第十七幕 兎蟹合戦
「――ええい! 怯むなぁっ! 飛礫に頼るなど、最早、雑賀には他に戦う術がないという証! 我らの勝利はもうすぐそこぞ! 石ころなぞ無視して進むのだっ!」
降り注ぐ石礫を浴びながらも、堀秀政は激しく皆の者に檄を飛ばしている。
「オーッ!」
その叱咤に、負けじと兵達も果敢に柵へとよじ登って行く……。
重兼の不安は的中していた。
飛礫だけでは致命傷に至る者も少なく、それに何より攻め寄せる織田の兵が多すぎるのだ。
石に当たっても突進を続ける者……礫の雨をうまいこと掻い潜る者……時が経つにつれ、雲霞の如く攻め寄せる織田勢の中からは、一人、また一人と柵を越えて上陸する者も現れ始め、柵より内側に見える織田の兵の姿は次第にその数を増していった。
「むうっ……これはちとマズイかのう……」
その様子を眺め、佐大夫はひどく渋い顔をして唸る。
今度こそ、合戦の勝敗を左右する最後の一線を越えられたのだ。
しかも、後方からはまだまだ続々と織田の舟が押し寄せ、対岸にも残存の兵達が黒山のようにたむろしている。
やはり多勢に無勢……鉄砲戦術が使えなくなった段階で、雑賀側が劣勢に立つことはすでに定まっていたのである。
このままでは、雑賀の城砦が落ちるのも早や時間の問題かに思われた。
……しかし、ここで再び織田軍の予期せぬ出来事が彼らを襲う。
ドガアァァァーン…!
「ぎやあああーっ!」
対岸に控える織田勢の中から、突如、風の音にも負けぬ断末魔の叫び声が上がったのだ。
と同時に、何かが爆発でもしたかのように幾人かの兵が吹き飛ばされて空中に舞い上がる。
その奇妙な現象を引き起こした犯人……それは三日鎚だった。
と言っても、普段見ているような普通のウサギの姿をした三日鎚ではない。その大きさは馬や牛のゆうに二、三倍はあろうかという巨大なウサギだ。
「グルルルル…」
その、いつもと違う三日鎚が立てる鳴き声も普段の小動物のものとは異なり、地の底から響いてくるような、低い、何か得体の知れない獣の唸り声のようである。
大きさを無視し、その形だけを見ればウサギに思えなくもないが、無論、こんな巨大なウサギがいるわけがない。
それはまさに化物……これこそが呪士の使う霊獣の真の姿なのだ。
その巨大化し、猛獣と化した三日鎚が、突然、織田の軍勢の中に凄まじい勢いで突っ込み、数人の兵を一度に吹き飛ばしたのである。
ドガァァン…! ……ドォォーン…!
「ぐわあっ!」
「ぎええっ!」
さらに三日鎚は、その鉄をも引き裂く強力な歯と爪で織田の兵達を次々に襲ってゆく……その度に数名づつが血飛沫を上げて宙へと舞い上がり、あるいは泥水を跳ね上げながら地面を転げ飛ばされてゆく……。
そして、そんな巨大な狡兎の背には、主人である雷童丸がいつもの黒合羽に甲冑の姿で搭乗していた。
「ば、化けウサギだ……」
「に、逃げろおぉぉぉーっ!」
突如として現れた怪物に、思わず逃げ出す織田の兵達も続出する。
しかし、雷童丸が騎乗する三日鎚はそんな兵達の反応などまるで眼中にない様子で、
三日鎚が目指すその場所――それは今朝、おそらくそこに囚われた珠がいるであろうと雷童丸が目星をつけた河原である。
織田勢が雑賀との戦に注意を削がれているその隙を突いて、雷童丸は珠を奪い返すつもりなのだ。
「どわあああっ!」
「こ、こんな化物と戦えるかあ! ……ぐぎゃあっ!」
いくら大軍といえど、今の混乱した織田軍に彼らを止める術はない。
それに現在、多くの者が舟で出て行ってしまっているので、こちらに残っている兵の数はこれまでの半数ぐらいになってしまっている。
「た、助けてくれぇーっ! ……わ、わぁああっ! うごぉっ!」
まるで竜巻が通り過ぎるかのように、雷童丸を乗せた三日鎚は犠牲となった兵達を巻き上げながら高速で珠のもとへと直進して行く……。
だが、忘れてならないのは織田方にも同じく呪士が一人付いているということである。
ドパァァァァーン…!
突如、三日鎚の行く手を阻むかのように、すぐ脇の川面から大きく太い水柱が勢いよく噴き上がった。
「グルル…」
それには三日鎚も一瞬怯み、飛び跳ねる強力な後脚の動きを止める。
すると、水柱が細かい飛沫となって消えた後には、三日鎚同様…否、それをさらに上回るほどに大きな蟹が水上に姿を現わしていた。
その青黒い色をした巨大な蟹の甲羅の上には、絶縁の呪士・間見甲次郎が乗っている……この化蟹は、即ち彼の霊獣・大鋏なのである。
バシャ、バシャ…と水音を立てながら、大鋏はその巨体に似合わぬ速さで陸へと近づき、名前の通りに大きな腕のハサミでなんの前触れもなく攻撃を仕掛けてくる。
ドスッ…!
三日鎚が咄嗟に飛び退いてその攻撃を避けると、その大バサミはそのままの勢いで地面に突き刺さり、そこに人一人余裕で入れるほどの大きな穴を一瞬にして穿った。
「こ、今度はお化け蟹だあ~っ!」
それが自分達に味方する呪士の霊獣であることを知らぬ織田の兵達は、大鋏の姿にも悲鳴を上げて逃げ出し始める。
彼らにしてみればもう一匹、得体の知れぬ化物が現れたようにしか見えないのである。
だが、そんな兵達のことなどまるでお構いなく、二体の霊獣は激しい戦闘を開始する。
「グルル!」
ハサミの刺突を避けた三日鎚は素早く攻勢に転じ、前脚の鋭く巨大な爪で大鋏に向かって殴りかかる。いわば猫
ガッ…!
しかし、大鋏の巨体を覆う甲羅は非常に堅く、鉄をも切り裂く狡兎の爪を持ってしても、その表面に引っ掻き傷を付けるぐらいにしか至らない。
対して大鋏はブン! ブン! と左右のハサミを振り回し、三日鎚をその鋭利な刃の隙間に捕らえようと試みる。
「グルルッ!」
が、こちらもウサギならではの素早い動きでそれをかわし、再び大地を後脚で蹴って頑丈な甲羅を殴りつける……。
さすが、どちらも呪士の使役する霊獣だけあって、その常識離れした力は五分と五分。互いに決め手に欠くそんな応酬が、幾度となく繰り返された。
また、二匹の霊獣の上に乗る呪士達――雷童丸と間見も、何も口にせぬまま無言で霊獣を駆ることに集中している……。
気がつけば、双方譲らぬ好勝負を演じる二匹の周りを取り囲むようにして、まるでそれを観戦するかの如く織田の兵達の輪ができ始めていた。
本来なら大鋏に加勢して三日鎚を攻撃すべきところなのだろうが、その化蟹が自分達の味方であるなどという複雑な事情、下っ端の彼らが知る由もないのだ。
いや、もし知っていたとしても、こんな化物同士の闘い、とてもじゃないが手を出すことなどできはしないだろう。そんなことしてみたところで、巻き込まれて無駄死にするだけ損である。
そうして織田の兵達が見守る中、激しい攻防を繰り広げていた二匹の動きがようやくにして止まった。
「グルル……グルル……」
動きすぎて疲れたのか? 三日鎚の吐く白い息は多少上がっている。
蟹なのでよくわからないが、大鋏の方も疲労は蓄積されていることだろう……その巨体を覆う硬い殻の上には、三日鎚のつけた無数の爪の痕が残っている。
「………………」
動きをピタリと止めた二匹の化物は、間合いを取って互いに睨み合う……。
兵達も息を飲み、ピンと張り詰めた空気が雨と風の音しかしないこの場を支配する……。
「グルル!」
次の瞬間、再び二匹が同時に動いた。目にも留まらぬ速さで二つの巨大な影が交錯する。
ジャキンッ…!
激しい雨風の吹きすさぶ中、鳴り響いたのは大きなハサミが何かを切断する音だった。
その何か――それは三日鎚の背に跨る雷童丸である……突進する三日鎚の攻撃よりも一瞬速く、大鋏の左の巨大なハサミが雷童丸の身体を捕え、そのまま一気に彼の上半身を挟み切ったのだ。
「………………」
綺麗に切断された雷童丸の上半身は何も言葉を発することなく、無表情のまま宙を舞うと、雨水の溜まる地面へと落下してゆく……。
その無惨に散る様を大鋏の丸く黒々とした二つの眼球は、どこか満足げな色を浮かべて見つめていた。
…………だが。
その黒い球体の上に映る雷童丸の姿が、徐々に変化し出したのである。
先程まで生々しい人の血肉に見えていた身体の切断面が、次第に巻き藁を切った時のそれへと変わってゆく……雷童丸のものだったはずのその顔も、いつの間にやらボロ布に「へのへのもへじ」と書かれただけのふざけたものに取って替わっている……。
よく見れば、羽織っている合羽もただの黒い布であるし、着けている鎧もどうやら織田の雑兵からこっそり拝借したもののようである。
そう……それは雷童丸ではなく、藁で作った雷童丸の
〝
大鋏は心の中でそう叫んだ……そして〝しまった!〟とも。
その刹那の内に起きた出来事は用心深い大鋏に隙を作った……その一瞬の隙を三日鎚のカワイらしくも鋭い瞳は見逃さない。
間髪入れず首を捻ると、三日鎚は背中の藁人形を切断したハサミの付根に勢いよく咬みつく。
そしてそのまま、鉄をも噛み切る強靭な門歯でその巨大なハサミを殻ごと強引に引き千切ったのだった。
「…!」
大鋏は声にならない苦悶の叫びを上げる。
ブン…!
とともに苦し紛れに残った右のハサミを三日鎚目がけ振り下すが、三日鎚はそれをなんなく飛び跳ねてかわすと、さらに大鋏の右側の脚に咬みつき、それも一気に引き千切ってしまう。
「…!」
大鋏は発することのできない声で再び絶叫する。
が、それでも三日鎚は容赦せず、左右の脚を次から次へと食い千切り、均衡を失って崩れ落ちる大鋏の甲羅の上に乗りかかると、ついには残った右のハサミをも根本から乱暴にむしり取った。
「………………」
そこに到り、大鋏は完全に沈黙した……その口からは大量に白い泡を吐き出している。
「グルルル!」
オバケ蟹の動きを封じた後、最後に三日鎚はその三畳ほどもある大きく広い甲羅の上によじ登り、目の前に坐す間見甲次郎目がけて鋭い爪の付いた前脚を凶暴な本能のままに振り下ろす。
ガッ…!
強力な狡兎
三日鎚の赤く輝く円らな瞳にも奇妙な光景が映る……なんと、飛び散った間見の身体も藁でできたものだったのである!
「グルル…?」
藁屑と化した間見人形の残骸を見つめ、三日鎚はその巨大ながらも愛くるしいモフモフの首を不思議そうに傾げた。
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