第十九幕 神送り

「お珠ちゃん……すまない。おいらのせいで望みもしないのにこんな神憑りにさせられて……今、助けてやるからな……」


 いまだ無言で白目を剥き、天を仰ぎ続けている異形の珠に、雷童丸も悲痛な表情を浮かべて黒々とした曇天の空を見上げた。


 降りしきる雨と吹き荒ぶ風に顔を打たれながら、雷童丸の脳裏には日輪の呪士・日女神子から言われた言葉が蘇る……。




〝クシナダの姫がスサノオを呼び出している最中、天は雨雲で覆われ、太陽は顔を出してはおらぬ。従って、この呪法を使うためには少なくとも一時的に自力で雨雲を排し、日の光を地上に降り注がせねばならぬのだ……ただ一筋でも日の光が射せばよいのだがの〟




〝一つ忠告しておくと、特にそなたは〝鳴神の呪士〟。その得意とする呪術は暴風雨であるスサノオと同系統だ。つまりはそなたにとって、この注文は非常に相性の悪い分野……そんなそなたに、かような芸当は可能かの?〟




「ま、確かに同じ系統のおいらには不向きな注文かもしれないけどね……だが、この鳴神の呪士さまを舐めてもらっちゃあ困るな。ようはあの分厚い雨雲に風穴開けてやりゃあいいってんだろ? だったら、向こうよりも強烈な風をお見舞いしてやるだけの話さ!」


 雷童丸は独りそう呟くと落とした三叉戟を拾い上げ、すかさず伊舎那天いしゃなてんの真言をその口に唱える。


「オン・イシャナエイ・ソワカ……」


 伊舎那天――それは前述したシヴァ神の前身、暴風雨神ルドラの仏教での呼び名である。


 その真言を唱えるや、雷童丸の周りには俄かに風が巻き始め、次第に速度と強さを増してゆくその風は、いつしか彼を中心にして小さくも強力な旋風つむじかぜへと変貌を遂げる。


「かけまくも畏き志那都比古神しなつひこのかみ志那都比売神しなつひめのかみ……いっっっけえぇぇぇぇぇぇーっ!」


 そして、十二分に風が成長したのを確認すると新たに一対の神の名を唱え、雷童丸は気合もろとも、重くなった三叉戟を両手で天に向かって突き上げた。


 …カッ! …ゴオオオゥゥ…!


 すると、三叉戟と呼応するかのように稲光を伴った竜巻が天空へと伸びてゆき、上空を埋め尽くす分厚い雨雲の一角へと旋風の柱が突き刺さる。


 今、彼が口にした一対の神は、別名〝天御柱命あめのみはしらのみこと国御柱命くにのみはしらのみこと〟とも云い、奈良は生駒の龍田神社に祀られる風の神であり、その天と地を繋ぐ〝柱〟の名が表す通り、竜巻を神格化したものと云われているのだ。


 そんな神の御柱たる竜巻の直撃を食らった雨雲は、その部分だけが風に巻かれて吹き散らされ、暗い天上にぽっかりと、青空の覗く丸い穴を開ける……。


 この広大な空からしてみれば、それはわずかな綻び程度のものなのかもしれない。だが、その非常にちっぽけな穴からでも、一筋の太陽の光が地上へと射し込んでくる。


「よし、今だ!」


 それを見て、懐に手を入れた雷童丸は、日女神子にもらった〝八咫鏡〟の縮小版を急いで取り出す。


「さあ、クシナダの姫の中にいる須佐之男命よ! いい加減、悪ぶるのはやめて、天照大御神の――お姉さんの声を聞けぇぇーっ!」


 そんな雄叫びとともに雷童丸の掲げた鏡は、わずかな雲間から差し込む日の光をよく磨かれた鏡面に受け、その反射した眩い光線を珠の顔めがけて真っ直ぐに照射した。


「うっ…!」


 金色の光を浴びた珠は、それまで見開かれていた白目を瞑り、眩しそうに顔を背けさせる。


 その後、風に流される雲によって曇天に開いた穴がすっかり閉ざされ、再び一筋の日の光も地上に届かなくなってしまうまでのわずかな間、八咫鏡による太陽光の照射は続いた。


 やがて、辺りは雨の降りしきる、薄暗い陰鬱な世界へと戻ってゆく……。


「………………」


 柱に縛りつけられた珠は、いまだ目を閉じて項垂れたまま動かない。


「お珠ちゃん……」


 いつになく不安そうな面持ちで雷童丸は珠のことを見つめる。


「うう……」


 すると、気を失っていた珠が不意に唸り声を上げて首を動かした。


「お珠ちゃん!」


 雷童丸は慌てて珠に駆け寄ると、そのやつれた顔を覗き込んで声をかける。


「……あ、あなたは……お子さまの……わたくしは、いったい……」


 聞き憶えのあるその声に、珠はようやく薄らと目を開き、ぼんやりとした眼差しで片言に口をきいた。


「気がついたんだね! ハァ…よかった……間見の術でクシナダの姫の力を使わされていたんだよ。でも、もう大丈夫だ。間見はしばらく川の底だろうし、神憑りもすっかり解けたからね。ほら、須佐之男命もようやくお帰りになって、嵐も鎮まり始めているよ?」


 周囲に目を向ければ、先程までざんざんと降りしきっていた雨も急にその勢いを弱め、あれほど激しく吹いていた風もなんだか収まり始めている。


 また、いまだ分厚い雲に覆われたままながらも、どことなく空が明るくなってきているような印象すら受ける。


「……ああ、そういえば、そうでしたわ……わたくしは、あの間見とかいう呪士に神宮の里で捕まって……それで、この戦場へ連れて来られて……あなたが、助けてくれたんですの?」


 珠は記憶の糸を辿り、これまでの経緯を思い出す。そして、自分が今、こうして神憑りを解かれている理由に思い至ると、雷童丸の顔を真っ直ぐに見つめてそう尋ねた。


「ん? ……ああ、まあ、そうだね。ま、大方は日輪の呪士の日女神子っていう人が力貸してくれたおかげなんだけどね……」


 とろんと蕩けるような熱っぽい瞳で珠に見つめられ、雷童丸は思わず顔を赤らめると、照れ臭そうに曖昧な答え方をする。


「鳴神の呪士、雷童丸さん……」


「ん?」


「きっと、あなたなら助けに来てくださると信じていました。わたくし、心よりお礼を申し上げますわ」


 さらに今度は艶ややかな潤みを帯びた眼差しでそう言われ、ただでさえ脈拍の上がっていた雷童丸は、心の臓が止まるかと思うくらいドキリとさせられる。


 そんなこと、これまで珠の口からは一度も聞いたことのない台詞である……。


 もとがいいので当たり前といえば当たり前だが、こうして素直に礼を言う珠は、なんというか……もう、言いようのないくらい、ものすごくカワイイ……。


「い、いやあ、そ、そんな礼を言われるようなことは何もしてないよ。も、もとはといえば、おいらの油断が招いたことなんだしぃ…」


 …………しかし。


「なんて、言うと思ったら大間違いですわ! どうしてもっと早く助けに来なかったんですの! おかげでこんな柱に縛られた揚句にクシナダの姫の力まで使わされて……もう! 最悪ですわ!」


 珠が豹変した……というか、いつもの珠に戻ったのだった。


「へ……?」


 唖然とする雷童丸を他所に、珠の暴言は続く。


「何が、へ? ですの! さあ、ぼうっと突っ立ってないで早くこの縄を解いていただけませんこと!? 女子をいつまでもこんな姿のままにしておくなんて、やっぱりあなたはまだまだお子さまですわね!」


「…………ハァ…」


 これまで溜っていた分を吐き出すかのような珠のヒドい言い様に、雷童丸は今日一番の深い溜息を吐いた……。


 そして、やっぱり助けなければよかったと心の底より思った。


「なに溜息なんか吐いてるんですの!? そんな暇ありませんわよ! さ、とっととこの縄を解いて、早く逃げなければいけませんわ!」


「へいへい……」


 もう反論する元気すらなかったので、そんなやる気のない返事を雷童丸は口にすると、面倒臭そうに脇差で珠の縄を切ってやった。


 そういえば、こうして柱に縛られているところを助け出すのもこれで二度目である。


「ふぅ…もう縛られるのはうんざりですわ……で、ここからどうやって逃げるおつもりですの? こんなたくさんの敵に囲まれていては難しいですわよ?」


 自由になった珠は赤く縄目の痕が残る手頸を苛立たしげに摩りながら、周囲を見渡して雷童丸に尋ねる。


「ああ! ひょっとして、そこまで考えてなかったんじゃないでしょうね!? まったく、これだからお子さまは……物事はちゃんと後先考えてから行動してくれないと困りますわ! ほんとに迷惑この上ないというか……付きあうこっちの身にもなってくださいますこと?」


「あああっもう! さっきからうるさいな。せっかく苦労して助けてやったんだから、ちったあ助けられた人間らしくしててくれよ……」


 クシナダの姫の力を使った副作用か、いつも以上に激しさを増している珠の毒舌に雷童丸はひどく迷惑そうに眉根を寄せる。


「あのね。前から何度も言ってるけど、おいらはれっきとした呪士だぞ? じゅ・し! そんな考えなしな戦い方なんてするもんか。ちゃんと逃走の手立てだって考えてあるよ。もうそろろろ来る頃だと思うけど……どうやら向こうも手こずってるらしいな」


 そして、口うるさい珠にそう反論すると、織田の兵達が群れなす雑賀川沿いを南に眺めるのであったが……。


 ドガアァァァーン…!


「うぎゃあああぁ~っ!」


 突然、雷童丸が見つめるその軍勢の中から、そんな絶叫とともに幾人もの人間が宙へと舞い上がった。


「来た!」


「えっ?」


 叫ぶ雷童丸に続き、珠もその方角に目を向ける……すると、織田の兵達を蹴散らしながらこちらに突進してくる、尋常ならざるデカさのウサギがその目に映った。


「な、なんですの!? あれは!?」


 珠が大声を上げて目を丸くしている間にも、そのバカデカいウサギ――三日鎚は、物凄い勢いで距離を縮め、二人の目の前でその巨体を急停止させる。


 ドドドドドド……ズザザザッ…!


「うぷ…」


 派手に跳ね上がった泥飛沫を浴び、珠はその美しい顔を嫌そうにしかめる。


「グルルルル…」


「よーし、いい子だ三日鎚。ちゃんと間見の霊獣を討ち負かしたようだな」


 一方、そんな珠のことを気にかけることもなく、首を下げ、甘えるように低い鳴き声を上げる三日鎚の頭を雷童丸は優しく撫でてやる。


 灰色の剛毛に覆われたその巨体には、所々、折れた矢や槍なんかが刺さったりもしているが、どうやら怪我をしているわけではないらしく、いたってこちらも元気そうだ。


「も、もしかして……それ……あの、三日鎚ちゃんなんですの?」


 その知らぬ者にとってはあまりにも衝撃的すぎる事実に、小さな三日鎚しか見たことのない珠は動揺を禁じ得ずにいる。


「あ、そっか。この姿を見るのは初めてだったっけ? そうさ。こっちが三日鎚の本当の姿なんだよ。ま、そんな積もる話はこの敵陣を突破して、どこか落ち着ける場所まで逃げてからだ。さ、早く乗りなよ」


 だが、驚嘆の面持ちで立ち尽くす珠に、雷童丸は三日鎚を撫でながら平然とそう答え、そのウサギの背の上に跨って彼女にも手を差し伸べる。


「あ、ええ、ありがとうございます……でも、敵陣を突破って、まさか、この大きな三日鎚ちゃんに乗って、あの大軍の中を突っ切るつもりですの!? 無茶ですわ! 無茶にも程があるってものですわ! そんなの自害しに行くようなものです!」


 促され、なんだかよくわからぬまま三日鎚の背に乗ってしまう珠だったが、わずか後、時間差で雷童丸の意図に気づき、慌ててその無謀な計画に対して異を唱える。


「なあに、今の織田軍は大半が向こう岸へ渡ってるし、こっちに残ってる兵の数は高が知れてる。これくらいなら、おいらと三日鎚が力を合わせれば突破するのもわけないよ。ここはどーんと大船に乗ったつもりで…いや、大ウサギに実際に乗って、滅多に見れない呪士と霊獣の合体技をとくとご覧じろってね……」


 だが、そんな珠の猛反対を他所に、雷童丸は自信たっぷりにそう答えると、右拳に印を結び、またしても何やら呪文を口にし始める。


「……九天応元雷声普化天尊きゅうてんおうげんらいせいふかてんそん……九天応元雷声普化天尊……」


 九天応元雷声普化天尊――雷童丸が何度も繰り返し唱えるその言葉は「十字経」と云い、道教の雷神で最高位に位置する〝雷帝〟の名そのものであるとともに、〝雷法〟という呪法に用いられる呪文でもある。


 道教の道士は雷を呪力の源泉として身体に取り込むが、同じように雷童丸も、この十字経を唱えることによって雷の気を自分の中に蓄えているだ。


「おおーい! 敵が巫女を連れて逃げるぞーっ!」


「あの化けウサギに乗ってるぞっ! 弓隊、ウサギもろとも奴らを討ち取れえーっ!」


 そうしてる間に、ようやく三日鎚による混乱から立ち直った織田の兵達が雷童丸の動きに気づき、迎撃の態勢を取り始める。


「さて、そろそろいいかな……じゃ、しっかり掴まっててくれよ? 振り落とされると感電死しちまうからな……」


「か、感電死?」


「よし! 行くぞ三日鎚っ! オン・インドラヤ・ソワカ……雷獣疾走っ!」


 不安げな顔で聞き返す珠を無視し、雷童丸は三日鎚に声をかけると、手にした三叉戟を水平に構え、前傾姿勢となって帝釈天の真言を叫ぶ。


「グルルルルルッ!」


 その合図に三日鎚も一つ大きな嘶きを上げたかと思うと、強靭な後脚で大地を蹴って、行く手を塞ぐ軍勢目がけて全速力で走り出した。


 加速する三日鎚と比例するかのように、その周囲にはバジ、バジ…と青白い稲光が走り始める……そして、その流れる電流の範囲は次第に大きくなってゆき、ついには三日鎚と、その背に乗る雷童丸達をもすっぽり覆うまでになってしまった。


「きゃあっ…!」


 周囲を敵に囲まれていることをも上回るそのとんでもない状況に、珠は雷童丸の腰に回した腕に力を込め、短く悲鳴を上げてその目を固く瞑る。


 …バジ……バジ……バジ…バジ…!


  しかし、目を瞑ってもすぐ耳元で聞こえる大きな放電の音と、髪や肌を逆撫でする静電気の不気味な感触……。


 怖がる珠のことなどお構いなく、巨大なイカズチの玉と化した三日鎚はなおも速度を上昇させ、眩い白色に輝きながら戦場の大地を疾走する。


「放てーっ!」


 迫り来る三日鎚に対し、侍大将の号令一下、ピシュ、ピシュ…と風を切って弓隊が一斉に矢を射かける……が、雷電そのものと化した三日鎚に当たるや否や、その矢はすべて弾き飛ばされ、何物をも寄せつけない三日鎚はそのままの勢いで弓隊の中へと突っ込んで行く。


「……に、逃げろお~っ!」


「う、うわああああ~っ!」


 落雷が周囲のものを吹き飛ばすが如く、突撃を食らった兵達は四方八方へと無残にも弾き飛ばされる。


 最早、眼前を塞ぐ大軍も彼らを阻む障壁にはならない。


 微塵も速度を落とすことなく…否、むしろますます勢いを増す三日鎚の前で、織田の兵はただただ紙吹雪のように撒き上げられるばかりである。


 そして、ふと気付けば雨もすっかり上がり、灰色の雲間からはよく澄んだ青空を覗かせ始めた美しい景色の下、雷童丸と珠を乗せた三日鎚は触れる者すべてを蹴散らしながら、まるで稲妻の矢のようになって大軍勢のど真ん中を駆け抜けて行った――。

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