第二章 第三話
夕方。
菜摘は、部屋に戻りベランダの手摺にもたれ、沈み始めた夕陽を見ていた。沖を走る船の影が、夕陽の光に揺れ、後に残る軌跡が幾重にも重なる。
菜摘は、手の平で胸を押さえた。わずかに触れるペンダントの感触。指で摘みあげると、夕陽で淡く輝いた。
一哉が他界して、丸四日が過ぎようとしていた。
―― ピンポーン
『勇太? 早いな』
窓辺で黄色いサンダルを脱ぐ。
一哉と色違いのベランダサンダル。持ち主のいなくなった緑のサンダルは、ベランダの隅でひっそりと揃えて立て掛けてあった。
「はーい!」
ドアを開けると見慣れたユニフォームの男性が立っていた。爽やかな笑顔で仕事をするCMを、よくみかける。特徴のある青いユニフォームが印象的だ。
「菱木菜摘さん? 宅配便です。サインかハンコをお願いします」
「あっ、はい」
サインと交換に菜摘は、エアシートに包まれた小包を受け取った。差出人は一哉の母。菜摘は、誕生日の夜、一哉が旅立ったあの日、電話で話したことを思い出した。
『お祝いは、今日宅配便で送ったから、一日遅れで着くと思うわ』
小さな小包は、手の平に乗る程度の大きさ。菜摘の小さな手にも包み込む事が出来る。
「ご苦労様。ありがとう」
その時、勇太と蛍子が狭い階段を登ってきた。勇太は手に風呂敷包みをぶら下げ、蛍子は紙袋を持っていた。
「よっ! 菜摘」
「随分、早かったね」
「まあな、蛍子が急かすんだ」
蛍子は握り拳で勇太の風呂敷包みを持った方の上腕を叩く。
「じょーだん! それは勇太でしょ?」
「何だよ、会社早引けしたの、誰だ?」
にこにこと笑顔で二人の会話を聞いている菜摘。
「うん、ありがと。さ、入って」
笑顔で二人の友人を迎えられた事を、菜摘は不思議なくらい驚いた。当の勇太と蛍子でさえ、そんな菜摘に戸惑い驚きの表情を浮べた。
「お茶、入れるから、座って」
勇太は風呂敷包みをテーブルに置くと、ソファーに座る。蛍子も紙袋を傍らに置き、座った。
菜摘は、テーブルに湯飲みをそれぞれの前に置く。初夏だと言うのに、湯飲みからは湯気が立ち上ぼっている。
「どれどれ? 勇太、早くみせてよ」
一哉が他界してたった四日。
あんなに泣いていた菜摘が、一哉が生きている頃と、なんら変わらぬ笑顔で話しているのに、勇太は戸惑いながら、風呂敷包みを開いた。
「すごっ! ほんとに勇太が作ったの?」
重箱に並んだ数種類の和菓子。菜摘は、一つ摘み上げると口に運んだ。
「ねぇ、一哉が言っていたよ。勇太のマンジュウが最近旨くなったって」
「おお、そうか……」
菜摘の笑顔に戸惑いながらも、勇太は答えた。
「蛍子も食べれば?」
励ましに来たつもりの勇太と蛍子。ところが、明るく元気な菜摘に戸惑うばかり。しかし、その笑顔も菜摘なりの気遣いと理解もしていた。
「菜摘? さっきの小包は?」
「うん、一哉のお母様から」
「そうなんだ。私と勇太からも。遅くなっちゃって」
「うそっ、ありがとう。なに?」
蛍子は、紙袋を菜摘に渡した。
菜摘は嬉しそうに紙袋を受け取る。しかし、内心はどんな高価なプレゼントより、一哉との時間が欲しかった。他には、何もいらない。一哉がいれば、それだけで良かった。
そう、一哉との時間。
あの瞬間から停止した時間。
二度と戻らぬ時間。
その白い小さな部屋は、まるで世界から隔離されたように、生命のカケラさえ感じられなかった。音や温もり、僅かな空気の流れも、氷に閉ざされた化石のように動かなかった。
菜摘は、目の前に立つ一哉の母の肩越しに、鈍く輝く大きな円形の照明を見付ける。真下に向いたその照明が作る明るい空間が、仄かな靄(もや)に包まれていた。
菜摘が靄の中を見ようと身体をずらす。
靄には、霞みがかかり、僅かに誰かの髪の毛だけが見えた。
濡れた少し長めの綺麗な黒髪。
その髪の毛の先から、銀色の雫が大きな水滴となって落ちようとしていた。
―― キンッ
髪の毛から銀色の雫が離れた瞬間、銀色の雫が落下し始めたその時、空間を切裂くような金属音がした。突然、部屋の中の全ての動きが、高速度カメラで撮影されたスローモーションのように動き始めた。
菜摘のすぐ横で、一哉の母が苦悩に顔を歪め、何か叫んでいる。その向こうでは、いつも物静かな一哉の父が、目を見開き驚愕の視線を投げ付けていた。
菜摘の隣りでは、いつも冷静な蛍子が、眉間にシワを寄せ、手の平で口を押さえている。
全てがゆっくりと動く。ゆっくりと……。
菜摘だけが、そのスローモーションの外側にいた。
『菜摘、ごめん』
「一哉?」
銀色の雫が、タイルの床に落ちてはじけた。同時に目を刺す閃光と耳を劈く(つんざく)破裂音が爆発した。
―― パチンッ!
瞬間、全てがその本来の速度を取り戻す。菜摘だけが逆に動きを失う。同時に靄が一瞬で晴れ、ストレッチャーに乗った一哉の姿があらわれた。
一哉のもとへ急ぐ。
一哉にすがりつきたい。一哉に触れたい。しかし、たった数歩が、数百メートルに感じる。とてつもない濃い密度のゼリーのような空気を掻分けて、菜摘はもがく。
『菜摘、いちごのケーキ好きだなぁ』
『菜摘は、泣き虫。でももう、泣かなくて良いよ』
『誕生日がアメリカと一緒なんて凄くない?』
『僕は好きだよ。菜摘のショートカット』
「いっ、イヤァァァァッ!」
そして、誰も知らない、菜摘の時間が止まった。
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