪と嫉妬。それが満たされることで初めて生まれる高揚だ。だが、その先に何があるのか。
サヌードは自身にすら制御できない焦望感を抱えたまま、脳裏に、今耳にしたばかりの情報を形にしていた。それは、彼が最も焦がれ、そして最も憎み続けてきた者の相貌だった。
サヌードの唇は無意識のうちに、音もなく、その名前を繰り返していた。
面影が浮かんだ。
深みのある金茶色の髪、碧く憂いを湛えた瞳。
艶めいた唇が微笑み、自分の名を呼んだ。
「誰よりも、立派な騎士に御成りになられるのでしょう」
木霊のように、懐かしい声が耳の奥で何度も響いた。
そのつもりだと、彼は答えた。
「貴方はきっと、ご立派になられますわ」
彼女の言葉の一つ一つが、はっきりと耳に残っている。
美しく、眩く、荘厳にして柔和。彼女は彼が女性に抱く幻想の全てをその身に宿していた。
彼女は軽く首を曲げ、悪戯をする子供のように頬を赤くした。
「でも、貴方はどなたの騎士になられるのかしら」
それは難しい問いかけだった。
彼には憧れの騎士がいた。
その騎士は偉大なる王に仕え、数々の冒険を成し遂げた勇者だった。しかもその騎士は彼の姉を娶り、今は彼の義兄となった。
騎士のもとへ姉を送り届けるのが、彼が騎士として初めて賜った任務だった。その任務の先で、彼女に出会った。
目の前に立つ美しい女性は、鈴のように流麗な声で、彼の心の奥の矛盾を突いた。
「偉大なる王にお仕えするのかしら。あの御方は、貴方が敬愛する兄卿の主人となられますものね。でも、卿とても、本来ならば偉大なる王と、そうは変わらぬ身にあられますわ」
くすくすと、彼女は笑った。
「兄卿の従者となって、卿の城で騎士になられるのも良いでしょう。でも、それでは貴方はいつまでたっても兄卿を超える騎士になど、御成りになる事は出来ませぬ」
それは核心をついていた。
確かに自分は兄に憧れている。だが、憧れの先にあるのが、其処にかしづく自分の姿ではないはずだ。
ともに並び立つ。いや、憧れを超えた存在になる事こそ、本来、自分が描くにふさわしい夢ではあるまいか。
彼女の指が、そっと彼の首筋を撫でた。
柔らかく、それでいて良い匂いがした。身震いを覚えて、彼はかすかに怯えた。
「貴方は」
彼女は言った。
「私の騎士に御成り為さい。その方が、きっと貴方の本当の望みが叶うはず」
彼は答えられず、誰かに救いを求めるように天を仰いだ。
蒼天は答えてはくれなかった。
今でもまだ、答えは出ていない。
その言葉は、彼女にとって気紛れが起こした、ただの遊びであったのだろうか。それとも彼女は本当に自分を選んでくれたのだろうか。
彼女の騎士になることを、彼は選んだわけではなかった。
だが、選ばなかったわけでもない。
答えを出さぬままに、彼は彼女を永遠に失った。
モルガン・ル・フェイ。
その名前を呼ぶとき、その名の刻まれた言葉を目にするとき、彼は今も心に負った深い傷口が開く気がする。
「いまだに、私を試し続けるのか」
言葉に出して、エイノールは夢を見ていたことに気付いた。
うたた寝をしていた。
エイノールは喉の渇きを覚え立ち上がった。銀の水差しとゴブレットが目に入った。水差しは新しいものだが、ゴブレットは彼が騎士であった頃からのものだ。
彼がこの城に始めて訪れた時、ウリエンス王はもはや老いていた。
あの頃の自分には、今の様な野心は無かった。
はじめて王を名乗った頃も、自分は正当な王位継承者が戻るまでの代行者に過ぎないと思っていた。
それが今は、王の中の王を描いている。
いや、これは野心ではない。
彼は首を振った。
ブリトンの地を守る為には、異国よりこの地を伺う外敵と戦うだけの力と、統率力が求められる。今、ゴドディンと呼ばれるブリトンの北四国においてそれが成しえるのは、このノヴァンタエ領をおいて他にはない。
だから自分は、その役を買って出たまでに過ぎないのだ。
それなのに。
「貴女は責めておられる」
彼の目に、モルガンの妖艶な眼差しが焼き付いていた。
「私には貴女の血が流れていないからなのか、それとも、私が貴女のものになる事を拒んだためなのか」
答えもせぬ肖像に呟いて、彼は水を飲み干した。
答えは無い。あろうはずがない。
もう随分探したのだ。その答えは。
ふと、琴の音が止んでいる事に、彼は気付いた。
タリエシンの琴の音が止むと、彼の心に残った罪悪感が蘇り、いつもの彼の自信を奪い去ってしまう。
今宵は長い夜になる。
彼は窓辺に歩んで、深い暗天を見上げた。
武器が無い事を、グリンガレットは呪った。
「ただの従者ではないと思っていたが、まさかドルイドの魔女とはな」
眼前に立ちはだかる男。オヴェウス・ゲオレイド・サバージュの声が、嘲笑の中に微かな驚きを含んで響いた。
この男、自分が女である事を見抜いていた。
グリンガレットは改めて対峙した狂相の男に、尋常ではない不快感と底知れない脅威を感じた。その上、彼女の周囲には、さらに幾人もの気配が広がっていた。相手は一人ではない。いつの間にか退路まで断たれている。
「このような所でお会いするとは、私に何か御用でもおありなのですか」
冷静を装って彼女は答えた。
「正直なところ」
と、オヴェウスは答えた。
「さほど、お前なんぞに用などはなかったのだ。しいて言えば、お互いに運が悪かった、という所だろうな。さしたる事も無かったが、・・・どうやら見逃せんようだ」
ぺろりと、オヴェウスは唇をなめた。
「お前、余計なことを嗅ぎまわっていたな」
声に凄みが増した。口ぶりは軽いが、その芯に遊びはない。冷たい汗が流れるのをグリンガレットは感じた。
「つまり。私が何を知ったか。・・・貴方には察しがついているのですね」
「つかんほど愚かではないぞ」
笑みともつかぬ表情を浮かべて、オヴェウスは言った。
グリンガレットは覚悟を決めるしかないと悟った。
オヴェウスはまだ剣を抜いていなかった。
空手で組みつこうと思っているのなら、まだ希望はある。殺気はさほど昂ってはいない。おそらくは自分を侮っており、容易く弄べるものと考えている。
グリンガレットは微かに後退り、間合いを確かめた。
僅かにかわした会話の合間に、彼女はオヴェウス以外の敵が何処にいるのか、また、どれほどの数がいるのかを探っていた。
武器さえあれば戦える。無ければ、奪うしかない。
オヴェウスが踏み出す瞬間を待って、彼女は後方に跳ねた。
「!」
体三つ分の距離を、視線は正面のオヴェウスに向けたまま飛んで、背が何かに触れた瞬間に身を回転させる。くぐもった男の悲鳴が腕の下で起こった。
瞬間的に男の腕を折っていた。
一度も後方を、いや、相手を視界に納めることさえせずに、グリンガレットは一人の敵を斃していた。一瞬のうちに短剣を奪い取り、悠然とその切先をオヴェウスに向ける。
「く、馬鹿が」
薄ら笑いが消え、いつもの野獣的な表情がオヴェウスの顔に浮かんだ。
グリンガレットは先手を取った、剣先を滑らせ相手の懐に向けて飛び込む。巨大な拳が微かにこめかみの上をかすめた。
横薙ぎに振るった剣は、敵を捉えなかった。オヴェウスは本能的に体躯を躍らせていた。グリンガレットの頭上を飛び越え、体が入れ替わる。とても人間とは思えない、まるで獣を思わせる動きだ。
キリアムと対峙した時とは違う。このオヴェウスという男は、馬や鎧に覆われた戦い方を得意としているわけではない。今の動きこそ本来のものだとするなら、やはり、真っ当な騎士ではないのだ。
グリンガレットの前に別の男が躍り出た。オヴェウスの仲間だろう。長剣を振り下ろしてくるが、これはまるでスローモーションのように見えた。
僅か二太刀で男の腕を切った。苦痛の声にも耳を傾けず、最強の敵に視線を戻す。その先でオヴェウスは剣を抜いていた。
圧倒的な威圧感が彼女を襲った。
カラドボルグか。
舌打ちをして、半身に剣を構えた。
カラドボルグは幅広の長剣だ。本来ならば両手剣なのだが、この男は軽々と片手で構えている。
想像以上に化物だ。
グリンガレットは喉の奥がひきつるのを感じた。かといって、このまま背を向けて逃れられる相手ではない。隙を見せればこちらの首が飛ぶ。それに、例え烏合の衆であろうとも相手には仲間が居る。
体力には限界があるし、もともと長期戦は得意ではない。ならば攻めるのみか。
再びグリンガレットは先に動いた。
リーチは相手にある。攻め込みつつも先に回避をしなければならない。幸い幾ら化物でも長剣の軌道は読める。問題は体が思考に追い付くか、それだけだ。
オヴェウスは袈裟切りに剣を走らせた。
斜めから抉るように襲い来る刀身を避けるには。
「ちっ!」
グリンガレットは最短の道を選んだ。体を相手の剣と平行に捻じり、紙一重にすり抜ける。右から左へ瞬間的に体を振って、低い体勢からオヴェウスの腕の中に入ると、オヴェウスの眼が一瞬大きく見開いた。
完全に懐を取った。グリンガレットは勝機を見た。
肉体を刃が貫く、嫌な感触が起こった。
剣が跳ね上がり、血潮が頬を濡らす。見開かれた両眼が彼女の視線と交錯した。
音が消えた。
苦痛に顔をゆがめ、両膝をついたのは彼女だった。
目の前で起こったことの全てが、理解できなかった。彼女の剣は間違いなく相手の胸元を裂いたはずだった。手ごたえも、血飛沫も見た。しかし、今彼女は力なくその場に崩れていた。胸元を引き裂かれた痛みと、同時に背を何者かに貫かれた痛み。おそらくは弓だ。この痛みは知っている。
微かに動く首を上げて、彼女は眼前の敵を見上げた。
オヴェウスは仁王立ちのまま、彼女を見下ろしていた。
血流が喉元を逆流する感覚。血を吐いたと思ったが、こみ上げたのは胃液だけだった。
オヴェウスを睨みつけたまま、彼女は前のめりに突っ伏した。
勝利者となった男が、表情に困惑と怯えを浮かべていることを、彼女の歪んだ視界は捉えることが出来なかった。
オヴェウスは自分に何が起きたかを、その瞬間理解することが出来なかった。
自分はこの小娘ともいえる女に、間合いを奪われ、切られた。同時に背中に鈍い衝撃を感じた。ゆっくりと腕をまわすと、一本の矢が、背から心臓に向けて深々と刺さっていた。
引き抜くと、痛みはなかった。かわりに、足元に転がる女が、呻き声をあげた。
オヴェウスは無性に怒りが沸き上がるのを覚え、振り向いた。
そこに女がいた。
背の高い痩身の女が、短剣を手に、彼に向かって走ってきた。オヴェウスは振り向きざまに腕を振るった。拳が女を捉え、その細躯を弾き飛ばした。
女の体は一瞬で宙に舞った。そのまま地面にたたきつけられる。信じられないというような顔で起き上がろうとする女に飛びかかり、抑え込んでオヴェウスはまた驚愕した。
「デリーンか? 生きてやがったのか」
女は、森の民のデリーンだった。その瞳に浮かび上がる憎悪の色を認めて、オヴェウスは狂ったような咆哮をあげ、その喉元に指をめり込ませた。
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