第四章 第一話

 平穏と呼ぶに相応しい三週間が過ぎようとしていた。

 蛍子はこの二週間、人事課のスタッフとして多忙な日々を過ごし、事故後の精神的な後遺症から、一時的に解放されていた。平穏とは、かけ離れた状態なのかも知れないが、それでも「何もない」 ことを有り難く感じていたのは確かであった。忙しい事で、辛い過去を忘れる事ができる。仕事の間だけは、心の痛みから解放されていた。


 高層ビルの七階。オフィースの一角にある休息室。窓に沿って、椅子と背の高いテーブルが並ぶ。タバコを楽しむ人。ソフトドリンクを飲みながら、書類に目を通している人。賑やかに雑談する人。適度な広さもあり、社員たちのリビングルームのような場所であった。

『挽きたてドリップ』 と赤文字で大きく描かれた自動販売機で、カップコーヒーを買う。ほんの十数秒ほどで出来上がる香り高いコーヒー。ミルクも砂糖も入れないのが、蛍子の好み。湯気立つカップを両手で包むように持ち、蛍子はコーヒーをすすった。

 全面硬質ガラスの窓から、遠く海まで見える。

―― 蛍子

『菜摘、久し振り。明日、暇?』

 菜摘の部屋に勇太と訪れて以来、久しぶりに菜摘にメールを打った。

 蛍子は、この窓から見える風景が、特に気に入っていた。一日の仕事が終わった後、この場所から見える夕陽は、ことの他、美しく優しく感じた。それは、まだ四人が高校生の頃、一哉と勇太が呆れるほどサーフィンしていたのを、見ていたからかも知れない。朝早くから海に入り、陸に上がるのは、お腹が空いた時と帰る時だけ。蛍子と菜摘が、早朝から二時間近くかけて作った弁当を、ほんの五分足らずで平らげてしまう。そして、食べ終わると、またすぐ海に入る。食べている時は無言。話す言葉は、「頂きます」と「ご馳走様」だけ。口の中にまだお弁当があっても構わず、またすぐにサーフボードを抱えて海に帰って行く。そう、帰るのは、菜摘と蛍子の元ではなく、波のある海。

 蛍子と菜摘は、飽きることなく、繰り返される二人のサーフィンを見ているだけだった。やがて陽が沈み始め、オレンジに染まる空を背に、一哉と勇太の二人は、菜摘と蛍子のもとに戻る。

 夕陽は、何事も無かった事を知らせる合図。蛍子は、その瞬間がとても好きだった。二人が、夕日を背景に、自分たちの元の戻ってくるその瞬間が、とても好きだった。

―― 新着Eメール 菜摘

『部屋にいるよ。来てくれるなら、全然OK!』

 蛍子は、コーヒーを飲み干し、携帯を閉じた。夕陽はいつの間にか暮れ、夜の帳が降り始めていた。ネオンサインや街灯が灯り始め、街そのものの装いが変わる。蛍子自身、多忙だった職務から解放されるものの、傷ついた心を癒さなければならない。いなくなった一人分の空間を埋めなければならなかった。


 僅かに夕焼けの名残が、遠く水平線に滲んでいた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る