第3話 ルグヴァリウム城

三 〈 ルグヴァリウム城 〉


 グリンガレットとビオラン、そしてキリアムは連れだって川を渡り、そこから半日ほど進んだところで日が落ちた。適当な場所を選び、野営となった。

 ビオランは森のいたるところを知っていた。どこで火を燃やせば安全で、どこの水が飲めるのかも、安全な食べ物もよく知っていた。

 その日の夜は、ビオランがスープを作った。

 キリアムが持っていた固いパンを砕いて浸し、熱いうちに口に放りこむ。薬草特有の苦みのある汁が滲み出て、噛むほどにうま味に変わった。

 「なかなか良い味だ」とキリアムは褒めたが、ビオランはグリンガレットの言葉を待っているようだった。

 グリンガレットは少し沈んだ顔で、ビオランの言葉を思い出していた。

 「森に、西の山に賽を築いている騎士たちが、入り込んできたんだ」

 と、ビオランは言った。

 「山賊まがいのことをしている連中さ。それがなんでも、仲間を傷つけた相手を探しているらしい。

騎士の身なりをした女の人だって言うから、俺らすぐに姫様の事だと思ってね。幸い、連中に道案内をするような森の民がいるとは思えないし、すぐに追いつかれることはないだろうけど、早めに森を抜けた方がいい」

 先の村で、打ち倒した連中の仲間だ。

 三人の騎士を返り討ちに倒して、情けをかけたのが、また仇になるのだろうか。

 終わりの無い騎士道の零落を感じて、グリンガレットの心は深く沈んだ。

 ビオランの、心配そうに自分を見る瞳が陰った。察して、グリンガレットは無理に笑みを浮かべた。

 「このスープは美味しいですね。いつも目にするあの草の根が、かように深い味をしているとは、私は初めて知りました」

 その言葉に、ようやく満足そうにビオランは頷いた。

 「実には毒があるから、食べると腹を傷めるんだ。根は安全だけど、やっぱりあまり食べすぎるのは良くない。少しなら薬だけどね」

 「薬はみなそうです。私が作る馬の軟膏も、量を守らないと毒に変わります」

 「ほう、姫は薬を作られるのですか」

 キリアムが口を挟んだ。

 「馬の薬です。路銀が必要な時には売りもします」

 「意外な特技をお持ちなのですね」

 「意外ですか? 私にも一つくらいは得意がございます。女の身で旅を生きるには、何か手に技を持たねばならぬものです」

 感心したように、キリアムは大げさにかぶりを振った。

 たき火がはぜる小さな音が、暗闇に沈む森に単調に響いた。

 食事が終わると、グリンガレットとビオランは薄い布に一緒にくるまった。キリアムは剣を傍らに置き、考え込むように揺らぐ火を見つめていた。

 少しして、ビオランの静かな寝息が聞こえてきた。

 キリアムはまだ眠っていないようだった。

 「緑の騎士、というお話を、キリアム殿はお聞きになった事はございますか」

 突然、グリンガレットが尋ねた。

 キリアムは微かに顔を上げ、横になったままのグリンガレットを見た。

 「円卓の騎士。荒ぶる平原の鷹との異名を取った、グァルヒメイン卿の物語ならば、父に聞きました。首を離されても死なぬ「緑の騎士」と対決し、その勇気ゆえに、勇者の証として緑の革帯を授かったというものでしょう。緑の騎士の正体はどこかの城王であったとも聞いています。父も真似をして、腰に緑の帯をしておりましたよ」

 「さすがに、ご存じですね」

 グリンガレットはビオランを起こさないように、そっと体を起こした。

 「円卓に近しい者が側に居れば、少なからず聞き及んだ話でしょう。しかしながら、それ以上の子細は知りませぬ。首を切り離されても死なぬとは、なんとも不思議な話だとは思ったものです」

 「魔法でございますよ」

 グリンガレットの声は、少し乾いているように聞こえた。たき火が弱まるのを感じて、新しい薪を数本束にして折り、炭の中へくべる。

「偉大なる王の御世は、良きにつけ悪しきにつけ、多くの魔法がブリトンの地を覆っておりました。今は、信仰も人心も荒んだゆえ、守るべき魔法の力は急速に失われ、忌まわしき力のみが、人や物、心に絡みついたまま、その歪んだ欲望を膨らませておりまする」

 「そうかもしれません。私はまだ、そのような奇跡を目にした事はありませんが。姫は、何かそういった事をお知りなのですね」

 「緑の騎士を、追っているのです」 

 グリンガレットの目が、一瞬冴えた輝きを宿した。

「正しくは、緑の騎士が残したものを」

 その声に、どこか冷たいものが潜んでいる。それは一種の闇に近い。輝きがあるからこそ浮かび上がる闇の気配。キリアムは気付いたが、知らぬ顔をした。

 「緑の騎士の残したもの。魔法の品でもあるのですか」

 「魔法の品、そう、そういう言い方もできるでしょうね。少なくとも、私にとってはさほど単純なことではないのですが」

 「ルグヴァリウム城に、それがあると」

 「わかりません。が、王の変貌のうわさを聞き、その可能性があると思いました」

 グリンガレットの表情から、先ほど感じた闇が薄れていくのを、キリアムは感じた。

「詳しい事はまだ話すことが出来ません。ただ、私は、それを追うさだめを背負っているのです」

 「話していただけるようになれば、あらためてお聞きいたしましょう。もし、私でよければ、ではありますが。・・・その時には、何かのお手伝いはできるかもしれません。今の私は、姫の従者と思っておりますから」

 困ったようにグリンガレットは肩をすくめた。

 「何度言えば、皆、わかっていただけるのでしょう。私は姫でもなければ、従者を持つような身でもありませんのに」

 「身分ではなく、私にはそう感じられるからこそ、姫と呼ぶのです。・・・きっとビオラン殿もそうなのでしょう」

 「こんな、男の身なりをした、みすぼらしい姫がおりますか」

 「それでも姫は、やはり姫にしか思えぬのです」

 キリアムは悪戯をする子供のように、口元に優しい微笑を湛えた。

 キリアムの言葉には嘘は無かった。

炎の明かりに浮かび上がる、グリンガレットの細く白い頬。

東洋の翡翠を思わせる、碧緑の瞳。ほんのりと膨らんだ唇と、整った鼻立ちは、見れば見るほどに内側から美しさが溢れてくる。

 なぜ、あの時はすぐに女性と見抜けなかったのか、今更ながらにキリアムは、自分自身が信じられない思いであった。

 少しの沈黙の後、グリンガレットは再びキリアムを見た。

 「キリアム殿、まことに私の従者になられるおつもりですか?」

 「蒼天にかけ、そのつもりです」

 キリアムは即答した。

 ブリトンの騎士にとって、蒼天への誓いは神聖な意味を持つ。グリンガレットは何かを決意したかのように頷いた。

 「そこまで仰せられるのなら、ともに参りましょう。しかしながら、一つだけ私にも条件を出させてくださいませ」

 「何なりと、姫」

 許しが出たのが嬉しく、キリアムは満面に笑みを浮かべた。が、グリンガレットが出した条件を聞いて、その表情はすぐに硬くなった。

 「さような条件では、その、話が違いまする」

 「話が違うと、では、先ほど私の従者になると誓いし言葉は、偽りなのですか」

 糾すような言い方だが、その声色は少し楽しげな色を浮かべていた。

 それとは逆に、キリアムは困惑の色を隠せなかった。

 「私が、姫様の従者になるのです。その条件が、私が姫を従者として扱う事・・・では、どちらが従者かわからぬでしょう。私は姫にお仕えしたいのです」

 「ですから私は、私の従者にお願いしているのです。キリアム殿は、私の従者になる代わりに、私を従者として扱うこと。それが私とともに旅をする条件でございます。もはや、姫と呼んではなりませぬ。敬語もなりませぬ」

 「なんと」

 言葉を失って、キリアムは天を仰いだ。

 星空が広がっているが、西の空には黒い雲の塊が張り出していた。

 「今後、私の事は、グリンガレット、とお呼びください」

 その言葉に、キリアムはさらに困った顔になった。

 「それではあまりに姫に対して無礼でしょう。グリンガレット(崖の小石、の意味。転じて馬の骨、つまらぬ者、の意味もある)などとは」

 「それが私の名なのです、我が殿」

 グリンガレットが微笑む。

 キリアムは少し胸が高まるのを感じた。それではいけないと思いながらも、そのように呼ばれたことが嬉しかった。本心ではないとはいえ、グリンガレットほどの美しい乙女に「殿」と呼ばれて、心が動かない男がいるであろうか。

 このようなやり取りを、明日、ビオランが聞いたらどんな顔をするだろう。

 「宜しいですね。では、私はもう寝ます」

 グリンガレットは、また、ゆっくりと横になった。

 キリアムはこれがただの冗談や遊びであるのか、それとももっと意味のあることなのだろうかと、その晩の間中眠れぬほどに頭を悩ませた。

 

 翌朝早く、3人は出立した。

 明けてみれば、グリンガレットは、何時もと変わらない様子で「キリアム殿」と呼び、キリアムもビオランも「姫」と呼んだ。

 昨夜のやり取りはやはり戯れであったかと、キリアムは少し安堵した思いで、馬の手綱をひいた。

 森がまばらになり少し開けてきたところで、ビオランが振り返り空を見上げた。

 一匹の猛禽類が円を描きながら、長い声を響かせていた。少なくともキリアムとグリンガレットにはただそれだけの事にしか見えなかった。

 「追ってきた連中は、峠を超えたみたいだね。思ったよりは早いけど、こっちも城まではもう少しだし、1日で追いつかれるような事はないと思う」

 ビオランが言った。

 「わかるのですか」

 グリンガレットは感心して目を丸くした。ビオランは天を指さした。

 「森の民の合図だ」

 「すごいものだな」

 「騎士様と違ってね」

皮肉めいた口調で、ビオランは得意げに腕を組んだ。

「俺ら達は仲間を大切にするのさ。いつも互いを案じているから、こうしていろいろな合図を送り合っているんだ。森の仲間にしか分からない方法でね」

 キリアムに対しては、随分と言葉が厳しくなる。騎士を嫌う何かがあったのだろうと、グリンガレットは思った。

 「我々も、仲間は大切にする」

 むっとしてキリアムが言った。

 「だけど、すぐに裏切って殺し合いをするだろ」

 「何?」

 ビオランの眼は挑発的だった。昨日からずっと、この少年はキリアムに対して敵愾心を隠そうとはしなかった。

 「仲間どころか、親とか兄弟とだってさ。何かといえば名誉だの、誇りやら家柄なんかを持ち出しては憎しみ合っているじゃないか。森の民はそんな事はしない」

 「我々が戦うのは、それだけの理由があるのだ。戦う事が使命であるのは確かだが、大義もなく争うものか」

 「どうせつまらない理由さ。女をとったとか、盗られたとかさ。偉大なる王様だって、結局は女の事で破滅したって聞いたよ。最後は息子と殺し合ったってね」

 「我らが王を馬鹿にするのか」

 キリアムが激怒して、剣に手を伸ばしかけた。ビオランがびくりと体を強張らせ、瞬間的にグリンガレットが体を入れた。

 「そうやって、すぐに力づくになるんだ。騎士ってやつは」

 「納めなさい。キリアム殿。あなたの剣は何のためにあるのですか。ビオラン殿も」

 グリンガレットの言葉はいつにもまして厳しかった。碧い目が射抜くように二人を見据え、その真剣な表情に、キリアムは冷静さを取り戻した。

 剣から手を離し、苦々しげに少年を向く。

 「我々が戦うのはブリトンの民を守るためだ。無論、そのために時には反目することもあるだろう。私はただ、サクソンやピクトの連中からこのゴドディンの地を守りたい、その思いで剣を磨いている」

 なぜか自分の言葉が空虚に聞こえた。それは、どこかに後ろめたさを覚えている証拠だと、彼は気付いていた。

 「嘘だ。騎士や貴族が今まで俺ら達を守ってくれた事なんか、一度だってなかった。連中が俺ら達にするのは、森の民や草原の民、海原の民が、命をかけて護り、大切に育てたいろんな物を奪っていくだけだ。城の連中が食べているパンも、肉も、本当は俺ら達が育てたものじゃないか。サクソンもブリトンも、俺ら達にとっては何の変わりもない」

 「それは」

 反論をしかけたキリアムを、グリンガレットが制止した。

 彼女は悲しげに振り向いて、ビオランの手を取った。

 「姫様」

 「貴方の言う通りです。ビオラン殿。騎士も貴族も、長い間ずっと、あなたたちを傷つけて苦しめてきました。ほんとうに、心苦しく思います」

 「姫様が、謝ることじゃ」

 「いいえ、私も貴方たちを苦しめてきた一人なのです。だから、どうか謝らせてください」

 「顔を上げてよ、姫様」

 グリンガレットはビオランを真直ぐに見つめた。

 「私たちも、偉大なる王ですら、道を誤りました。それは変えることのできない事実です。犯した罪も、また、許されるものではありません」

 罪?

 キリアムは彼女の言葉に違和感を覚えた。注意深く耳を傾ける。

 「私は今、その過ちの償いを、少しなりといえども、この手で果たしたいと思っています。だからこそ、あの城に行きたいのです。これ以上過ちや傷が、この地に広がらないように」

 ビオランは神妙な面持ちで言葉を聞いた。

 少しだけ、ばつの悪さを覚えながら、視線をそらし、わざとらしく鼻を鳴らす。

 「姫様が、何かをしようとしているのはわかる。でも、危なくはないのかい。俺ら、何だか嫌な予感がするんだ」

 「覚悟の上です」

 小さく頷いて、グリンガレットは傍らに立つキリアムを見上げた。

 彼は癖のある髪を無造作にかきあげて、整った顔に渋面を浮かべていたが、ちらりとビオランに視線を向けた。

 「まあ、その。私としても、森の民には敬意を表している」

 「あんたに言われるまでもないね」

 ビオランは、それでもなおキリアムを受け入れる気はなさそうだった。

 ただ、ここで言い合っていても仕方ないとは思ったのだろう。グリンガレットの手をひいたまま、再び歩きはじめる。

 やれやれと肩をすくめて、キリアムはその後を追った。


 景色が草原に変わり、森の音は風の音に変わった。

 森の民が案内できるのはここまでだ、と、ビオランは森のはずれで別れた。

 その時に小さな木の束をくれた。森の中で燃せば、合図になるらしい。森に戻った時には呼んでほしいと言い、「必ず」と、グリンガレットは答えた。


 草原の道をさらに半日ほど進むと、城が眼前に見えてきた。

 荒い石垣で出来た二重の城壁は高さもあり、陰鬱とした影を落としている。堀の両端には背の高い草が生え、あまり手入れをされた様子はない。城の周りにはいくつもの小屋や、粗末な家、家とは呼べない程の、布で日陰を作ったテントのようなものが、延々と広がっていた。そのいたるところから煙が立ち上り、蒼天はその煙で満たされたように灰色に変わっていた。

 「城にも入れず、行くあても無い民たちです」

 グリンガレットが表情を曇らせたのを見て、キリアムが説明した。

 「ひどいものですね。これで、食べるものはあるのですか」

 「満ち足りてはいないでしょう。城からの配給も僅かなようです。まだ海が近いゆえ、少しは魚が取れますが。傷ついた畑が元に戻るには、時間がまだかかりましょう」

 赤子の鳴き声や、呻くような老人の声が耳に張り付いてくる。

 臭いもまた酷い、煮炊きの匂いと、何かを燃す臭い、そこに糞尿や腐敗物の匂いが入り混じって蔓延している。往来を歩く人の数は少なくはないが、一様に疲れ切っているように見え、領王の城下には思えない荒廃ぶりに感じられた。

 「キリアム殿、近く日が暮れますが、宿は取れますでしょうか」

 「どこかを間借りいたす他ないかと。・・・このまま城へ向かうのでは?」

 「向かったとて、もう日暮れでは何もできますまい。それに私のような娘が尋ねていっても、そうそう王に謁見できるとは思えませぬ。家名を背負うキリアム殿ですら、試練を受けねばならなかったのですから」

 「面目ない」

 と、キリアムは悔しげに唇を結んだ。

 「私にも少し考えがあります。キリアム殿、宜しければ、少しあの辺りでお待ちいただけませぬか」

 グリンガレットは少し先にある井戸の横、細い木が四、五本ほど立った木陰を指した。少し喉を潤して、一息入れるには丁度よさそうな場所だった。

 旅の商人とも見える一団が先に休んではいたが、邪魔になる訳ではないだろう。

 「良いですが。姫は何を」

 「いろいろと支度もあるのです」

 グリンガレットは少し周りを見回すと、キリアムを残して、雑踏に姿を紛らせた。

 急に一人になり、キリアムは軽い戸惑いを覚えた。しかしながら、彼女がそう言う限り、信じて待つのも一つの選択だ。いずれにせよ、すぐに戻るだろうと、言われた場所で腰を下ろすことにした。

 しばらくは商人と話が出来た。

 王が武具やその資材を集めているらしく、それなりの物を運んできたが、思ったよりも値が張らないので、このまま北のヴォダテニ王の国へ向かう算段をしているという。

 言葉から察するに、スコットの民が多くなっていた。

異国の徒といえども、頼らなければ流通も確保できない。苦しい国の事情がその辺からも見て取れる。この状況が長引けば長引くほど、ブリトンの貨幣価値も下がり、諸外国に国力を吸い取られていくのは当然の流れだ。

 盾が欲しかったが、路銀も底をつき始めていた。

 キリアムは木の幹に背をもたれて、今後の事を思った。

 グリンガレットは、一体何を探して、何のためにこのような城を目指してきたのだろう。身なりといい、仕草や言葉、そしてあの目の覚める剣技の冴えといい、ただの娘ではないのは確かだ。

 姫、と呼んだのも、従者になりたいと告げたのも、単なる気の迷いではなかった。

 そう思わせる何かが、彼女にはある。

 橋の上で、初めて彼女の顔を間近に見たとき、キリアムは全身を雷が駆け抜けるような衝撃を受けた。それは、彼自身の罪悪と、自己嫌悪となってすぐに彼を打ちのめしたが、その内側でわずかな欲情が沸き上がったことも、今となれば否定は出来なかった。

 彼女を見た、というよりも、認識した瞬間に、彼女とともに居たいという欲求に逆らえなくなった。

 彼女が何者であれ、天使であれ、もしくは悪魔であれ、彼女を知ることによって避けられない魅力に引き込まれてしまうのは、もしかすれば彼女の言う魔法のような力があるのかもしれない。

 そんな馬鹿な。

 と、キリアムは独り首を横に振った。

 彼女が何者か、いずれ知るだろう。自分は彼女のそばに居たいという気持ちに、少し身を任せてみよう。それが、もしかしたら少しは自分への慰めになるかもしれない。

 顔を上げると、井戸の周囲にいた商人たちはどこかへと去っていた。

 果たして、グリンガレットはなかなか戻らなかった。

 だいぶ日が傾いて、いよいよ不安に思い始めたときである。

 「騎士殿。何かされましたか」

 と、声をかけられ、キリアムは声の主を探した。

 十六・七歳にも見える、可愛らしい少年がそこに立っていた。

 頭には羽根飾りのついた鳶色のブレトンベレーを目深にかぶり、灰白色のチュニックに同色のズボン、足元は皮を巻いた丈夫そうな旅用のサンダルを履いている。背には荷物を抱えていたが、商人ではなさそうだ。

 「人を待っているだけだ」

 キリアムはぶっきらぼうに答えて、相手が自分の待ち人ではなかった事が不満だったらしく、両腕を組んだ。

 「人を。それって、どんな方でした?」

 少年はなおも聞いて、キリアムの了承も得ずに隣に座った。

 「そなたには関係があるまい」

 疎ましく感じながら、キリアムは相手をもう一度だけ見た。

 少年は面白そうに笑っていた。

 その瞳を見て、キリアムは息が止まった。

「ひ、姫。その恰好は」

 「嫌です、姫、などと仰せられては。私の事は、グリンガレットとお呼びください。あなたの従者なのですよ」

 グリンガレットは少年の身なりのまま答えた。

 「これなら従者で通せそうですね。どうです、すこし細いかもしれませんが、男の子には見えますでしょう。いくらなんでも女の従者では奇妙ですから」

 「見えますが。鎧や武具はどうしたのです」

 「剣は持っていますよ。馬の鞍に結びつけています。帷子や兜。小手などは良き商人がいたので、売って参りました。旅をするには路銀も必要ですからね」

 「それはそうですが、大切なものでは」

 「私は騎士ではありませぬ故、さほどそうは思いませぬ。それに、帷子は身を守るための物ですが。・・・いまはあなたが居りますでしょう。いざという時にはお守りくださいますね?」

 決して甘えた言い方ではないのだが、キリアムは頼られたようで嬉しかった。

 「それはもちろん。・・・蒼天にかけて誓います」

 キリアムが答えると、グリンガレットは満足そうにその手をとった。無意識のうちに冷たいと思っていた手のひらの感触が、想像以上に温かく柔らかい。それに、小さく感じられた。

 キリアムは赤面したかもしれない。願わくはそれを相手に悟られたくはなかった。

 「今宵の、雨露をしのぐ場所も見つけてきました。それでは、参りましょう。我が殿」

 立ち上がり、馬の手綱を握る。

 グリンガレットは、少し楽しんでいるようにも見える。

気まずいような感覚を覚えながらも、キリアムは従った。

 何か考えがあるのは確かなのだ。それまではグリンガレットの行動に従うのが自分の役目だ。それに、戯れであっても悪い気はしない。

 二人は路地を抜けて、少し雑踏を離れた場所まで歩いた。

 グリンガレットが見つけたのは、半分屋根の崩れた、無人の小屋だった。

 中には古い農機具などが残っていたが、ほとんどは使い物にならなかった。手桶が数個転がって、ちょうどいい椅子がわりになっていた。

 小屋の外には、大小さまざまの石が並んでいた。半ば崩れたものが多く、だいぶ昔の墓石であることがわかった。

 「墓地とは、気味が悪くはありませんか。姫、いや、グリンガレット殿」

 「呼び捨てで結構です。我が殿」

 小さく起こした火で手のひらを温めながら、上目でグリンガレットは見た。

 「我が殿、と呼ばれるのも、あまり気乗りはしないのですが」

 「私には、もっとぞんざいな口の利き方でもよいのです。今のうちから慣れませぬと、肝心な時に、言葉を誤ってしまいますよ」

 「肝心の時とは」

 「王や、それに並ぶ方の前に立つときです。我が殿は、堂々となさって下さい」

 キリアムは少し首をひねった。

 「そのような時が来るのか」

 「そうならねばならないのです」

 「よくは分からないが。貴女は本当に不思議なお方だ」

 「言葉が違います。我が殿」

 グリンガレットはあきれたような顔をした。

 「そうだったな。・・・お前は本当に不思議な奴だ。グリンガレット」

 「実は私も、少しだけ変だとは思うのです。私の心が」

 「ただの遊びではないのだろう」

 「はい」

 頷いて、グリンガレットは壊れた屋根の隙間から空を見上げた。

 見慣れた星が一面に広がっていた。日中よりも空が近く見える。

「いずれ、全てお話しいたします」

 「そうあってほしい」

 「でも」

 グリンガレットは空に向けた瞳を、再び傍らの騎士へと向けた。一瞬空の漆黒を吸って、碧の瞳が深い闇を湛えた。

 「わたくしには、我が殿のほうがずっと不思議に思えます。何も知らない女の従者になりたいなどと、成り行きとはいえ解せませぬ。解せませぬが、殿には嘘が見えぬのです」

 「お前と同じで、私も不思議なのだ」

 キリアムは答えた。

 「そうせねばならないと、思った」

 「何故でございましょう」

 「運命であろうか。最初は罪滅ぼしとも思ったが、いや、どうも違う」

 「我が殿は、真っ直ぐなお方です」

 「ひめ・・・いや、お前に言われると、その」

 話しにくいのか、短く言葉を区切って、キリアムは白湯を飲んだ。嬉しいと、思ったが、良い言葉が浮かばなかった。そのせいか、僅かに気まずいような空気が残ってしまった。

グリンガレットは彼の言葉を待っているようにも見えたが、小さな炎の薄明かりの下では、その表情をはっきりと読み取ることは出来なかった。

 その後はあまり言葉も交わさず、程なく二人は横になった。

 少しの間、グリンガレットは寝つけなかった。

 急に恥ずかしくなった。キリアムとの会話を楽しんだことが、普段の自分とあまりにも違っていたと思った。

 他人のみならず、自分自身にすら見せたことの無い心の一部分を、思わずさらけ出してしまったような気がする。

 自分には目的がある。その為に、自分はこの騎士の従者を演じるのだ。

 ただそれだけだ、と、何度も念を押した。

 だが、隣に眠る男の荒い寝音が、どうしても気になって仕方なかった。


 真夜中。

 グリンガレットは、自分の体に何かがのしかかるのを感じた。

 重く、苦しく、グリンガレットの呼吸が押しつぶされる感覚だ。目を開けることも出来ず、声も出ない。指先が空を切り、足が痙攣を覚えた。

 何が起きているのか分からない。

 涙と汗が全身を冷たく濡らしていく。

 背筋が反り返り、唇が助けを求めてわなないた。この感覚は、どこかで憶えがあった。しかし、それがいつの記憶であったかは定かではない。

 何かを叫んだ。

 どんな言葉を発したのか、それすらも分からない。

 痛みと激しい叫びが起こった。

 グリンガレットは目を見開いた。

 キリアムがそこにいた。

 キリアムは剣を抜いて、傍らに跪き、左手にグリンガレットの上半身を抱いていた。

 「消え失せよ。亡霊ども」

 キリアムの大声が周囲に響いた。

 グリンガレットは、そのぼやけた視界の中に、無数の鬼火を見た。小屋をぐるりと取り囲む鬼火の群れの中には、騎士のようにも見える亡霊や、獣のような影も漂っていた。

 「消え失せよ!」

 再び叫んだキリアムが、十字に剣を切る。

 鬼火は右に左に揺れながら、ぽつり、ぽつりと消えていく。

 ようやくグリンガレットは、自分が亡霊の群れに襲われたことに気付いた。

 キリアムが助けてくれたのだ。もし彼がいなかったら、自分は目を開けることもなく、ともすれば、とり殺されていたかもしれない。

 「グリンガレット、無事か」

 キリアムの声に、グリンガレットは我に返った。

 「は、はい、すみませぬ」

 「礼はいい」

 キリアムはまだ周囲に気を巡らせていた。

 亡霊の群れは姿を消しつつあったが、まだ、周囲には悪意や憎悪のような不浄の物が漂っていた。

 その中に、ひときわ大きな鬼火が立った。

 年老いた騎士の姿をした鬼火だった。

 まるで、何かを言いたげに何度も揺らめいて、グリンガレットに手を伸ばしているようにも見えた。

 盾を持っている。天駆ける馬の紋だ。

 「気を付けてください」

 「大丈夫だ。あれは、無害に見える」

 キリアムの言う通りだった。

 無数の鬼火が、一つ一つ消えていく中で、老いた騎士だけがその輪郭を強めていた。

 何かを言いたげで、それがもどかしく見える。その腰に、剣が無いことにグリンガレットは気付いた。立派な盾と、鎧を身に着けながら、剣を持たない亡霊の騎士。

 「何かを伝えたいのでしょうか」

 「わからぬが、どうもそのように見える」

 「あ、消えまする」

 一瞬の静寂が辺りを包み込み、墓地はまもなくただの闇に戻った。

 何事も無かったように星が煌めき始め、虫の声が聞こえてくる。

 力が抜けたのか、グリンガレットの体重が急にキリアムの腕にかかった。片手に抱いた感触は思った以上に華奢で軽かった。それでも力を抜くと倒れてしまいそうだった。

 グリンガレットはまだ不安そうに、無言のまま虚空を見つめていた。

 「安息の地に辿り着けぬ者が多いのだろう。非業の死を遂げたのかもしれぬ」

 呟くように言いながら、キリアムは今眼前に起きた事を思い返していた。


 キリアムが亡霊に気付いたのは、グリンガレットが呻いたからだった。

 もともと、キリアムはグリンガレット以上に寝つけない夜を過ごしていた。騎士とはいえ、まだ青年である。若く美しい娘の側にいるだけで、どうしても異性を意識してしまうのも無理はない。

 その時だった、グリンガレットが苦しむような声をあげはじめた。

 最初はただの寝言かと思ったが、見れば、鬼火がグリンガレットを取り巻くように揺らいでいた。キリアムにはただの一つも寄らず、グリンガレットだけに集まっていく。

 私ではない。と、グリンガレットは叫んでいた。

 「私ではない。お前たちを、そのようにしたのは。呪う相手は」

グリンガレットは叫びながら、震えながら、泣いているように見えた。

 

 キリアムは、グリンガレットが少し落ち着いた様子なのを見て取った。

 「この地には、以前にも訪れた事あるのか」

「いえ、初めてです」

 「そうか」

 深くは聞かなかった。

 少しだけ、遠くの空が白んでいた。グリンガレットは無言のまま、少しだけ厳しい瞳で騎士の消えた方向を見つめ続けていた。

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