第七幕 隠れ里

 翌三月三日午後、伊勢国・内宮と外宮の両宮にほど近い山の中……。


「――ふう……ようやく、着きましたわね」


 関宿の呪士宿「御蔭屋」を発ってから二日の後、断崖から落下する激流が岩肌に当り、豪快な水飛沫を上げる瀑布の前で珠は安堵の溜息を吐いた。


「今さらながらですけど、馬を使えばもっと早く着けたんじゃないですこと? その方が楽でしたし……」


 それから自分のとなりで周囲を見回している雷童丸にそんな疑問をぶつけてみる。


 二人は関宿から伊勢別街道経由で伊勢街道を南に下り、昨日は松坂で一泊して丸二日かけてここまでやって来たのだった。


「いや、馬は徒歩より目立つからね。極力目立つ行いは避けたかったんだよ。ま、時間はかかったけど、そのおかげでこうして織田方に見付かることもなく無事に来れたじゃないか」


 自らも呪士とわからぬよう漆黒の合羽を脱ぎ、どこにでもいる旅の浪人者のような格好になっている雷童丸は、なおも辺りを見回しながら珠にそう答える。


「……それよりも着いたって、どこに玉依の里があるんだよ? どこにも里なんかないじゃないか? それどころか人の気配すりゃしやしない」


 確かに彼の言う通り、この辺りには人家のようなものがまるで見当たらない。見えるのは山に繁茂する木々や今歩いてきた渓流沿いの獣道、あとは眼前にそびえる断崖絶壁とそこから流れ落ちる滝くらいのものである。


「もう、おバカさんですわね」


 しかし、訝し気に尋ねる雷童丸に対して、珠はそんな言葉を返してきた。


「なんだと!」


 人をバカ呼ばわりする珠の発言に、いつもの如く雷童丸は声を荒げる。


 しかし、彼女はそれを無視して滝の方をじっと見つめると、どこか自慢げに胸を張ってその疑問に答える。


「わたくしは玉依の民の隠れ里・・・だと申しましたのよ? 隠れ里がそんな簡単に見付かる所にあるわけありませんわ」


「えっ!? ……ってことは、どこかに間道かんどうか秘密の入口でもあるとか?」


「ええ。その通りですわ」


 目を大きく見開く雷童丸に、珠はよりいっそう得意げに「えっへん」と胸を張る。


「ほんとに……どこにも人はいませんわよね?」


 そして、キョロキョロと辺りを警戒しながら、雷童丸にも確認するように訊いた。


「ああ、この山に入って以来まったく人の気配はしないよ。したとしても山の獣達だけだ」


「ならよろしいですわ。では、行きますわよ……」


 雷童丸の返事を聞くや、珠は何を考えているのか、目の前の滝目がけてバシャバシャと川の中へ入って行く。


「あ、おい! どこ行くんだよ? まさか、世を憐れんで身投げでもするつもりか?」


 奇妙な行動をとる珠の背中に雷童丸は慌てて手を伸ばすが、彼女は滝の正面まで歩み寄ると滝壺を避けて左に曲がり、回り込むようにして瀑布の裏側へとその姿を消した。


「……!?」


 目を疑うようなその光景に、さすがの雷童丸も唖然としてその場に立ち尽くす。


 だが、わずかの後、ようやく今起きたことのすべてを理解し、彼も珠と同じ道筋を辿って滝の裏側へと飛び込んだ。


 ごうごうと流れる滝の音が、鼓膜を破らんばかりに頭の中で木霊する……。


 しかし、次の瞬間、落下する激流の水圧に身を押し潰されることもなく、ただ水飛沫に袖を濡らしただけで、雷童丸はひんやりとした空気のまどろむ、ぼんやりと薄明るい不思議な空間の中に立っていた。


「洞穴?」


 ……そこは、滝の裏側にできた大きな洞窟だった。


 ぼんやりと辺りが明るいのは、滝の水流越しに外から光が入ってきているためであろう。


「………………」


 雷童丸の目の前では、先に入った珠が自分の右方向――即ち滝とは反対側の洞窟の奥の方を指さして、大きく口をパクパクと動かしている。滝の騒音で何を言っているのか聞き取れないが、どうやら奥に進むよう主張しているらしい。


 彼を促し、先に立って歩く珠に続いて、雷童丸も暗い岩窟の中をついて行く……見ると、洞窟の一番奥には一ヶ所だけ、眩い光を放っている場所が確認できる。


 それは外界から差し込んで来る日輪の光……この洞窟の先は外の世界と繋がっているのだ。


 しばらく進むと滝の音もだいぶ遠退き、相手の声もなんとか聞こえる状態になる。すると、それを待っていたかのように珠が再び口を開いた。


「どうです? 驚きまして?」


「ああ。まさか滝の裏にこんなデカい洞穴があるなんてね」


 やはり誇らしげに尋ねる珠に、雷童丸も素直にそう答える。


「これなら人に見付かるようなこともなさそうだ」


「この入口は見た目にわからないだけでなく、術者にも探し出せぬよう結界を施してありますのよ。ほら、滝のすぐ裏の所に注連縄が張ってあったのご覧になりませんでした?」


「ああ、そう言われてみれば……」


 思い起こすと確かに先程、滝の裏側に入った時に、洞窟の口を塞ぐようにして張られた注連縄しめなわと、それからその端に姿を隠すための呪法――隠行法おんぎょうほうで祀られる摩利支天まりしてんを表した種字しゅじ「 マ(※梵字)」などの書かれた護符が貼られていたのを見たような気がする。


「ですから玉依の民以外、この隠れ里の入口を見つけることはまずできませんのよ。あなた達の呪士宿じゃないですけれど、ここに入ってしまえば、それこそもう安心ですわ」


 そんな珠の解説を聞く内に、二人は洞窟の最奥に穿たれた向こう側への出口へと到達する。


「うっ…」


 瞬間、暗闇に慣れた目に外界の強すぎる光が突き刺さる。


 その眩しさに全面白くなった視界がようやく色彩を取り戻してくると……


 そこには、長閑のどかな山里の風景が広がっていた。


「ここは……」


「ようこそ、玉依の民の隠れ里の一つ〝神宮の里〟へ」


 眩しいのも気にせず再び目を見開く雷童丸に、澄ました顔で珠がそう告げる。

 

 一枚一枚がごく小さな、この時期ではまだ何も植わっていない、こじんまりとした田圃や畑……その間に点在する藁葺屋根の鄙びた家々……そこから立ち昇る炊事の白い煙がよく晴れた青空にたなびき、なんともゆったりとした時間がこの空間には流れている。


 周りを見回すと、その箱庭のような里の周囲にはさっきの滝があった場所と同じようなほぼ垂直の断崖絶壁がぐるりとそそり立ち、自分達が今出てきたばかりの洞窟の上も同じく天然の城壁となっている。 


 思うに、どうやら遥か昔の時代には先程の洞窟より続く大きな地下空間であったものが、いつの頃か天井の岩盤が崩れ落ちたことによって、このように鍋底みたいな広場ができ上がったのであろう。


 故に岩山の中央にぽっかりと空いたこの大穴は、鳥のように空からでも眺めなければ気付くこともできず、なるほど。確かに隠れ里とするには持ってこいの場所である。


「さ、みんなの所に参りましょう」


 桃源郷のような里の景色を呆然と眺める雷童丸に、珠がそう声をかけてまた歩み出す。


「あ、うん……」


 それに続き、田畑の間を縫って通る細い田舎道を、雷童丸も人家のある方へと進んで行った。


「ここがお珠ちゃんの生まれ育った故郷なのかい?」


 歩きながら、雷童丸は珠にそんな質問を投げかける。


「いいえ。わたくしの故郷は出雲国(※現島根県)にある玉依の民の隠れ里ですわ。〝大社の里〟と申しますの」


「出雲? へえ~出雲かあ……出雲にも玉依の民の里があるんだね」


「ええ。わたくし達はそのようにいくつかの聖地として崇められている場所に隠れ里を持っていますの。故郷の大社の里や、ここ伊勢の神宮の里もその内の一つということですわ」


「なるほど。玉依の民の里ってのはそういう風になってるんだね。そうすると、なんだか、おいら達呪士とも似てるな」


 珠の話に、雷童丸は腕を組んで感慨深げにうんうんと頷く。


「呪士も旅暮らしのようですし、呪士宿を各地に設けていますものね……宿ではなく、呪士の方々が住む里のようなものはありませんの?」


 今度は珠の方が興味をそそられて雷童丸に訊き返す。


「いくつかあるにはあるよ。中でも一番大きいのが伊賀国にある呪弥山しゅみせんだ。まあ、里というより一山まるごと山城になってるようなもんだけどね。呪士ってのはご存じの通り、主は持たず個々人が独立して活動してるわけなんだけど、それでも〝呪士連〟っていう呪士の寄り合いみたいなものがあってね。呪弥山はその総本山なんだ。一応、呪士の取りまとめ役のようなことをしてる長老なんかもそこにいるし、呪士のタマゴ――呪士生じゅししょうが修行する道場なんかもあるね」


「では、そこであなたも呪士のご修行をなされたのですね。お生まれもそこなんですの?」


 そう、再び質問をする珠だったが。


「………………」


 不意に雷童丸は言葉を途切らせる。


「ん? ……どうかなさいましたの?」


「おいら、自分の生まれた場所のこと、あんましよく憶えてないんだ」


 振り向いた珠に、雷童丸はどこか淋しげな色の浮かぶ瞳で澄み切った空を見つめ、ぽつりとそう呟いた。


「戦で焼かれたのか野党に襲われたのか、記憶にあるのは燃え盛る山中の村で師匠に拾われた時のことだけだ。それからは師匠について旅をしたり、呪弥山に預けられたりして育った。親がどんな人だったのかも全然憶えてない……」


「そうでしたのね……」


 雷童丸に引っ張られ、珠の声も淋しげになる。


「それもわたくしと似ていますわね。わたくしも幼い頃に両親を亡くし、顔もほとんど憶えておりませんの……まあ、生まれ育った故郷のことだけはちゃんとわかっていますから、その点、わたくしの方が恵まれていますけれどね」


「へえ…お珠ちゃんもそうなんだ……なんだか、おいら達いろいろと境遇が似てるな」


「ええ。少々癪ですけれど、どうやら似た者同士みたいですわね」


 物憂げな表情で語る雷童丸に、珠もその言葉とは裏腹に優しげな笑みを湛えている。けして楽ではなかったお互いの境遇を知り、二人はいつになく意気投合していた。


「お~い! 珠姫さま~っ!」


 そんな重苦しくもどこか温かな空気の流れる時間を破ったのは、遠くから聞こえてくるこども達の叫び声だった。


 見ると、数軒の人家が集まっている方角から、三人のこどもらがこちらに向かって駆けて来るのが見える。


「あ! 皆さん、お久しぶりですわ~!」


 それに気づき、珠もこども達に大きく手を振って返す。


「珠姫さま、お帰りなさーい!」


 わずかの後、傍まで駆け寄ったこどもらはもう一度改めて、大きな声を揃えて珠に挨拶した。


 巫女集団・玉依の民の里にしては相応しくない、顔も手も真っ黒に日焼けした、まだあどけない素朴な少女達である。


「はい。ただいまですわ」


 珠は腰を屈め、その少女達の顔を覗き込むようにしてにこやかに答える。


「珠……さまぁ?」


 だが、そのとなりでは、ひどく不可解な顔をした雷童丸がぽかんと口を開けていた。


「……も、もしかして、お珠ちゃんって、お姫さま……だったの!?」


「ん? ええまあ……でも、世間一般にいうところのお姫さまとは少し違いますけどね……」


 雷童丸の質問に、珠はなんだか困ったような顔色をして、そんな曖昧な答えを返す。


「なんだよ。そんならそうと最初から言ってくれればいいのに……全然、おいらと違うじゃないか……」


 意外にも彼女が〝お姫さま〟と知り、なんだか不貞腐れた様子でブツブツと文句を口にする雷童丸だったが。


「なんですの、その言い方!? なぜ、わざわざあなたに言っておかねばならないんですの!? 別に訊かれなかったから言わなかっただけですわ!」


 それが何か彼女の癇に障ったのか? 珠も表情を曇らせると雷童丸に喰ってかかった。


「な、なんだよ急に……そっちこそ、なにいきなり怒ってんだよ!」


「それはあなたが無神経なお子さまだからですわ! 誰だって話したくないことの一つや二つあるものなんですのよ! それにわたくしはその姫と呼ばれるのがあまり好きでは…」


 そうして、またいつもの如く言い争いになろうとする二人だったが、その途中で新たな声の邪魔が入る。


「おお、あれは珠姫さまじゃ!」


「ああそうじゃ! 珠姫さまじゃ!」


「この里にまたいらしてくれたのね!」


 それは、こどもらの騒ぎを聞きつけて出て来た里の者達の声だった。しかし、こちらも巫女の里にはそぐわぬような、百姓みたいななりをした人々である。


 しかも想像していたものと違って、女ばかりか男の姿もけっこう多く見受けられる。


「玉依の民って、みんな巫女だと思ってたけど、そうじゃない人もけっこういるんだな……それに女子ばかりでなく男もいるし……」


 里人達に気を取られ、雷童丸は珠との諍いも忘れて感じたままの疑問を口にする。


「世間では全員巫女のように思われていますけど、実はそうでもありませんのよ。もちろん、主には巫女を生業として暮していますけど、里ではお米や野菜を作っていますし、それに女子ばかりでなく、家族として男もたくさんおりますわ」


 珠もその問いにつられて、なんの気なしに普段の調子で答える。


「ふーん……それはそうと、故郷でもないのに随分と大歓迎じゃないか。珠姫さま・・・


 しかし、今の言い争いをすぐに思い出すと、雷童丸はどこか嫌味な口調で珠に返す。


「ええ。もう幾度となくこの里へは来ていますからね。わたくしにとっては第二の故郷のようなものですわ。それに、わたくしは里の者達にものすごく人気がありますのよ。何せ、わたくしはですからね」


 対して珠も無理に感じ悪く威張ってみせると、思ってもいないようなことを言って雷童丸を急かす。


「あなたとこんな所で立ち話をしているのも時間の無駄ですわ。さ、あなたの仕事を終わらせて、とっとと帰ってもらうためにも早く参りましょう」


「参る? ……参るってどこへだよ?」


 憮然とした顔で尋ねる雷童丸に、こちらもツンとした態度で珠は答える。


「もちろん、オババさま・・・・・の所ですわ――」


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