第一幕 黒合羽(マント)の士

 天正五年(1577)年二月二八日、伊賀国(現三重県北西部)の東に伊勢国(現三重県南部)と接する鈴鹿山脈付近……。


「――ガハハハハハ! 思いの他にうまくいったわ! 目当てのモノ・・・・・・を手に入れられた上、おまけに福地ふくちの城まで落とせるとはのう」


「さすがは殿。まさか我らが攻めて来ようとは福地も思いませなんだでしょうな」


 旧暦二月末――現在ならば三月後半にあたるこの時期の、春といえどもまだ肌寒い夜風の吹く山中で、神戸かんべ(織田)信孝のぶたか配下の武将・鍬形信氏くわがたのぶうじは、福地氏の山城を攻めるべく陣を構えていた。


 ゴロゴロゴロ…。


 空は一面、黒々とした雨雲に覆われ、時折、何やら不吉な予感を誘う雷鳴の轟きが遠い彼方から聞こえてくる。


 月もなく星もない、そんな真っ暗闇な夜の陣中で、赤々と燃える篝火の炎に照らされながら鍬形はもう一度、三方に張られた白い陣幕に悪どい高笑いを卑しくも響かせた。


「ハハハハハ! 慌てて城へは逃げ込んだが、急なことで福地も戦支度ができてはおらぬ。このまま力攻めに攻めても我らが勝利は確実ぞ! これは恩賞が楽しみじゃわい」


 やや小太りな体格に紺糸おどしの甲冑を着込んだ鍬形は、イヤらしい笑みをその顔に浮べながら山上の城の方を見つめて言う。


「まことに。例の小娘を捕え、おまけに伊賀攻めの足がかりとなる城まで手に入れたのですからな。信孝様もさぞやお喜びになられることでしょう。信孝様ばかりか伊勢国司であらせられる信雄のぶかつ様…いやいや、そのお父上であらせられる信長様からも、きっとお褒めのお言葉をいただけることかと……」


 鍬形のとなりでは、やはり狡猾な笑みを口元に張り付けた細身の家臣が、獲らぬ狸の皮算用にも早々恩賞のことまで気にしている。


「おお! 信長様からも……ということは、福地の領地ばかりでなく、さらに新たな領地をくだされるのではありませぬか?」


「なれば、殿! 是非とも我らにもそのお裾わけを!」


「うむ。わしにご加増あったその暁には、そなた達にもたんまりと恩賞を与えようぞ。ガハハハハハ!」


「おおお! それは頼もしいお言葉! そう言われると、ますます福地の城を攻める手にも力が入るというものだわい。ウワッハハハハハ!」


「では、早速に福地めの息の根を止めに総攻めと参りまするか? ワハ…ワハハハハ!」


 鍬形を取り囲む、いずれも性悪そうな面相をしたその他四人の家臣達もまた、夜の山中に下品な笑い声を耳触りにも振り撒く。


 鍬形軍の者達は皆、自分達の明るい未来を疑うことなく、敵の城を落とす前から勝利の美酒に酔いしれていた。


 …………しかし。


「あのう……せっかく盛り上がってるとこ悪いんだけど、ちょっと失礼しますよお」


 突然、まるで聞き憶えのない声が鍬形達の耳に聞こえてきたのだった。


「…!?」


 その声に、鍬形と彼の家臣達は皆、そのバカ笑いをやめて不意に沈黙する。


 すると、彼らの眼前に広がる漆黒の闇の中から、まるでその暗闇が凝り固まって人型を為したかのように、真っ黒な頭巾フード付の合羽マントを羽織った奇怪な人物が一人現れた。


 合羽のためによくはわからぬが、身の丈はそれほど高くなく、まるで少年か|女子(おなご)のような体格をした人物である。


「……な、何奴じゃ!?」


 予期せぬ異形の珍客に、鍬形は唖然とした表情でその人物に問いかけた。


鳴神なるかみ呪士じゅし兵主雷童丸ひょうずらいどうまる……」


 鍬形の問いに、目深に被った頭巾フードも取らぬまま、黒衣の人物はよく通る声で一言、そう名を名乗る。


「じゅ、呪士……じゃと?」


 呪士――その言葉を聞いた瞬間、鍬形は脂ぎった顔面を硬直させた。それは、彼の家臣達にしても同じである。


「な、なぜ、その呪士殿がこんな所に……も、もしや、我らにお力添えくだされるので?」


 どういうわけか、すっかり血の気の失せた顔になってしまった鍬形は、それでもなんとか気を取り直し、〝呪士〟を名乗るその人物に希望的観測を込めて尋ねる。


「ハハハ…まっさかあ。わかってるくせに。呪士があんた達の味方するわけないじゃん。その逆だよ、逆。おいらは福地の殿様に依頼を受けてここに来たんだよ」


 だが、その呪士――兵主雷童丸は、鍬形の淡い希望を完全に裏切り、無邪気な声で彼にそう返した。


「……そう。おいらはあんた達に報いを与え・・・・・に来たのさ」


「………………」


 鍬形達の身の内を流れるどす黒い血は、今の言葉で完全に凍りついた。


「……な、なぜじゃ!? なぜ、呪士が福地の味方をするっ? 不公平ではないかっ! 戦をするは戦国の世の習い。領地を奪い合うのも世の理ぞ! 今は我らが攻手じゃが、福地も我らも同じ立場じゃ! にも関わらず福地ばかりをひいきするとは……明らかに理不尽でない限り、どちらの味方にも付いてはならぬのが呪士の掟ではなかったのか!?」


 わずか後、鍬形はようやく震える唇を開き、狂ったように悲痛な抗議の声を上げる。


「確かに……今の世の中、誰しもが攻める側にも攻められる側にも回る。だから、どちらが悪でどちらが正義かなんてことも簡単には言えない。昨日、攻めた者が明日に攻められもまた因果応報……それについちゃ、おいら達呪士の干渉はご法度はっとになってる」


「そ、そうじゃろう? わ、わかってくだされましたか。なれば、我らを攻めるようなことなく、この場はこのままお立ち退きを…」


 鍬形の必死な叫びに、一瞬、その雷童丸なる呪士も納得したかのように思われたのであったが……。


「でもね。今回の場合は少し違う。あんた、福地の殿様に織田方へ付くよう誘っておいて、福地がその誘いを受けたにも関わらず攻め込んだだろう? 仲間になって安心したところを騙し打ちなんてひどい話だよ。しかも、福地の城を攻めるというより、もとから村を襲って若い娘達をさらうことが目的だったようだしね。いくらなんでもやり過ぎだ。故に今回のあんた達の行いは理不尽・・・と判断した……悪いが因果応報の均衡を保つために、おいらは福地の側に付かせてもらうよ」


 雷童丸は相も変わらぬ無邪気な声の調子で、淡々と鍬形に最終勧告を下す。


「………………」


 たった一人の者を前にして、数で勝る鍬形達は誰一人動くことができない。なんだか少年のもののようにも聞こえる若々しい声色ではあるが、その夜気を震わす響きの内には、ひとかどの侍でも怯えて余りあるような、なんとも得体の知れない恐ろしさを秘めている。


「し、しかし、乱捕り(※強盗)も戦の世の倣いじゃ。べ、別にわしだけが攻められなければならぬような罪では……」


 ようやく開いた口で、鍬形は再度、抗議の声を上げようとするが。


「まあね。でも、福地の殿様は今までに乱捕りをしたことがない。だから、その応報を受けなきゃならない因果はないのさ。あんたのしたことは因果応報にならない。つまり、悪いのはあんただ」


「ま、ま、待ってくれ、こ、これには深山幽谷よりも深い理由わけがあるのじゃ!」


 まるで取り付く島もなく、理路整然とその反論を一蹴する雷童丸に、顔を恐怖に引きつらせた鍬形は両手を前に突き出して言い訳を始める。


「じ、じつは福地の領内で織田様が探しているというさる娘・・・を見つけての。その娘を連れていけばたんまりと恩賞がもらえるんじゃが、福地が織田に付くとなれば、やつがその娘を差し出して、すべては福地の手柄にされてしまう!」


「織田の探している娘?」


「そ、そう! 娘じゃ。最初に見つけたのはこのわしじゃというのに、その手柄をむざむざ他人に横取りされるとは、それこそ理不尽じゃとは思われぬか? じゃから、やむなくわしはその娘を捕えに福地の領内へ攻め入ったのじゃ。村の娘達をかっさらったのだって、すべてはその娘を探すためのこと。わしにもそれなりの事情というものがあるのじゃよ!」


 鍬形は、なんとか雷童丸を懐柔しようと必死である。


「織田へ付くよう工作していたこの時期に、折り悪くその娘が福地の領内にいたのがいけないんじゃ! 何もわしははなから村を襲おうと思ったのでも、福地を騙し討ちにしようとしたわけでもない。そう。すべては運命の悪戯……のお、呪士殿。こうして話を聞けば、わしばかりを攻める気にはならぬであろう?」


 聞き返す雷童丸に、多少なりと自分の話に耳を傾ける気になってくれたのかと鍬形は少し顔色を明るくする……のだったが。


「知るかそんなもん」


 雷童丸はあっさりと鍬形の渾身の言い訳を切って捨てた。


「そんなのあんたの勝手だろう。それに、こうして福地の城まで攻めてるってことは、やっぱり城も手に入れようっていう腹積もりじゃないか。今、あんたの仕えてる神戸信孝や織田方は伊賀への足掛かりとなる城を欲しがってるようだからね。そうすれば二重に恩賞へありつけるって寸法だ。んな白々しい嘘言ってみたところで、悪いけど、おいらはそう簡単に騙されたりなんかしませんよ~だ」


「く、くうぅ……」


 頭巾の影から小バカにするようにして言う雷童丸に、鍬形は苦々しげな顔で再び閉口する。最早、相手にはすべてお見通しのようだ。


「……か、かくなる上は致し方なし……え、ええい! 呪士とて何ほどの者ぞ! 言うても相手はたかだか一人。対してこちらは二百を数える兵がおる! 全員一丸となって攻めかかれば、いくら呪士とて敵うまいて!」


 懐柔が不可能とわかった鍬形は方針を一転。今度は強気に出ることにする。


「そ、そうじゃ! それにこちらには大勢の人質もおるではないか! どうじゃ呪士殿? わしが一言声をかければ、捕えた村の娘どもはどうなるかわからぬぞ? もしも娘らの命を助けたくば、おとなしくわしの言うことに従ってもらおうか!」


 その上、さらって来た村娘達のことを思い出すと、破れかぶれにもそんな脅しまで雷童丸にかけてみせる。


「ああ、その点ならご心配なく」


 が、残念なことに、その虚勢を張った脅しも雷童丸にはまったく通じなかった。


「すでに手は打ってあるよ。もうそろそろ、おいらの相棒が娘さん達を助け出している頃だろうさ。あんたの手勢に関しても、その相棒が散々な目に遭わせてることだろうね。かわいそうだけど、運が悪いと噛み殺され・・・・・ちゃってるかな?」


「…ぐわあああーっ!」


「ぎゃああああーっ!」


「な、なんだ、この化け物はっ!? ……う、うわあああーっ…!」


 雷童丸の話が終わるが早いか、ちょうどその時、どこからともなく地獄の亡者が放つ断末魔のような叫び声が夜風に乗って聞こえて来た。


「ああ、今、その散々な目の真っ最中だったみたいだね」


 声の聞こえてくる闇の方へ顔を向け、雷童丸は呑気な台詞を口にする。


「い、一体何が起きているというのじゃ……」


 この窮地を脱するための最後の切り札もあっさりとなくし、もうこれ以上言い訳をしたり、虚勢を張るような元気も鍬形にはない。


 彼の家臣達も初めて対峙する〝呪士〟という存在に先程からただただ呆然とその場に立ち尽くし、一言も口を聞くことができないでいる。


「さて、そんじゃこっちもそろそろ始めようか?」


 それでも雷童丸に容赦をする気はさらさらないらしく、いまだ頭巾を被ったままの影に覆われた顔で、今にも降り出しそうな曇天の夜空を見上げながら呟いた。


「……うん。なかなかイイ感じにピリピリ来てるね」


 湿った空気中に静電気を感じながら、雷童丸は虚無的な笑みを頭巾から覗くその口元に浮かべる。


「……よ、ようやくわしにも運が向いてきたというのに……こ、こんなところで死んでたまるかっ! こうなったら一か八かじゃ。この手で呪士の首を上げ、我が名を天下に轟かせてくれようぞ! 皆の者! わしとともに一気に斬りかかれい!」


 〝窮鼠猫を噛む〟の諺が如く、追い詰められた鍬形は最後の行動に出る……彼は血走った眼で号令を発すると、自らも腰の太刀を引き抜いた。


「お、オーッ!」


 鍬形を囲む五人の家臣達も、その声に覚悟を決め、一斉に抜刀して白刃を天に掲げる。


「一つ忠告しておくけど、この雲行き・・・でそんな物高く上げるのは自殺行為だと思うよ?」


「それい! かかれいっ!」


「てりゃあああぁーっ!」


 太刀を振り上げた武者六人は雷童丸の忠告も無視し、まるで動揺した様子もない彼めがけて一気呵成に斬りかかる。


 その刹那。


「オン・インドラヤ・ソワカ……」


 雷童丸は左手の人差し指と中指を交差させて印を結び、口に帝釈天――もとはインドの雷神インドラの真言を唱えた。


神立かんだち!」


 カッ! …ドオォォォォーンっ!


 次の瞬間、目の眩むような白い光が黒雲を輝かせ、何かが爆発でもしたかのような轟音が周囲の闇に鳴り響く。


「………………」


 しばしの後、夜の陣中は再び静寂を取り戻し、強力な光に眩んだ視力もようやく回復してくる……と、その場に見えてきたものは、鍬形達六人の真っ黒焦げになった無惨な姿だった。


 先程、太刀を振り挙げた格好そのままに、落雷で焼け焦げた彼らの死体からは白い湯気がシュウシュウと上がっている。


「ふぅ……これにて本日のお仕事一件落着」


 人の肉の焼ける臭いが辺りに立ち込めるその異様な空間の中で、ようやく雷童丸は目深に被っていた頭巾を取り去る……。


 驚くことに、頭巾の下から現れたその顔は少年のものだった。まだまだ若い、キラキラと輝く目をした十五か十六くらいになる少年だ。


「こっちはすんだけど、三日鎚みかづちの方はどうなったんだろ? おおーい! 三日鎚ーっ!」


 雷童丸は後頭部で束ねた長い髪を左右に揺らしながら、辺りを見回してその相棒の名を呼んだ。


先程、鍬形の兵達に断末魔の叫びを上げさせていた、別行動を取る例の仲間である。


「グルルルルル……」


 すると、猛獣の唸り声のようなものが陣の裏手の方から聞こえてきたかと思いきや、白い陣幕の上に異様な影が映る……。


 篝火の揺らめく炎に映し出されたその姿は、馬か牛ほども大きさのある身体に、頭からは二本の巨大な角のようなものを恐ろしげに生やしている。


「グルルルル……」


 腹の底に響く凶暴な唸り声を上げながら、その猛獣の影は徐々に雷童丸の方へと近付いて来る……。


「グルルル……」


 そして、陣幕によって遮られた死角を抜け、鍬形の兵達から〝化け物〟と称されていたその生き物は、ついに雷童丸からでも見える位置にまでその巨体を移動させる……。



 

「グルル♪」


 


 …………だが、出てきたのは一匹のウサギだった。


「おお、三日鎚、どうやらそっちも全員片付けたようだな」


 もちろん、牛や馬ほどの大きさもない。極めて一般的な、子猫くらいの、灰色をしたカワイらしい野ウサギである。


 どうやら角に見えたのは長い耳の影で、巨大に思えたのも影絵の要領で陣幕に大きく映し出されていただけのことらしい。


「で、さらわれた村の娘達はどうした? みんな無事逃げられたか?」


 その愛くるしい小さな相棒のウサギ――三日鎚に、雷童丸はしゃがみ込んで親しげに話しかけている。


「グルルル」


「おお、そうかそうか。よしよし。今日もよくやったな」


 相棒なだけに会話ができるのか? 雷童丸はその鳴き声にニっコリと笑みを浮かべると、三日鎚の頭を優しく撫でてやった。


「グルル…」


 撫でられた三日鎚も嬉しそうに目を細め、今度は鼻をヒクヒクさせながら、今、自分の出てきた陣幕の裏の方を鼻先で指し示す。


「ん? なんだ? 向こうに何かあるのか?」


「……んんん…」


 三日鎚に教えられ、雷童丸もそちらへ注意を向けると、何やら人の呻き声のようなものが微かに聞こえた。


「もしかして、そこに誰かいるのか?」


 不審に思った雷童丸は注意深く歩みより、素早く陣幕をたくし上げてその背後へ顔を出す。


「…!?」


 すると、そこには両手両足を縄で縛られた上、木の幹にグルグル巻きにされた一人の少女がうずくまっていた。


「んんーっ!」


 加えて口にも猿轡さるぐつわが嵌められ、まん丸に見開かれた目で雷童丸の方を見てはいるものの、言葉になるような声を出すことができない。


「なんだ? まださらわれた娘が残ってたのか? んでも、それにしちゃあ随分と大袈裟に縛られてるな……よし。今助けてやるからちょっと待ってな」


 雷童丸はその不必要に用心深い対応を気妙に思いながらも、急いで駆け寄って猿轡を取ってやる。


「ぷはっ!」


 長いこと口を塞いでいた布がようやく外され、少女は海面に浮かび上がった海女あまのように大きく新鮮な夜気を吸い込んだ。


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