第18話 非情
十八 〈 非情 〉
地下牢を出て、三の城壁を最奥まで進んだ先は小さな郭状に区切られて、王殿とよばれるエイノール王の館が中心にある。
その左右に、尖塔があった。西側の塔はやや低く細い。このため、城門側から見ると東の塔に隠れてその存在が見えにくくなっていた。
竪琴の音は、その西の塔から響いている。
グリンガレットには、もはやその音がタリエシンの爪弾く者ではないと解っていた。この音には、何らかの魔法が秘められている。そうでなくては、これほどまで城全体へ響き渡るはずがない。
新たなる「牢獄」へ導かれる間も、彼女は城内をしっかりと観察していた。
数日前、時間を見つけては城内を探索していた甲斐があった。ここが何処なのか、ある程度は理解できている。
東の塔へ、ケルンナッハは二人を案内した。
ルウメを含めた数名の城兵が前後を固めていた。
この兵達は、連行される二人の女を何と思って見ているのだろう。それとなく窺ってみたが、表情からは読み取れない。ただ、身なりからすれば近衛隊に従じる兵士だと推測できた。
だとすれば、エイノール王か、サヌード卿かのどちらかが、ケルンナッハの背後には控えている。先日の様子からして、前者では無いとグリンガレットは踏んだ。
塔の内側は木の杭が螺旋状に差し込まれ、心もとない階段になっていた。
城兵を下に待機させ、先頭をケルンナッハ、しんがりを身の軽いルウメがついてきた。
最上段がわずかな踊り場になっていた。板をはめ込んだ扉には外側から鍵が掛けられており、そこに古いルグヴァリウムの紋章が刻まれていた。
ケルンナッハは鍵を開け、二人を仲に招き入れた。
ルウメを入り口に立たせ、見張りを命じる。
足を踏み入れたグリンガレットは、思った以上に小奇麗な部屋の様子に、ほんの少し安堵した。
決して広くはないが、想像していたよりは随分まともだ。ベッドに衣装棚、それに小さなテーブル。調度のあつらえも上品で嫌味が無い。ただし、鏡台だけは別だった。これだけが、随分と不相応な品物だ。あまりにも豪華で、場違いな程に目立っている。
窓は小さくて、かなり高い位置にあった。よく見れば壁に鎖の跡が残っている。それらは、この部屋が用いられてきた歴史と意味を語っていた。
位の高い捕虜を幽閉するために使われていたか、愛妾を囲うために使っていたのか。
いずれにしても、この部屋に住んだ者たちが、ここでの暮らしを望んで享受していたとは思えない。それに、芳香剤を焚いて誤魔化してはいるが、石の壁や床のいたるところに血の匂いが染みついている。
「姫には、ごゆるりとお過ごしいただきたく存じます」
恭しく、ケルンナッハが腰を折った。
なんとも白々しい態度だ。グリンガレットを見る彼の目には、紛れもなく狂気にも似た情動が見え隠れしている。
「間もなく、湯などお持ちさせましょう。衣装棚には、御身に相応しきドレスなども、ご用意しております。ご自由にお召しくださりませ。・・・ところで、今宵のお食事は、いかがされますかな」
「そのような事より、ケルンナッハ殿、このわけをお話しくださいませぬか」
グリンガレットが訊いた。
「わけと申しますと?」
「このような塔に、私達を連れてきた理由です。私はオークニー王キリアム卿の従者です。私は、かような接待よりも、我が殿の下に戻る事を望んでいます。我が殿も、私の身を案じ、探しておられるはず。この塔から出られぬのでは、まるで幽閉ではありませぬか。早々に、私達を解放していただきたい」
「それは、出来ませぬ」
思った通り、ケルンナッハは否定した。
「この塔にお連れしましたのは、姫の御身を思えばこその事。お隠しになられても私には、御身がいかなるご出自の御方であるか、もはや判っておるのです。貴女様は、あのような、偽りの王に仕える御方ではありませぬ」
「偽りの王・・・?。それは、あまりにも無礼ではありませぬか!」
「姫を従者として扱う事に比べれば、さほど無礼という程の事ではございますまい」
グリンガレットが見せた怒りの色を、全く気にする様子もなく、ケルンナッハは答えた。
「それよりも、姫は、少しお疲れの様ですな。良い葡萄酒がございます。先の王妃もご愛飲なされたものにございます。これも届けさせましょう」
グリンガレットは軽い苛立ちを覚えた。
やはり、話にならない。それどころか、以前にもまして、彼の狂気じみた思いが直接伝わってくる。
彼は先の王妃モルガンをグリンガレットに重ねている。
実のところ、グリンガレットには彼がそう思いこむ理由に、心当たりがあった。
しかしながら、その理由を知っているからこそ、彼女はケルンナッハの思いや言葉が、誤っている事も解っていた。
「貴方は、何をしたいのです、ケルンナッハ殿」
「私は、この城を正当な主のもとにお返ししたい、ただそれだけです」
「・・・貴方は見当違いをしています。おそらく信じる気もないのでしょうが。私は貴方の思うような者では無いのです」
通じない思いに、思わず拳を握りしめる。その手を、柔らかな温もりがそっと包んだ。
デリーンが側に立って、小さく首を振った。
これ以上の会話は無意味だと、森の民の純朴な瞳は言っていた。
彼女の凛とした表情を見て、グリンガレットは少し冷静さを取り戻した。
もう一度、デリーンとも話をしなければならない。この先どうするべきか、また、彼女をどうやってこの場から救い出すかを考えなければ。少なくとも、デリーンは自分のせいで、更なる面倒に巻き込まれただけなのだ。
「仕方ありませぬ」
グリンガレットはデリーンの手を握り返しながら言った。
「貴方の申し出を受け、今は少し休みましょう。・・・ケルンナッハ殿、食事と葡萄酒もお願いします。ただし、彼女の分と私の分とは、絶対に分けてはなりませぬ。食器も、飲み物も一つにして下さい」
彼女の分に毒を入れられてはたまりませんから・・・、という言葉を、グリンガレットは心の中に押しとどめた。
三の城壁を出た所で、ルウメは少し多めの銀貨を受け取った。
「この度は良い仕事であったなルウメよ」
革袋を懐にしまい込みながら、夕暮れの下に立つケルンナッハは、ルウメが知る普段の彼の様子に戻っていた。
先ほどまでのケルンナッハは、ルウメの目からみても、異常さを感じた。
入り口で待っている間、背後から聞こえたやり取りは、一言一句耳に残っている。
まるで噛み合っていなかった。どちらかと言えば、あの女性の方が当然の事を言っていた。ケルンナッハは、まるで人が変わったようだった。
二人の女の素性が何者かは、結局わからなかった。ケルンナッハが言う通り、「姫」と呼ばれるだけの存在なのだろうか。
ルウメは手のひらに収まった貨幣を見つめながら、どうしても釈然としない思いに囚われていた。
こんな気持ちになった事は滅多にない。いつもなら、後は飲んで面倒な事や嫌な事を全部酔いの中に抑え込んでしまえばそれで良かった。
だが。
・・・本当は、助けてやりたかったな。
柄にもない思いが、彼の胸中で棘を刺している。その思いは塔を背にして歩くほどに強まり、今や弾けそうなほどに膨らんでいた。
「あの、一つ良いですか、ケルンナッハ様」
意を決し、おそるおそる、ルウメは口を開いた。
「どうした、ルウメよ。まさかその額で不足と言うのではあるまいな」
「あ、いえ、そうじゃあないんで」
照れたように、頭を掻く。
「この金、半分返しますんで、ちょいとお願いを聞いてはもらえませんかね」
「ほう、お前が酒代以外に願いとな?」
「へえ、実は、さっきのお二人の世話、俺にも一つ、手伝わせて頂きたいので」
「お前にか?」
意外そうな顔で、ケルンナッハはルウメの視線に合わせるように腰をかがめた。
「いや、下心とかある訳じゃ無いんですがね。その、助けるとか言っちまった手前、このままじゃあ申し訳ないような気がしましてね」
「お前は十分よくやったではないか。少なくとも、オヴェウス卿から狼藉を受ける前に、姫を安全な所に匿えたであろう」
「そりゃ、そうでしょうが・・・。その、どうも自分に納得がいかないもんでさ。俺らしくないってえのも、良く分かっているんですがね。・・・まあ俺も身の軽さには自信がありますし、あの塔の階段を上り下りするのも、その辺の兵よりゃ、上手くやれますぜ」
ケルンナッハは思案顔になった。
考えてみれば、悪い話では無い。
二人の女の事を、あまり多くの兵に知られるよりは、事情を知った者に任せるのも一つの手だ。それに、ルウメは女に手を出すような性格でもなければ、かつては城の道化として三の城内にも自由に出入りしていた身でもある。ある時ふざけてエイノール王のゴブレットを壊し、怒りを買って一兵卒に成り下がった経緯はあるが、貴賓者への対応もそれなりには心得ているだろう。
「まあ、それ位の事であれば、良いであろう。・・・では、お前に頼むとしよう。一刻の後、厨房に来るがよい。・・・そうさな、これを渡しておく。決して無くすでないぞ」
ケルンナッハは懐から札を出してルウメに渡した。
三の城内へ入る為の通行札だ。
聖騎士や近衛兵など、王の居住地への立ち入りを許された一部の者のみが持つ札で、かつては自分も持っていた事がある。
「へへ、懐かしい。おっと、陛下にはお会いしないように努めますんで、ご心配なく」
「心配など、しておらぬよ」
「へ?」
「もう良いだろう。行くがよい」
ケルンナッハは腰を伸ばすと、くるりと背を向けた。
老いた割には背筋の伸びた後姿だ。見送りながら、ルウメは首を傾げた。
何だろう、ケルンナッハは何かを隠しているように見える。陛下の不興を買った自分に、こうも簡単に札を渡してくれたのは、有難いが不自然だ。そんな事はさせられないと大目玉を食らうのも覚悟したのに、やや拍子抜けだった。
さて、これからどうするか。一刻といえば、少しは時間に余裕がある。酒を買いに行くのもいいが。
彼の脳裏に、リネットの顔が浮かんだ。
何か分かったら教えて欲しいと言っていた。だが、今までの事をどれだけ話していいものだろうか。まあ、少し様子を見てからでも良いだろう。塔に閉じ込められた二人の女について、もっと調べてからでも遅くない。
ルウメはふと、掌の銀貨が減らなかった事に気付いた。
少しだけ得をした気分だ。だが、黒くくすんだ光が、妙に軽く感じられた。
呻きながらキリアムは目を覚ました。
朦朧とした意識の中、灰色の空が、夕闇と交じり合って細い光の筋を生んでいる。それは、自分の体が地面に倒れている事を意味していた。
すぐ側に、人の気配があった。
身を起こそうとしたが、上手く力が入らない。それだけではない。両腕を縛られている。そのせいで体が自由にならないのだ。
「やっと、目を覚ましたか」
聞き覚えのある声が耳に入った。
「立てよ。その位は出来んだろ」
オヴェウスの声だ。
キリアムは声のする方に、必死で顔を向けた。視界が狭い。おそらく瞼が腫れたのだ。あちこちが火膨れになったように熱く、痛む。
微かに残る力を振り絞り、肩で地面を押すように、少しずつ身を起こす。ようやく膝立ちの状態になると、オヴェウスの姿が見えた。
オヴェウスは木の切り株を椅子がわりにし、カラドボルグを鞘ぐるみ手にしたまま一人座していた。不敵な笑みを、勝者にのみ許された傲慢と尊厳を湛えた表情を浮かべ、キリアムを見下すように肩を張る。
オヴェウスの他に、気配はない。
彼も一隊として十数人の手勢を連れていた筈だ。しかし、どこかに控えさせているものか、この場にいるのは、どうやら彼一人だった。
「・・・私を、どうするつもりだ」
キリアムはかすれた声を振り絞った。口中に血の味が広がっている。それが喉の渇きを生んでいた。
「サヌード隊長殿の言いつけでね、貴様を城まで引き立てなければならんのだ。何せ王殺しの下手人だからな。他の奴には任せられんという話でよ。とんだ貧乏くじだぜ」
オヴェウスは、顎の下を無造作に掻きながら、つまらなさそうに答えた。
「オヴェウス卿、それは違う! 私は、陛下を手にかけてなどいない」
キリアムは思わず声を張り上げる。それに対し、オヴェウスは奇妙な程に平然とした様子で答えた。
「ああ、そうかもな」
「信じてくれるのか!?」
意外な答えだった。
一瞬キリアムは目の前のオヴェウスが別人のように思えた。
「王を殺す程の野心があるようには、見えねえからな。これでも、人を見る目くらいはあるのだぜ。だけどよ、そんなことは、正直俺にはどうでもいいのだ」
「・・・陛下の死を、どうでもいいと」
咄嗟に言葉を失った。オヴェウスは唇の端を歪めた。
「ああ、そうさ。それに隊長殿の言葉を守るつもりもない。貴様は城に届けるが、生かして届ける義理はない。そうだろう」
「私を、ここで斬るつもりか」
「ああ」
オヴェウスがこれみよがしに、カラドボルグの柄を握りしめた。しかし、剣を抜く様子はまだ見せていない。キリアムはオヴェウスの真意が読めず、訝し気に相手を見た。
そもそも、殺す気であったなら、彼が気を失っている間に、幾らでもその機会はあった筈だ。なぜ、わざわざ彼が目を覚ますまで待ったというのか。
その答えを、オヴェウスは自ら明かした。
「貴様には、幾つか聞きたいことがある」
「・・・」
キリアムは言葉を待った。
「貴様の従者。グリンガレットといったな。あの女の素性だ。あれは、一体何者だ」
「なに、グリンガレットだと」
まさかその名前をこの男の口から聞くとは。
キリアムの体を、一瞬で激しい血流が流れた。
今確かに、オヴェウスは「あの女」と言った。つまり、オヴェウスはグリンガレットが女であることを知っている。そして、おそらく彼女について、彼の知らない何かを知っている。その答えを、知りたいと同時に、激しい不安が胸を圧迫した。
「ああ、グリンガレットだ。従者とは名ばかり、本当は貴様の女だったようだな。しかし残念だが、あの女。もう二度と貴様の所には戻らんぜ」
「貴様っ、彼女をどうしたのだ!」
「血相が変わったな、キリアム」
オヴェウスが低く笑った。
「ふざけるな。グリンガレットを、まさか貴様が」
「ああ、要らん事に首を突っ込んできたからな。少々痛い目に合わせてやったさ。・・・そう怖い顔するなよ。安心しな。まだ殺しちゃいねえ。・・・その前に、確かめたいことがあったからな」
キリアムはほんの少しだけ安堵した。
彼女は生きている。もっとも、相手はオヴェウスだ、それもいつまで無事でいられるかの保証はない。それにしても、彼女ほどの腕の持ち主を捕えるとは、このオヴェウスという男、底が知れない。
「確かめたい事と言ったな。それは、何だ」
キリアムは訊いた。
「さっきも訊いただろう。あの魔女の正体だ。どこで出会った」
「魔女、何のことだ」
「ドルイドの魔術を使うだろう。偉大なる王が忌み嫌った、あの力をな」
「グリンガレットは我が従者だ、魔法など使うものか」
キリアムはオヴェウスが何を言い出すのか、理解が出来なかった。
「しらばっくれるなよ。あの女の力、あれは何だ?。あいつは俺に魔法をかけた。そうでなくては説明がつかぬ」
オヴェウスが身を乗り出した。語気が、いつも以上に荒くなっている。彼が感情的になり始めたのが分かった。
「魔法でなければ何だ? 呪いなのか?、ええ、俺をどうしたのだ!?」
彼の声は、段々と早口になっていた。額に浮かび上がる汗が、彼自身にすら抑えきれない焦燥を表していた。
「何が起きたのだ!? 俺と、あの女との間に、何が起きているのだ?」
「知らぬ。貴様は何を言っている。魔法だと、グリンガレットが? 私にはわからぬ」
キリアムの思考が、オヴェウスの言葉に追い付かない。彼は何の事を言っているのだ。彼女が魔法を使うなど、全く理解が出来ない。
「ふざけるな!」
突然オヴェウスが叫んだ。始めは狂気と見えていたその眼の奥に、紛れもない恐怖の色が張り付いているのをキリアムは見た。
「あの女のせいで、俺は何かがおかしいのだ。あの女の姿が、肉体が、眼に焼き付いて離れぬ。抱かずには居れぬほど、気が昂るというのに、俺は・・・」
あの女が怖ろしい、という言葉を、オヴェウスは必死に堪えた。口を抑え、体を前かがみに折って肩で息をする。激昂が体中を駆け抜け、その後に微かな震えが来た。
「お、オヴェウス卿?」
困惑するキリアムの表情を、オヴェウスはぎろりと見返した。その眼が徐々に色を取り戻し、本来の彼の表情に戻っていく。ようやく、何かに気付いたように、オヴェウスはぽつりと言葉を洩らした。
「まてよ、貴様、・・・キリアムよ、貴様は本当に知らんのか」
「・・・」
キリアムはきっと唇を引き結んだ。
悔しいが、オヴェウスの言う通りだ。彼は、グリンガレットの事を、ほとんど何も知らないままだった。
その姿を見て、オヴェウスが呆れたように息を吐いた。
かと思うと、今度は、さも苦しげに笑い始める。
「こいつは呆れた。本当に知らんとはな。正体も知らんで、あんな魔女を従者にしていたってのか。・・・キリアムよ、貴様はどうやら、とんだ道化だったみたいだな」
「く・・・」
キリアムは唇をかみしめた。
彼が見知った事を、自分は知らない。彼女の騎士であり、仮の主である筈の自分の方が、このオヴェウスよりも彼女の事を理解していないとでもいうのか
震える足に必死の力をこめ、ふらつきながらもキリアムは立ち上がった。せめて、この二本の足で立ち、少しでも虚勢を張らなければ、彼の中の自尊心が堪えきれない。
「笑うな!」
激しく、キリアムは叫んだ。
刹那、グリンガレットの姿が、脳裏に浮かび上がった。
美しく、気高き姫。
賢く、冷静で、どこか危うげで儚い。わずかな記憶に過ぎないというのに、そのすべてが愛おしく思い起こされ、彼の心を静かに満たす。
たったそれだけだ。
彼女の面影を思い浮かべるだけで、彼は自身の心が落ち着くのを感じた。
「確かに、私は・・・彼女の事を知らない。だが、それでも私は信じている。彼女は、魔女などではない」
自分自身の言葉を確かめるように、彼は言った。
「彼女は、我等と同じ、気高い騎士の心を持ったお方だ。私がそれと信じた姫なのだ」
その言葉を耳にして、オヴェウスは更に大声で笑った。
「従者どころか、姫ときたか。どうやら貴様もあの女に魔法をかけられているみたいだな。キリアムよ、お前がどう思おうと、あいつは魔女だ。それも、相当のな」
「彼女は私に言った。・・・だから、私は信じる。それだけだ」
そうだ、あの時グリンガレットは言った。自分を信じてくれと。自分の行いは、決して蒼天に恥じぬものだと。だとしたら、彼女が魔女かどうかなど、自分には関係がない。
「愚かだな。キリアム」
ひとしきり笑い終えると、おもむろにオヴェウスが立ち上がった。
「だが、何も知らんのなら、もはや貴様に価値はない。時間の無駄だったな」
ついに、彼は剣を抜いた。
カラドボルグの刀身が、妖艶にして残虐な輝きを湛え歓喜していた。血を吸う事を至上の喜びとする非情の魔剣が、新たなる犠牲者を前にして、声なき叫びをあげている。
キリアムは覚悟した。
無念だ。
グリンガレットの窮地を知ってなお、今の自分には戦うすべがない。この震える足で、縛られた両腕で、もはや抗うすべが残されてはいない。
オヴェウスが剣先をキリアムに向け、一歩、また一歩と迫った。
「せもてもの情けだ。一太刀で楽にしてやる」
彼の声には、もはやひとかけらの感情も残ってはいない。キリアムの首を目がけ、大剣が高々と掲げられた。
サヌードの一隊が城門を潜った頃には、城は完全な夕闇に包まれていた。
二の城壁内に入ったところで、宰相アブハスが血相を変えて走ってきた。
「サヌード卿、戻られましたか」
「これは、宰相殿。ダリウス卿は、無事到着しておりますか」
「半刻前ほどに」
「して、上手く隠せましたでしょうな」
「それは心配いりませぬ。ただ、王の姿が見えぬと騒がれぬよう、少々怪我をしたと話しております。しかしながら、今回の件は多くの騎士達が目にしておりますし、隠し通せてせいぜい数日でありましょうな」
「数日ですか。・・・まあ良いとしましょう。それでも多少は時間がありますからな」
「まさかあの男が刺客であったとは、このアブハスの目も節穴でありました。なんと悔やんでも悔やみきれませぬ。・・・ところで、奴の身柄の方は?」
「ご安心を。既に捕えました。オヴェウスの隊に護送を任せた故、もうじきに到着する事でしょう」
サヌードは馬を降りた。
素早くダンヴェイン卿に狩りの支度を手渡し、身軽になる。アブハスとともに三の城壁を目指し、歩きながら。
「宰相殿の責任ではありませぬ。巧妙な仕掛けだったのです。もしかすれば、手の込んだ罠であったのかもしれませぬ。手引きをした者も居るかもしれませんな」
「なんと、それは、真ですか」
「私には少し、気にかかることがあるのです」
サヌードはアブハスの表情を覗き見た。
アブハスは顔じゅうに汗をかいていた。おそらく、状況を理解するのが精一杯で、この冷静な近衛騎士長を心底頼みにしている様子に見えた。
「その件は、確証を掴み次第、報告いたします。私に一任して頂けますか」
「それは勿論。ぜひお願いしたい」
「承知しました。それでは、今後について確認を致しましょう」
サヌードは話題を変えた。
「早急に次の王を、選ばねばなりませぬ。遅くとも三日の後には、正騎士と貴族の代表による会議を執り行う必要があるでしょう。さもなくば、王の死のみが漏れ広がってしまいます。宰相殿、そのご準備は」
「進めては居りますが、より、急がねばなりませぬな」
アブハスは答えた。
この男は無害な男だが、内政において特別有能という訳では無い。ただ、人と人の間を取り持つのが上手い。その才だけで世を渡ってきた節がある。サヌードはアブハスが自身に寄せる信頼を、一つの頼みにしていた。
「候補者は居るのですか?」
訊くと、アブハスは指を折った。
「エイノール陛下には子が居らぬ故、以前より将来を案ずる者たちの中では、幾人か名が挙がっておりましたな」
「ほう、それは?」
「近縁者であれば、陛下にとっては従妹にあたる者の子でエルヴェグという男子が居ります。ただ、騎士の受勲も受けていなければ、年端も若い。正騎士や貴族の中には担ぎ出そうとする者がいるかもしれませんが、いかがなものでしょう」
サヌードもエルヴェグの名前は知っていた。吐き気がするようだった。血縁で王を選ぶ事自体は不自然ではない。だが、そもそもエイノール自身が、先王の血縁を受け継いではいないではないか。彼ですら代王と称していたにも関わらず、更に資質を持たぬ者を王に仕立てて、この国の行く末をどうするつもりなのだ。
「他には。血縁のみではなく、他に候補の名は」
「正騎士のダリウス卿や、ホーディン卿を押す声もありましたな。・・・あとは、ちらほらとラディナス卿の名も聞こえましたが、あの方はある意味、客将でもあるし、古参の者は同意せぬでしょうな」
ダリウス・・・あの老騎士は、王位には何の執着もないだろう。おそらく、その声があったとしても彼の性格では辞退するに違いない。ホーディン卿は、小物だが野心家とも聞いている。王の器には到底思えない男だが、家柄が良いせいか、貴族の間で人気がある。おだてられれば、その気になるかもしれない。
あとは、ラディナスか。
サヌードの心中に苦い思いが広がった。
その名前は捨てておけない。サヌード同様、決して古参の騎士では無いのにもかかわらず、僅かの期間円卓の騎士に名を連ねただけの事で、いとも容易く軍権を預かった男だ。
「あと一人」
アブハスが、ちらりと意味ありげな視線をおくった。
「貴公を推す声もありましたぞ。サヌード卿。近衛騎士の殆どと、若い者達の間では特に」
「ほう」
「その気は、ありますかな?」
サヌードは少し言葉を押しとどめた。
ここで頷いても、はたして思う通りになるものではない。それよりも、先に確かめておくことがある。
「私が思うに、王位を決めるはそれなりの証も必要ではありませぬか?」
「と、申されますと?」
「ホーディン卿にせよ、エルヴェグ殿にせよ、王位につくからには、他のゴドディン三国にしめしをつけねばなりませぬ。エイノール陛下もそれが故に悩んでおられたのではありませぬか」
「確かに」
アブハスは頷いた。
エイノールが妻をめとらなかった理由。それは、代王であった彼が、真なる王位の継承権を望んだからに他ならない。
それは、ウリエンス王、またはモルガン王妃、その血統に自らを連ねる事である。
王と王妃には、それぞれ幾人かの庶子がいたと噂されている。その多くは秘密裏に遠方の騎士や貴族に養子に出され、その存在そのものを隠されたという話は、このルグヴァリウムではよく耳にする噂話だ。
だが、エイノールはそれを信じていた。
信じるだけの行いを、彼ら王や王妃は重ねていたからだ。エイノールはその淫蕩な様を、この地で、ユーウェインの代理としての立場で、目にし続けてきたのだ。
エイノールは自身が代王の地位に就くと、アブハスをはじめ、幾人もの側近に、ウリエンス王、もしくはモルガン妃の庶子を、特に娘を捜索させ始めた。
彼らは、身分を隠されたはずである。しかしながら、それなりの騎士や貴族に託されたとすれば、存命である可能性も高い。もし、条件に見合う者が見つかったあかつきには、それを妻として迎え、自らの王位を確実なものにしたいと願っていた。
「皮肉なものです」
サヌードは呟くように言った。
「ようやくその者が、見つかったかもしれないというのに」
「・・・い、今なんと?」
アブハスは驚愕のあまり、足を止めてサヌードを振り返った。
「言葉の通りです」
サヌードはあくまで無表情のまま、狼狽するアブハスを見つめ返した。
「ルグヴァリウムの王家を継ぐ、血統に連なる娘を、見つけたとの報を聞いております。もしそれが正しければ、その娘に王となる意志がなくとも、その存在は無視できぬものとなりましょう」
「それは確かに。で、その者はいずこに」
「既にこの城にお連れしているようです。しかしながら、真偽のほどを確かめておらぬ故、三日の内にはご報告いたしましょう」
三の城壁の門が重厚な音を立てて開いた。中では幾人かの近衛騎士達があわただしく動いている。
サヌードは視線を回し、目当ての人物を探した。
男は、東の尖塔のたもとに立ってサヌードを見ていた。
「では宰相殿、一旦身支度を整えた後、再度お伺いします」
「お疲れでありましょうが、お頼みします」
アブハスは城の最奥にあたる、王殿へと歩み去った。後ろ姿をしばらく見送ってから、サヌードは少し足早に男の元へ向かった。
「城門で報告は聞いた。万事、上手くいったようだな」
「多少の手違いは御座いましたが。・・・確かに、間違いなく我らがお待ちしておりました姫でございます」
ケルンナッハは、満面の笑みを、この数十年一度も浮かべなかったほどの笑みを浮かべて、サヌードを迎えた。
うなじの後ろの紐が上手く結べずにいると、デリーンがそっと手を貸してくれた。
「すみません。私、不器用で」
言ったが、実は違っていた。
着替えをはじめてすぐ、強い頭痛に襲われた。後頭部を激しく打たれたような痛みだった。めまいがして、立っていられない程の衝撃だった。意識を失いそうになるのを、デリーンを不安がらせたくない一心で、何とか耐えた。
だが、デリーンは何かを察したようだった。
「任せなよ。痛むんだろ」
デリーンは先に着替えを済ませていた。
地下牢に居た時は、あまりの暗さに分からなかったが、二人の衣服はともに土まみれで、あちこちに破れがあった。ケルンナッハの言葉に従うようで癪ではあったが、湯で体を清めると、二人はめいめいに衣装棚をあさって、それぞれ身支度を整えていた。
デリーンは薄黄色のロングドレスを選んだ。派手さのない、腰の部分を帯で引き絞るだけの簡単なものだ。背の高い彼女にはよく似合う。本人はこのような服を着るのも生まれて初めてで、いかにも着心地が悪いように顔を顰めていた。
グリンガレットは青いドレスを選んだ。肩の所と首の後ろをそれぞれ結ぶ作りになっており、落ち着いた中にもエレガントさを感じさせる。結び終えると、デリーンは、グリンガレットの髪をそっとかきあげた。
「やっぱり、こぶになってるね。オヴェウスの野郎、乱暴にしやがって」
「触ればまだ痛いけど、大丈夫です」
柔らかく、艶のある濃いブロンドを指で梳く。思ったよりも長さを感じた。
「そういえば、あんたの事だけどさ、ちょっと聞いても良い?」
グリンガレットは少し怪訝そうな表情で振り向いた。
同性のデリーンさえ、息をのむような深い碧眼が彼女を見返していた。
「先ほど、ケルンナッハ様と話した事についてですか」
「まあ、それも気にはなるんだけど」
首を振って、ほんの少し声を潜める。
「それよりも、あんたの呪いの事さ」
デリーンはグリンガレットと並んで、ベッドの端に腰を下ろした。
「緑の革帯を身につけた奴は、不死の力を手に入れるんだよね」
「そうです。かわりに、革帯を持つ者が受けた傷や痛み、死の恐怖は私が支払います」
彼女はふと自分の胸に手を当てた。この間、オヴェウスを斬りつけた時の事を、思い出したようだった。デリーンはこの話を持ち掛けた事を、ほんの少し後悔した。だが、どうしても気になる事があった。意を決して、彼女は訪ねた。
「それじゃあさ、あんたが怪我をしたり、・・・例えばだけど、死んでしまったとしたら、革帯を持つ者はどうなるんだ?」
グリンガレットは一瞬目を丸くして、すぐにクスリと笑った。
「どうなると思います?」
少しだけ悪戯するような目でデリーンを見返し、首をかしげる。白く細いうなじが髪の隙間からのぞいた。折れそうなほど華奢にも見えるその首筋や肩に、彼女はどれ程の重荷を背負ってきたのだろう。
デリーンが答えられずにいると、彼女は指を組んで背筋を伸ばした。
「不公平ですよね。いつも、私ばっかり痛い思いをするの」
言って、にこりと微笑んだ。
「あ、やっぱりそうなんだ」
「死んだ事はありませんから、その時どうなるかはわかりませんけれど」
グリンガレットが髪をかきあげる。
前髪に隠れていたが、微かな傷痕がこめかみの横にあった。
「不思議な事に」
彼女は少し伏し目がちになった。
「残る傷と、消えてしまう傷があるんです。でも、だいたいは綺麗に治ります。多分私、普通の人よりは、ずっと怪我の治りも早いのだと思います」
「それって、やっぱり呪いのせい?」
「私、緑の革帯に生かされているって、話したのを覚えていますか」
「ああ、それもちょっと、引っかかっていたんだ」
デリーンはグリンガレットの横顔に、寂しげな翳が差し込んだのに気付いた。
「私、何歳くらいに見えますか」
突然聞かれて、デリーンは答えあぐねた。
見た目だけで言えば、自分よりもずっと若く見える。十七・八歳という所だろうか。でも、彼女の持つ雰囲気は、もう少し上にも思える。
「デリーンよりも。多分ずっと年上です。ふふ、驚きました?」
「まさか、冗談だよね」
「ううん、本当です」
わざと明るい口調で話す声に、寂しさの色が隠れていた。それが、彼女の言葉の真実味を伝えていた。
「革帯の力と共にある事を感じた日から、私は、年を取らなくなりました。私と革帯は、近くにあっても遠くにあっても、ずっとどこかでは繋がっているのです。革帯が持ち主を失い力を弱めた時は、私もまた永い眠りにつきました。あの、大樹の下で眠り続けるマーリン様のように。革帯が再び人の手に渡り、世に出ると、私もまた目を覚ましました」
「そんな不思議な事が、本当にあるなんて」
「そして、その度に私は革帯の側にある事を求めてしまうのです。私とこの革帯の力が、決してこの世にとって正しくないものだとは解っているのに。だから、私が革帯に生かされていると言ったのは、決してたとえ話ではないのです」
生命のみならず、運命までもが革帯と共にあるというのだろうか。だが、彼女はその宿命を断ち切りたいと思っている。
「革帯をこの世から消し去りたいって、確か言っていたよね」
「はい。心からそう思っています。不死の力など、この世には不要なものだと、今の私にはもうわかっていますから」
グリンガレットははっきりと答えた。その眼が、部屋に一つしかない小さな窓から、今は漆黒に染まった空を見つめる。
「私や、私のこの力を生み出したあの御方は、やはり間違っていたのです。恨みではこの世を正す事などできません。多くの騎士が道を誤ったのも、私たちが道を誤ったのも、何か大きな力のもとに正義があると思いこんでいたからなのです。そんな幻想に取りつかれて、私たちはこの国に長い苦しみを生んでしまった」
「それは、時代のせいだよ」
決して、グリンガレットのせいでは無いと、デリーンは言いたかった。
「偉大なる王も、騎士達だって、この国を良くする為に戦っていたんだろ。まあ、確かにそのせいで、あたし達の森が焼けたりもしたんだけどさ。でも、死んだ長老が言ってたよ、それでも何年かの間は、偉大なる王が、自分たちにも平穏を与えてくれたって」
グリンガレットは、全ての騎士の過ちを、代弁しているように見えた。呪いによって幾人もの運命を変えてしまった罪の意識が、その深い碧眼の眼差しの中に垣間見える。
彼女の話を信じるなら、グリンガレットは自分の数倍も辛い目にあってきた。それでも、彼女は今やるべき事に気付いているし、きっと、宿命に抗いながら、正しい事をしようとして生きている。
「呪いの力は、悪意をその淵に沈め、この国の至る所に、そのまま残されています。私にできる事など限られているのでしょう。だからこそ、私は少なくとも自身の呪いだけは断ち切りたい。この世から、消し去ってしまいたいのです」
グリンガレットの言葉に秘められた決意。そこにデリーンは気付いた。
彼女は革帯とともに生き、革帯によって生かされている。そうであるならば、革帯を消し去るという事は・・・。
生の繋がりが失われる、それはつまり。
「グリンガレット、もし本当に革帯を消し去ることが出来たなら」
デリーンは湧き上がる恐ろしい考えを払う事が出来なかった。
「あんたはどうなってしまうんだ。まさか、死んじゃったりしないよね」
問いに、グリンガレットは何も言わず微笑んだ。
寂しげで優しい微笑み。
その瞬間。デリーンは理解した。
同時に、やるせない思いがこみ上げて、抑えきれなくなる。
「そんなのって、あんた、何のために生きてんだよ」
一度溢れ出した涙は、止まらなかった。そんな様子を見て、グリンガレットはそっと肩を抱いた。
「嬉しいです。デリーン」
彼女は言った。
「私の為に泣いてくれた人は、はじめてです。だけど、それが私の宿命なのです」
まるで子供をあやす母親のような口調に聞こえた。その声に、また、何年も忘れていた妹の懐かしい声が重なっている。失うのは嫌だ。自分が愛おしく感じたものが、消え去っていく恐怖を味わうのは、もう沢山だ。彼女の運命だけが悲しくて泣いているのではない、彼女がその運命を受け入れている現実が許せなくて、涙が溢れるのだ。
「そんなに泣かないで。私にとっては、それ程辛い事ではないのですから」
グリンガレットはデリーンの髪を撫でた。
心の底から、彼女はこの森の民の女性を愛おしく感じた。デリーンの純朴な思いは、あまりにも自然にグリンガレットの心を溶かす。それだけに、彼女はデリーンをこのような状況に導いてしまった自分が恨めしかった。
「デリーン。蒼天にかけて、私は貴女を守ります。必ず、この城から救け出してみせます。ですから、もう、泣くのは止めてください」
デリーンはまだ肩を上下させていた。手で両目を拭うと、赤くなった目でグリンガレットを見返した。
「グリンガレット、それは違う」
デリーンは精一杯気を張った声で言った。
「あんたがあたしを救けるんじゃない。あたしがあんたをこの城から救け出してやる。キリアムだっけ、そいつの所にあんたを届けて、それから、・・・一緒にオヴェウスの奴を懲らしめる」
「え?」
「あたし、あんたの事、好きだ。だから、あんたを苦しめるその呪いって奴が、許せない。あんたの呪いはさ、あたしが解く方法を必ず見つけてやる。だから、あんたもそんなに辛そうな顔をするな」
無理に笑顔を作ろうとして、デリーンは口元を震わせた。グリンガレットは彼女の不器用な仕草に、言葉以上の信頼と愛情を感じずにはいられなかった。
軽い足音が、訪問者の存在を告げた。
感覚ですぐ、ルウメという小男のものだとわかった。
鍵を開け、平盆にのせた食事を運び入れると、ルウメは愛嬌のある顔に、それとわかる作り笑いを浮かべた。
「お嬢様方には、ご機嫌麗しゅう」
その姿を、じろりとデリーンが一瞥した。泣いてしまったせいか、眼の縁が赤い。
「別に、麗しくはないけどさ。ありがとう」
ドレスを身にまとった彼女は、想像以上に美しかった。ルウメは我知らず頬が赤くなるのを感じた。
「へへ、礼を言われる事では・・・」
言いながら、涙のあとに気付いた。
ルウメは二人のやり取りを見ていない。だからこそ、一気に罪悪感に包まれた。
やはり、このような塔に閉じ込められたのだ、ショックが大きいのだろうと思う。まして、自分が助けてやるなどと軽口を叩いたがために、余計に気落ちさせてしまったに違いない。
「いやその、今回は、俺、何も出来ないもんでさ」
思わず言い訳じみた事を呟きながら。
「料理も酒も、この城でも滅多にない程、良いものだから、・・・食べて、元気を出していただけりゃ」
小さなテーブルに一式を並べると、ペコリと頭を下げる。
グリンガレットはその様子をつぶさに観察していた。
彼は必要以上に、この状況に責任を感じているようだ。果たしてケルンナッハとはどの程度の間柄なのだろう。この部屋に立ち入ることを許されたという事は、彼の信頼を得ている存在なのだろうか。
おそらくは、信頼ではなく、むしろ軽んじられているからと、見た。
女二人を前に、邪な思いを抱く程の野心が無く、また、ケルンナッハや城の重鎮に逆らう程の勇気が無い。そう思われているからこそ、ケルンナッハは彼を起用したのだ。
彼からは酒の匂いがする。騎士や兵士たちにとって、彼の言葉には、きっと重みが無いのだろう。そういった所がむしろ、都合がいいのではないだろうか。
それと、彼の動作を見ている限り、機敏ではあるようだが、兵士らしく戦い方を身に着けているとは思えない。それは、ケルンナッハが自分たちを、か弱い、ただの娘だと思っていることを意味している。二人が、その辺の騎士以上に、剣や弓を扱う技量を持っているとは、気付いていない。だから、安易に彼のような小男を使いに立てているのだ。
ルウメの性根は、おそらく善人に思える。だとすれば、利用できると、彼女は思った。
「それでは、俺は外に居りますんで。食事が終わったら、二度ノックしてくだされば」
ぺこりと頭を下げて、彼は部屋を出た。
木の扉は厚みもあって頑丈そうだが、よく見れば板に隙間もある。
その気になれば、多少は中を覗いたり、聞き耳を立てれば話も聞こえてしまいそうだ。
彼がいる間は、余計な話をしない方が良い。
そう思いながらテーブルを見ると、早速デリーンが葡萄酒をゴブレットに注いでいた。
「先に私が」
言いかけるのを無視して、デリーンは口に含んだ。
「渋いな。古いものだろうね」
不安げなグリンガレットを見て。
「大丈夫、毒なんて入ってないさ。多少の毒なら匂いでわかる。こう見えても、森の民は鼻が利くんだ」
デリーンがにこりとした。
「まあ、ここは腹ごしらえといこうじゃないか、これからどうなるかも分からないけど、折角の御馳走だ。食べておかないと、いざという時に力が出ないしね」
デリーンは焼いた鶏肉に手を伸ばし、手際よく身をほぐす。脂がのって滴り落ちるのを一気に口に含んで、喉を鳴らした。
あまりにも美味しそうに食べる姿に、グリンガレットも空腹を思い出した。
はしたなく、腹の虫がなっている。
「そうですね、いただきましょう」
グリンガレットはデリーンの指から肉を受けとった。芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。唇に運びながら、彼女はまた自分の耳に、あの煩い程の琴の音が届かなくなった事に気付いた。
城門が騒がしくなった。
オヴェウスの一隊が帰着したと、報告があった。
サヌードは宰相アブハスと、王殿の広間に築かれた比較的新しい円卓の上に、地図を広げ、派兵の手配を話し合っていた。
タリエシンの琴の音は、いつも以上に響き続けている。
地図はゴドディン四国のものだった。
ノヴァンタエ領から最も近いのはダムノニ領だ。境界に兵を派遣する必要がある。そこが最も、情報が漏れるおそれが高く、サクソンの支配圏とも距離が近い。商人や旅人の往来を規制し、少しでも他国につけ入られる隙を無くさなければならないからだ。
「適任は、ラディナス卿ですかな」
アブハスの問いに、サヌードは首を横に振った。
「より信頼のできる者が良いでしょう」
「彼は軍権の一端を持つのです。それが、信頼出来ぬと?」
答えず、サヌードは眉を吊り上げた。
甲高い足音が近づいてきた。
「ファグネル卿か」
サヌードは腹心の近衛騎士の姿を見とめて声をかけた。
「只今、オヴェウス卿が戻りました」
「ああ、報告は届いている」
「それが」
ファグネルが顔をしかめて、何か言いあぐねる様子になった。
「どうかしたのか?」
「実は、キリアムを、・・・取り逃がした。との事で」
「何だと!」
思わず大声になった。
アブハスは、驚きのあまり、手に持っていた炭壺から数滴のインクを地図上にこぼしてしまっていた。
「取り逃がしたとは、どういう事だ。奴は虫の息同然だったではないか」
「訊ねましたが、多くを、語ろうとしませぬ。・・・あの通りの男ゆえ、誰も強くは聞けぬのです」
ファグネルが申し訳なさそうな顔で言い繕う。サヌードは拳を握りしめた。
「オヴェウス卿はどこだ。そのような失態を犯しながら、報告にも来ないのか」
「それが、悪びれる様子も一切なく。・・・その、行くところがあると申しまして。今、ダンヴェイン卿が諫めておりますが」
「行くところだと? この王殿以外に、何の用があるというのだ」
「それが、・・・どうにも解らぬのです。半ば理性を失っているようにも見えまして、何でも二の城内にある地下牢に向かっているのだとか」
「む。地下牢か」
サヌードは、ケルンナッハからの報告を思い返した。
例の女は、オヴェウスによって地下牢に捕らわれたところを、ケルンナッハが保護したと聞いていた。
サヌードの運命をも、左右するであろう女。それがまさかキリアムの従者としてこの城に忍び込んでいたとは、彼にとっても驚きだった。
その従者の姿は彼も何度か見ている。少年のようにしか思えなかったが、自分の目も随分と節穴のようだ。
しかし、それも仕方がない。あの女の面影を、サヌード自身も知らないのだから。
オヴェウスが理性を失ってまで、会いに行こうとする女か。
少し冷静になって、サヌードは思案した。
もしかすれば、これは却って好都合かもしれない。
「アブハス殿、やはり、私が睨んだ通りだったかもしれませぬ」
サヌードは宰相を振り向いて、言った。
「オヴェウス卿は、キリアムをわざと逃がしたのではありませんか。さもなければ、あの男が容易く取り逃がすとは思えない」
「それは、どういう事ですかな?」
「キリアムと、通じていた可能性があると思うのです」
「まさか、あのオヴェウス卿が?」
「彼自身の考えでは無いのかもしれませぬ。私が思うに、オヴェウスはそれほど策を弄するような男ではないでしょう。彼の後ろに、王殺しの黒幕が居るのかもしれません」
「では、それはまさか」
「オヴェウスの後見人は、ラディナス卿でしたな」
「・・・!?」
「二日前、ラディナス卿がキリアムを自宅に招いた事を、ご存じか」
アブハスの開いた口が塞がらない。ファグネル卿もまた、まさか、という顔でサヌードを見返した。サヌードは静かにうなずいて、ファグネルに向けて腕を伸ばした。
「卿よ、オヴェウスを地下牢に行かせよ。そこで、捕えるのだ」
「は、しかしどうやって」
ファグネルは自分の実力ではオヴェウスに勝てないことを知っていた。一気に不安げな顔になる。
「難しい事ではない。オヴェウスは勝手に牢に入る。あとは閉じ込めさえすればよい」
「成程、それならば」
ファグネルは頷くと、来た時と同様、早足で遠ざかっていった。
サヌードは再びアブハスに向き直った。
「宰相殿、まだ疑惑に過ぎませぬが、ラディナス卿をこのままにはしておけぬでしょう」
「うむ。そのような疑惑があるのでは・・・仕方ありませぬな・・・では」
「まずは登城を禁じ、自宅で謹慎を申し付ければ良いでしょう」
「そう、そうですな。それが良い。では、すぐに手を打ちましょう。誰か、・・・誰かダリウス卿を」
アブハスは声をあげ、古参の騎士の名を呼ぶ。
彼の太った体が広間を出ていくのを見送って。サヌードは静かに微笑んだ。
これで良い。キリアムを逃がしたのは残念だが、これで目の上の瘤であるラディナスを牽制できる。あとは、オヴェウスをどうするかだ。
あの凶暴な男を、そこまで虜にする女。これは、早急に会わなければならぬ。
今宵はもう遅い、明日の朝、その時までにもう少し準備を進めなければ。
タリエシンの琴の音が、耳に心地よい。
この音が響く限り、この城の中で、自分の言葉には真実の色が宿る。時は動き出した。ここからが正念場だ。自らの望みを確実なものにする為には、その女が要る。
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