第五章 第二話
菜摘は、この街から遠く離れた北国で生まれた。
幼い頃に事故で父を亡くし、女手一つで母に育てられた。しかし、高校に入ってすぐに、その母も病で他界した。一人ぼっちになってしまった菜摘は、母の生まれ故郷であり、祖父の住むこの街に移り住んだ。それが高校一年の夏前の事。同じクラスの蛍子と知り合い、蛍子に勇太と一哉を紹介された。
この部屋は、菜摘がこの街に来るのと同時に借りた。山で育った菜摘にとって、海の近くはとても魅力的に写った。
この部屋に住み始めて四年。一哉と暮らしてたった三ヶ月。菜摘にとって、唯一の我が家で、帰るべき場所であった。
「そう」
「お母様? 信じて頂けるの……ですか?」
「だってあの子、家には一度しか帰って来てないもの」
「え?」
和子は、机の上にある一哉の「壊れたヘルメット」 を慈しむように触れる。
「ねぇ? 菜摘ちゃんは、一哉と一緒にいて幸せだった?」
ベランダの手摺にもたれ、小さな海を見ている菜摘。
「ほら、見えますか?」
菜摘は、小さな海を指差して和子に教えた。
「あの海、あの場所で初めて一哉と話したんです」
「本当は、ずっと、遠くから毎日見ていたから、一哉の事は知っていました」
「……」
「図書館の窓。蛍子より勇太より、先に一哉を見ていました」
「山奥から出て来たばかりで、友達もいなくて。一人で図書館にいる時、初めて一哉を見ました」
「……」
「最初は、上級生だと思っていました。背が高くて、堂々としていて」
「……」
「少し髪が長くて、一哉が走ると、髪が風になびくんです」
菜摘は振り向いて和子を見詰めた。
「私は、その日から一哉に夢中。一日だって、忘れたことありません」
和子は、ふふふと笑う。そして、真剣なまなざしの菜摘の手を取った。
「ありがとう。何だか、嫉けちゃうわ。でも、一哉はあなたを選んで幸せだったわね」
菜摘は、嬉しかった。自身の幸せは、自分で感じる事が出来る。でも、一哉が幸せであったのかは、判らない。たとえ、本人の言葉ではなく、母親の言葉だとしても、自分の存在が人を幸せに出来た事が、とても嬉しかった。
「私、私は人を幸せ出来ないんだと、思っていました。父も母も祖父も、そして一哉も。私が好きな人はみんな死んで行く」
和子は、菜摘と並んで小さな海を見た。夏の強い光が、幾重にも重なる波に反射して油絵のように見える。
「菜摘ちゃんは、後ろにいる人は判る?」
「後ろ、ですか?」
「そう、後ろ。私は、判るわ。主人でも、死んだ一哉でも。後ろを通り過ぎるだけで、それが誰だか判るわ」
「私は、判らない」
「そうね、普通は判らないと思う。ただ、長く一緒にいると、判るようになるの」
「……」
「菜摘ちゃんにも、きっとそんな日が来る。きっと」
もっと早く和子と話せば良かったと、菜摘は後悔した。和子なら、もっと違う道を示してくれたかも知れない。一哉も死なずに済んだのかもしれない。自分の回りの人達がいなくなる度に、一緒にいたい人から離れる事が、その人達の幸せで自分の出来る唯一の思いやりだと信じていた菜摘。
一哉の母、和子の大きさに初めて気がついた。遅いのかも知れないが、菜摘にはとても嬉しい事に感じた。
「もし、このまま一哉をずっと感じていられたら、判るようになりますか?」
「それは、難しいわね」
「なぜ、ですか?」
「一哉も、天国に行く日がくるの」
「天国……」
菜摘は、一哉がそっと肩に手を置いたような気がした。菜摘が、ドキッとすると、まるでそれを知っているように和子が微笑んだ。
「人は死んで四十九日間は、生きていた場所や大切な人といる事ができるの。決して永遠では無い、たった四十九日間」
「一哉も、ですか?」
「同じ。もし、その時に天国へ行かないと、永遠に行けなくなり、生まれ変わりもできない」
不思議だった。
何故、何のために和子が突然訪ねて来たのか。和子の言葉は、菜摘に、と言うより、一哉に言っているような気がした。
「お母様、もしこのまま一哉と離ればなれになっても、生まれ変わって逢えますか?」
「あなた達次第かな? ただ、心で繋がっていれば、必ず引き合うから。菜摘ちゃんがこの街に来たのも偶然じゃないかも知れないわ」
菜摘は、小さい頃からとても海が好きなのを思い出した。
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