二部  第二章 第三話

―― 新着Eメール 勇太

『一哉ん家に向かってる。どうした?』

 まるで初舞台のような気分だった。

 およそ五年。

 本当に好きなのか、自分を確かめたくて、弾くのを止めたピアノ。一哉が亡くなり、なぜか自分の目指すモノまで失った気持ちになった。

―― 返信 蛍子

『ねぇ、あとでProfile来てくれない? 見せたいものがあるの。でも、なぜ一哉の家?』

 取り残されて固まった様な、無人のライブハウス。低く唸る送風機の音だけが、時の流れを教えている。

―― カチャ、ザッサァー、バタン!

 入口の厚さ二十センチほどもある、防音扉の擦る音が聞こえる。

 同時に、規則正しく歩く音が聞こえた。

―― コツコツコツッ

「本当に良いのかい? Steinwayのグランドなんて、超のつくブランドだよ?」

 白髪を短く刈り揃え、口髭を蓄えた初老の紳士が、蛍子の隣りに座りながら言った。

「ハイ、今の私に必要なのは、モノではなくて、気持ちなんじゃないかって」

「そうかい、判った。必要になったら、いつでも言いなさい」

「ありがとうこざいます」

 蛍子は、Profileのオーナーでピアニストの大原豊に笑顔で頭を下げた。

 大原は、蛍子の肩を一つポンと叩くと立ち上がった。そして、離れ際に、蛍子の笑顔に頷き、微笑みながら口髭を右手の人差し指でなぞる。

「調律がすぐに始まるから、弾くのはその後からね」

 小さく頷く蛍子。

 ご馳走を目の前にした空腹の子どものように、何度も溜め息を繰り返す。今は、Steinwayがとても愛しい。

 この五年間、こんな気持ちになったのは始めてだった。

―― 一哉、ありがとう。あなたのお陰で、またピアノが弾けそうよ。


 十分な広さの歩道は、石盤のブロックを組み合わせて作られていた。

 所々から、背丈の低い雑草が生え、車道に面した場所に、等間隔で緑の葉を豊にたたえた並木が植えられている。古い漆喰の壁が所々剥げ、細かなひび割れが出来、苔むした小屋根がその歴史を教える。

 勇太は、並木の間からその古びた壁の端へトラックを停めた。

―― ミーンミーンミーンッ!

 途端、五月蠅いほどの蝉の声が襲う。

 閑静な旧市街。

 日差しがくっきりと影を落し、熱したアスファルトに、逃げ水が映る。

 勇太は、幅が一間半ほどある、三段の石段を上がり、細い木格子戸を開ける。

―― ガラガラッ

 その先には敷石の小道があり、小さな庭の木々が滲んだ影を落としていた。

「勇太くん?」

 庭の隅、色とりどりの朝顔が咲く縁側で、一哉の母、和子が良く手入れされた花々に水を撒いていた。

「ご無沙汰しています。お元気そうで、何よりです」

 涼しい目元が微笑む。

 一哉は、この母親の血を濃く受け継いでいるようで、大変よく似ている。

「ごめんね、嫌な役目を負わせて」

 勇太は、和子に誘われるままに、屋敷に入る。勇太が始めて来た小学生の時のまま、全ての時の流れが止まっている様だ。

 真夏と言うのに、ひんやりと涼しく、そして変わらぬ静かな、奥の部屋。正面の梁の上に、楽しそうに笑う一哉の遺影があり、その下に黒檀の仏壇があった。

 絶え間なく焚かれているのか、線香の匂いが鼻をくすぐる。勇太は、新たな線香に蝋燭から火を取り、小さな山となった灰の上に立てた。そして、振り向きもせず、勇太は呟いた。

「一哉が、まだそばにいるような気がするんです……」

 あまりにも小さな呟きなのに、和子は一つ頷いて、そして優しく微笑んだ。

「そう」

「あ、いえ、はい」

 勇太は、和子の言葉に驚き、不意に振り向く。

「不思議ね」

「はい」

 勇太が火を点けた線香から、一筋の糸の様な煙が伸びる。途中から、少しずつ螺旋を描き広がって行く。

 勇太は和子に、向き直った。

「この家にも、時々帰って来るのよ?」

「一哉、ですか?」

 和子は、また優しい笑顔を見せて、

「冷たい飲み物でもいかが?」と立ち上がった。

 玄関のすぐ横、改築で一哉のために作られた客間がある。

 ただ大型のソファーがあるから、そう呼んでいるが、本来の目的はピアノを演奏するための防音が施された、洋間であった。

 勇太は、身体が沈みそうな革張りの高級なソファーに腰を下ろす。硝子のテーブルに、汗をかいたグラス。麦茶とガラス皿の西瓜が並んだ。

「あの子は、いつも突然なのよ」

 麦茶と西瓜を出した後、勇太の向かい側に和子は座り、懐かしむ様に横を見る。その視線の先には、二重になったガラス窓から差し込む、真夏の太陽に照らされたピアノがあった。

「食事中に、お茶碗持って、お箸を咥えたままピアノを弾き出したり、逆に曲の途中でも『 腹減った! 』 って、台所にやって来るし。いつも、何でも突然なのよ」

 勇太も、和子と同じ、ピアノを見ている。まるで、光の中で一哉がピアノを弾いている様な錯覚を見る。

 いつもの様に、いたずらっぽく笑う一哉。ピアノの前に座って、片肘をついて、勇太を見ていた。

「勇太くん、判る? ほら、突然でしょ?」

 和子は、もう一つ、麦茶と西瓜を、ピアノの上に置いた。

 光の中の一哉は、また嬉しそうに笑った。


―― 返信 勇太

『ちょっと寄り道してから、行くよ。三十分後くらい』

 和子の見送りを受け、一哉の家を後にする。

 バックミラーの中、いつまでも手を振っている和子。勇太は、何故か痛々しくて悲しくなった。

 並木道から国道に入り、知り合いのバイク店で、一哉のバイクの修理を依頼し、そのまま車を乗り換えて、蛍子の待つProfileに向かった。

 勇太は、ピアノの前に座る一哉を思い出しながら、小さく呟いた。

―― 突然だよな、一哉は。突然すぎるんだよ


 二時間足らずで調律が終わった。

 初老の調律師は、蛍子に微笑むと、小さく頷いた。

「お母様のお陰ですね」

「母の?」

「はい、この五年間、いつでも弾けるようにと、季節が変る度に調律をさせて頂いておりました。蛍子さまは、一度もお弾きになって無かったでしょ?」

 蛍子は、母から何も聞かされていなかった。

 Profileに寄付をする事も、『あなたが良いと思うなら、好きになさい』 そう言って、あとは、何も言わなかった。

 蛍子は、そんな母の信頼が、涙がでるほど嬉しかった。

―― 私が弾くのを待っていたのは、ピアノだけじゃ無かったんだ

「本番は、二十一日の日曜の夜でしたね」

「あ、はい」

「日曜の朝と本番前に、もう一度調律をします」

「ありがとうございます」

「久しぶりに蛍子様の演奏を、間近で聞かせて頂けるのですから、もう今から胸がドキドキして、待遠しいです」

―― そうなんだ、待っていてくれた人がいたんだ。聞きたいと思っていてくれた人がいたんだ。

 蛍子の目から突然、涙が溢れた。

「蛍子様? わたくし失礼を申しましたでしょうか?」

「いえ、違います。嬉しいんです。それだけ。ピアノを弾けるのが、とても嬉しい」

 ピアノを辞める切っ掛けは一哉だった。そして、また弾くチャンスをくれたのも、一哉だった。

 蛍子はピアノ椅子に座り、鍵盤を指先でなぞる。懐かしい感触が甦った。

―― ポン……

 指から伝わる振動。自然の音色。

 どんなに人の技術が進歩しても、到達出来ない領域。

 自然の息吹。

 決して踏み込めない。

 温もり

 優しさ

 そして、強さ。

 蛍子の指が自然に音を紡ぐ。五本の線に決められたレールではなく、蛍子の中の命がつなぐ調べ。ただ感じるままに、鍵盤に触れ、そして身を委ねた。

 知らぬ間に時は流れ、紅潮した顔は、汗とともに満足感に溢れた。

―― パチパチパチッ

 勇太と大原が、いつの間にか客席の中央で蛍子の演奏を聞いていた。

「よくまあ、それだけ弾き続けられるな?」

「えっ? 私、どのくらい弾いてた?」

「ざっと、三時間かな? 俺が来た時には、もう弾いていたからな!」

「そんなに弾いていたんだ」

 涼しいはずのライブハウスで、蛍子一人、汗をかいている。

「蛍子ちゃん、何か飲むかい?」

「はい、お水を!」

「ちょっと待ってね」

 大原は振り返り、クロークのスタッフに手真似で合図を送った。

「疲れただろ? まぁ座りなさい」

 蛍子が勇太の隣りに座ると、すぐに氷の入ったミネラルウォーターが運ばれて来た。蛍子はそれを一気に半分ほど飲み干し、額の汗をハンカチで拭った。

「実はね」

 大原は、話しながら一枚のCDをテーブルの上に置いた。パッケージには、何も印刷されておらず、手書きで『kazuya-Y 見本』と記されている。

 蛍子はそれを手に取り、怪訝な表情で見詰めた。

「これは?」

「紹介したい人がいるんだ」

「?」

「おいっ、須藤!」

 大原と同年代か、少し若いくらいの男性が音響室から出て来た。カジュアルな服装をしていても、大原と同じ紳士の雰囲気がある。

「こいつは、須藤謙一。サックスの夏目たちと同じ、僕の音楽仲間。演奏に関してはからっきしだけどな」

 蛍子は差し出された名刺に驚いた。

「須藤です」

 名刺には、世界中に販売網を持つ、日本を代表するレコードレーベルの取締役の肩書きが付いていた。

「実は、正月の一哉くんの演奏をCD化する話が進んでいるんだ。勿論、一哉くん自身も生前了解してくれている」

 蛍子は受け取った名刺をテーブルに置いて、残ったミネラルウォーターを飲み干した。

「今日の演奏を聞いて、どうしてもお願いがあるんだ」

 大原と須藤は、共に笑っている。

「結論から言うね。この一哉くんのCDを二枚組にしたいんだ。一枚は一哉くんの正月と過去のライブ収録したもの、もう一枚を蛍子ちゃんの今度の『米村一哉追悼演奏会』を収録したものに」

「追悼演奏会?」

 勇太は、声に出して驚いた。

「ごめん、先に言うべきだったよね」

「えっ、まぁ……な」

「理由は後で話すから。私から大原さんにお願いして、二十一日のの日曜の夜にライブをすることにしたの」

「そうか、良いんじゃないか? 菜摘とおばさんには言ったのか?」

「おばさんにはもう言った。ナッチには、勇太と一緒に行こうかと思って」

 勇太は、テーブルの上にある蛍子の手に自らの手を重ねて微笑んだ。

 遠い過去に残る記憶。

 忘れていた感情が甦る。

「判った。一緒に話そう」

「ところで、蛍子ちゃん?」

「あ、はい」

「どうかな?」

「あのぅ、一哉は何て言っていました?」

「聞くだろうと思っていたよ」

 須藤は、カバンの中から、デザイン画のパンフレットを取り出して、蛍子の前に置いた。ダミーのイラストやコピーと共に、飾り枠の中に数行のコメントがあった。

「これは?」

「一哉くんの契約条件」

「?」

「売り上げの10パーセントをユニセフとWHOに半分ずつ寄付。それと、恒久的な募金活動。環境保護活動などなど」

「カズくんらしい」

「細い所を上げればキリがないけど、一哉くんは、全てボランティアで良いから、その分、他で役立てて欲しいって」

 蛍子も勇太も、思わず笑い出した。それを見た大原も須藤も、最初は戸惑った表情をしていたが、次第に二人につられて笑い出した。

「判りました。カズくんと同じ条件で構いません」

「あなたたちは、変わった人たちだ。日本を代表する天才ピアニストが、揃ってボランティア活動とはね。判りました、我社も全面的にバックアップをお約束しましょう」

 不思議な感覚だった。

 今は亡き一哉の意思が、多くの人を動かし、思いが伝染して行く。追悼演奏会のチケットまで、全額寄付となり、後日、発表からたった十五分で売り切れた。それでも、入場を希望する人々が後を絶たなかった。


 Profileを出た蛍子と勇太は、菜摘の部屋へ向かった。

 夜はすでに更け、行き交う車のヘッドライトが滲む。勇太も蛍子も、話を切り出す切っ掛けを探したまま、黙ってしまった。信じられない不思議な出来事が、二人それぞれを動かし、それがまた、新たな人々を巻込む。蛍子は、新たな道を見付け、勇太は、本当の気持ちを掴みそうになっていた。

 二人とも黙ったまま、車は走る。

 確かな感情と思いを乗せて。


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