第5話 ローマ風呂

五 〈 ローマ風呂 〉


 ルグヴァリウム城の中庭には、身分のある騎士たちが居住する舘を挟み、左手には塔が見えた。正面は石組みの階段になり、そこを上った場所に賓客をもてなす迎賓館がある。その前は中階に庭園と式典用の壇が築かれ、神話をかたどった彫刻や飾りが点在している。

 壇は主に儀式や、宣誓を執り行う為にある。屋内ではなく庭の中に作られるのは、ブリテンの騎士たちにとって、蒼天が信仰の対象として守られている為である。

 無論、自然崇拝だけが彼らの信仰ではない。ゴドディンの地にはローマより伝えられた神を信仰する風習も育って、教会や修道院もそれなりの地位を認められている。かつて偉大なる王はそういった新しき神への従属を高らかに宣言した。だが、その後に起こった内戦が急速に全土へ広まった背景には、新しき神を崇める者たちと、土壌の神に対する信仰を捨てきれぬ者達との、深く根を張った軋轢が隠れていたことは否めなかった。

 王の居住する舘は更に奥の三の城壁の中にあった。

 馬を預け、キリアムとグリンガレットは階段を上り、迎賓館へと案内された。

 城内は美しかった。

 色とりどりの花が庭園を彩り、飲めるほど澄んだ水が流れている。噴水の彫刻も贅を尽くした豪勢なもので、街の荒廃とはかけ離れた印象だった。しかし、それは必ずしも快い印象を与えるとは言えなかった。 

 決して清貧のみを崇高とする考えではないものの、グリンガレットは違和感が少しずつ嫌悪に変わるのを覚えた。

 どこからか、音楽が聞こえている。

 ふと足を止めたところで、始めて二人はそれに気付いた。

 おそらくは竪琴の音だ。遠くから聞こえてくる旋律は、城に一歩足を踏み入れたときから聞こえていた筈なのだが、不思議とその瞬間まで音楽とは気付かなかった。それでいて、一度気付いてしまえば、今度は耳について離れなかった。

 悲しげでもあり、勇壮でもある調べだ。

 おそらく、余程の名手が爪弾いているとみえる。美しく、耳を傾けた瞬間に虜になる程の不思議な旋律はグリンガレットの心に刺さった。しかし、なぜだろう、どこかに不快さが隠れている。

 迎賓館の扉は、大きな錠で閉ざされていた。

 その錆ついた様子からは、この館が人を招き入れるのは随分と久しぶりの事なのだと推測できた。

 当然かもしれない。王侯や貴族といった身分の者も、その殆どが先の戦いで滅んでいた。四人の領王が健在といっても、それぞれの王は自らの領地を出ることも無く、決して互いに協力的な関係にあるわけではない。

 うっすらと積もった埃に目をつぶれば、与えられた一室は立派なものだった。

 華美という言葉が似合う。一介の騎士には縁のない調度品が並び、広さのあるベッドには薄絹の天蓋が見える。

 新しい物ではないが、かつて、この城が誇った栄光が忍ばれた。

 案内をした召使の男が、表情も崩さずに言った。

 「陛下は、今宵御身を歓迎なさるための宴をご用意されます。それまでに、その、身支度をお願いいたします」

 「身支度と申しますと」

 「旅の汗をお流しいただければ、と」

 言葉を濁してはいたが、おそらくは臭うのだろう。

二人とも長旅をしてきたのだ、自分たちでは分からないが、その通りかもしれない。

 「水桶を下されば。有難い」

 キリアムが答えたが、男は首を振った。

 「こちらへ」

 小さく言って、部屋の外から階段を二つ降りたところへ二人を案内した。

 「この館には女を多く召し抱えておりませぬ故、もてなしは出来ませぬが、ごゆるりと」

 両開きの重い扉を開けると、男は不愛想に去っていった。

 中に入って、キリアムは息をのんだ。

 位置的には城の地下になる。部屋は二つに分かれ、手前は少し広めの空間に柱が並び、数段の緩やかな階段になっている。驚くのはその奥で、階段の先がそのまま、十数人は一度に入れそうなほどの浴場になっていた。

 所謂ローマ様式の風呂だ。黄金色の獅子と、裸体の女神の官能的な彫刻が飾り付けられ、大理石を張り付けたタイルには城の文様が浮かんで見える。どこから明かりを取り込んでいるのか、部屋の四方がほんのりと赤く光りを放っていた。

 「なんと、贅を尽くしたものだ」

 キリアムが思わず呟くのが聞こえた。

 決して単純に感心しているのではない。その声色から察するに、驚きと呆れ、さらには街の困窮に目を向けない贅沢への怒りが伺い知れた。

 「バースにも、歴史のある大きなローマ浴場があると聞き及んでおります」

 グリンガレットが聞いた。

 「あの地は古来より湯が出るのだ。それにしても何百年も前の物だからな、今はもう往時の面影もなくなって居よう」

 「これもまた、今の王が作ったものではありませぬ。まだ、この城が栄華の時代にあったころのものでしょう」

 言いながら、キリアムの横に立った。

何を思ったか、そっと跪き、恭しい様子でキリアムの鎧に手を伸ばす。帷子の留め具を外そうとする手を、思わずキリアムは払った。

 「そのくらい、自分で出来る、グリンガレット」

 「我が殿は王なのです。王はこういう時は、何もしないのが良いのです」

 「その王ということも、話をせねばならんぞ。訳が分からぬ。幾ら何でも」

 「申し訳ありません。先に話せば、戦いを前に余計な事を思ってしまいましょう。無心で挑んでいただいた方がよろしいかと思いました」

 「そうかもしれぬが」

 やむなく、キリアムはグリンガレットに任せた。

 「あ、そこまでで良い」

 鎧を外し終えたグリンガレットが、中の衣服にまで手をかけたところで、キリアムはさすがに気恥ずかしくなった。

 「照れませぬとも」

 「良いのだ」

 キリアムは少し顔を赤くした。下履きを外す間、グリンガレットはどこを見ているのかと落ち着かない気分になる。ちらりと目を向けると、彼女は階段の方へと歩いていた。部屋の彫刻や表具を見ているようだった。

 「嫌な感じがする。この城に入ってからずっとだ。丸腰になって危険はないかな」

 「危険というほどではありますまい。あれだけの大立ち回りをしたのです。この国の王も、少しは様子を見ますでしょう。それにラディナス殿は信じられるお方のようです」

 グリンガレットは言いながら振り返った。

彼女はただ興味で周りを見ていたわけではなかった。

 入り口を固く締め、それでも用心深く、隠れた入り口やのぞき穴が無いものかを調べていた。ひとしきり確認し、ようやく安全と確信できた所で、キリアムの方へ戻った。

 キリアムは湯船に半身をつけていた。

 広く、筋肉の張った背が見えた。引き締まった肌の色や、起伏のある肩の陰影が、まるで浴場の彫刻が命を吹き込まれたようだと、グリンガレットは思った。

 「我が殿は、この城の事をご存じでございますか」

 グリンガレットの声を背中ごしに聞いて、キリアムはふと顔を上げた。

 正面の獅子が牙をむき出しに大きな口を開いていた。

 獅子はこの国の象徴だ。現王の義兄でもある円卓の騎士ユーウェイン卿が、かつて獅子の騎士と異名をとっていたことを思い出す。そのせいで獅子の彫刻を飾ったものかと思ったが、造形を良く観察すると、それよりも昔の物の様だった。

 「正直に言えば、良くは知らぬのだ。私は南の出だからな」

 「では二つ先の城主の名は」

 「知らぬ」

 さようですか、という言葉の後で、小さく水の音がした。

 「二つ先の王は、かのユーウェイン卿の父君にて、ウリエンス王と申します。おそらく、その名は存じておいででしょう。無論、その悪しき妻の名も、聞き及びかと思います。・・・この館は、もとはウリエンス王が王妃モルガン・ル・フェイのために建てたものでございます」

 「あの、妖姫モルガンか」

 キリアムは驚いて声が自然と大きくなった。グリンガレットが続けた。

 「罪なき騎士を誘惑し、堕落に導き、ゴドディンの地に災厄と終焉をもたらしたモルガン・ル・フェイ。その妖姫が、毎夜異なる男を誘い込み、色と情欲にて、権謀を張りめぐらせていた場所といえば、この華美な湯船の広さにも頷けましょう」

 「なんと罪深い」

 「今も昔も、人は欲に溺れる物です」

 「お前は、歴史にも詳しいのだな」

 キリアムは感心して振り向き、そこで言葉を失った。

 グリンガレットが湯船につかっていた。

 それも、彼のすぐ真後ろである。滑らかな肌をほんのりと上気させ、何知らぬ顔でちらりと彼に視線を送る。湯船の中といえども、その姿態がぼんやりと見て取れて、キリアムは体中の血が頭に上るのを感じた。

 「ぐ、グリンガレット、何を考えている」

 「私も汗を流したいのです。いけませぬか」

 「いけませぬも何も、男の私がいるのだぞ。おかしいではいか」

 「私は男の従者としてここに居るのです。一緒である方が普通でございます。むしろわざわざ時間を空けて湯あみなどすれば、かえって怪しまれましょう。宜しければ、お背中をお流しいたしますが」

 「馬鹿なことを申せ、恥ずかしくはないのか」

 「恥ずかしゅうございますよ。あまり、その様にこちらを見られていては」

 凝視していたことに気付き、赤面して、キリアムは背中を向けた。

 くすりとグリンガレットが笑うのが聞こえた。

 悪戯にしては度が過ぎる。

 悪意のある行為ではないのだろうが、清廉たる騎士を目指すキリアムにとってはあまりにも刺激が強かった。馬鹿にされたような気もして腹もたつが、ここで騒ぎ立てては、自分も大人気が無いと思われるだろう。

 それに。彼女の姿態が目に焼き付いて、怒るに怒れないのも事実だった。

 「よく調べたのですよ。この城の事」

 グリンガレットは静かに言って、そっとキリアムに近づいた。

 触れてくるのかと思ったが、彼女はそこで止まった。

 「大きな声では話せませぬ。お近くへ」

 声が少し真剣みを増した。

 体を後ろにそらすと、柔らかく温かいものがふれた。離れようとするとついてきた。グリンガレットの背だった。二人は背と背をつけたままで話した。

 「どこから話せばいいものやら。まず一つ目は、私がラディナス殿に語った事。あの話の幾つかは本当の話にございます」

 「そうであろうと思った。グァルヒメイン殿に仕えていたのか」

 「四年ほどでございます。その間、グァルヒメイン様の従者は私一人でした」

 「左様か。それではあの剣の腕も頷けるというものだ」

 「あの方の死に立ち会ったことも、また事実です」

 グリンガレットの声には後悔と悲しみの色が滲んでいた。まだ若い娘と、おそらくは初老に近づいていたであろう騎士。二人はどのような主従関係であったのだろうかと、キリアムはぼんやりと考えた。

 グリンガレットの背の温もりが心地よかった。振り向いて、その肌に触れてみたい衝動が胸の内で湧く。それは、どれほどに快いものだろう。

 「緑の騎士の事を、以前少し話しましたね」

 「ああ、探しているのだったな」

 グリンガレットが頷いた。

 「緑の騎士は不死の力を持っていました」

 「魔法の力か」

 「はい。その魔法の力の源こそ、緑の革帯なのです」

 「グァルヒメイン卿が手に入れたという」

 「左様です。グァルヒメイン様は貞節の試練に勝ち、死の恐怖への試練に耐えた証として、緑の騎士より、その不死の力を譲り受けました」

 円卓の騎士に語り継がれた物語だ。緑の革帯に憧れ、まだ騎士になる前のキリアムは父が持っていた複製のベルトを密かに腰に巻いたことを思い出した。

 「それは素晴らしい事ではないか。・・・だが、不死の力を得られたのならば、卿は何故亡くなられたのだ」

 グリンガレットの声が、さらにいっそう深く沈んだ。

 「すべての物事には裏と表があるのです。我が殿」

 感情を抑え込み、ゆっくりと言葉を選び出す。

 キリアムは自然と彼女が緊張していることに気付いた。

 「緑の革帯は、不死の力との引き換えに、人の心を惑わせ、長き試練を与えるのです」

 「呪いのようなものか」

「そうとも言えましょう。はじめはグァルヒメイン様もその力を、自らが鍛えた騎士としての貞節の中に封じておられました。しかし、奥方であられた〈高貴の方〉ラグネル様が七年の契約の後に人の世界を去られますと、生きる希望を失い、革帯の力に抗えなくなってしまわれたのです」

 高貴の方とは、魔法に優れた古の一族だと、昔語りで聞いたことがあった。あまりに長い寿命と特別な力を神より許された一族故に、人間とは七年の間しか共に暮らすことのできない宿命を背負っているという。とはいえ、昔話で聞いただけの知識で、そのような人々が本当にいるとは、キリアムにはどうも信じることが出来なかった。

 「心は惑い、傲慢が生まれ、時には疑心を呼びました。あれ程に盟友と認めておられたユーウェイン様や、ペレドゥル様、ランスロット様にまで距離を置くようになり、ついにはそのランスロット様との間では、後の悲劇を生む過ちを犯すほどになりました」

 「グァルヒメイン卿に傷を負わせたのは、ランスロット卿と聞いている。カムランの大戦の際、メルラウド卿との対決に敗れたのは、その古傷が開いた為であったとか。それでは、革帯の魔力は失われたのか」

 「いいえ、グァルヒメイン様は、その時には革帯を手放しておりました」

 「それほどまでに貴重なものを。何故に」

 「グァルヒメイン様が、真の騎士であられたからこそ、です」

 「魔性の力を借り続けることは、騎士道に背くという事か」

 「最後まで、人としての意地を貫かれました。私に言えるのはそれだけです」

 キリアムはかつて父に聞いた話の奥を知って、うっすらと寒気を覚えた。

 「グァルヒメイン様はその最後の折、私に、三つの事を託されました」

 グリンガレットは話を続けた。

 「一つはグァルヒメイン様が大切になされていた愛馬の世話をすること」

 訊くまでも無い、あの老馬の事だとすぐに分かった。

 「二つ目は愛刀ガラティンを、それを与えるにふさわしき者に託し継承者とする事。もし、私の目に適うものなくば、それを永遠に封じ去る事」

 ここで一旦グリンガレットは言葉を区切った。水面が波打ち、背の温もりが離れる。彼女の足音が少しずつ離れた。

 キリアムは自分が剣を受け取った時の彼女の言葉を思い出して、胸の鼓動が早まるのを感じた。

 「あれは、借りただけと考えていいのだろう」

 「我が殿は、そのようにお思いで?」

 「まさか、本当に私に」

 驚いてキリアムは思わず振り返った。

 グリンガレットの後ろ姿が見えた。丁度湯船から上がるところで、白く細い足が水面に波紋を広げた。

 すぐに自らの過ちに気付いて顔をそむけたが、果たして覗き見てしまった事をグリンガレットに気付かれてしまっただろうか。

 何のそぶりも見せず、グリンガレットが言った。

 「冗談でございますよ。あれはお貸ししただけです」

 「そうか。・・・そうだ。・・・そうだな」

 その言葉にキリアムは安堵した。

 「グァルヒメイン様の三つめの頼みは」

 グリンガレットが衣服を整える衣擦れの音が聞こえた。

 「失われた緑の革帯を探しだし、その力が二度と使われぬようにすること」

 「それで、緑の騎士の事を探していると言っていたのか」

 グリンガレットは着替えを済ませたようだった。キリアムもそっと様子を見て、湯船を出る事にした。幸いにも彼女はまだ背を向けてくれていた。

 「しかし、なぜルグヴァリウム城なのだ」

 「王の変心を聞き及んだからにございます」

 「兵を集め始めた事か。それならばどこの領王も多少なり行っているだろう」

 「はい。しかしながら、ビオラン殿も申しておりました通り、王は戦いの後、人が変わられたと。・・・兵や騎士を集めるだけではなく、森や海を軽んじなさるようになりました。また、我が殿になされたように、腕試しなどと称して、訪れた騎士を軽んじなさいます。人心を顧みず、町をあのように荒廃させながら、戦の準備をされておられる。確証はありませぬが、どうにも嫌な気配がするのです」

 「そうか、それで、緑の帯がこの地にあるのではと・・・」

 身支度を整えるキリアムを、ちらりと横目でグリンガレットは見た。

 「先に部屋に戻ります。話の続きはそちらにて」

 「よく話してくれた」

 「我が殿は信用に値すると思ったからです」

 「私が信用できる? 不思議な事を言う」

 「殿は今も、私に指一本、お触れになりませんでした。誠実さと貞節さは信じるに値する騎士がもつ魂の証拠です。殿は貞節の心をお見せ下さいました」

 「あ」

 ぽかんと口を開けたキリアムを残し、扉を開け、一歩外に出てから、グリンガレットは大きく息を吐いた。

 

 試されたのか。

 と、少し釈然としない思いを胸中に留めながら、キリアムは着替えを終えた。

 もし、背の温もりを感じた時に抱いた欲求に任せて、彼女に手を伸ばしていたなら、彼女はキリアムをどう見たのだろう。

 彼女の考えていることが、見えているようで見えない。それでもなお、彼女に抱いた親愛と尊敬の思いには変わりはなかった。

 むしろ、分からないからこそ、もっと彼女を知りたいと思えてくる。

 部屋に戻ると、グリンガレットが水を用意して待っていた。使用人の姿のままで、髪を高い位置でまとめている。帽子を深くかぶれば長髪も隠れ、女性的な美少年に見えるだろう。しなやかな体型を、少しゆったり目に着こなすことで隠していた。

 浴場で見た後姿を思わず思い浮かべて、キリアムは咄嗟に彼女から視線を外した。

 思った以上に喉が渇いていた。

 金の飾りのついたゴブレットを一気に飲み干すと、グリンガレットは持っていた水差しで二杯目を注いだ。

 上目づかいで、彼女はキリアムを見た。

 「怒っておいでですか」

 「いや。大事なことなのだ、試すのは当然だろう」

 「はしたない娘と、お思いでございましょうね」

 「思わぬよ。そのような事、思うはずがない。その、むしろ、感心したというか」

 言いながら、何かもっと違う事が言いたいと思った。そのような形容句で彼女を評価したいわけではない。もっとうまく話せれば、もう少し彼女の事もわかるかもしれないのに、自分自身がもどかしくてならないほど、キリアムは言葉選びが下手だった。

 ・・・そうだ。彼女は目的や過去を話してはくれたが、彼女自身の事に関してはまだ何も教えてはくれていない。

グリンガレットは、まだキリアムを見つめていた。

 「殿は、お優しい方ですね」

 「気を使っているわけでは無い。本心だ。卿から託されたことの重みを思えば、さぞ大変な思いをしてきたのだろう。それで、これから私に何が出来るのだ」

 「王と、話をしていただけますか」

 キリアムは頷いた。

 「私は王の様子をこの目で確かめたく思います。殿は、王が緑の革帯をお持ちでないか、いえ、そこまで聞けずとも、革帯について何かご存じでないかをお聞きいただきたいのです」

 「口がもっと立てば良いのだが。やってみよう」

 「私は従者の身です。さすがに王の前では、先ほどの様に口を挟む事もできません。しかし殿はオークニーの王位継承者なのです。堂々となさってくださいませ」

 「少し、後ろめたい気もする。私に演じきれるものか」

 「演じるのではなく、真にそうなのだとお思いくださって良いのです。その剣は真にガラティンでございます。もし何か聞かれれば、分からぬと言ってかまいませぬ。何故王位を譲られたのかと聞かれれば、分かりませぬが死の床にて託されたと。グァルヒメイン様は、沢山おられた兄弟も、すべて失い、孤独のままに逝かれました。その事さえ覚えていただければ十分です」

 「そう簡単に行けばよいが」

 呟くように言ったところで、部屋をノックする音が聞こえた。

 グリンガレットが慌てて帽子を被る。

 先ほどの男がぬっと姿を見せた。

 「晩餐会の準備が、整いましてございます。こちらへ」

 「今、参る」

 キリアムが答えて、グリンガレットを振り返る。

 グリンガレットは帽子の下から覗く碧色の瞳で小さく答えた。


 森のざわめきが大きくなっていた。

 薄闇がそっと裾を広げ、世界を包みかけた頃合い。

 ルグヴァリウム城の方角から数騎の騎士が森に駈け込んできた。

 それなりの距離を遠駆けしてきたのだろう、馬の荒い嘶きがその疲労を感じさせる。どの人影も、正騎士というには身なりも粗末で、馬も軍馬には程遠い肉付きだった。それでも剣に鎧、盾といった装備を身に着けていれば誰しもが騎士と呼ばれる。それ程までに、この地には道徳や貞節が失われていた。

 城の騎士がこんな森にやってくる理由はただ一つだ。

 野戦の鍛錬にかこつけた狩りだ。森を荒らして火を焚き、好き勝手に野営する。最近になって、その頻度が随分と多くなっていた。

 そして決まって、町の女を一人二人さらってくる。

 連れて帰る時もあるが、たいていは帰る時にはいなくなっている。

 何をしているのか、知りたくもないが想像は出来てしまう。

 あいつらは人間の皮を被った悪魔だ。騎士などという仮面の下には、どれほどの醜い正体が隠されているのだろうかと、いつも胸が悪くなる。

 それでいて、ビオランには何も出来なかった。

 拉致されてきた女が、あの姫でなかったことに安堵を覚えたが、いずれにしても何の罪もない女が、これからどのような目にあうのかを考えると、気は晴れなかった。

 ビオランの役目は、いつも、ただの監視だった。

 長老に知らせても、手出しをするなと諭されるのが目に見えている。

 神聖なる森を堕落した騎士の好きにさせるのか、と一度詰め寄ったことがある。

 その時も同じだった。城の騎士は、森を焼き、森の民を殺す力を持っている。焼かれた森は再び蘇るまでに、また何百年の時がかかる。森の民は、戦う民ではないというのが、森の長たちの考え方だった。

 それから、ビオランは鬱屈した思いのまま森の監視を続けた。

 黒い騎士が姫に襲い掛かっているのを見た時も、いつもの城の連中かと思った。

 あの時は後先も考えずに行動してしまったが、はたしてあれが、今、森に現れた連中だったとしたら、ビオランはやはり殺されていたのだろうか。

 悲鳴が聞こえた。

 ビオランは聞こえないふりをした。

 女の悲鳴だ。助けを求めている。町の女だ。

 森の民じゃない。だとすれば、自分には何の義理も無い。

 男たちの野卑た笑い声が聞こえてくる。

 ビオランはその光景を脳裏から追い払おうと何度も首を振った。

 森を汚す奴ら。騎士なんて奴らは、獣か悪魔だ。

 その場を離れ、もう森の奥へ帰ろうと思った。

 女の声が一層大きくなる。

もしこの声の主が、あの姫様だったとしたら、そんな考えがビオランの心をよぎった。自分はどうするのだろうか。やはりこうして逃げ出すのだろうか。

 逃げるのは卑怯だろうか。でも、戦って勝てる相手ではない。それなのに戦おうとするのは、愚か者のすることではないのか。

 『過ちの償いをしたいのです』

 彼女の言葉が思い返された。

 彼女は、・・・姫様は自分に向かって、そう言った。全ての騎士の罪を、まるで一身に背負ったような言葉だった。姫様は騎士ではないと言っていたが、あの方こそが本物の騎士道を持った方なのだと思った。正しい「騎士」と呼べる存在が本当にいるのなら、それはあの姫様のような心を持っているに違いない。

 彼女はビオランの怒りを理解してくれた。その事が、ビオランにはたまらなく嬉しかった。

 それなのにあいつらは、また騎士の罪を増やそうとしている。それは、姫様がまた自分の肩に、新たな罪を背負うことに繋がるのではないだろうか。

 ビオランは走った。

 たき火が見え、四人の騎士が居るのが分かった。

 女はまだ無事だった。スカートを剣で切り刻まれ、白い足に血が滲んでいるのがみえた。涙と汗で黒髪が頬に張り付いている。一番大柄な男が剣で弄ぶように女を追い回し、周りの連中が囃し立てている。

 思わず石を手にしていた。

 川辺で黒騎士にぶつけたように、大柄な騎士に向かって狙いをすます。

 石は騎士の額のあたりをかすめて飛んだ。

 一瞬騎士の動きが止まったかに見えた。が、次の瞬間には鬼のような形相が、目に見えぬ闖入者を探して振り返った。

 「誰だ! 邪魔する野郎は!」

 肺腑が震えるほどの威圧的な声が周囲に響いた。

 ビオランは逃げ出したかった。だが、今逃げてどうなるのだ。今逃げたら結局は同じことではないのだろうか。

 「俺らだ、森の民だ! ここは神聖な所だ、汚す奴は出ていけ」

 ビオランは震える体を必死に抑えて叫んでいた。我ながらよく声が出たと思った。

 「なんだ、餓鬼か?」

 騎士がはっきりとビオランを見定めた。手にはギラリと光る剣が見える。

 何人も切った剣だろう。見ただけで背筋が凍った。

 女はこの隙に逃がれられるだろうか。いや、無理だ。騎士の巨体が視界をふさいで、向こうの様子が分からなくなったが、相手の数も多い。ビオランが横やりを入れたとしても、女が一人で逃げ出せるほど、その場の状況が好転したわけではなかった。 

そのうちに、大股で騎士が近づくのが分かった。

 「森に住む虫けらが、よくも大口を」

 剣をぶんと振るう。今度こそ、逃げなければと思ったが、足が動かなかった。ビオランは焦った。恐怖で足がすくんでしまったのだ。こうなる事は予測できたのかもしれないが、今のビオランにはもはや迫りくる恐怖に対するすべが無くなっていた。

 そのうちに、騎士は眼前に迫っていた。

 切られる。と思った時、ビオランの眼は見開かれたまま止まった。

 振り上げた騎士の腕が、痙攣したように弾かれて、目の前が赤くなった。遅れて、男のうめき声と、再びあの女の悲鳴が聞こえた。

 一本の矢が騎士の肩を射抜いていた。

 森の民が使う矢だと、すぐに分かった。だが、ビオランの知っている物ではなかった。

 続けて、数本の矢が騎士に向かって放たれた。騎士は闇雲に剣を振り回し、たき火のあった広間まで呻きながら後退していく。仲間の騎士がめいめいに剣を抜き、盾で身を固めるのが見えた。

 まだ、何が起こったか分からないビオランを、誰かの腕が掴み森の奥へと引いた。

 ふんわりと花の香りがした。

 「勇敢だね、坊や。でも馬鹿だよ」

 女だ。それも若い女の人だ。

 振り返ったところに、弓を構えた女が立っていた。森の民の服装をしているが、初めて見る顔だ。金色の髪を一つに束ね、レース風に編んだヘアバンドをしている。軽装だが、森の戦士に見えた。暗がりの中でも、美人だと思った。

 「あなたは」

 「あたしの事よりも、まずはこの場を治めないとね。頼むよ旦那方」

 女が誰かに向かって声をかけた。

 ビオランの視線の先に、男達がいた。驚くべきことに、ざっと十人以上は居る。その姿が騎士の風采をしていることに気付いて、ビオランは体が硬くなった。

 姫様を追ってきた連中だ。

 その中から、一人の男が進み出た。

この男も騎士の様だった。いや、騎士というには見栄えが悪い。それなりに精悍な顔立ちだが、無精髭が伸びて、ほりが深いせいか目もくぼんで見える。傷だらけの帷子に盾は持たず、伸ばしたままの長髪が背までもかかっている。

 騎士というより、辺境の戦士といった雰囲気だった。

 「やれやれ、面倒くせえな」

 男は気の無い声でつぶやくように言うと、無造作に騎士たちの方へと足を進めた。

 歩きながら、背に負った二本の剣をそっと抜く。

 二刀流を見るのは初めてだった。軽く回転させた剣先が、獲物を見つけた鷹の眼のように対峙する相手を見定めた。

 この人、強い。

 戦いの事は何もわからないビオランだが、その後ろ姿に、それだけは分かった。

 男が単身で突進を始める。そこから先の光景に、ビオランは思わず目を背けた。


 数刻の後、森は静まり返っていた。

 その外れ、草原との境に立って、星あかりを見上げる2人の人影があった。

 一人はビオランを救った森の女戦士だった。名はデリーンといった。

 ほっそりとした体躯で、女性にしては背が高い。短剣を腰に帯び、左手に弓を持ったまま、遠くに見える輝きを探していた。

 半月には雲がかかっていた。そのせいで、空は暗く、星が満天に輝いている。見慣れた輝きだが、見飽きることのない輝きでもあった。

 傍らには、双剣を背負った戦士が立っていた。

 仲間内ではベリナスとかベルンとか呼ばれている。本名はベルリアードと言うはずだ。デリーンもまた、ベリナスとしか呼んだことが無かった。

 ベリナスは中肉中背、がっしりとして引き締まった体をしていた。

 見た目ほど粗野でも乱暴でもない男だが、一度剣を握らせれば人が変わるのをデリーンは知っていた。しかしながら、それ位でなければ、一度規律を失った騎士を率いることなど出来ないのだろう。彼の持つ特有の魅力は、彼女も認めざるを得なかった。

 「坊やと女はどうしたのさ」

 デリーンは尋ねた。

 「助けてやったってのに、可愛げのない餓鬼だったな」

 ベリナスが苦虫を噛んだかのような渋い声で答えた。

 「たいした子じゃないのさ、まがりなりにも騎士を相手に喧嘩を売るんだから」

 「ああいうのは、長生きできんよ。臆病なくらいでないとな」

 「旦那が言うと、説得力もありゃしないね」

 デリーンが笑った。屈託のない笑い方が気持ちよかった。森の民にしては色の白い頬が星あかりの下で、さらに白く見えた。

 「女を町に送らせた。俺たちの事は何も言わん約束でな」

 「守るかね」

 「守るだろうよ」

 ベリナスはビオランというあの少年が、自分たちに見せた敵意のある眼差しを思い出していた。困惑の中に、はっきりとした憎しみが見て取れた。善か悪かで問うならば、全くの善から生まれた憎しみだった。

 あの少年にとっては、助けられた事さえも不快だったに違いない。それはそうだ、あの非道な騎士も、人殺しをして自己満足をしている自分も、彼にとっては同じ人間の類にしか思えないのだろう。

 それを否定できない生き方をしているのも、また事実なのだ。

 「世間から見りゃ、悪党と変わらんからな」

 「は?」

 デリーンが不思議そうにベリナスを見た。

 この見た目よりも少し若い、不愛想な剣士は、時々独り言をいう。それにいちいち反応してしまう自分も自分だが、ベリナスはデリーンが話し相手になってくれることが嬉しそうだった。

 「あの餓鬼の目を見たかよ。俺の方が喰われそうだった」

 「子供でも森の民だからね。みんなそうだよ。騎士なんか糞喰らえって、ね」

 「お前さんはどうだ」

 「当たり前だろ、騎士なんか全部死んじまえばいい」

 「酷い言われようだな、俺もその一人なんだが」

 「旦那だけ特別だなんて、うぬぼれないでよ。あたしはあくまで、旦那に受けた恩の分だけ働いているだけだからさ。正直、もう大分良い働きはしたと、思っているけどね」

 「もう少しくらい良いだろう」

 ベリナスは言った。

 横顔を覗き見て、彼女の顔に微笑が浮かんでいるのを見て少しだけ安堵する。

 「お前さんの眼と腕が必要なんだ」

 「あいよ」

 仕方なさそうに、・・・その顔はそうでもなかったが、デリーンは答えた。

 「その女もさ、そこまでして探す、意味があるのかい」

 再び、デリーンが訊いた。

 数日前、ベリナスの部下が、通りすがりの女騎士に倒された。それも、一度に三人だ。もともと所業の良くない3人だったから、デリーンはいい気味だと思ったが、それでも組織の一員だ。部下をやられて、ベリナスが黙っている筈も無かった。

 すぐに徒党を率いて追うことになった。

 デリーンは東の森の民だ。西の森は得意ではないが、案内をすることになった。

 3人の騎士もまた、ベリナスの仕置きを受けた。グリンガレットにやられた以上に酷い顔になってはいたが、おとなしくついて来ている。ベリナスは顔に似合わず甘いと、デリーンは思った。

ベリナスが両腕を胸の前で組んで、星空を見上げた。

 「興味がある。あの3人を手玉に取った女だ」

 「それだけ? 連中の面子を立ててあげるんだろう」

 「当然、それなりの礼はさせてもらうさ。俺達だって、いつまでもただの山賊呼ばわりされているつもりはない。この世界での名前を売らんとな」

 「女を相手にあのざまで、名前が立つかねえ」

 「東の森の騎士は礼儀もないなどと、ルグヴァリウムで吹聴されてはたまらんだろう。それに、俺にだって色々と考えはある。あの城では、騎士を集めているって、もっぱらの噂だ。一度くらい覗いておくのも悪くはない」

 「あの坊やに、何かさせる気かい」

 「さっきも言ったが、あの餓鬼は俺たちを憎んでいる。させようとしてする奴じゃない」

 「だけど、恩を仇で返す様には見えないよ」

 デリーンが少しだけ責めるような目でベリナスを見た。相手の心の奥を差すような、ハンター特有の鋭い視線だ。

 「一応、女の事を聞いてみた。この辺は通っただろうしな。知らんと言っていたが、知っている顔だった。町に行かせれば、接触するかもしれん」

 「そうそう上手くいくかね」

 「なあに、どうせついでの事だ。上手くいくなんて思っちゃいないさ。ただ、少しくらい情報を集めてからでも良いだろう。デリーン、お前さんが狩りで気を付けることは何だ」

 「そりゃあ、獲物にこっちの存在を気付かれない事さ」

 「俺もだ。まあ、これから先がまだ決まってもいない以上、目立つのは避けたいしな」

 ベリナスは言って、デリーンの視線から逃げるように森の方に足を向けた。

 「なるほどねえ。でもね、狩りはその前に獲物を見つけない事には始まらないんだよ。それにはやっぱり、足を使わないとね」

 デリーンは少しの間その場に留まって、星の流れを見つめた。

 森の民の少年が町へ行った。違う森の住人でも、その事が気にならない訳ではない。それにあの少年はなかなか可愛かった。

 森の民は仲間だ。デリーンもまた、いつもそれを教わって生きてきた。森で生き抜くために必要なことは、そこに住まう者同士が、信頼し共生していくことなのだ。

 「すぐに戻ればいいんだろ。あたしには身を隠す理由はないんだしね」

 デリーンは一人つぶやくと、町へと続く道を歩き始めた。

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