第二十幕 嵐の後
その頃、雑賀城では……。
「おお! これは……」
織田軍の猛攻に今や城への侵入を許さんとしている危機的状況の中、鈴木佐大夫は雨の上がった空を見上げ、感嘆の声を漏らす。
「鳴神の呪士殿、どうやらうまくやってくれたようじゃの……よし! 皆の者! これで鉄砲が使える! 今こそすべての鉄砲を表に出すのじゃ!」
「オーッ! ――」
また、弥勒寺山砦では……。
「雨が止んだ……やってくれるじゃねえか、鳴神の呪士さんよう……よおし! 野郎ども! 全員得物を鉄砲に持ち換えろっ! こっからが本当の雑賀だぜっ!」
同じく明るくなった空を見上げ、嬉々とした声で鈴木重秀は兵達に号令を発する――。
また、東善寺山砦でも……。
「鳴神殿、感謝致しまする……織田の兵どもめ、雑賀の真の力というものを見せてくれる。皆の者! 鉄砲を取れっ! 弾薬すべて尽き果てるまで、撃って撃って撃ちまくるのだっ!」
鈴木重朝は雷童丸を思いながら天に一礼すると、兵達に指令を飛ばしつつ、自らも外に出て鉄砲を織田軍に向けて構える――。
そして、平井政所でも……。
「……これも、あのウサギの持って来た父上の書状通り……これが呪士のする戦というやつか……天までも動かして戦うとは、なんとも派手な戦振りだな……」
鈴木重兼が、やはり天を仰いで感心したように呟いていた。
「まあ、いずれにしろ、これで天は我らに味方した。この戦、勝敗は決まったな……さて、最後の一踏ん張り。もう少し撃つとするか……」
パーン…!
重兼の構える火縄銃の銃口から、乾いた音とともに弾丸がまた放たれる。
ようやく暴風雨の過ぎ去った戦場に、雑賀衆の反撃を告げる鉄砲の音が鳴り響いた――。
同日、織田信長が本陣を置く若宮八幡宮(現阪南市石田・波太大社)……。
雨が止み、雑賀側の反撃が始まったその頃、本陣の信長のもとをある人物が再び訪れていた……魔道の呪士・天沢彦斎である。
「信長殿、どうやら我らの同志、絶縁の呪士・間見甲次郎が敗れたようです……これで雑賀も簡単には落ちなくなりました。この戦もそろそろ潮時でしょうね」
「で、あるな……だいぶ時をかけすぎた。背後には毛利もおるし、これ以上、京を留守にするわけにもいくまい」
いつもの如く暗い天井の隅で蝙蝠のようにぶら下がる彦斎に、信長はそちらを振り返ることもなく、今なお激しい戦闘が行われているであろう雑賀荘の方角を眺めながら答える。
「おや? これは意外や意外。ずいぶんと諦めがよいですな。もっとお怒りのことかと思っておりましたのに」
彦斎はその不気味なほどに白い顔を少々驚かせて、まるで他人事のように述べる。
「フン…予は理に生きる人間なのでな。勝てぬ戦とわかれば、いつまでも固執しているほど愚かではないわ」
彦斎の戯言に信長は鼻で笑うと、先日の苛立つ姿はまるで嘘だったかのように、いたく落ち着いた口調でそう言葉を返した。
「ですが、せっかくの雑賀攻め。なんとも残念でしたねえ。ここで雑賀を叩いておけば、本願寺もおとなしくなりましたでしょうに……」
「なあに、雑賀を叩くことのみが奴らの息の根を止める策ではない。前の本願寺攻めで我らが敗れたいま一つの要因――水軍に関しても、なかなかにおもしろき計画を進めている最中よ……次こそは、あの忌々しき本願寺を我が下に屈服させてくれようぞ」
「フフフ…それでこそ我が同志、第六天魔王・信長殿。呪士が守るべき掟を捨て、手を組んだだけのことはありまする」
このままならぬ状況にあって、まったく落ち込んでも、また諦めてもいない信長のその態度に、魔道の呪士は白面を歪め、いっそう不気味に満足げな笑みを浮かべる。
「ああ、わかっておる。そなたが因果応報の理を破り、予に呪士の力を貸してくれる見返りとして、予は圧倒的な武力を持ってこの乱れた天下を平定する……即ち〝天下布武〟。それが、そなたと予が結んだ契約であったな?」
「ええ。期待しておりますよ、信長殿。これからも立ち止まることなく、あなたの覇道を突き進んで行ってください……我らの夢、天下布武を果たすために」
「うむ。我らが野望、天下布武のために……」
その約束を改めて同志と言い交わした後、不意に彦斎は物想いに耽ると心の中で呟く。
……しかし、まさかあの間見が遅れをとるとは……鳴神の呪士・兵主雷童丸といいましたか? 若輩とはいえ、少々注意しておいた方がよいかもしれませんね……。
「さて、そろそろ雑賀に和睦の使者を送るとするか……誰かある!」
無論、そんな彦斎の心の声に気づくこともなく、信長はつまらなそうに呟くと、甲高い声で近習の者を呼びつけた。
この後、三月十五日には鈴木孫一を筆頭とする雑賀の代表者七人が連署して誓紙を差し出し、ついに織田方へ降参することとなる。
しかし、結果として信長は雑賀勢を攻め滅ぼすことができず、この降参はこれ以上戦を続けたくないという織田・雑賀双方の事情が一致したことによる、〝降参〟という名の実質休戦協定であった……。
そして、その翌日……。
ひらひらと、春の暖かな風に乗って山桜の花弁が舞う紀州の山道を、雷童丸と珠はのんびりとした足取りで歩いていた。
「ねえ、雷童丸さん。雑賀の方々はあのまま放っておいてよろしかったんですの?」
今日は一人先に行ってしまうようなこともなく、適度な間を開けてゆっくり前を歩く雷童丸に珠が尋ねる。
「ん? …ああ、別に構わないさ。今度の戦においらが干渉したのは、織田がこの世の理から外れた理不尽な力――つまり、クシナダの姫の力を使ったからだからね。それを除いてしまえば後はただの勢力争い。どちらが勝とうが負けようが、そこまでおいら達呪士が面倒みる義理はない…っていうか、そっから先はむしろ手を出しちゃいけないとこだな」
空中を舞う淡い桃色の花弁を目で追いながら、雷童丸は珠の方を振り返ることもなくそう答えた。
「グルル…」
その肩の上では三日鎚も鼻をヒクヒクと鳴らし、甘い花の香をおいしそうに嗅いでいる。
「ふーん…呪士の道義というのは、そのようなものなんですのね」
「まあね……ところで、昨日渡した鏡の調子はどう? ちゃんとクシナダの姫の力を抑え込んでるような感じはする?」
感慨深げに呟く珠に、今度は顔だけを振り向かせて雷童丸が尋ねる。
見ると、いつもの藤色の小袖を着る珠の胸には、日女神子からもらった〝八咫鏡〟と、それからついでにオババさまより借り受けた勾玉の首飾りがかかっている。
「はい。お蔭さまで。この鏡を身に付けていると、なんだかとても安心いたしますの。クシナダの姫の力も、別に怖くなくなったとでも言いましょうか……」
珠は胸の鏡を手に取って鏡面を上に向けると、そこに映る穏やかな自分の顔を覗き込みながらそう答えた。
「怖くなくなった? ……というと?」
その言葉の意図がよくわからず、怪訝な顔で雷童丸は聞き返す。
「それってつまり、自分の意志で制御がきくようになったってこと?」
「ええ。まあ……ご存じの通り、前までは神憑りになってしまうと、後はもうスサノオを呼び寄せる自分をどうすることもできなかったんですけれども……それがこの鏡を持っていると、それでもなんとかできるような感じがいたしますの。でも、それは力を制御できるようになったというより、わたくしに宿る須佐之男命がおとなしくなったというか……こちらの声を聞いてくださるようになったというか……うまく説明できませんけど、とにかく、そのような感じなのですわ」
珠は自分にしかわからないその感覚を、なんとか言葉にしようと一生懸命に考えながら雷童丸に話して聞かせる。
「なるほど……どうやら日女神子さんの言っていた通りの効果が得られたようだね。姉君の天照大御神の力で、荒ぶる須佐之男命の魂も和んだか……」
その難解な説明にも何かを悟ったのか、雷童丸は腕を組みながら独り言のように言う。
「うーん…やっぱりよくはわかりませんけれど……でも、わたくしは今、とっても晴れ晴れとした気分なんですのよ?」
「晴れ晴れとした?」
「はい。これまでのわたくしは、ずっとこのクシナダの姫の力に縛られて生きてきました。そして、この力を恐れ、そんな力を持ってしまった自分の運命を心より呪っていました……」
「お珠ちゃん……」
彼女の背負ってきたその過酷な運命に、雷童丸も顔色を曇らせて珠のことを見つめるのだったが。
「けれど今は違いますわ。この力も恐ろしくはなくなりましたし、何か、自分の力を世の皆さんのために役立てられるような気がいたしますの……そう。なんだかこのクシナダの姫の力が、わたくしの進むべき道を指し示してくれているように思いますのよ」
珠はそう答えると、これまでで一番明るい表情を見せて彼に微笑みかけた。
「……そっか。高天原を追われた須佐之男命は、荒ぶる暴風雨神から人々を救う英雄神へ変わったというわけだね」
その笑顔に釣られるようにして、自身も再び笑みを浮かべると、雷童丸は静かにそう呟いた。
「なので、お言葉に甘えて遠慮なくこの鏡は戴いておきますわ。ついでにオババさまの勾玉も。実は前から欲しいと思っていたんですの」
「あ、いや、勾玉の方は預かっただけで……ま、いっか。オババさまにとっちゃ身内みたいなもんだしな」
胸の鏡と勾玉をニコニコとうれしそうな顔で眺めている珠に、口を開きかけた雷童丸はやっぱりそれ以上言うのをやめた。
「で、これからわたくし達はどこへ向うおつもりですの? やはり、その日輪の呪士さんとかのいる内宮ですか? それとも、またあの呪士宿の御蔭屋さんのところ?」
「ん? ああ、そうだな……とりあえずは最初の予定通り神宮の里まで送ってくよ。今度こそ、ちゃんと最後まで仕事をやり遂げたいからね」
照れ臭いのか、頭上に山桜をまた見上げながら、雷童丸は親切にそう申し出る。
「ま、今の話だと、もうクシナダの姫の力を悪用されるようなこともなさそうだけど、それでもしばらくは身を隠しておいた方がいい。あそこなら間見に襲われて壊滅したと織田も思ってることだろうしね。一応は用心して、ほとぼりがさめるまで動かないのが安心ってもんだ」
「いいえ。その必要はありませんわ」
だが、そのありがたい申し出を、なぜか珠は考える間もなく一蹴する。
「えっ?」
予期せぬ珠のその返事に、雷童丸は訝しげな顔をして思わず振り返る。
「わたくし、雷童丸さんと一緒に旅をすることに決めましたから」
「……はい?」
「ま、呪士として当然の行いとはいえ、二度もあなたには救っていただきましたからね。そのお礼をしないとあっては玉依の民の巫女として恥ですわ。そこで、まだまだお子さまで頼りないあなたのことを、このわたくしがいろいろお世話してさしあげることにいたしましたの。どうです? ものすごくうれしいでしょう?」
「な、なんだってえぇぇぇぇぇ~っ!?」
さらっと自然体でしてくれたその爆弾発言に、雷童丸はこの春一番の、最大級の驚きの声を静かな山中に響き渡らせる。
「……じょ、冗談じゃない。なにがうれしいもんか! 駄目だ! 絶対に駄目だ! そんなの御免被る!」
そして、大慌てでその思いもよらぬ展開を阻止しようと首を高速で横に振る。
「あら、そんな恥ずかしがらずにもっと素直にお喜びになってよろしいんですのよ?」
「恥ずかしがってない! 本気で迷惑してんだっ! いいか? これからおいらはオババさまの所まで君を送って行く。そこでこの旅も終わり。今度こそ本当におさらばだ!」
「いいえ。もう決めちゃいましたから変更はききませんわ」
勝手な珠の決定に雷童丸は声を荒げるが、そんなことで引き下がる基本自己中な珠ではない。
「もう決めちゃいました……って、なに勝手に決めてるんだよ! ああ、もう前言撤回。ここでお互い別れるとしよう。そんじゃな、達者で暮らしなよ」
まるで聞き分けるつもりのない珠に早口でそう告げると、雷童丸は早速、歩みを速くする。
「あっ! ちょっとお待ちになって! そんなに急がれてはついていけませんわ」
「そのために急いでんだよ! わかったらついてくんなよ? おいらは一人の方が気楽でいいんだ!」
「一人? でも三日鎚ちゃんがいますわ」
先を行く雷童丸の肩に乗り、無垢な瞳でこちらを眺めている三日鎚の姿を見て、珠はその後を追いかけながらそうツッコミを入れる。
「三日鎚は別だ! こいつは呪士であるおいらの相棒だからな。それに、そもそも人じゃなくて狡兎だし…」
「だったら、わたくしも別ですわ」
「別じゃない!」
あくまでも彼女の同行を拒み、早足で歩み続ける雷童丸であったが、珠はまったく応える様子もなく、笑顔でどこまでも彼の後をついて行く。呪士の健脚を持ってしても、そんな彼女を振り切ることは不可能のようだ。
「いいえ。別ですわ。わたくしも相棒ですから」
「別でも相棒でもない! …ってか、いつから相棒になったんだよ?」
「つい先程からですわ」
「つい先程って……おいらはそんなの認めてないぞ!」
「問題ないですわ。わたくしが認めましたから」
「だから、勝手に決めんな~っ!」
うららかな春を迎えた紀州の山間に、そんな二人のぴったり息の合った掛け合いが、いつ終わるとも知らずに木霊していた……。
(呪士道‐Road of Jushi‐幕切)
呪士道 ー Road to Jushi ー 平中なごん @HiranakaNagon
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