第六幕 外道の呪士

 天正五(1577)年・三月二日、和泉いずみ国・淡輪たんのわ城(現大阪府・阪南市)……。


 この淡輪氏の居館に置かれた本陣で、織田信長は怒りにうち震えていた。


「たわけめがっ! あれだけの兵を持ってしてまだ落とせぬと申すかっ!」


 信長は甲高い金斬り声を上げ、戦況報告に来た使者に向かって手にした杯を投げつける。


「ハッ! 敵はこちらに比べ無勢ぶぜいと言えど、大量の鉄砲で武装している上にその使い方にも長けており、皆様、思いのほか攻めあぐねておりまする!」


 運よく的が逸れ、床に落ちた杯がカランと音を立てるのを聞きながら、鎧姿の使者は平身低頭、自分が悪いわけでもないのだが言い訳をする。


「黙れっ! かような言い訳が通用するとでも思うてかっ! ええい、もうよいわ! とっとと帰って皆に伝えい! この戦、もしも不首尾に終わるようなことあれば、そちらも相応の処分を受けるものと思えとなっ!」


「ハハッ!」


 再び怒号を浴びせる信長に、使者は早々、逃げるようにしてその場を去って行く。


「あの役立たずどもめ、たかだか地侍風情にいつまでも手こずりおってからに……蘭丸、酒だ! もっと酒を持てっ!」


 脱兎の如く使者が逃げ帰ると、信長はギリギリと苦々しげに奥歯を噛みしめ、側にいた小姓の森蘭丸もりらんまるに酒の追加を申し付ける。酒でも飲まねば怒りを沈められぬのだ。


「ハッ! 直ちに……」


 信長の寵愛する美少年・蘭丸は、すぐさま返事をすると微かな絹擦れの音とともに館の奥へ走って行く。


 彼の怒りを恐れてか? いつになくこの場には他にお付きの者もおらず、静まり帰った本陣の一室で信長は一人きりになった。


「どいつもこいつも余に逆らうとは愚かな者どもめが……」


 一人になっても信長は、外の広場を眺めながら苛立たしげに独りごちる。


「……フフフフ。御機嫌斜めのようですね。信長殿」


 するとその時、どこからともなく不気味な男の声が静かな室内に響き渡った。


「……フン! 貴様か。天下人と称されながら、戦一つままならぬこの信長を笑いにでも参ったか?」


 だが、その声に対し信長は、驚くことも、また警戒することもなく、自虐的に鼻で笑うと、まるで何事もなかったかのように平然と話しかける。


「ああ、これは失礼。別に天下様の失態をわざわざ笑いに来るような悪趣味は持っておりまねぬゆえ、ご安心を」


 信長の言葉に、そのは姿を見せぬまま、冗談めかした調子でやはり声だけを返してくる。


「フン。相変わらず無礼な奴よのう。今の世で、余の怒りを恐れることなく、かような戯言を言えるのは貴様ぐらいのものだ。そもそも、そのような高い位置から余を見下ろして話すこと自体が無礼千万。いい加減、降りてきたらどうだ?」

 

 信長は呟きながら、やおら斜め後を振り向いて頭上を見上げる……そして、口元に虚無的な笑みを浮かべてその声の主の名を呼んだ。


「のう。〝魔道の呪士〟天沢彦斎あまさわげんさい……」


 彼の見上げた薄暗い部屋の隅……そこには、まるで蝙蝠のように天井からぶら下がる、一人の怪人物が潜んでいた。


 細身の身体に巻き付けた黒い南蛮渡来の羅紗らしゃのマント、それとは対照的な真白い南蛮人の襟巻と、それ以上に青白い能面のような顔。唇だけ朱を引いたように紅く染まり、長く伸ばした銀色の髪が重力に任せて下に垂れている。


 どこか病的な印象を与える風貌であるが、薄闇に赤く光る鋭いその目が、この男に関わってはならないという危険信号を本能的に感じさせていた。


「せっかくのお申し出、恐悦至極にはござりまするが……ま、ご遠慮しておきましょう。我はこの方が性に合っていますのでね。それに我の位置からすれば、見下ろすというより見上げているような……」


 その怪人物――天沢彦斎は天下人・信長のめいにも従わず、天井から逆さにぶら下がった異様な姿のままで、今度もふざけた減らず口を叩く。


「ぬかせ。この化け物めが……で、冗談はさておき、本当は何をしに参った? まさか貴様がただの戦見物で来る訳もあるまい?」


 信長はまたも虚無的な笑みを浮かべると、やや真剣な口調で天沢彦斎に問う。


「フフフ…そうお慌てめなさるな。まあ、確かにただの物見(ものみ)遊山(ゆさん)で来たのではありませんがね。なに、よい知らせを持って来て差し上げたのですよ」


「よい知らせ?」


 信長の瞳が俄かに鋭くなる。


「ええ。よい知らせです。例の娘、伊勢国で見つけましたよ」


「なにっ! それはまことか!? で、首尾は? 娘は捕らえたのか?」


「いえ。伊賀と伊勢の国境で土地の地侍が捕縛したのですが、呪士が邪魔に入って取り逃したようです」


「呪士が? なぜ呪士が出張ってくる? もしや、こちらの策を呪士どもが嗅ぎつけたか?」


 一瞬、驚きと歓喜の表情を見せた信長であるが、今度は訝しさと若干の不安の籠った眼差しで彦斎を睨みつける。


「まあ、今のところその心配はないようですね。邪魔に入った呪士も本来の目的は地侍の非道に対する介入だったようですし……ただ、あの娘が強大な力を引き出す鍵であり、織田がそれを狙っていることは知られたみたいですよ? その助けたという呪士と一部周辺の者達だけにですけど。で、今はその呪士一人が付き添って、娘を玉依の民の里まで護送している最中です」


「どこがよい知らせだっ! 呪士が供をしていては娘を手に入れるのも危ういではないか! これ以上戦が長引けば、こちらの被害を悪戯に増やすのみ。そればかりか毛利や本願寺にまで背後を突かれるやもしれぬ。最早、我が方に時はないのだぞ!」


「なあに、ご安心めされ信長殿。すでに手は打っておりまする。二、三日の内に必ずやお手元にお連れいたしますよ。その愛しい愛しい玉依の民の娘子をね」


「まことであろうな? この戦、勝たねばまた一歩、我らの計画が後退することになるのだぞ?」


「ええ。ご落胆はさせませんよ。ま、天下人らしく、どんと構えてお待ちになっていてくださいませ、信長殿。フフフフフフ…」


 怒鳴り散らす信長に、魔道の呪士は終始冷静な口調で言葉をかけ続けると、不気味な笑い声だけをその場に残し、まるで霞が霧散するかのように姿を眩ました。


「上さま、お酒をお持ちいたしました」


 と、そこへ、蘭丸が酒の入った瓶子を抱えて戻ってくる。


「? ……どうかなされましたか?」


 薄暗い天井の隅を見つめたまま立ち尽くす信長に、蘭丸は怪訝な顔をして尋ねる。


「……なに、天の声が聞こえたのだ。天の声がな……蘭丸、本陣を若宮八幡まで進めると皆に伝えい!」


 信長は天井を仰いだまま、そう蘭丸に言い渡すと愉快そうに独り笑みを浮かべた――。

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