第十五幕 クシナダの姫

 翌三月九日未明・織田が陣を敷く雑賀川の河原……。


「ハッハッハッ! よろこべ、クシナダの姫よ。ようやくそなたの力を存分に発揮する時がまいったぞ!」


 時折、馬の嘶きが何処いずこからか聞こえてくる朝の静かな戦場で、絶縁の呪士・間見甲次郎は珠を前にして高らかに狂喜の笑い声を上げていた。


「よろこべですって? 誰がこのような状況で喜べるものですか! それに、わたくしは絶ぇっ対! クシナダの姫の力を使ったりなどしませんからね!」


 いつもの丁寧だが気の強い口調でそう息巻く珠は、さかきと注連縄によって作られた四角い結界の中、その中心にそびえる丸い白木の柱に立ったまま後ろ手に縛られている。


 猿轡こそ今日は外されているものの、完全に囚われの身であることに変わりはない。


 ただ、そんな状況とは裏腹に、珠の華奢な身体は千早も羽織った正式な巫女装束で彩られ、その顔にも口に紅を引き、額には〝花〟を表す文様を描く化粧が施されるなど、そうでなくても顔立ちのよい彼女は普段以上に美しい容姿を誇っていた。


 無論、それは彼女自身がしたことではなく、彼女の役目・・・・・を果たさせるため、間見が無理矢理そうさせた演出である。


 演出といえば、珠の縛られた白木の柱やそれを囲む榊と注連縄の結界もまた、彼女に降ろす神を迎えるための装置なのであるが、そうした一連の装置――神籬ひもろぎの後方には祭壇が設けられ、そこには須佐之男命の分霊を宿した御札が祀られている。


「さて、それはどうかな? そなたにその気がなくとも、そなたの中におる〝クシナダの姫〟の本性は、早く愛しき夫〝スサノオ〟を呼び寄せたくてうずうずしておるはずだ。なあに安心せい。いくら抵抗してみたところで、それがしがこいつ・・・でちゃんと神憑りにしてやる」


 間見はイヤらしい笑みを薄い顔に張り付けて言うと、手に持った石のような物を珠に見せつけ、自分の右斜め前方に控える者の方へと視線を向けた。


 間見の手にしている石――それは「石笛いわぶえ」と呼ばれる一種の笛で、「帰神」という神を降ろすための神道行法などで神主かんぬし(神が宿る人間のこと)を神憑りにする際に使われる道具である。 


 また、間見の右斜め前方――珠の右側に控える白い狩衣に烏帽子を着けた神官風の男の前には琴が置かれており、彼もまた、琴を爪弾いては神主を神憑りへと導く「琴師ことじ」と呼ばれる存在なのだ。


「さしづめそれがしは、神主に神意を聞き出す審神者さにわといったところか……普段はこのような方式は使わんのだがな。巫女であるそなたに合わせていにしえの神道風にやってしんぜよう」


「………………」

 

 石笛と琴……その二つの装置が何を意味するのかは、玉依の民の巫女である珠自身が一番よく心得ている。


 彼女は何も言い返すことなく、ただ黙って憎しみと悲しみを込めた瞳で間見のことを睨みつけた。


「さて、これ以上、夫神と妻神の逢引あいびきを待たせるのは無粋というもの……早速、帰神の儀を始めるとしよう。よし、まいるぞ」


 間見はそう合図を琴師に送ると、自身も石笛を口に当てて早々に儀式を開始した。


 ブォオオオォ…。


 腹の底に響く不気味な石笛の音が、周囲の空間を神聖さの中に包み込む……。


 ボロン…。


 心の奥に潜む〝何か〟に働きかける琴の旋律が、珠の鼓膜を震わせる……。


「……だ…だめですわ………」


 珠は目を瞑り、自分の中のもう一人の自分が目覚めるのを必死で堪えていた。


 もしもクシナダの姫が目を覚してしまったら、もう彼女自身でも止めることはできないのだ。


 ブォオオオォ…。


 ボロン…。


 しかし、無慈悲にも石笛と琴の音は容赦なく珠の魂を揺さぶり続ける。


「……わ…わた…くし……は……」


 珠はなおも必死で抵抗し続ける……そして、次第に遠退いてゆく意識の中、なぜ自分がクシナダの姫であらねばならぬのか? その運命について密かに思いを巡らせた。


 クシナダの姫……それは神――即ち自然と人との間を取り持つ巫女の中でも、特に〝須佐之男命〟という暴風雨の神との直接交流ができる類稀なる存在である。


 暴風雨はその大量の雨で大地を潤し、植物を育て、人間には農作物の実りを与えてくれる……だが、その一方で強すぎる風雨は人家を薙ぎ倒し、河川を氾濫させ、海原に大波を起こして甚大な被害を人々に与えもする……。


 ゆえにその神意を聞き、その荒れ狂う魂をぎ鎮めるクシナダの姫が必要なのだと、珠は幼い頃より教えられて育った。


 しかし、神が――自然がそのような二面性を持っているのと同様に、クシナダの姫の力もまた諸刃の剣……一歩間違えれば自然の均衡は崩れ、この世には災いが訪れる。


 だから、滅多にその力を使ってはいけないというのがクシナダの姫が守るべき掟でもあった。自然とは、けして人が安易にどうこうしてはならないものなのだ。


 ……それなのに、今、自分は私利私欲に走った者達の手によって悪用されようとしている……こんなことになるくらいなら、いっそクシナダの姫などという存在は遠い昔に絶えてなくなってしまえばよかったのに……そう、珠は思った。


 しかし、彼女は紛れもなく、今の代のクシナダの姫なのである。


 ブォオオオォ…。


 ボロン…。


 石笛と琴の合奏が、彼女の心の奥深くにある扉を開こうとしている。


「……そ…それ…でも……わ……わたくし…は……」


 珠はなんとか力を振り絞り、自分の意識を保とうと試みる。


 だが、珠は本来が巫女……こうした調しらべを聞けば、自然と神憑りになるようにしてずっと暮らしてきたのである。


 この状況で神憑らない方がむしろ不自然。神憑りになることこそが、彼女の自然な反応なのだ。


「……あの……お子…さま……なら………」


 薄れゆく意識の中、無意識に珠は雷童丸の姿を脳裏に思い浮かべていた……。


 まだぜんぜん大人びていないし、少々頼りなくもあるのだが、どこか自分と似た運命を感じさせるあの呪士ならば、もう一度、自分のことを助けてくれるのではないかと。


 …………しかし。


「…!」


 次の瞬間、珠は白目を剥いて天を見上げ、開いた口から声にならない声を空へと発する。


 ゴオゥゥゥ…。


 すると、周囲の河川敷には俄かに風が吹き始め、辺りは急激に暗くなってゆく……ふと頭上を見上げれば、先程までの澄み切った朝の空が嘘のように、黒々とした分厚い雨雲がものすごい勢いで集まり始めていた。


「おお! ついに始まったか!」


 それを見て、ようやく間見は石笛を口から放し、歓喜の声を上げて天を仰ぐ。


 ……ポト……ポト……。


 その間見の顔に、今度はぽつりぽつりと雨粒が当たり始める……それは一滴、二滴と次第に数を増し、乾いた大地に黒い斑点を描いていく……。


 さらにその斑点はとなり合うもの同士繋がって大きな一つの染みとなり、散発的だった雨粒はいつしかザアザアと降りしきる本格的な雨降りへと変化していた。


「ハーッハッハッハッ! よくぞ参った、須佐之男命よ! さあ、もっと雨を降らせ! 思う存分、暴れるがよいぞ! ハハッ…ハーッハッハッハッハッ!」


 激しく降り注ぐ雨にその身を打たれながら、間見は狂ったように曇天へと高笑いを響かせ続けた――。




「――しまった! 先を越されたか……」


 珠が呼び寄せた〝スサノオ〟により、暗灰色に変わった空より雨が降り出したその時分、雷童丸は織田の陣近くの草叢に隠れ、彼らの様子を密かに覗っていた。


 けして織田には気取られないよう、身の丈ほども伸びた草叢の中で、さらにそれ自体気配を消す効果のある、いつもの黒合羽の頭巾を兜の上から目深に被った用心深さである。


 ……ビュウゥゥゥゥ……ゴロゴロゴロ…。


 見上げると、間断なく雨粒を降らす真っ黒な空からは、強風の吹き荒ぶ音に混じって、時折、雷鳴までが聞こえてきている。


 ブォォォ~…! ブォォォ~…!


「攻撃の合図だあ! 全員、川岸に集まれーい!」


 そんな曇天の下、戦闘開始を告げる法螺貝の音が鳴り響くと、各隊の大将の号令とともに兵達はガチャガチャと鎧の擦れ合う騒音を立てながら移動を始める。


「くそっ! もう少し時間があるかと思ったんだけどな……作戦『甲』はこれでなくなったな」


 雑賀川畔へと向かう織田の兵達を眺めながら、雷童丸は悔しそうに呟く。


「……だが、これでお珠ちゃんの居場所を探す手間は省けた」


 そう呟く雷童丸の瞳には、遠く向こうの雨空に黒雲が渦を描いて集る光景が映し出されている。


 その急速に成長する雨雲の中心……その真下に、おそらく珠がいるはずである。


「あの位置からすると川岸だな……こうなったらもう、日女神子さんからもらった鏡を信じるしかないか。よし。三日鎚、作戦『乙』開始だ!」


 空模様を見やり、珠の居場所に見当をつけた雷童丸は傍らに坐す相棒に合図を送る。


「グルルッ!」


 その合図に三日鎚は威勢よく一声鳴いて、草叢の外へと跳び出して行く。


「では、おいらも……オン・マリシエイ・ソワカ」


 そんな三日鎚を見送ると、雷童丸も陽炎かげろうを神格化した仏尊・摩利支天まりしてんの真言を口に唱え、隠行法で気配を消して織田軍の方へと歩き出した――。

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