二部 第二章 第二話

 それは、この数年の間、ドライフラワーとフランス人形を置くためだけの『台』となっていた。

 黒いベルベットのカバーが、その長い年月を振り返るように、作業灯のくすんだ光を映している。蛍子は運び込まれたばかりの名器『Steinway』を申し訳なさそうな表情で、客席の中央から見ていた。

―― ごめんね

 数々のコンクールの金賞を総ナメにし、ジュニア界の天才とか新星と呼ばれ、未来を嘱望されていた蛍子。リストやショパンピアノコンクールを夢に、Steinwayにむかう毎日。ところが、蛍子が高校入学直後、信じられないニュースが飛び込んで来た。

―― コンセルバドワール音楽大学、特別推薦留学生の日本人中学生「受賞時」米村一哉君がワールドジュニアピアノコンクール、日本人初の最優秀賞を受賞。

 悔しいとか羨ましいと言う感情は不思議と湧いて来なかった。それより『どんな人だろう』と興味を惹かれた。出来れば会いたい。そして、どんな事を話すのか聞いてみたいと、蛍子は思った。

 夏前に幼馴染みの勇太に海に誘われた時、偶然にも蛍子の希望が叶った。

 住み慣れた街の見慣れた海岸。サーフボードを抱えた幼さの残る少年が照れたように笑った。

「蛍子、俺のサッカー仲間の一哉」

―― カズ……ヤ?

 蛍子は思わず一哉の指を見た。

―― 綺麗な指。でも……。

「蛍子?」

「あっ、ごめん。織原蛍子です。クラスメイトの菜摘」

「菱木菜摘です。あ、あのぅ、サッカー部……ですよね?」

「うん、えっと?」

「菜摘で良いよ」

「じゃ俺は、一哉で良いから。本が好きなんだね」

 あんなに笑ったのは、久し振りのことだった。

 蛍子にとって、毎日が義務のようで、楽しいなんて感じた事すらなかった。それが、当たり前の事であり、何の疑問も持たなかった。

 夕暮れまでが、あっと言う間に過去った。

 勇太と菜摘は、浜で砂の城をふざけながら作っている。蛍子と一哉は、その二人を防波堤に座って見ていた。

「一哉……くん?」

 笑顔で菜摘と勇太を見る一哉。陽に焼けた横顔が、眩しい。

「一哉くん?」

「ん? なに?」

「間違っていたら、ごめん」

「どうしたの?」

「もしかしたら、ピアノやってる?」

「え? あ、うん。どうして?」

「指が綺麗だから」

「そうかな? 蛍子の指の方が綺麗じゃん」

 一哉が蛍子の指に触れる。その瞬間、ビクンと驚いて思わず指を隠してしまう蛍子。

「俺さ、母に言われてずっとピアノを習っていたんだ」

「私もピアノ弾くの」

「知ってるよ。織原蛍子って言えば、有名人じゃん」

「そんな事ない。あなたに比べれば……。ワールドジュニアで最優秀賞、取ったでしょ?」

 照れたように笑う一哉。

「まぐれ、まぐれ! あり得ないよ」

「そんな事ないよ。すごい事だよ。まぐれで獲れる賞じゃないよ」

「そうかなぁ。俺さ、クラシックってよく判らなくてさ」

「どうして?」

「譜面通りに弾いて、何が良いのかなぁってさ。本当はジャズが好きなんだ。だから、アメリカのバークリーに行きたかったんだけど、最後に一度だけの約束でコンクールにもでたんだ」

 出来上がった砂の城に旗を立てる菜摘。飛び跳ねながら、万歳をする勇太。

「……」

「あのさ、音楽って垣根あるじゃん」

「垣根?」

「そう、ジャズとかクラシックとかポップスとか」

「うん」

「どうしてだろうって思わない?」

 蛍子は考えた事も無かった。

 先生から譜面を渡されて、何の疑問も持たずにそれを弾く。ジャンルに拘る事も執着することもない。課題曲だから、練習曲だから弾く。たった、それだけのこと。

「俺さ、楽しけりゃ、それで良いんだ。だって、演奏する側がつまらなかったら、聞く側が楽しい訳ないじゃん」

 確かにそうなんだ。でも、蛍子の気持ちの中に『何か反論しなきゃ』と反する感情もあった。

「でも……」

 砂の城が、徐々に波に浸蝕されて行く。周りから少しずつ、造り上げたものが壊れて行く。

「弾きたい曲を弾いて、創りたい曲を創る。それが良いか悪いかは、聞く側の人が決めれば良い事だし。そう思わない?」

 蛍子は、一哉が自分とは次元の違う音楽家だと、この時確信した。

―― この人にはゴールがないんだ

 料理と同じ、美味しい料理に『中華だから、イタリアンだから』と文句を付ける人なんていない。美味しい料理なら、誰だって笑顔で食べるに違いない。それが『トビキリ』だったら、尚更だ。

―― ぐぅぅぅぅ~

「ああぁ? 蛍子、お腹鳴った!」

「たっ、違うわよっ!」

 いつの間にか、波に壊された砂の城を、踏み付けたり蹴飛ばして遊んでいる菜摘と勇太。

「蛍子っ! お腹、空いた!」

「俺も! 何か旨いもん喰おうぜ!」

 一哉が、蛍子の顔を見て笑った。

「あの二人の方が、素直じゃん?」

「……」

「おーし! 何か食いに行こうぜ!」

「うん!」

 蛍子の中で何かが変わった。

 クラシックピアニストと言う拘りがあったのかもしれない。他とは違うと、驕りがあったのかも知れない。

「蛍子、何が喰いたい?」

「えっと」

「俺、ラーメンとギョーザ!」

「あたし、かき氷!」

「それ、飯じゃねーぞ?」

「あ、そっか!」

 飛び切りの笑顔が弾ける。勇太と菜摘と一哉と蛍子。

 この日蛍子は、ピアノを弾きたくなるまで、弾くのを止めようと心に決めた。


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