第二幕 戦場の巫女
「ハァ……やっとまともに息ができるようになりましたわ。ありがとうございます」
吸い込んだ空気を溜息とともに吐き出し、少女は雷童丸に礼を述べる。
「でも、なんだか獣の肉を焼いたようないい臭いがしますのね……なんですの? この臭いは? 御馳走でも用意してございますの?」
「ん? …ああ、それについちゃあ、知らない方が身のためだと思うよ? たぶん飯が食えなくなるから」
きょろきょろと周囲を見回し、クンクンと臭いを嗅ぐ少女の質問に、雷童丸は苦笑いを浮かべながら、今度は腰に差していた脇差を抜いて縄を切ってやる。
「痛たたた……こんなか弱き乙女をきつく縛り上げるなんて……ふぅ…なんと乱暴な者達なんでしょう」
戒めを解かれた少女は縄の跡も痛々しい手首を摩りながら、冷え切った地面の上によろよろと立ち上がる。
「怪我をしたのか? どら、見てやるからこっちの明るい所に来な」
そんな少女の冷たい手を取り、雷童丸はもっと明るい篝火のもとへと彼女を引っ張り出す。
「……!」
だが、篝火の明かりでその顔がはっきりと見える位置にまで来た瞬間、思わず雷童丸はその動きを止めた。
なぜならば……その少女が思いの外にたいへん美しかったからだ。
長く垂らした麗しい黒髪に、透き通るような白い肌。鼻筋の通った小さな顔に、大きく碧がかった水晶のように綺麗な瞳が見開かれている。
この稀に見る美しい容姿……どこぞの大名の姫君か何かだろうか? だが、視線を下の方へ移すと、彼女は白い
「あんたは……」
「あなたは福地の侍? それにしてはまだこどものようですけれど……」
その素生を問い質そうと口を開いた雷童丸だったが、一瞬早く少女の方が彼に尋ねた。
自分だって歳は雷童丸とあまり変わりなさそうなのだが、雷童丸のことをこども呼ばわりしている。
「こうしてわたくしが助けられたということは、今の騒ぎは福地の兵が鍬形を撃退したんですのね?」
続けてこの少し高飛車な口調で喋る美少女は、追加の質問を雷童丸にぶつける。
「……ああ、いや、福地勢は山城に籠ったままだ。でも、鍬形の軍はおいらが一人で壊滅させたからもう安心していいよ」
彼女の美しさに見とれていた雷童丸は、ようやく気を取り直し、その問いに答える。
「あなたが一人で? ……まさか。こんな状況で冗談はよしてくださいます?」
だが、その言葉を少女はまるで信じない。
「いや、冗談でも法螺でもないさ。嘘だと思ったら見てきなよ? 鍬形信氏とその仲間達の死体が転がっているからさ……って、あ! いや! やっぱ見ない方がいいかな?」
考えなしにしてしまった前言を撤回し、慌ててそう忠告する雷童丸だったが、少女は聞かずにおそるおそる闇の中へと分け入って行く……。
「……うぐっ!」
わずかの後、ほんの少し前まで鍬形達がバカ笑いをしていた白い陣幕の中からは少女の嗚咽が聞えてくる。
「な、なんですの!? あ、あの、く、黒焦げになった死体は…うぅ…!」
そして、陣幕をたくし上げて戻って来た彼女は、そう尋ねる内にも再び吐き気を催した。
「だから見に行かない方がいいって言ったのに。あれはね、おいらが雷を落として焼いた鍬形達さ。ちなみに他の逃げ遅れた兵達の死体も山の裾野に転がってると思うよ?」
「グルルルル!」
すると、そんな少女の姿を見つめ、愉しげな様子でなんだか怖いこと言ってる雷童丸の合羽の裾を、三日鎚が門歯で噛みながら怒った様子で唸る。
「ん? ああ、ごめん。訂正するよ。おいら一人じゃなくて、この三日鎚もいたんだった。っていうか、兵のほとんどは三日鎚が蹴散らしたんだから、こいつの手柄の方が大きいかな?」
雷童丸は笑みを浮かべながら三日鎚に謝ると、その小さな体を抱き上げて少女の顔の前に掲げる。
「……う、ウサちゃん?」
やっと吐き気の治まりかけた少女は、愛くるしい三日鎚を見つめ、さらに目を丸くした。
「ウサギはウサギでも、ただのウサギじゃないよ? こいつは
「………………」
少女は雷童丸の説明をちゃんと聞いているのかいないのか? ポカーンとした顔で三日鎚の円らな赤い目と見つめ合っている。
「ま、ウサギの話は冗談としても、確かに鍬形の兵は一人も残っていませんし、かといって福地の兵も見当たらない……どうやら、あなたがなさったというのは本当のことみたいですのね」
「いや、三日鎚のことも本当なんだけど……」
「グルル…」
やはり、ウサギが敵兵を撃退したなどという話は微塵も信じてくれていない少女に、雷童丸と三日鎚は少々不服そうにぼそりと呟く。
しかし、どうやら彼がこの状況を作り出したということに関しては、ようやく信じる気になったみたいである。
「たった一人であの大勢の兵を……それに、あの黒焦げになった奇妙な死体……あなた、いったい何者なんですの?」
そうとわかると、今度はこの目の前に立つ正体不明の少年に対して、徐々に恐怖という感情が湧き起こってくる……少女は大きく見開かれた瞳を微妙に震わせながら雷童丸に尋ねた。
「おいらは兵主雷童丸。鳴神の呪士さ」
対して雷童丸の方は、顔に無邪気な笑みを浮かべて明るい声でそう答えた。
「じゅし? ……じゅしって、あの呪士ですの? 呪術を用い、一人で千の兵に匹敵する力を持つという……」
「ああ、そうさ。その呪士だよ。んで、この三日鎚がその呪士が必ず一匹は連れている霊獣ね」
「まさか! あなたみたいなこどもが呪士なわけありませんわ! 呪士と言えば、滅多に会うこともないくらい、ごくわずかな限られた者しかなれないんですのよ? なのに、あなたのようなこどもが呪士だなんて……」
だが、その話も少女は信じようとしなかった。確かにまだ年少の雷童丸の外見からしたら、俄かには信じ難い話である。
「さっきからこどもって、そっちだってまだこどもじゃないか。確かにおいらは歳が若いけど、嘘偽りなく正真正銘の呪士だよ。ま、つい最近、師匠に仮の免許をもらって
自分を呪士だとどうしても信じてくれないその少女に、雷童丸は頬をプクっと膨らませてそう説明した……が、そのフグのような顔はやはりこどもである。
「ほら、これが呪士の免許状だよ」
まだなお疑わしい目を向けているいる少女に、彼は懐から取り出した一巻の巻物を手渡す。
「………………」
おそるおそるそれを受け取ると、少女はさっそく中を開いて検める。すると、確かにそこには〝兵主雷童丸〟という名前と〝右の者に呪士道の伝授を許す〟という内容の文言がしたためられていた。
「ほ、ほんとにあなた、呪士……ですの?」
半信半疑に、それでも半分はその事実を認めざるを得ない気持ちになって、少女はもう一度、改めて雷童丸に確認する。
「だから、さっきからそう言ってるだろ? ま、そういうことで、おいらが泊まってた
あくまで呪士であることを疑う少女に雷童丸はやや不満そうに答えると、免許状を彼女の手から取り返し、そそくさとその場を立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっとお待ちになって!」
しかし、そんな雷童丸の背中を少女の声が呼び止めた。
「あなた、こんなか弱き乙女を一人で夜の山中に置いていくおつもり? もし狼や山犬なんかに襲われたりしたらどうするんですの? この際、あなたが呪士だってことは認めてあげますから、ちゃんと安全な所まで送り届けなさい!」
「……はあ?」
その上から目線な物言いに、雷童丸は面倒臭そうに振り返る。
「……あのね。言っとくけど、おいらにそこまで面倒をみる義理はないの。他の村娘達はちゃんと自分で村に帰ったんだから、あんたも自分で帰んなよ」
「いいえ。わたくしは村の者ではありませんわ。それに織田はわたくしを捕らえようと狙っていますのよ? 鍬形が村を襲ったのだって、わたくしが偶然、あの村に滞在していたため……ですから、まだ織田の息のかかった者に襲われないとも限りませんわ!」
少女の依頼をあっさりと却下する雷童丸だったが、それでも彼女は引き下がらない。
「そういえば、そんなこと鍬形も言っていたような……あんただけ、なぜか他の娘達とは別に囚われてたし……あんたこそいったい何者だ? 織田に滅ぼされたどこかの大名一族の生き残りか? それとも、織田のもとから逃げ出して来た人質か何か?」
雷童丸は鍬形の言葉を思い出し、俄かに不審感を抱いて少女に訊き返す。
「いいえ。わたくしは
「玉依の民……って、あの〝旅する巫女〟の一族か? ……なるほどね。それでそんな巫女装束なわけだ。でも、それがなぜ織田なんかに狙われてるんだよ? 玉依の民の神降しの技はなかなかのものだと聞くけど……もしかして、それと何か関係でも?」
「それについては詳しく話せませんわ」
少女――珠は静かに目を伏せ、首をゆっくりと左右に振ってその答えとした。
「でも、これだけは言えます。もし、わたくしが織田方に捕まったら、きっと大変なことになってしまいますの……ですからお願いです! 呪士として、わたくしを織田の手が届かない安全な所まで連れて行ってください!」
珠はそれまでの高飛車な態度から一変。ひどく真剣な眼差しで雷童丸の顔を見つめながら頼み込む。
「…………ゴクン」
その円らな瞳をうるうるとさせた美少女の視線に、雷童丸も一瞬、息を飲む。
「……悪いが、それはできない」
しかし、雷童丸はその必死の頼みを申し訳なさそうに、だが、きっぱりと断った。
「おいら達呪士は因果応報の均衡を取り戻すための戦――即ち、本来、天が為すべきことを代行し、何か理不尽な行いをした者に対してその報いを与える場合においてのみ、その強大な力を使うことが許されている。いかなる理由があろうとも、それ以外の目的で特定の者に加担することはご法度だ。でないと、呪士自身がこの世の均衡を壊してしまうからね。ま、最近じゃその掟を平気で破る
「…………わかりましたわ」
沈痛な面持ちでその断る理由を説いて聞かす雷童丸に、珠は再びその目を伏せ、静かにそう頷く。
その頷きは彼女が雷童丸の呪士としての事情を理解し、彼への依頼をやむなく諦めたものであるかのように思われた。
……しかし。
「やっぱり詳しくは話せませんけど、さっき言った〝大変なことになる〟というのは、別にわたくし個人や玉依の民に関してのことじゃありませんの……あなた達と同様、もしもわたくしが織田方に捕まるようなことにでもなったら、それは織田に
「……!?」
彼女のその意外な台詞に、雷童丸は目を大きく見開く。
「……どういうことだ?」
そして、それまでは見せなかったひどく険しい顔つきになって珠を問い質した。
「ごめんなさい。わたくしも掟でこれ以上のことを喋ってはいけませんの……でも、これでおわかりになったでしょう? わたくしに力を貸すということは、けしてあなた達呪士の掟に逆らうことにはならないと。いいえ。今、あなたがおっしゃられた話からすれば、これはむしろ呪士の本分というものにございますわ!」
「うーん……」
どうやら嘘は言っていないらしく、真剣な眼差しで説得を試みる珠に、雷童丸は腕を組むと眉間に皺を寄せて考え込む。
「お願いです。わたくしの話を信じてください! でないと、本当に大変なことになってしまうかもしれませんの……もしも、そんなことになったらわたくし……」
そこへさらなる追い打ちをかけるかのように、珠は再びうるうるとした円らな瞳で雷童丸のことを見つめる。
「ええい! わかった! わかったよ。安全なとこまで送り届ければいいんだろ!」
可憐な少女の真っ直ぐな視線に耐え切れず、ついに雷童丸は彼女の頼みを引き受けることにした。
「ほんとですの! ありがとうございますわ! ええと……
その色良き返事に珠の顔はパアっと明るくなる。
もとから顔がいいだけに、その笑顔がなんともまた堪らなくカワイらしい……名前、変な誤解を生むような感じに間違えてるけど。
「……雷童丸だよ……んでも、呪士も仕事を引き受ける際には、それ相応の手間賃を貰う決まりになってる。それはちゃんと払えるのか?」
嫌そうに名前を訂正しつつもその笑顔に頬を赤らめ、雷童丸はそっぽを向いてわざと無愛想な口調で言う。
「ええ。それについては大丈夫ですわ。
「そっか。そんなら問題ない。んじゃ、その里とやらまで連れて行けばいいんだな。で、その里っていうのはどこにある? ここから近いのか? 伊賀か? それとも北伊勢?」
雷童丸は額に手をかざし、目指すその地を遠望するかのように辺りを見回しながら尋ねる。
「いいえ。もっともっと南。伊勢の神宮の近くですわ」
だが、そんな彼に対して無邪気な笑みを浮かべたまま、さも当然というように珠は明るくそう答えた。
「ああ、神宮ね……はあっ!? 神宮だとおぉーっ!?」
雷童丸は時間差で大きく目を見開き、曇った闇夜の空に驚きの声を張り上げた……。
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