第9話 隠し部屋

九 〈 隠し部屋 〉


 塔は巧みに視界から隠されていた。

 中庭から中階の庭園に入り、左手の塔を回り込むように歩くと、背の高い木々の合間から僅かに奥にもう一つの塔が見えた。庭園の奥は内側の城壁に遮られ、完全に区画がわかれている。あの塔に近づくには、王の居舘を通り抜けるほかにはなさそうだ。城壁に上れないかとも思ったが、身の軽いグリンガレットでも、そう簡単には行けそうもない。

 木をつたっては上れないものかと思案して、そばに立つ落葉樹の枝に手を伸ばした時、乾いた皺だらけの表皮に古い傷が付いているのを見つけた。

 ナイフのようなもので抉った痕が、樹液のせいで黒ずんでいる。一見すれば無意味な傷にも見えるが、古いドルイドの呪法を験した印しだとわかった。

 何を意味する術かを読んで、グリンガレットは薄桃色の唇に微笑を浮かべた。

 他愛もない、恋占いだ。

 いつ、誰が刻んだものなのだろう。ドルイドの魔法に長けた人物といえば、この辺りではモルガン・ル・フェイの他には思いつかない。とはいえ、妖姫とまで呼ばれた彼女が、乙女じみた恋占いの魔法を使っていたなどという事があるだろうか。もしもそうであるならば、まるで笑い話だ。彼女の過去がどのようなものであったかなど、グリンガレットには知る由もなかったが、想像を巡らせると不思議とそのような気がしてきた。

 色が黒く変色したのは、恋が成就しなかった証拠だ。それを思えば、これを刻んだ人は、その後、どのような生き方をしたのだろう。

 何気なしにその傷跡を指でなぞっていると、突然人の気配がした。

 「そこで、何をしておいでかな?」

 振り向いた先に居たのは、昨日キリアムとグリンガレットを案内した召使の男だった。

 細い目を真っ直ぐに彼女に向け、手に小さな手桶を持っていた。ただの印象だろうか、昨日以上に年を老いているように見えた。

 「この庭園は、随分昔からあるようですね。木々を見ていたのです」

 我ながら白々しいと思いつつ、グリンガレットは答えた。

 召使の男は手桶の中の水を、柄杓で掬い取り、グリンガレットの手前に撒いた。

 彼女は水がかかりそうになって飛びのいたが、足元に白い花芽をつけた多年草があるのに気付いた。

 「それは王妃様が自らの手でお植えになられた花なのです。もっと北の地方では珍しくもない花なのですが、大層、大事になされておりました」

 「エイノール王の、奥方ですか」

 「いや、陛下はまだ妃をもたれてはおりませぬ。先の城主にして、二つ先の城主ウリエンス王の奥方、モルガン王妃の事です」

 グリンガレットは少し胸を突かれたような思いになって、膝を折った。

 「かように大切になさっておられる花を、もう少しで踏んでしまうところでした」

 「良いのです。以前はもっと見事に咲いておりましたのですが、この数年で大分失せてしまいました。こうして消えゆくのも、この花の宿命なのでしょう」

 召使は顔を上げて、かがんだグリンガレットの横顔を覗きこんだ。

 「わたくしはケルンナッハ。貴方は確か、オークニー王の御従者様でしたな、失礼ながらお名前は」

 「私はグリンガレットと申します」

 ケルンナッハは不思議そうに首を傾げた。

 「左様ですか、しかしながら、本名ではございますまい。素性をお隠しになられておいでですか?」

 ズバリと指摘されて、グリンガレットは少し動揺した。

 「いかにも真の名ではありませんが、今はグリンガレットこそ、私にふさわしい名なのです。特に素性を隠しているわけではありません」

 ケルンナッハの細い目が、全てを見通すように感じられた。自然に体が緊張を覚える。オヴェウスと対峙した時とはまた違う圧迫感があった。

 「いえ、隠しておいででございましょう。私は昨日、はじめてあなたにお会いした時から感じておりました。・・・この城に、ようやくお戻りになられたのですね」

 グリンガレットの眼が一瞬見開かれ、すぐに警戒感を露わにした。

 「仰せられる意味が、分かりかねます」

 「ご用心なされておいでですね。それも然りでございましょうが」

 グリンガレットは咄嗟に、この召使の男が危険かどうか、思案した。

 彼は間違いなくグリンガレットの事を見抜いている。おそらくは彼女が誰であるか、という事だけは推測しているに違いない。

 しかしながら、それを誰かに告げるような事を考えているのだろうか。もしそうなら、彼は自分にとって、危険な存在かもしれない。

 信用が出来るかどうか、そこが問題だ。ただ、彼はこの城の歴史を知る貴重な人物のようだ。そこには価値がある。上手くすれば、奥の塔へ行く方法も知っているのではないかと期待を持ったが、そう簡単に教えてくれるとも思えない。

 なおも無口でいると、ケルンナッハはグリンガレットに立つように促した。

 「ご案内したいところがございます。お越しいただけますか」

 悩んだが、彼女は頷いた。

 この城の事をもっと調べておきたい。この召使と一緒なら、それはそれで城内を堂々と歩けることになる。それに、彼が案内したいところ、というのも気になった。

 庭園の端にある物置小屋の横に小さな戸がある。その戸を潜ると、視界の悪い石壁の通路が続いて、途中何個かの横道があった。その幾つかは城壁の上に続いているようだ。三度ほど折れたところで階段があり、地下に下りた。

 この辺りから、通路は迷路のように思えてきた。もしここでケルンナッハとはぐれたなら、先ほどの場所に戻ることすら困難かもしれない。

 足元の埃が多く、湿ったようになる頃には、もう十数分は歩いているような感覚になった。おそらく、普段はあまり人が通らないところだ。もしかすれば、このケルンナッハ以外は立ち入らない場所かもしれない。

 ケルンナッハは松明を手に先を歩いていた。

 その足が、何もない一角でとまり、探るように右手の壁を押す。と、無機質な石壁に見えた場所に細い道が生まれた。

 「ここは?」

 思わず口に出して聞くと、ケルンナッハは静かな声で答えた。

 「この先は堀の近くまで繋がっております。かつてモルガン様が利用されておりました抜け穴でございます」

 「どうしてこのような所を、私に」

 答えず、ケルンナッハはその抜け穴を先に進んだ。

 10歩ほど進んだところで、左手に扉があった。何の変哲もない、木の扉に見えた。

 「お開け下さい。そして中へ」

 促されるまま、グリンガレットはその戸を押した。鍵も無く、簡単にその扉は開いた。

 彼女は絶句した。

 豪奢とでもいうべき部屋がそこにあった。

 金銀に彩られた調度品や、天蓋付きの寝台。目にしたことが無い程に継ぎ目のない織物や白磁の陶器。中でも見事なのは彼女の全身を映し出すほどに大きな姿見のついた鏡台だった。

 中に足を踏み入れ、彼女はすぐにその部屋が誰の、何の為の部屋かを理解した。

 周囲をゆっくりと見回し、鏡台の上に目を止める。

 小さな銀色の指輪がそこにあった。

 ケルンナッハは、まるで恐れ多いとでも言う様に、部屋の外で微かに頭を垂れていた。

 「その指輪をお取りください。それは、あなたが持つにふさわしい物です」

 グリンガレットは少しためらった後、その指輪に触れた。

 微かな魔力を感じた。同時に、宿命がこの指輪を通して、彼女の身に何かを語りかけるのを感じた。

 「これは、モルガン妃の紋章ですね」

 指輪の横に印があった。幾何学的な星が描かれ、かすかに光っていた。

 「王妃は、お可哀想な方でございました」

 ケルンナッハはぽつりと呟いた。グリンガレットに対して話した言葉ではなかった。遠い思い出と語り合っているようにも見える。時折グリンガレットに向ける視線が、彼女の肉体を通り越した向こうを見ていた。

 「モルガン王妃様の私物が残っておりますのは、もはやこの一室のみとなりました。あとは全て、エイノール陛下によって打ち捨てられてしまいました」

 「それは何ゆえにございます? エイノール陛下は王妃に恨みでもおありでしたか」

 「恨みというよりは、そう、自らを卑下されておるのです」

 グリンガレットは指輪を手にした。自然と指に嵌める。まるで始めからそこに収まっていたかのように、指輪は彼女の物になった。

 「エイノール陛下は、この城を、この国を得た事に怯えているのです。自らにその器が無いとお思いなのです。そしてそれを、誰かに言い当てられるのが怖いのです。正当な継承の血にはない事を思い知らされる事が」

 ケルンナッハの声には、主君を敬う響きはなかった。むしろ、自分の言葉が、さも真実の全てであるという不思議な自信すら感じさせた。憤りや憎しみ、無念さ。そういった負の感情がケルンナッハの奥底から沸き上がっている。グリンガレットは彼と話すことが、どうにも不快なものに感じられてきて仕方なかった。

 「貴方はまだ、モルガン様にお仕えしておるのですね」

 それでも彼女は彼に話しかけた。

 「私はこの城と、その正当な継承者にのみお仕えしているのです」

 ケルンナッハは一歩として室内に足を踏み入れなかった。

 その事も、彼がいかにこの部屋の住人に敬虔な思いを寄せているかが伺える。

 室内を改めて見回して、グリンガレットは気付いた。

 モルガン妃の物は残っているが、この部屋にウリエンス王の気配が一つもない。この隠された作りからして、この部屋は王妃にとってのみの特別な場所だ。

 鏡に映った自分が、怪しげな瞳を返していた。

 グリンガレットは背筋が凍った。

 そこに居たのは、グリンガレットであって、彼女自身ではなかった。

 男装をしている筈なのに、その姿からは匂うような女の色気が滲みだしている。その眼は男を籠絡する妖しさを湛え、濡れた唇や、朱の差した頬には、まるで娼婦の様な煽情が浮かんでいる。

 これが本当で自分であるというなら、なんと淫らな顔をしているのだ。

 先ほど、オヴェウスが卑猥な言葉で彼女を罵ったのも無理はない、あれは自分のもつ妖気がそうさせたのかもしれない。

 思わず目を覆い、再び鏡を見た。

 いつものグリンガレットが映っていた。今の姿や表情は、幻でもあったのだろうか。いつものように思慮深く、感情を抑えた碧玉の眼と、仄かに白い相貌。

 これが自分の顔だという安心感とを覚えつつ、そうではないと心のどこかが告げていた。

 あれが本当の私かもしれない。

 鏡は自分の本性を、垣間見せたのだ。

 指輪を目にし、それを無意識に嵌めていた自分に、改めて驚愕した。

 グリンガレットはケルンナッハを見た。

 「貴方は何故、私をこのような所に連れてきたのです」

 詰め寄るような言い方になっていた。まるで、自分の従者にかけるような言い方だ。

 「それは、御身の方が、よくお分かりなのではありませぬか」

 「私には、わかりませぬ」

 ケルンナッハがようやく顔をあげた。その表情には、うっすらと笑みが浮かんでいた。ようやく自分が求めていた者に出会えた。それを喜ぶ笑みだ。そこに病的なまでの執着を感じて、グリンガレットは心の奥が冷えるのを覚えた。

 「これまで誰も開けることのできなかった扉を、御身はお開きになりました。そして、今も、当然のように指輪を手にしておられます。私は御身をお待ちしていたのです。貴女様がお帰りになる、まさにこの時を」

 ケルンナッハは膝をついて、歓喜の涙を流し始めた。

 その姿があまりにも奇怪に見えて、グリンガレットは言葉を失った。

 

 ケルンナッハの本心は読み取れなかったが、彼がグリンガレットにかつての主人を重ねているのは間違いなく、その事を幾ら否定しても、彼は素直にそれと認めなかった。

 押し問答になりそうなると、彼女は諦めて会話をやめた。

 程なく部屋の物色を終え、彼女はキリアムを探した。

 中庭には居なくなっていた。

 老馬は厩に戻っていた。グリンガレットの顔を認めて、嬉しそうに鼻を鳴らした。

 彼女は老馬の首を優しく何度かさすり、干し草が美味しくなるまじないの言葉をかける。他愛もない悪戯だが、それを待っていたかのように馬は干し草を食み始めた。

 グリンガレットは動物が好きだ。人間のように裏表がない。愛して接すれば愛してくれるし、少しでも邪心を持てばすぐに気付いて逃げる。

 清濁をあわせ飲むのも、人間の悪いくせだ。もっと単純な生き方が出来れば、もう少しこの世は良くなるのではないだろうか。

 ぼんやりと考えながら、再び彼女は城内を歩いた。

 夕暮れが近づいていた。

 二の城壁の跳ね橋から、重たげな音が聞こえてくる。夜間は町と城内との往来が出来なくなるのだ。階段を見つけ城壁に上ったところで、不機嫌そうな衛兵に阻まれた。

 少し景色を見たかったと言い訳をして、その場所から街を見ることを許された。

 海の方から夕陽が差したせいで、城の影が街の上に覆いかぶさっていた。

 広く、立派な街だ。歴史もあり、良く区画もわかれている。だがその町の外には、テントや半壊した小屋が並ぶスラムが延々と広がっている。その下に渦巻く人々の思いを、この城の住人は理解しているのだろうか。

 この街は、今、生きるか死ぬかの瀬戸際にある。

 それを決めるのは、おそらくは為政者の判断と決断だ。しかし、本当に国を作るのは、最も低い位置でそれを支える沢山の人々だ。一部の裕福な者が国を支えているなどという、都合のいい幻想に囚われて、事実を正しく認めなければ、同じ過ちが何度も繰り返されていく事になる。

 エイノール王は、これから先、何を選択するつもりなのだろうか。それによっては、彼女にはまた一つ為すべきことが増えるかもしれない。

 兵に礼を言って、グリンガレットは城壁を降りた。

 この時分なら、キリアムはもう部屋に戻っているか。

 途中ラディナスを見かけた。彼が明日の昼にキリアムを誘ったという事は、彼が今日の城詰なのだ。彼は規則に厳しいには違いないが、多少遅くまで城内を歩き回ったとしても、少しくらいの温情はかけてくれるだろう。

 かといって、わかっていながら彼に迷惑をかけるのも、あまり気は進まなかった。

 ケルンナッハに案内された通路への入り口などを再度確認してから、グリンガレットはキリアムの部屋に戻った。

 キリアムは心配そうに待っていた。グリンガレットが扉を開けた時の、彼の安堵した表情は彼女をほっとさせた。

 「すみません、遅くなりました」

 グリンガレットの声を聞いて、彼は自分の気持ちの緩みに気付いたのか、すぐに口元を引き締めた。

 「心配してはいないが、あまり遅くまで城を歩くのは感心できぬな」

 軽い咳払いをして、ちらりと彼女を見る。

 この分だと、大分彼女の帰りを待って、心穏やかではなかったのに違いない。安心した直後の憤りを繕ったような態度は、その内心をすぐに見通させてくれて、彼女はむしろ、そういった言葉や接し方をする彼を好ましく感じた。

 「殿を探しておりましたら、すれ違いになったのです」

 「私を?」

 「ラディナス殿を見かけたものですから、まだ広場においでかと思いました」

 少しだけ嘘が混じったが、全てではない。

 扉を閉め、数歩足を踏み入れたところで、グリンガレットは室内の様子が変わっているのに気付いた。

 ベッドが二つになっている。それと、テーブルにはワインと、なかなか立派な夕食が用意されていた。

 尋ねようとする先にキリアムが口を開いた。

 「昨日の召使の男が、先ほど用意していったのだ。なかなかに気が利いている。エイノール陛下も、思ったよりも我々を歓迎してくれているのではないか。それとも、ラディナス殿が心づけをしてくれたのかな」

 楽天的な言葉に聞こえた。ケルンナッハの仕業だとすれば、これは彼の独断だろう。

 先ほどのグリンガレットに対する彼の態度を見れば、このくらいの事は当然にさえ思えてくる。

 「これは、エイノール陛下ではありませぬ。あのお方の知らぬところです。我が殿、どうかこの事で、感謝の言葉などは申されぬようお気をつけなさいませ」

 グリンガレットの声にただならぬ様子を見取って、キリアムの表情が険しくなった。

 「どういう事だ。何か事情を知っているのか」

 「ケルンナッハ殿。・・・あの召使の方です。あの方は何かを勘違いしておいでなのです」

 「また、お前の秘密か」

 嫌味な言い方になってしまったが、彼女は気にした風ではなかった。

 「秘密という程の事では・・・、先ほど少し話をしたのです。あの方は私をどなたか高貴の方と間違えておられました。見た目以上に老いているせいでしょう。私が、彼が昔仕えた方だと思いこんでおられます」

 グリンガレットはテーブルの上の食べ物を眺めた。

 決して高価な食材ばかりではないが、必死に飾り立てたように見える。ワインもまた芳醇な色をしている。

 「そのようには見えなかったぞ」

 「単なる思い込みなのですよ。折角の気持ちです、いただきましょう」

 グリンガレットはキリアムに微笑みかけた。

 偽りの笑みだとすぐに見抜かれたとしても、彼がそれ以上踏み込んでこない事はわかっていた。彼は距離を取ってくれている。彼女の良心がまた痛み出したが、今はまだ全てを彼に話す気にはなれなかった。

 

 その夜。グリンガレットは夢を見た。

 カムランの戦場に、彼女はいた。

 暗天が重く垂れこめ、微かな隙間から血のように赤い光が差し込む。

 愛馬に乗る勇猛な騎士が、雄叫びを上げて敵陣を切り裂いていた。

 銀の鎧に大鷲の盾、赤く光る剣をかざして、波のように寄せる敵兵を薙ぎ払い、敵将メルラウドの黒衣に迫る。

 メルラウドは裏切り者だ。それを許した己を悔いて、騎士は前線に立った。単騎での突撃は無謀に思えたが、鬼気迫る彼の気勢に敵陣が割れ、彼の視界に相手の顔がはっきりと見えた。

 彼の血が奮った。心臓が高鳴り、全身が震えた。

 あと一太刀で、宿敵の兜を叩き割るという瞬間に、彼は大量の血を吐いた。

 主人の異変に気付いた軍馬が狂ったように跳ねた。

 無念の声を迸らせて、騎士はそれでもメルラウドを探す。だが、一度戦場で失った目標を追うのは至難の業だった。上体が前後に揺れ、今にも落馬しそうな状態なのは誰の目にも明らかだ。

 この時ばかりと敵兵が彼に群がった。

誰もが彼の死を確信した。

勝利に狂喜して躍りかかる兵士を、グリンガレットは薙ぎ払い走った。打ち倒した相手の背を踏み台にして、迷走する馬上に身を躍らせる。

 吐血したまま昏倒しようとする騎士を後ろから抱くように抱え、彼女は手綱を握りしめた。遠くに敵影を見た。兜の下から覗く、メルラウドの眼が狂気に笑っていた。あの瞳の色を、彼女は永遠に忘れることは無い。

 馬首を返し、敵陣を背にする。剣が、槍が、矢が彼女に向けて群がった。

 軍馬にすべてを託した。

 風のように逃れる背や肩、足首に細かな痛みが走った。その時の傷跡は消えたが、心に刺さった痛みは、今もまだ彼女の中に残っている。

 どれほど走っただろう。小さな泉の縁に彼女はいた。

 足元で、髪に白いものが混じった騎士が、口元から胸元にかけて真っ赤に染まった体を横たえていた。

 グリンガレットは衣服の端をちぎって、水に浸し、彼の顔を拭いた。

 目に見える傷はなかった。湖のランスロットに受けた傷が、彼の内側で再び開いたのだ。

 この吐血の量からして、彼はもう助からない。

 「グァルヒメイン様、お気を確かに」

 彼女は彼の名を呼んだ。

 グァルヒメインは濁った瞳を微かにふるわせて彼女を見た。

 「お前か。・・・まさか、お前が・・・、今になって我がもとに戻って参ろうとはな」

 笑みとも悲しみともつかない表情が浮かんだ。

 「私の主人は、グァルヒメイン様です。どうして参らぬわけがありましょう」

 グリンガレットは涙を浮かべていた。生まれて初めての涙だった。

 グァルヒメインの力ない手が、彼女の金色の髪に触れた。

 「お前は・・・私の従者ではない。緑の・・・革帯の・・従者であろうに」

 彼女は首を振った。彼の力がどんどんと失われていくのが分かった。

 彼がにこりと笑った。今度は笑みだとはっきりと伝わった。

 「お前は・・・。ついに・・本懐を果たしたのだな」

 「何を言うのです。私はそのようなつもりでは」

 「・・・良いのだ。最後の時になったが、・・今こそ、・・・私は、お前の誘惑に屈しよう。私に、口づけを与えてくれ。・・・頼む」

 彼女は胸が張り裂ける思いを必死にこらえ、彼に覆いかぶさった。

 唇がふれ、彼の生気が流れ込んでくるような感覚が体を突き抜けた。

 離れた時、彼は目を閉じていた。

 「お前に・・・託そう。・・・グリンガレット。・・・ガラティン。・・・我が過ちの、我が王の償いを・・・」

 「グァルヒメイン様、お願いです、生きてくださいませ」

 「我が道の先に・・・あった王位も、・・・まだ・・・この手にはない全ての物も」

 彼はかすれる声で言葉を紡ぐ。零れ落ちる言葉の全てが彼女の前で散っていく。

 「ただ一つ・・・許してくれ。お前を、・・・お前を・・、救えなかった」

 「目を、目をお開け下さい・・・グァルヒメイン様」

 「もう、・・・見えぬ。・・・お前の美しい顔も・・・髪も」

 「ならば触れて下さい」

 彼女は彼の手を自分の頬に押し当てる。

 冷たく、固い掌だった。微かに動いて、そして止まった。

 全ての力が抜け、彼の魂がその肉体を離れていくのが感じ取れた。

 森が命の色を失い、泉が漆黒に染まっていく。そして、彼女がもっとも恐れていた孤独の深淵が広がっていく。

 フラッシュバックのように、いくつもの思いと景色が溢れた。

 涙が溢れ、止まらない。

 

 夢から覚めた時、彼女の手を夢ではない掌が包んでいた。

 そのまま握り返して、彼女は目を開けようとはしなかった。


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