最終章 第一話

 蛍子は、Profileの営業が終わった後から、再び始まる夕方まで、ピアノに向かう毎日を繰り返していた。勇太は、その蛍子を毎日送り迎えし、少しでもと、蛍子を助けた。

 本番を翌日に控えた土曜の昼過ぎ。

 早めに始まるProfileの営業に備え、楽屋口の扉の前で、久し振りにのんびりとした時間を過ごしていた。

「早いね」

「?」

「一哉が死んで、明日で四十九日」

「あぁ、そうだな。早い」

 勇太は、煙草に火を着けながら、深い青の空を見上げた。

「煙草、止めるんじゃなかったの?」

「まあな」

「昨日、おば様から電話があったわ」

「返事は?」

 蛍子は、勇太の吸っていた煙草を奪うと、レンガの壁にもたれ、口をつけた。ふぅーっと、煙を吐き出し、勇太に返す。フィルターには、くっきりとルージュの後が残っていた。

「来るって。それと、ありがとうって」

「そうか、良かった」

 勇太も蛍子に並んでレンガの壁にもたれる。

「何か美味しいものが、食べたいなぁ」

 蛍子は、勇太の腕に手を絡めて、肩にもたれ掛かった。

「何が良い?」

「そうね、うーん。勇太、決めて?」

「……」

 勇太は、一口煙草を吸い、灰皿で火を消した。

「んじゃ、食いに行きますか?」


 同じ頃、菜摘は一哉の家にいた。

 ひんやりとした空気の満たされた、一哉の仏壇のある奥の部屋。線香の煙が漂い、静かな時が流れる。ひとつふたつと、菜摘の頬を伝う涙が、正座した菜摘の足の上に揃えられた両手を濡らす。その傍らで、和子が身動ぎもせず、菜摘の背中を見つめていた。

「よく来てくれたわ、菜摘ちゃん。とても嬉しい」

「いえ、私こそ遅くなってしまって」

「あと、一日ね」

「……」

 それっきり、また二人は黙ってしまった。ただ、時を刻む時計の音だけが、無性に部屋に響く。

 菜摘は、銀糸の入った綺麗な絹織りの箱と黒塗りの位牌をじっと見詰めたまま、残された僅かな時を噛み締めていた。いつの間にか、窓から射す光が、その角度を浅くして、紅く色付き始めている。

 菜摘は、手の甲で頬を伝う涙を拭うと、和子に向き直り、深く頭を下げた。そして、持ってきたバックの中から、綺麗な小箱を取り出して、和子の前に置いた。

「お義母さま、折角のご好意ですが、この指輪は、私、うけとれません」

 それだけ言うと、菜摘は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。

「菜摘さん、これはあなたに贈ったもの、一哉が死んだからと言って、あなたが返す必要はありません」

 菜摘は、立ち止まり、和子を見詰める。

「それに、一人息子の一哉を亡くした今、一人残ったあなたを手放す訳にはいかないのよ!」

 菜摘は、心に熱いものが込み上げてきた。

「お義母さま」

 和子は、優しく微笑んで、小箱を手に取った。

「あなたがどう考えようと、あなたは一哉の嫁で、私の大切な一人娘です。母が娘に指輪を贈った。ただそれだけの事よ?」

「……、お義母さま」

 一哉を亡くして、菜摘は自分には家族と呼べる人は、いなくなったと思っていた。

「それでも、受け取って貰えないのかしら?」

 また、涙が溢れてくる。ポロポロと、止めど無く溢れて来る。和子の言葉が、身体の芯からしみ込んでくる。

 菜摘は、首を振った。何度も振った。

「今夜、夕食いっしょにいかが? 主人と二人だと淋しくって」

 和子は、小箱を菜摘に渡しながら言った。

「ごめんなさい。今夜は、一哉と約束があるので……。本当にごめんなさい」

 受け取った小箱を、両の手の平で包むようにして、謝った。

「そう、残念ね」

 和子は、本当に淋しそうに呟いた。それでも、一瞬の後には、再び優しい笑顔で菜摘を見詰めている。

 菜摘は、一哉の母がこの人で本当に良かったと思った。出来れば、一度で良いから、いっしょに暮らしたいと、そう感じていた。


 菜摘が、一哉の家を後にしたのは、夕焼けもすぎ、陽がすっかりと暮れたあとだった。

 駅前に停めた自転車で、帰りにコンビニに立ち寄り、線香花火を買う。そして、部屋に戻り、浴衣に着替えた。

―― 新着Eメール 一哉

『菜摘、良く似合っているよ』

「うん、ありがとう」

『約束だったね、浴衣と花火』

「ベランダでいいよね?」

『二人だけのお別れ会』

「うん……」

 ちっちゃなオモチャのバケツに水を張り、空の植木鉢にローソクを灯して、菜摘はベランダの縁に座る。

 紺地に薄い緑と黄色の朝顔の柄。黒の漆塗りで赤い鼻緒の下駄。

 菜摘は、一哉の好きな線香花火をビニールの袋から取り出して、足下に並べた。

 全部で八本。

 線香花火が菜摘の足下に並ぶ。

 ちっちゃなバケツには真ん丸の月。

―― 新着Eメール 一哉

『ごめんね、菜摘』

「ううん」

 菜摘は、一本目の線香花火を手に取った。

「初めて一哉に気付いたのは、高一の夏の前。梅雨の合間のグランド」

 菜摘は線香花火に火を点けた。

 チリチリと黒い火薬が燃え上がる。

『僕が菜摘を見たのは五月。図書室につながる、渡り廊下を歩く菜摘』

 バケツの水にチリチリと飛び散る火花が映る。

「私より一哉の方が、少しだけ早かったのね」

『うん、そうだね』

 藁の先に火の玉ができ、それから流れ星の様に無数の光が飛び散る。不意に火の玉はバケツの水面に落ち、パチンッ! と弾けた。

 菜摘は、二本目の線香花火に火を点ける。

「初めて逢ったのが、夏休み前の海。勇太が一哉を連れて来た」

『本当は少し違うんだ。蛍子と、楽しそうに話しながら、アサガオに水やりしてる菜摘を、朝練の帰りに見付けて、僕が勇太に頼んだんだ』

 水面に輝く線香花火。火の玉がバケツの中で、月と並ぶ。

 白い月。

 赤い線香花火。

 映る瞳。

 また、不意に火の玉が落ちて、パチンッ! と弾けた。

 三本目の線香花火を摘み上げながら、菜摘は小さく切り取られた海を見た。

「一哉、ズルイ!」

 菜摘は、三本目の線香花火に火を点けた。

『?』

「だって、私が先に好きになったって思っていたんだもん」

『ありがとう』

「でも、本当は、叶わない恋だと思っていたの」

 バチバチと勢い良く燃え上がる、線香花火。

『なぜ?』

「だって、一哉人気あったもん」

『ははっ、それなら、菜摘だって同じだよ。男子生徒のほとんどが「菜摘派」か「蛍子派」 のどちらかだったんだよ?』

「うそっ!  あり得ないっ」

 菜摘が、叫ぶと同時に、火の玉はパチンッ! と弾けた。

「ねぇ一哉?」

 四本目の線香花火を掴む菜摘。

「アサガオが好きだって、言ってたでしょ?」

 四本目の線香花火に火を点ける。

『そうだっけ?』

「初めて逢った数日後、花壇に蛍子といっしょにいた時、

『ボクも、アサガオ好きなんです!』 って」

『そ、そんな事あったっけ?』

「もうっ!」

 四本目の線香花火は、すぐに火の玉が落ちそうになる。

『口実』

「えっ?」

『だから、菜摘に話し掛ける、コウジツ!』

「じゃあ、好きじゃないの?」

『ううん、今は好きだよ。菜摘と一緒』

―― パチンッ!

 五本目の線香花火は、湿気っていたのか、火が点きにくい。

「ねぇ、初めてのデート、覚えてる?」

 突然、火が点いた線香花火は、一瞬にして燃え上がる。

『映画、だっけ? あ、サーフィンか?』

「違う、公園よ」

『公園?』

「そ、公園。一哉の教えていた子ども達の試合。電話したでしょ?」

 蒼白い炎を吹き上げ、瞬く間に火の玉になった。

『そう……、だっけ?』

「明日、試合だから、弁当作って、応援しに来てって」

『あっ』

「思い出した?」

 火の玉は、パチパチ弾け、次第に黒く染まって行った。

 六本目を点ける前に、菜摘は冷蔵庫から切り分けた西瓜を出し、テーブルの上の一哉の写真の前に置いた。

「試合の後、スイカを子ども達と食べたの覚えてる?」

 菜摘は、切り分けた一つをかじりつく。ジワッと広がる西瓜の甘味。

「美味しそうにスイカを食べてる一哉を見て、『この人とずっと一緒にいたい』 そう思ったの」

 菜摘ははにかみ、俯いた。

「変かな?」

 六本目は、火を点けてから、消えるまで西瓜を食べながら、見詰めていた。

 僅かに漂う火薬の臭いに混じって、潮の香り、それに一哉が大好きな西瓜の匂いがする。

 七本目の線香花火を手に取った時、すぅーっと風が吹いた。

 透き通った夜空は、煌めく星々に埋め尽くされ、遠く小さな海にも揺らめく船の灯が見える。

―― シュッ、シュー

 残り僅かな夏を惜しむように、線香花火が燃える。菜摘の涙越しの花火は滲んで七色に輝く。

「一哉」

『菜摘』

 じっと、線香花火を見詰める菜摘。小さなバケツに入った水に映る火薬の光。その光の陰に映る、一哉。じっと、菜摘を見詰める一哉。

「一哉、一哉!」

 水に手を伸ばす菜摘。水面に触れると小さな波が一哉を揺らす。僅かな線香花火の光を失い、またもとの水に戻る。

 最後の線香花火。

 菜摘は、小さくため息をつき、震える手でローソクの炎に線香花火を近付ける。

―― ジジジッ

 微かに火薬が燃える。水面に映るあの日のままの一哉。

「本当に消えてしまうの?」

『う……ん』

「……」

『ごめん』

 人は死ぬと、最後に四十九日間の自由をもらう。その間に、世話になった人々にお礼に行ったり、行けなかった場所に訪れたりする。しかし四十九日目には、身体は土に返り、精神は天国に行くと言われている。

「一哉、また逢えるかな?」

『逢えるさ、きっと逢える』

「一哉、逢いたい」

―― シュシュッ、パチンッ!


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