第2話 黒騎士
二 〈 黒騎士 〉
サザン高地の外れに当たるこの森では、起伏の大きな山道と、無数に広がるトゥイード川の源流として、旅の難所としてもよく知られていた。高地を過ぎれば、平原に出る。そこでクライド川に交わり、東に向かえばノヴァンタエ領に、北に進めばいくつかの峡谷が待つ。
街道を守るのは、森の民と呼ばれる者たちの役目で、古き病んだ木々を刈り、森の命を常に甦らせながら、その恩恵ともに生きていた。
必要以上に森を傷めることなく、道を作り、川に橋をかけ、山の岩を削る。
だが、それらの民もまた、ゴドディンの地を吹き荒れた戦乱の火に追われた。この一帯も戦場になった事があったらしい。争いを好まない善良な者達の中には、森を捨てて逃れ、戦が終わった今でも森に戻らない者が多かった。
そのために、グリンガレットの旅は困難なものになっていた。
二日ほどは道を失って彷徨い、そのうちの一日は狼の遠吠えに常に悩まされた。
老馬は健脚であったものの、蔦や枝が覆いかぶさってくるので、グリンガレットも馬を降りて歩く時間の方が長かった。
正騎士ではない為、彼女のブーツは柔らかな革で出来ていた。
馬の鐙に擦れると、すぐに穴が開いてしまうので、いつも当て布をしてそこだけ厚くなっている。けっして見栄えは良くないのだが、これだけ長く歩くことになるのでは、それはそれで良かったと思えてくる。
3日目の昼過ぎになって、ようやく少し道幅が広くなった。そこで、グリンガレットは久しぶりに人に会った。 森の民の少年で、名はビオランといった。
年のころは十数歳か。もしかすればもっと幼いかもしれない。
ビオランは小鹿を抱えていた。
小鹿の親は、狼に襲われて殺された。
この小鹿も狼に襲われているところを、ビオランが救った。鹿はこの一帯では森の使いとされていて、鹿の住む森は生命の恵みに守られると、森の民の間では長く信じられてきた。
小鹿は腿を怪我して歩けなかった。
沢の水で傷を洗おうと連れてきたところで、グリンガレットに会った。
グリンガレットも喉が渇いていたので、少年に沢まで案内をしてもらい、お礼に小鹿の傷を診ることにした。
鞍のわきに下げた革袋から、小さな膏薬を取り出して傷に塗り、清潔な布を巻きつける。
「騎士様、いやお姫様は、お医者様なのか」
ビオランは感謝と尊敬の眼差しでグリンガレットを見つめて言った。
「騎士でも、医者でも、もちろんお姫様でもありませぬ」
くすりと笑って、グリンガレットは答えた。
「ただ、馬や獣の傷を診るのは得意なのです」
グリンガレットは慈しむように小鹿の首筋を撫でた。甘えるように小鹿が目を細め、小さく鳴いた。
「痛くはありませぬ。すぐに治ります」
「すごいな、あっという間に血も止まった」
「血が止まるのは、この子の生きる力が強いからです。私にできるのはこの傷がこれ以上悪くならないようにすることだけです」
「そんな事できるのは、森の中でも神木の長老様位なものだ」
ビオランは目を丸くしながら、じっとグリンガレットの白い指先を見つめた。ほっそりとした指は、もとはもっと華奢で美しかっただろう。今は長旅のせいか、よく見るとあちこちに赤切れがあり、人差し指には剣だこが出来ていた。
「俺らは、ビオラン。この森に住んでいる。姫様は?」
グリンガレットはかぶりを振った。
「姫ではありませぬ」
苦笑して答える。ビオランは構わず、彼女の顔をじっと見つめた。
「いいや、どう見てもお姫様だ」
「お言葉は嬉しいですが、違うのです。それよりもビオラン殿、私は恥ずかしながら、どうやら森に迷ってしまったようなのです。もしも宜しければ、ルグヴァリウム城の方角を教えてはもらえませぬか」
城の名を出したとたんに、ビオランの表情が曇った。
「姫様はあんなところに行くのか?」
「あんなところ、と、申しますと」
ビオランは鼻をすすって、
「俺ら達、森の民はあの城の連中は好かない。特に今の王様は」
「どうかなさったのですか」
「まあね」
ビオランの眼に悲しみと憎しみの混じった色が浮かんだ。
小鹿が小さく鳴いて、腕の中で身をよじる。
「昔の王様は、もっと違っていた。森の民だって尊敬をしていたし、森の民を傷つけるような事もしなかった。あの、戦の前まではだ」
偉大なる王を失った、あの大乱をさしているのだろう。
ルグヴァリウム城のノヴァンタエ領王。この王自身は円卓の騎士ではない。だが、王の縁者が円卓に坐していたことはグリンガレットも知っている。騎士ユーウェインは円卓の騎士の中でも最も清廉にして高潔な勇者の一人だった。
サー・ユーウェインは大乱の前に不幸な出来事が重なってこの世を去っていた。伝え聞くところによれば、その義弟にあたるのが、現在のノヴァンタエ領王である。正当な血筋に無い事から、自らは代王と名乗っている。
偉大なる王の招集に、ノヴァンタエ王もまた私兵を集め参陣を急いだ。しかし険路の先にある北方の小国からの出征は、時少し遅く、王は虚しく故郷に戻った。
「城に戻った王は変わってしまった。前は大切にしていた森を切り、岩を掘りだし、大きな炉を作って、昼夜問わず火をともし始めた。戦争は終わったはずなのに、また騎士を集め、町の人たちを塀の外に追い出し始めた。城の連中がなにかをする度に、苦しむのは力の無い民ばかりだ。姫様は・・・姫様も騎士になりたくて城に行くのか」
ビオランの眼に冷たい色が宿った。
「私は違います。騎士になるつもりはありませぬ。私がこの姿をしているのは、ただ、その方が安全だからです。それに、私が城に行くのは探し物があるからなのです」
「道は教えるけど、案内できるのは途中までだ」
ビオランは仕方なさそうに言った。
それでもいいと礼を言って、二人はそれから日暮れ近くまでともに歩いた。少し小高い、森を見下ろせるところまで来た。足を止めると、空の色と森の色が作り出す景観に目を奪われた。
遠くにかすむように、山々の影が見えた。その少し南には碧い輝きがある。
「あの辺りがルグヴァリウムだ。南がソルベイの内海、見える?」
ビオランが指差した。
「まだ、結構あるのですね」
「ここからは下りばかりだし、あとは平坦だから、姫様の足でも2・3日もあれば着く。川幅が大きくなってくるけど、橋があるから平気だ。あとは大丈夫かな」
「助かりました」
心からの微笑を浮かべて礼を言うグリンガレットに、ビオランは少し赤面した。
森の民は、町に住む民から、いつも白い目で見られてきた。いわれのない差別とは分かってはいても、それを変える術がないのも事実だった。だからこそ森の民は森に隠れて生きてきたのだ。
グリンガレットは、そういった町の民とは違う。
ビオランは不思議な親近感を彼女に感じた。
森に住む者だけが気付くことのできる同胞感といえばいいのだろうか。彼女が自ら言う通り、これは騎士のもつ雰囲気ではない。彼女は何らかの森の力を宿している。ビオランは本能的にそれを感じ取っていた。
ここでグリンガレットと離れることに、何とも言えない後ろめたさを覚えた。それでも、この先は彼の住む世界とは違っている。これ以上彼女についていく理由を探せなかった。
「姫様に、旅の幸運がありますように」
「ビオラン殿に、蒼天の恵みありますよう」
二人は互いに祈りの言葉を交わして別れた。後ろ姿を見送りながら、ビオランは心が少し沈んでいくのを覚えた。
そこからは彼が話した通り、長くゆるい下り坂が多く続いた。
一晩を岩場に野宿して、早朝とともに再び歩き出す。
昼過ぎには、道は少しずつ広くなり、木々の背丈が高く、深く暗い森へと景色が変わった。針葉樹の濃緑は日差しを遮り、丘の上から見下ろした時とはまるで違う顔を見せている。
遠くから、さざめく水の音が聞こえてきた。グリンガレットはビオランの言っていた川に出たのだと悟った。
木々が途切れ、森の中を分かつ水流のうねりは思ったよりも強く、グリンガレットは橋を探した。すこし下流に向かい歩くと、丸木を縄で三本結びつけただけの細く長い橋が見えた。
丸木の杭を何本も打ち込んだ土台の上に乗ったその橋は、少し川の水が溢れればすぐにでも流されそうなほど不安定に見えて、びっしりと着いた苔や蔦の様子からして、そうそう最近築かれたものではなさそうだった。
馬を引いて歩くにも怖いようだと思って足を乗せると、案の定滑りやすかった。
この川に落ちれば、帷子を着たグリンガレットなどは、すぐにも溺れてしまうだろう。それに、もともと泳ぎは得意な方ではない。
意を決し、橋を渡ろうとしたとき、橋の向こうで動くものがあった。
黒い甲冑が見えた。
全身を黒い鎧に包んだ騎士が、対岸のたもとに立っていた。
手には剣を携え、鷲の紋章を刻んだ盾を構えている。華美ではないが、遠目にもそれとわかる立派な装身具だ。しかしながら、そこに立つ意味を計り兼ねて、グリンガレットはかすかに身を固くした。
兜のせいで顔は見えない。
黒い騎士はゆっくりと橋の上に片足をのせると数歩進んだところで止まった。
何かを伺うようなしぐさに見える。おそらくあれ程の重装では、視界も限られているのだろう。本来ならば軍馬に馬上槍を持ち、騎馬戦を挑む際の鎧なのだ。
ゆっくりと剣を突き出し、黒騎士がその切っ先をグリンガレットに向けた。
「騎士とみた。いざ、勝負せよ」
くぐもった声だ。兜のせいか、相手の年も何もわからない。
「戦う理由はありませぬ。何ゆえか」
グリンガレットは聞いた。
突然、何を言い出すというのだろう。改めて相手を見たが、やはり身に覚えにない相手である。紋章にはどこかで見た記憶があるが、それも微かな記憶である。
騎士は丸木の橋に仁王立ちになっていた。
これではすり抜けるにも幅が無い、まして、これほどに足場の悪い橋では馬に乗ることも出来ない。やむなく、グリンガレットは単身相手に向かい立った。
「私はただ、この橋を渡りたいだけなのです。どうか道をおゆずりくださいませ」
しかし、黒騎士は頑として首を横に振った。
「ただ渡ることはならぬ。貴公も城を目指す騎士であろう。ならば、私と勝負せよ。勝てばこの橋を通るがよい」
「私は騎士ではありませぬ。それゆえ、戦えませぬ」
「もしどうしても戦わぬというのなら、その剣を代償にいただこう」
「何と申されますか。理不尽な。剣は渡せませぬ。勝負もいたしません」
あまりの要求に、グリンガレットは思わず柄頭を抑えた。
この剣は大切なものなのだ、そう簡単に渡せるようなものではない。
「臆病な。ならばこの橋を渡る資格はない」
黒い騎士はまた少し進み出た。
この騎士もまた、先日の三人のように山賊まがいに身を落としてしまった男なのだろうか。だとすれば、いまここでグリンガレットが逃げたとしても、次にここを通る誰かが、同じように戦いを挑まれるのだろう。
かといって、足場の悪いこの橋の上では、腕に覚えのあるグリンガレットも、多少不安を覚えてしまう。
「騎士よ、さあ、その剣を抜け」
再び黒騎士が吼えるように言った。
グリンガレットは良く相手を観察した。
鎧の立派さに比べて、相手の剣は安い数打ちに見えた。
どうにも違和感がある。
剣を持つその構えには、身についた技量の高さを滲ませているものの、やはりあの甲冑は不似合いだ。それに、相手の近くに馬がいる気配もない。馬を持たずに、馬上装に身を包む騎士など、今まで見たことも無い。
何か理由があるのか、それとも、黒騎士はただ己の正体を隠したいだけなのか。
「黒い騎士よ」
グリンガレットは叫んだ。
「黒い騎士よ、貴公も騎士とみえますに、かような真似をするは単なる物取りのすることにございませんか。その盾に刻みし紋は、名のあるお家のものでございましょう。されば、そなたの家名が汚れます。どうか、その剣を収めなさいませ」
その言葉に、黒騎士はわずかに動揺の色を見せたが、おおきく首を振って答えた。
「なんの、貴公に我が名を言われる筋合いはない。いまここで一時の恥を忍び、讐怨なき私闘に身をゆだねるのも、わが武の誉れを守るためなり。貴公のその剣、比類なき輝きと見える。いざすすみ出でよ」
これにはグリンガレットも少し驚いた。
まだ抜きもしない剣を、名剣と見抜いたのは、この騎士が初めてだ。かなりの強敵には違いないが、もしかすれば元はそれなりの人物であったのかもしれない。
「どうしても、引いてはいただけませんか」
「もはや、問答は無用。いざ」
「仕方有りませぬ」
グリンガレットはやむなく剣に手をかけた。
揚々と騎士は進み出た。足元を気にしつつ、グリンガレットも橋に歩を進める。
おお、と小さく騎士が呻いた。グリンガレットの剣に目を奪われたのである。
まさに名剣。偉大なる王のカリバーンも、かくのごとき輝きであっただろうか。
二人の剣が閃いた。
対極的な剣技の使い手だった。グリンガレットが剣のみならず盾も攻めの一部分として、体を素早く変えながら手数を繰り出すのに対して、守りを固め、攻めの隙を狙って鋭い一撃を見舞うのが黒い騎士の戦い方だった。
この剣技もまた、もとは馬上戦で身につけたものだろうと、グリンガレットは戦いながら推測した。馬を駆使した一撃必殺の間合いで戦っていれば、馬上戦を得意とするグリンガレットといえども、もっと苦戦することになったかもしれない。
どちらも譲らず、しばらく切り結んだ後、ほぼ同時に互いの盾が砕けた。
グリンガレットの盾は最初から壊れかけていたので仕方がないが、黒騎士の盾を真っ二つに切り裂いたのは、さすがに名剣の切れ味だ。
だが、こうなるとグリンガレットに分があった。
守りの手を失った黒騎士に対して一気呵成に剣を突き出す。相手の体制を手数で崩したところで、傷つけぬように剣の鍔(ガード)を跳ね上げた。手の中から離れた黒騎士の剣は回転しながら、はるか後方の橋に刺さった。
勝負があった。
そう思ったのは、グリンガレットの油断だった。
黒騎士は吼えるように叫びながら、グリンガレットに突進した。
体当たりを浴びて、グリンガレットは仰向けに転倒した。飛びかかってきた騎士に腕をひねり上げられ、あまりの痛みに剣が離れた。
大切な剣を落としたことに意識が散漫になった。
思わず剣の行方に視線を向けたところに、黒騎士が体重をかけ、利き腕を背に回されて抑えつけられる。馬乗りになった騎士はそのままグリンガレットの喉元に反対の手をかけて、橋に押し付けた。
グリンガレットは恐怖とともに、おのれの膂力の無さを呪った。
荒い息を吐きながら、黒騎士の眼が、兜の隙間からグリンガレットを見下ろしていた。
その眼が、一瞬見開いた。
「貴公は?」
手の力が緩む、と、その瞬間、大きな金属音が響いて黒騎士の体が後方へ揺らいだ。
石が飛んでいた。
拳ほどの石が、黒騎士の兜を弾いたのだ。
グリンガレットは訳もわからぬまま、隙をついて騎士の下を滑り出し、幸いにも橋の境に刺さっていた剣を掴んで岸へとのがれた。
そこで初めて、自分の窮地を救ったのが、森の民の少年ビオランであることを知った。
「卑劣な奴め、姫様に何をする」
ビオランは怒りに顔を赤くしながら、手当たり次第に、河原の石を掴んでいた。
「ま、待て、止めよ」
黒騎士がその場で両手を上げて声をあげる。その様子が先ほどの殺気だらけの騎士の姿とは変わってみえて、グリンガレットは不思議に思った。
「ビオラン殿、助かりました」
「姫様、無事でよかった」
ビオランがまだ手に石を握りしめたまま、上気した顔をグリンガレットに向けた。
「ありがとう、あなたが来てくれねば、危ういところでした」
心からそう言うと、ビオランは少し頬を赤らめて、強がるように鼻をすすった。
再び騎士に目を向けると、黒騎士は、まだ橋の上で、両膝をそこについたままうなだれているように見えた。
その肩が震えている。
勝負を邪魔されたことへの怒りかとも思ったが、違っていた。
黒騎士は剣を取ろうともせず、ただその場に座り込んでいる。勝負の間は失われていた感覚が蘇ってきたのか、川の流れる絶え間ない水流の音と葉擦れの音が戻ってきた。
木漏れ日が黒い甲冑の肌を斑に焼いて、水しぶきが光る雨のように川面に漂っていた。
「黒騎士どの」
声をかけると、騎士は兜を脱ぎ捨てて、両手を地に着けた。
思いのほか、ずっと若かった。
「旅の騎士よ」
黒騎士の乾いた石を打ちつけたような、かすれた声が耳に届いた。
これもまた、思いのほか若く、精悍な声だった。
「何も言わず。どうか、この私の首を刎ねてくだされ」
深いブラウンの瞳が震えていた。端正な頬に、黒灰色の髪が張り付いている。汗のせいもあるだろうが、癖の強いウェーブが、ともすれば甘さの残る相貌に野趣を添えていた。
「突然何を申されるのです。そのようなことは出来ませぬ」
グリンガレットは驚いて答えた。
「私は、過ちを犯してしまった。もはや、首を刎ねていただく他に償いようもありませぬ。せめて貴女の手で、お裁きくだされ」
「訳もわからず、人を切るなどできませぬ。貴公の過ちが何かは知りませぬが、今貴公の首を刎ねたとて、私にとっては、新たな罪を負うのみでございます」
呆れたように言って、グリンガレットはビオランと顔を見合わせた。
この萎れたように跪いた若者が、先ほど野獣のように襲い掛かってきた騎士かと思うと、まるで理解が出来なかった。ビオランもまた拍子が抜けたように、ぼさぼさの髪を指で掻いた。
「姫様、どうする」
「仔細がある様子、良ければ話を聞きましょう」
すると、黒騎士は顔を上げて、苦しげに眉根をひそめた。
「貴公が娘であったことにさえ気付かず、私は、蒼天に許されぬ蛮行に及んでしまった。騎士として、私は失格だ。・・・いや、騎士としてだけではない、人としても最低の行いを、私は自らの欲望に負け、犯してしまったのだ」
頭を抱え、沸き上がる感情を抑えきれぬように、自らの膝を何度も拳で打つ。
「本来であれば、気付くべきところだった。・・・にも関わらず、私の弱く醜い心が、全ての道理を捻じ曲げてしまったのだ。・・・剣欲しさの妄執に囚われ、私は邪悪の道にこの身を落としてしまった」
黒い騎士は、絞り出すような声で言った。
「私が女と知って、後悔をなさったのですか」
グリンガレットの声に、少し冷たさが混じっていた。
「目が覚めたと、言うべきか」
騎士が、拳を開き、その震える手を見つめた。
「相手が男であれ女であれ、人を襲って武器を奪おうなどと、・・・何故、私は考えてしまったのだ。私は・・・狂ってしまったのであろうか。・・・後悔などという言葉では、足りるものではない。・・・もはや、私に、生きる資格などあるものか」
その言葉は騎士の本心のようだった。グリンガレットは、その姿が哀れにも思えてきた。
「顔をお上げください。そのご様子では、大分後悔をなさっておいでです。自らの罪を認め悔いる者を、蒼天はお怒りにはなりませぬ」
「お言葉は有難い。しかし、もはや手遅れです。私は悪魔の所業に及んでしまった」
どこまでも頑なに、騎士はうつむいたままだった。
グリンガレットは目の前に膝をついた黒騎士に近づき、体を折って視線を近づけた。
震える髪の下に、長い睫が見える。微かに頬を濡らしているのは、汗ではない。
「悪魔の所業」と彼は言った。
しかし、この世で、人が生きていく限り、その行いを全て理想で片付ける事は出来ない。彼は過ちに気付き、心から後悔している。その姿を、誰が責めることが出来るだろうか。
善は、悪を知り、それを認める心をもって、はじめて善となる。
「蒼天がお許しになるとしても、貴方は自らをお許しにはなれないと、そう申すのですか」
グリンガレットは訊いた。
「私は、もはや私を許すことが出来ませぬ。どうか、私をお斬りください」
「そこまで言うのならば、仕方ありませぬ」
グリンガレットは剣を抜いた。
「姫さま!?」
驚いて、ビオランが声をあげた。
構わず剣先を首元に当てる。
騎士は「いざ」と、顔を上げた。
「では、・・・覚悟せよ」
刃が鋭い音をたてて走った。風が裂け、葉音が裂ける。
騎士は、彼女の剣が閃き、再び彼女の鞘に戻るのを見た。
剣は空を切っただけだった。茫然と、彼は目の前に立つ乙女を見上げた。
グリンガレットもまた、彼を見た。
自分を見つめる眼差しに懐かしい輝きの色を覚えて、グリンガレットは息をのんだ。
「貴女は、何故、お斬りにならぬのです」
問いに。
「その必要が無いからです」
と、彼女は答えた。
グリンガレットは、彼の手にそっと触れた。
「貴方の罪は、私が許しましょう。黒き騎士殿」
「貴女が、・・・私を?」
「左様です。私の許しでは、不服ですか」
「いえ、その様な事は。・・・しかし」
黒騎士は、改めてグリンガレットを見つめ、言葉を失った。その姿や、声に、彼女の魂の輝きが宿っている。神聖な程の美しさを湛え、彼女は微笑んでいた。
彼女が許すというのなら、それは、受け入れなくてはならない。
彼は、自らの心に、かすかな光が戻るのを感じた。
「もう、良いのです。お立ちください」
グリンガレットの言葉に、彼は素直に従った。
その両足で再び立ち上がり、右手を、自らの胸に添える。
「私はキリアム」
騎士の名乗りを、静かにグリンガレットは聞いた。
「キリアム・グレダヴ・コホと申します」
キリアムの声に、確かな強さが戻っていた。その声は、低く、それでいて優しく、優雅さを秘めていた。彼はまぎれもなく騎士だ。グリンガレットは、目の前に立つ若き黒騎士に、かつて栄光の中にあった、偉大なる騎士たちの面影を見た。
彼は続けた。
「我が父エトリムは、今は無きバースの地に領を持つ伯爵でございました。かつて円卓二十四騎士の一人、サー・ペレドゥル卿に従使し、偉大なる王に仕えた騎士でもあります」
グリンガレットは成程と、頷いた。
「その名は存じております。ペレドゥル卿とともに、石の蛇を打ち倒した勇者でありましょう。貴き身にありながら、自らより若く、領も小さきペレドゥル卿の才を見抜き、身分を捨て、進んで従事したとか。騎士の鏡のような御方でしたね」
「その父の名を汚す、不肖の子が私なのです」
キリアムは気恥ずかしさを隠すように、小さく頭を振った。
「父の名を知るからにはご存じかと思いますが、ペレドゥル卿が病に倒れた後、父はこの世から身を捨てました。私は若輩の身で領を受け継いだものの、南からの侵攻を防ぐことも出来ず、城を落とされ、臣を失い、今は我が身一つで、ルグヴァリウム城のノヴァンタエ王をたよりに参ったのです」
「左様でしたか、ご苦労を為さったのですね」
「いえ、私の苦労など、語る程の事ではありませぬ。しかし、私も騎士の端くれ、このまま国を奪われたままでは終われませぬ。・・・されば、ただ一人のブリトン人として、ノヴァンタエ王が、騎士を集うているとの噂をきき、かような未熟者なれども、何かしらの役に立てはしないだろうかと思ったのです」
「それは立派な志です。しかし、それが何故、あのような振る舞いを」
「剣が欲しかったのです」
キリアムは、その空になった手を見つめた。
「仮にも、私はバースにて正騎士の受勲を受けた身です。ルグヴァリウムに行けば、すぐに騎士として仕えられるものと思っておりました。しかしながら、いざ城についたところ、王に謁見するどころか、城内にすら入れぬという有様」
今度はグリンガレットが眉を顰める番だった。
ノヴァンタエ王が人を集めているという噂は知っていた。また、偉大なる王の意志を継ぐことを宣言し、近く軍を動かすという噂も耳にしていた。だからこそ、グリンガレットはこの城を目指したのである。
キリアムは続けて話し始めた。
「城に入る為には、二つの条件がありました。一つ目は、天下に比類なき宝か、名剣を持参すること。もう一つは、選ばれた城の騎士と腕試しをして勝つか、それと認められる腕前を披露することです」
「人を集うというには、なんとも不思議なお話ですね。かつて、偉大なる王はどのような騎士にも門戸を開き、その姿、心志を自らの眼で確かめておられました。それに引き換え、ノヴァンタエ王はどのような了見なのでしょう」
「わかりませぬ。ですが、私はせめて剣の腕をお見せできればと思い、騎士との勝負を願い出たのです」
「して、どうなりました」
「この姿を見れば、お分かりの筈です」
悔しげに拳を握る。その姿には怒りにも似た感情が伺い知れた。
「私の剣の腕が劣っていたとは思いませぬ。しかしながら、わずか二太刀切り結んだだけで、わが剣は二つに折れ、わが馬は相手の蹄に額を割られてしまいました。こうなると、もはや戦うことすら出来ませぬ。
騎士としてではなく、一介の兵卒として受け入れようなどと、嘲りにも近い言葉を受けましたが、私は恥を耐え、心に悪魔が宿るのを覚えながらも、城を後にして参ったのです」
全てを聞くと、彼女にもようやく納得がいった。そういった子細であれば、先ほどグリンガレットの剣を目にして、それを欲した彼の気持ちも理解できるというものだ。
それにしても、志のある騎士に対して、そのような無礼な振る舞いをするというのは、あまりにも騎士道にもとる行いである。
「貴女の姿を見て、その剣を目にした瞬間に、私は悪魔になりました。その剣があれば、先の城にとって返し、自分を侮蔑した城の者を見返せると思ったのです。しかし、私はやはり侮蔑されても仕方のない人間でした」
キリアムの話を聞きながら、騎士道とは無縁のビオランまでが悲しげな顔になった。グリンガレットの後ろに立って、言葉もなく両手を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
「剣が脆いせいで破れたなどと考えたのは、私の間違いでした。剣技の腕も、貴女には勝てなかった。私の剣をはじいた貴女の腕こそ本物だった」
「いえ、それは違います。あの勝負はキリアム様の勝ちです。私は剣を奪ったのみで勝利を確信してしまいました。油断したのです。貴方は最後まであきらめなかった。キリアム様に組み敷かれたとき、私はなすすべなく、死をも覚悟いたしました」
「貴女は女性だ。私の行いはただの蛮行でしかない。あなたの顔を見たとき、私はただ、女性に暴力を振るってしまっただけではなく、この行いが本当に罪深い事だったことに気付きました。私は騎士として、あまりにも未熟で愚かだ」
「許されることです。キリアム殿」
グリンガレットは、震える拳をそっと両手に包んだ。
「誰しも罪を犯すのです。私も、一つならず罪を背負っています。もはや貴方の罪は私が許したのです。もう、それでいいでしょう」
「その言葉。永遠に忘れませぬ。・・・なんとお呼びすればいい、騎士の姿をした姫よ」
「姫、ではありませぬ」
グリンガレットは笑った。背後で、ビオランが笑ったのが分かった。
その笑みが、キリアムの背中から、何かの影を洗い流していく。
「美しき姫だ。そう呼ばせていただきたい」
キリアムはグリンガレットの手を包み返し、膝をつくと、その甲にそっと口づけをした。
「あっ、姫様に」
ビオランが怒ったように叫んで、キリアムを引き離そうと睨みつけた。
「これは礼だ、小さき勇者」
「知るものか。俺らは騎士なんて嫌いだ」
膨れた様子のビオランに、グリンガレットは可笑しそうに微笑んだ。
「姫、許していただけるというならば、誠に勝手ながら、一つお願いがあります」
キリアムが言った。
「この上は、なんでございましょう」
「私に、姫の従者をさせてはくれませぬか。腕は未熟ながら、蒼天にかけて姫をお守りいたしたい。我が罪をお許しいただいた姫に、ご恩に報いたいのです」
「なんと、私は姫ではありませぬし、大の男が、私のような女の従者になるなど、聞いたことがございませぬ」
「それでもなお、私は姫の従者でありたいのです」
立ち上がり、真っ直ぐにグリンガレットを見つめるキリアムの瞳には、もはや先ほどまでの狂気の色は消え失せていた。
グリンガレットはしばらくその相貌に見とれた。
エトリムの子、キリアム。
かつての栄光。円卓の系譜にその名を連ねた男の後裔。そこに、不思議な縁を感じて、彼女は言葉を失った。
どれくらいの間、二人は見つめ合っていたのだろう。
「ああっ!」
ビオランの大きな声が、静寂を破った。
「こんな事をしている場合じゃないんだ。俺ら、姫様に大事なことをお伝えしようとして、追いかけてきたんだよ」
グリンガレットが我に返って、ビオランに視線を向ける。
ビオランは、その表情に焦りと不安の色を浮かべている。グリンガレットの脳裏に一抹の不安がよぎった。
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