第二章 第二話
不思議な出来事のために、菜摘は寝付けなかった。
あり得ない死者からのメール。何度も見返し、何度も返信しようかと思ったが、蛍子の忠告が脳裏に残り、結局、何もしなかった。それでも、心に引っかかり、携帯を握りしめていた。そして、薄っすらと夜空に光が差し込み、星が輝きを失い始めた頃、菜摘の意識は眠りの底に落ちた。
―― 芝生の大きな公園。
『菜摘、そんなに落ち込んでちゃだめだぞ』
―― 青いサッカージャージを着て、スパイクを履いた一哉が、いつものように笑う。
『えっ?』
―― 持っていたボールを数度リフティングし、一哉は空高く蹴り上げた。菜摘が目で追いかけると、ボールは空に輝いていた太陽と重なって消えた。
夢を見ていた。
菜摘は、カーテンの隙間から洩れる陽の光に照らされ、目を覚ました。まだ目の中に残る一哉の笑顔。耳に残る一哉の声。初めて一哉の存在を知ったあの日も、一哉はサッカーをしていた。菜摘はサッカーの事はほとんど知らないが、サッカーボールを追いかけている一哉が好きだった。
『ボール回して! さっ、ライン上げよう』
グラウンドに面した校舎の三階。図書館の窓。菜摘は、一哉を見付けてから、放課後は必ず図書館にいた。
『逆サイド。ボール呼んで!』
窓辺の机。そこが菜摘の指定席。グランドが見渡せて、それに時折吹く風が心地よい。
『そこ、マーク! パスコース切ってっ!』
一哉の声。一哉の汗。少し長い一哉の髪。
背が高くて、睫毛が長くて、誰からも好かれる一哉。
―― ザザッ、ドンッ、バシッ!
誇らしげに右手を突き上げる一哉。菜摘も小さく微笑む。
身体を起こし、カーテンを開ける。窓は、昨夜から開いたまま。
雲一つない青空がどこまでも広がっていた。その時、携帯電話が小刻みに震えた。
「?」
菜摘は昨夜のメールを思い出し、慌てて携帯を開く。
―― 新着Eメール 勇太
『菜摘、良く眠れたか? 新作の和菓子を試食してくれないか? 今夜、菜摘の部屋で蛍子と三人で食べようよ』
―― 返信
『判った。部屋で待ってる』
「蛍子と勇太。交互に様子を覗っているのかな」
携帯を閉じ、洗面所へ向かう。
鏡の前に立ち、電気を点けると、カップの中に入った二人分の歯ブラシが目に入った。菜摘は薄い緑の歯ブラシを小さな開き棚に入れた。
『菜摘! 同棲するのに一番最初に買うのは何か知ってる?』
少し部屋から離れた所にある大型のショッピングセンター。
『お茶碗? あ、お箸』
一哉は、雑貨売り場を菜摘の手を引いて急ぎ足で歩く。菜摘は小走りでついて行く。
『これ! 歯ブラシだよ』
一哉は、二本の歯ブラシを持って笑う。一本は薄い緑の歯ブラシで、もう一本が同じデザインの薄い黄色。
『どうして?』
一哉は、菜摘の頭を撫ぜながら笑う。
『だって、どんなに仲良くても、これだけは同じモノは使えないだろ? だから、お揃いでなきゃダメなんだ』
菜摘は棚を閉じた。
残った黄色の歯ブラシを使って洗面を済ませる。髪を梳き、スプレーで癖を直す。
いつもの朝なら、シャワーを浴びるのだが、今朝はその場で下着だけを新しいものに取り換え、ニットのミニスカートと大きめのラガーシャツに着替えた。
ソファーに座り、化粧箱を取り出す。
薄い紫のアイシャドーを引き、一哉の好きだった薄いピンクのルージュを塗った。ブランドの小さなリュックに財布やハンカチ、携帯を放り込んで肩に掛ける。
『菜摘のショートカット、好きだよ』
一哉は、菜摘の髪を撫ぜながら優しく微笑んだ。サッカーで子供たちを褒めるのと一緒。一哉の癖。
『でも、男の子みたいでしょ? 可愛くないよ』
両手で頬を包み込み、じっと菜摘の瞳を見つめる一哉。
『ううん、そんなことは無い。僕はこの菜摘が大好き。絶対に離さない』
ニューバランスのトレーニングシューズを履き、つばの長い帽子をかぶって菜摘は部屋を出た。
駐輪場に停めている菜摘の自転車はオレンジのシティーサイクル。通勤に使うために買ったもの。その自転車で、マンションから陽の光が溢れた道に出ると、優しい爽やかな風に包まれた。
海につながる大通りを横切り、住宅街を颯爽と自転車をこぐ。海風を防ぐ並木が連なると、そこは臨海公園。テニスコートや野球場、芝生に覆われた広場がある。
菜摘は、自転車を降り、押しながら公園に入った。風が吹くと緑の香りが漂う。散策道を歩き野球場を過ぎるとテニスコートが並んでいる。そのフェンスのわきにいくつかのベンチがあり、その一つの横に、菜摘は自転車を停めた。そして、リュックを肩から降ろし、ベンチの端に座った。
『夢の場所はここだったでしょ?』
菜摘は目の前に広がる芝生の広場を見ている。
一哉が休みの日には、この場所で子供達にサッカーを教えていた。でも今は、鳩が芝生の上で日向ぼっこをしているだけ。
『一哉、逢いたい……』
夢と同じ場所に来れば、一哉に逢える気がしていた。あり得ない事なのに、菜摘にはそう思えて仕方がなかった。でも、やはり一哉はいない。
『やっぱりもう逢えない? 一哉、一哉……。もう一度、もう一度、逢いたい』
また、涙が溢れて来る。菜摘はリュックからハンカチを取り出して流れる涙を拭う。リュックの中で光るイルミネーション。携帯を取り出し、開く。
―― 新着Eメール 一哉
『そばにいるよ』
菜摘は驚いて、周りを見た。
「だれっ?」
近くで犬を散歩させていた男性が不審そうに菜摘を見ている。もう一度携帯を見た菜摘。確かに一哉の携帯から発信されている。
「誰なの?」
また、イルミネーションが光った。
―― 新着Eメール 一哉
『パープルのアイシャドーは、やっぱり菜摘によく似合う。ピンクのルージュも可愛いよ』
『本当に一哉? イタズラならやめてっ』
―― 新着Eメール 一哉
『いちごのショートケーキが好きで、泣き虫で、誕生日が独立記念日』
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