二部 第二章 第四話

 一哉が死んでから、この部屋はいつも静かだった。

 それは、微かな一哉の声や存在を、たとえどんな些細な事でも、菜摘は感じていたいからである。

 その静かな部屋で、今、菜摘は寝息を立てている。ローソファの隅、まるで猫のそれの様に、小さく丸まって眠っている。寝息は、規則正しいリズムではなく、時折、早く小刻みになったり、また突然停止したりした。その度に、小さな身体はピクンと何かに反応するように震える。瞼を強くつむる、その寝顔は決して安息とは言いがたい『辛さ』が滲んでいた。


 菜摘は、見慣れた図書室にいた。

 誰もいない静かな図書室。

 本棚から、読みかけの小説を探す。

 フランス人作家の恋愛物の日本語訳。

 タイトルに惹かれて読み始めたはずが、それが思い出せない。

―― あれっ、何だっけ?

 いつも同じ場所に並んでいた。この日に限って見つからない。

―― 貸し出し中なのかなぁ

 菜摘は、仕方なしに別の本を手に取った。

 くすんだマルーンのハードカバー。表紙には見た事もない文字が並んでいる。が、菜摘にはその意味が判るような気がした。

 いつもの様に窓辺の椅子に向かう。

 時折吹く風が気持ち良く、一哉のいるグランドが見渡せる。

―― そうだ、一哉なら、あの本のタイトル知っているかも

 いつもの席で窓を開ける、ん?

―― 窓が固くて開かない

 ロックを調べたり、トントン叩いたり、それでも、窓はびくともしない。

―― どうしよう

 窓の下に一哉が見える。

 いつもの様に髪をなびかせて走り回っている。

―― 一哉! 一哉っ!

 菜摘は、急に不安にかられ、図書室の出口に向かった。ところが、その出口さえも固く閉ざされ、微動だにしなかった。

―― あれぇ、あれぇ!?

 扉をどんなに強く叩いても、空しく音が響くだけ。

 菜摘は再び窓辺に近付いた。いつの間にか、辺りは夕焼けに染まり、グランドを出て行こうとする一哉が見える。

―― 一哉っ!一哉!

 どんなに叫んでみても、背を向ける一哉には届かない。

―― 一哉っ! ねぇ、カズヤッ!

 菜摘の声と窓を激しく叩く音だけが響く。

―― カズヤッ!!

 菜摘は、自分の声で目覚めた。


 携帯の着信を知らせるインジケータが鮮やかに光る。同時に、短い電子音が鳴った。

―― 新着Eメール 蛍子

『ナッチ、部屋にいるかな? 勇太と行って良い?』

 菜摘は、テーブルの上に置いた携帯を見た。僅かにまだ夢の中に意識が沈んでいる。眠る前の自分の意識とつながらない。霞の様にぼやける記憶。

 気がつくと、頬を涙が伝って落ちた。夢の中の記憶は、塵となって消えて行く。しかし、感情だけが一人歩きして、彷徨っていた。

 携帯の文字をじっと見詰めていると、菜摘の涙がひとつふたつと画面を濡らした。

―― 蛍子、どうしたら良い? もう耐えられないよ

 再び、着信を知らせるチャイムが鳴る。

―― 新着Eメール 蛍子

『ナッチ、お出かけかな? 気がついたらメールしてね』

 何をしていても、確実に蘇る時間。どんなに願っても止まらない時の流れ。もがき、苦しみ、それでも、懸命に笑顔でいる事をつなぐ菜摘。

―― 返信 菜摘

『ごめん! 気付かなかった。部屋にいるよ! 二人して来るなんて、何かコワイなぁ』

 震える指で、送信ボタンを押す菜摘。

―― これで良いの。これで良いんだよ、菜摘!

 ギュッと手を握り締め、一人、頷く。


 菜摘が部屋を片付けているうちに、勇太の運転する車は、菜摘のマンションの前に着いた。まだ、様々な高揚感を引きずったまま、蛍子は、部屋のインターフォンを押す。

―― ピンポーン!

 待つほども無く、ドアが内側から開いた。

「菜摘、変わり無い?」

「あれ? 蛍子、何か良い事、あった?」

「よっ! 元気か?」

「勇太まで!」

 菜摘は、精一杯の笑顔で二人を迎えた。

 大切な友人。もう、これ以上、心配をかけたくない。泣いている姿を見せたくない。ただ、それだけの気持ちが、菜摘を笑顔にした。

「それで、何? どうしたの?」

 用意していたティーカップに、沸かしたばかりの湯を入れながら、菜摘は二人に訪ねた。

「実はね、演奏会を開く事になった。一哉の追悼演奏会」

「ふーん。良かったね」

「?」

「それで?」

 勇太と蛍子は、拍子抜けした様に、顔を見合わせた。

「それでって、菜摘?」

「ん? それで、いつするの?」

「あ、ああ、二十一日の日曜日」

 菜摘は知っていたかのように、ただ微笑みながら頷いた。

 仄かに湯気を立てる紅茶。

『真夏の夜に熱い紅茶なんて』 そんな事を考えながら、蛍子は菜摘の反応に疑問を抱いた。

 蛍子は、夏季休暇をずらし、本番までの一週間を休みにして、練習と曲作りに当てること、Profileのオーナー大原の紹介で、一哉とCDを出す事を伝えた。

「どうかな、菜摘?」

「うん、一哉も喜んでくれると思うよ」

 蛍子も勇太も、菜摘の意外な反応に戸惑うも、本番の日に再び会う約束をして、部屋をあとにした。

「じゃあ、菜摘。必ず来てよ! 待ってるから」

「何かあったら、電話しな! あっ、忘れる所だった。これ、一哉のCD。それと、一哉のバイクのキーに付いていたお守り」

 菜摘はCDとお守りを受け取って、二人をドアの前で見送った。そして、去って行く二人の足音を閉めたドアの内側で、泣きながら聞いていた。


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