二部  第二章 第一話

 由比ヶ浜の海岸は、染まり始めた夕焼けに、淋しささえ感じさせていた。

 一日の終わりが、取り戻すことの出来ない宝の様に、人々は身体中の思い出と呼ばれる箱に収める。菜摘は、僅かな記憶を掻き集め、その一つ一つをジグソーパズルの様に埋め込んで行く。

―― 夕陽が綺麗ね

 防波堤にもたれ、海に溶け込む夕陽を見詰め、菜摘は僅か半年余りの遠い記憶を紡ぐ。

―― 一哉はそこ、私はここ……

 昨日の事のように、心も身体も記憶が甦る。

 季節は移り、見える風景も移り変わる。しかし、思い出だけが変ることなく、鮮明に残る。もう、新しい記憶は残らない。


 その頃、勇太は狭い作業場で、何かを思い悩みながら和菓子を作っていた。

 煮詰めた寒天に、砂糖で煮た西瓜の皮と搾り汁を入れ、冷やして固めたものに、夏蜜柑の香り付けをした水菓子。

 勇太が西瓜の好きな一哉のために、新しく考え出したもの。ステンレスのトレーの中で程よく冷えている。均等に四角く切り、それを斜めに切り分ける。その一つ一つに炙った夏蜜柑の皮を乗せて完成する。

 勇太は、形の良い幾つかを竹の皮に包み竜の髭で結んだ。

―― こんなに旨いのに、どうしてスイカ味の和菓子は無いんだ?

 砂浜で旨そうに西瓜を頬張る一哉。いつも、種を器用に吐き出し、そこいら中にばら蒔く。

―― 砂浜全部がスイカ畑になったら、凄いのにな!

 勇太は水菓子の包みを作業台の上に置き、裏口にもたれ煙草に火を着けた。いつの間にか夜が訪れ、蒸し暑かった風が幾分涼しくなっていた。

 裏口の横にある納戸に立て掛けてある、二本のサーフボード。綺麗にワックスも落され、ビニールの袋に包まれている。もう二度と乗る事もないボード。一本は一哉のもの、もう一本は勇太のもの。

 勇太は、二本のサーフボードを眺めながら、もう一度煙草の煙を胸に吸い込んだ。

―― リーン、リリーン!

 勇太は、灰皿替わりの空き缶に、吸いかけの煙草を押し込み、電話を取った。

「はい、もしもし」

「もしもし、勇太くん? 米村です」

「あ、おばさん。勇太です。ご挨拶にも行かずに……」

「そんなこと、良いのよ。それより、ちょっと相談があるんだけど」

 思いがけなかった。

 勇太自身、一哉の母に電話をしようか迷っていた。そのための準備もしていた。

「僕に出来る事なら」

「一哉のバイクなんだけど、警察から引き取りに来てって連絡があって。おばさん、どうしたら良いのか判らなくてね」

 勇太には判っていた。いずれ事故車の引き取りに行かなくてはならない事を知っていた。

「おばさん? 一哉のバイクどうされるつもりですか?」

「どうって? 私も主人も使えないわね」

「できれば、僕に譲って頂けませんか?」

「勇太くんが、使うの?」

「はい。出来れば、修理して乗りたいと思っています」


 翌朝、知り合いのバイクショップに運送用のトラックを借りて、一哉のバイクが保管してある警察署に向かった。

 警察署の裏、狭い保管倉庫の片隅で、一哉のGPZは埃まみれのシートに包まれていた。バイクは事故当時のままに、割れたカウリングもこびりついた泥も、一哉のものであろう血痕もそのまま残っていた。

「トラックをそこに入れて、積むと良いよ」

 案内してくれた警官が、積みやすいように場所を空けてくれた。

 一哉のバイクは見掛けほど、大きなダメージはなく、割れて垂れ下がったカウリングにさえ気をつけていれば、動かすのに苦労はしなかった。荷台にあるウインチの操作を警官に手伝ってもらい、ほんの十分足らずで積み込む事が出来た。

「お世話になりました」

「ああ、ご苦労様。気をつけて」

 事務的に手続きをすませ、警察署を後にする。勇太には、たったこれだけの事が酷く苦痛に思えた。

 盆が近付くにつれ、国道の交通量は増えているようである。盆休みまでに仕事を終わらせるためか、残り少なくなった夏を惜しむのか、人も車も先を急いでいるようだ。その車列の中、一人勇太の乗る軽トラックだけが、流れに逆らう様にゆっくりと走っている。

―― 新着Eメール 蛍子

『勇太、今どこ?』

 国道から旧市街に入ると、古い町並みが続く。

 パタパタと走る軽トラックが、十字路に差し掛かる度に、蝉の鳴き声が大きくなった。

―― 返信

『一哉のバイクを譲ってもらいに行くとこ』


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