第二章 第一話

 事故の日から、菜摘はまだ部屋に帰っていない。

あの日、一人が怖くなり蛍子の部屋に泊まり、一哉の葬儀にもそのまま行った。眠る事もなく、ただずっと涙を流し、手の届かぬ所に旅立ってしまった一哉を思う。何を見ても何を聞いても、全て一哉に行き着いてしまう。菜摘の今までの人生の全てが一哉であった。


 葬儀の後の夜、不安なまま一人で部屋に帰る。

 部屋の灯りも点いたまま。菜摘は、ポケットから小さなお守りの付いた鍵を出し、ドアを開けた。たった二日がとても懐かしく、遠く感じる。つい二日前まで、このドアはいつも優しく迎えてくれた。それは、このドアの向こうに一哉の存在があったからであり、今この瞬間、遠い過去となってしまった。


部屋は、感じた事のない、淋しさ満たされていた。

何一つ変わっていない。変わるはずもない。しかし、まるで『よく似た他人の部屋』 であるかのように思えた。

 乱暴に靴を脱ぎ、部屋の明かりを消した。そして、窓際のベッドに飛び乗る。そこは、一哉が毎日抱きしめてくれた場所。もう、すでに涙は枯れ、泣く元気もない。カーテンの隙間から外を見る。

 いつも一哉がしていたように、僅かな夜空を眺める。


『何を見てるの?』

『ううん、別に何も。ただ、ほら時間が流れているのが見えるって言うのかな?』

『ふーん。よく判んない。いつも、何を見ているのかなって思ってた』


 じっと、瞬く星を見ていると、僅かに動いているのが感じられる。つい三日前まで感じなかった事。

 菜摘は、身体を起こし、窓を開けた。

 僅かばかり地上から高い三階のこの部屋に吹く風は、地上のそれとは匂いも肌触りも違っていた。微かにカーテンが揺れる。月明かりが、その影を作る。灯りの無い部屋に落ちる薄い影。


『菜摘、月の光が海に反射して綺麗だよ』

『わぁ、ホント綺麗ね。この部屋から、海は見えないと思ってた』

『いつか、一人前の医者になれたら、もっと沢山の海が見える部屋に引っ越そうな?』


ベ ランダの手摺に凭れて、何時間も寄り添って海を見ていた。たった三日前までの事。その三日が、菜摘には遥か過去のように思える。

 微かに吹く風が潮の香りを運んで来た。

 遠くで輝く小さな夜の海。

 何一つ変わらない世界。

 たった一人、欠けただけ。


 一哉の母から受け取った紙袋を開き、中から割れたヘルメットとペンダントを出した。窓辺に二つを並べて置き、菜摘も再び窓の外を見た。膝を抱えヘルメットと並び、じっと、ただじっと海を見ている。風が吹く。カーテンが微かに揺れる。

「ねぇ一哉、天国ってどんな所?」

 まるで、すぐ傍の誰かに話しかけているように呟く。

「きっと、良い所なんだろうね」

 ヘルメットを膝の上に置き、ペンダントを取り出す。

 月灯りにかざすと、小さなシルバーのペンダントが月光に反射して鈍く輝いている。菜摘は、ペンダントを首に掛けた。

「ありがとう、一哉……」

 まるで返事をするかのように、ヘルメットのシールドがコトリと閉まった。

「え、それが返事のつもり?」

 菜摘は、クスッと笑った。

 なぜか部屋に帰って来てから、まるで一哉と一緒にいるような安堵感があった。暗く塞いでいた気分も幾分か晴れている。ヘルメットを抱いていると、一哉に触れているように感じた。

 菜摘は、台所に立ち、そのままにしていたシチューをタッパに移し冷凍庫に入れた。部屋に戻るまでは捨てるつもりでいたが、なぜか保存することにした。別に、食材が痛んでいたとしても構わなかった。着信を知らせる電子音が鳴った。

―― 新着Eメール 蛍子

『菜摘、大丈夫? 辛くない? 一人でいるのが嫌だったら、こっちに来ていいよ』

葬式のあと、車で送ってもらい、蛍子と勇太と別れてからもうすでに二時間以上経っている。

―― 返信

『大丈夫。一哉がそばにいるみたいな気がする』

 決して、淋しくない訳ではない。悲しくない訳でもない。でも、一人でいるのに、それがまったく苦にならなかった。

―― 新着Eメール 蛍子

『そう、それなら良い。それと、一哉のお母様が言ってたけど、結局一哉の遺品には携帯が無かったんだよね? もし、誰かが拾ってイタズラとかあるかも知れないから、気をつけてね』

 現場検証の後、現場に残された全てのものは警察を通じて一哉の実家に届けられた。勿論、ヘルメットもペンダントもその中の一つ。財布も現金がそのまま届けられた。しかし、最後に菜摘と交信した携帯電話だけが、どこにも見当たらなかった。警察は、事故に紛れて誰かが持ち去った可能性もあるからと、注意を促した。

―― 返信

『うん、判った。色々ありがとう』

 菜摘は、携帯電話をベッドの枕もとに置き、バスルームに入った。

 疲れのせいか、身体が冷え切っている。熱いシャワーを浴びて、一哉の匂いの残るベッドに早く潜り込みたくなった。そうすることが唯一、一哉を感じられることの様に思えた。

 シャワーを浴び、充分に身体を温めてベッドに戻ると、携帯電話の小さなイルミネーションが点滅していた。

「蛍子は、心配ばかりしてくれる。それとも、勇太かな」

 菜摘は携帯を開きメールを見た。

―― 新着Eメール 一哉

『菜摘、ごめん』

 信じられない文字が並んでいた。



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