最終章 第二話
雨が降っていた。
オープンまでまだ二時間もあると言うのに、Profileの周辺は人で溢れている。勿論、この人々が全員店内に入れる訳では無い。それでも、「当日券」と呼ばれる微かな希望を持ち、降り続く雨の中、その時を待っていた。
店内は通常営業のテーブル椅子ではなく、一人でも多くの観客が入れる様にと、パイプ椅子が並べられた。入場出来る人数が増えたものの、実質的には余りにも多い『希望者』のため、問い合わせに応えることが出来ないでいた。
舞台上。
最後の調律を受けているSteinway。単音のピアノの音が店内に響く。その後ろには、巨大なスクリーンが吊され、プロジェクターの光が僅かに漏れていた。
蛍子は、小さな楽屋で静かな時を過ごしていた。
閉じられた扉から、微かに聞こえる調律の音。
「勇太、菜摘はまだ?」
「ああ、電話もメールもしたけど」
「そう。どうしたのかしら」
―― トントン
ドアを叩く音。
「はい」
勇太がドアを開けると、そこに大原と須藤が立っていた。
「どう? 蛍子ちゃん」
蛍子は、にっこりと微笑んで、頷いた。
「大丈夫です」
大原も須藤も、頷いて微笑んだ。
「蛍子ちゃん、今日は弊社最高の録音機材と人材を用意したから、収録は安心してね」
「おいおい須藤、うちの店の機材じゃ、安心出来ないってか?」
「お前んとこの年代モノの機材じゃ、蛍子ちゃんの繊細なタッチは無理だね」
「古くったって、良いものは、良いんだよ」
「ありがとうこざいます」
「ほら、大原! 蛍子ちゃんが困ってるじゃないか?」
大原と須藤のおかげで、緊張と不安が一気に解けた様な気がした。
「須藤さん」
須藤は、驚いた表情で蛍子に振向く。
「な、なに?」
「出来ればで良いんですが、今日の録音。開場したらすぐ始めて頂けませんか? そして、お客さんがいなくなるまで、出来ればノンストップで」
「え? 客入れからするの?」
「はい、無理ですか?」
「いや、HDDだから、問題ないけど」
須藤は、余りにも突飛なリクエストに、大原を見た。大原も、蛍子の真意を掴めずに、首を傾げるしかなかった。
「判った。何か理由があるんだね。焼くのはCDで良いかい?」
「メモリーカードを用意しました。これにお願いします」
「OK、これなら同時に入れられるから、終わったらすぐに渡せるよ」
「ありがとうございます!」
間も無く、開演まで三十分を切る。開場が始まる時間が近付く。
「んじゃ、収録を始めるね。ついでだから、映像も回しておくよ。蛍子ちゃん、頑張って!」
「はい!」
「じゃ、僕も行くよ。頑張ってね」
二人が楽屋を出て行った直後、客入れを知らせるスタッフの声が聞えた。蛍子は化粧前の鏡の中にいる勇太に微笑む。
「始まったな」
「うん、勇太?」
「なんだ?」
「お願い、震えが止まらない……」
勇太は、椅子に座って鏡に向かっている蛍子を、後ろから抱き締めた。蛍子は、その腕に手をそえ、瞼を閉じる。ひとつふたつと、小さな溜め息をつき、再び鏡の中から勇太を見詰めた。
「ありがとう、勇太」
同じ頃、菜摘は駅前にいた。
雨がシトシトと、降っている。透明の淡いグリーンの傘から見える夜空は、暗く重い。菜摘は、家路を急ぐ人々に紛れ、駅前を歩く。所々に出来た歩道の水溜まりに、幾つもの小さな輪が出来ている。菜摘は、傘から垂れる雨粒を手の平で受け、それを鈍く光る街灯にかざした。
―― あの日と、同じ
横断歩道を渡ると、大通り。
歩道は幾分広くなり、車道との間には、等間隔で並木が植えられている。
―― ぴちゃっ、ぴちゃっ
降り続く雨。
そのリズムに合わせる様に、ゆっくり歩く菜摘。クリーム色のテントから、雨粒が滴り落ちる小さな洋菓子店。一人、店員がガラス扉の向うから、暗い夜空を見ていた。菜摘が扉の前に立つと、自動扉が開き、店員が微笑んで迎え入れた。
「いらっしゃいませ」
店員は、ガラスケースの向こう側に回り、再び笑顔を見せた。
「よく降りますね」
「あのぅ……」
菜摘は、ケースを覗き込んで、店員に尋ねた。
「いちごの乗ったショートケーキは?」
「ごめんなさい、売り切れちゃって。あ、こちらのホールを?」
店員は菜摘を見て、何か思い出した様に、言葉を詰まらせた。
「七月の始め。赤いバイクに乗った男の人が、こちらで『いちごのケーキ』を買いませんでしたか?」
「やっぱり」
「えっ?」
「私、安藤佐知子」
「な、菜摘、菱木菜摘です」
「あなたが、いちごショートの好きな彼女ね」
佐和子は、いちごの乗ったホールケーキをガラスケースから取り出し、そして話し始めた。
「あの日、今日と同じように雨が降っていたの。閉店の準備をしようかと考えていた時、赤いバイクで彼が店にやってきた。全身びしょ濡れで、身体中から雨粒が滴り落ちていて、私は店のタオルをお貸ししたんです。その時の彼は『いちごの乗ったショートケーキ』を買いに雨の中をいらっしゃったんですが、生憎売り切れてしまって」
佐和子は、話しながらケーキにナイフを入れる。
「それで、折角、来て頂いたのですから、ホールケーキを切り分ける事にしたんです。そしたら彼が」
ひとつずついちごの乗ったショートケーキ。それを、白い小さな箱に入れる。
「タオルのお礼だからって、ケーキをひとつ私にって」
菜摘の知らない一哉がそこにいた。
その時、自分は何をしていたんだろう。一哉の最後の瞬間、いったい自分は何を考えていたんだろう。そう考えるだけで菜摘は、胸が詰まり息苦しくなった。
「店を閉め、雨の上がった歩道を歩いていると、あの赤いバイクが倒れていたの。くくり付けられたビニール袋から、潰れて飛び出していた『いちごのケーキ』。どうか、別人であるようにと祈ったわ」
菜摘の目から、涙が零れた。ひとつふたつ。佐知子の目からも、涙が溢れていた。
「次の日、新聞に載っていた。『天才ピアニスト、米村一哉氏。事故死!』。ピアノを弾く写真を見た時、心臓が止まりそうだった」
小箱に泣きながらリボンを飾る、佐知子。三つの白い小さな箱。
「少しだけ、待っててくれない?」
「え?」
佐和子は奥に入り、数分で着替えて戻って来た。ガラスケースに白布を掛け、明りを消す。
「さぁ、行きましょう」
そう言うと、ショルダーバックとケーキの箱を持ち、菜摘の手を引いて店を出た。準備中の札を立て、自動扉のスイッチをきる。僅かに震える手が、鍵と鍵穴を小刻みにぶつける。
―― カチカチ、カチ
「どうしたんだろう? 鍵が上手く掛けられない」
菜摘は、佐知子の手に自らの手を重ね、鍵穴に鍵を差し込んだ。
―― カチャリ
「ありがとう」
ケーキの入った三つの箱を持ち、雨上がりの歩道を歩く。夜の町並みの灯が、水溜まりに反射して虹色に滲んでいた。
「あの事故現場を通るたびに、胸が痛かったんです」
並木の一ヶ所が、皮が剥げ傷ついている。その周りに、花やジュースが溢れるほど供えられていた。
「いつも、いっぱいのお供え物で溢れていたわ。今日は、まだ少ない方」
そう言って、佐知子は小箱を供え物の端に加えた。
「これは、あなたに。これは、私の」
菜摘にひとつ小箱を渡すと、佐知子はしゃがんで手を合わせた。菜摘も、並んで手を合す。
事故後すぐにでも、この場所に訪れたかったが、菜摘には、その勇気が無かった。佐知子もまた、同じ勇気が持てなかった。
瞼を閉じ、心の中で祈る。佐知子もまた、無心に祈っていた。
―― 私は何を祈れば良いんだろう。天国なんて行って欲しくないのに
ゆっくり目を開けると、並木の向こうの植え込みに、小さく光るものが見えた。横を見ると佐知子も、同じ方を見ている。
「あれは、何かしら?」
佐知子は立ち上がり、光のもとに近付いた。
―― えっ?
植え込みの中に手を入れる佐知子。
「だめっ!」
「え?」
菜摘は立ち上がり、佐知子の側へ駆け寄る。そして、佐知子の腕を掴んだ。
「それは、一哉のっ!」
植え込みから、ゆっくりと引き抜かれる佐知子の手。その手に、菜摘が見慣れた携帯電話が握られていた。
「この携帯、彼……の?」
「うん」
「信じられない、ふた月近くたっているのよ?」
佐知子は、手を開いて携帯電話を菜摘に渡した。
微かに点滅するインジケータ。ぼやけた明りが、今にも止まりそうな心臓のように見える。
菜摘は、その携帯電話を裏返して、佐知子に見せた。
「信じられない」
菜摘と一哉が楽しそうに笑う小さな写真シール。
「佐知子さん、一哉は何かの理由で、あなたに見付けて欲しかったのかも知れない。理由は判らないけど、私にはそんな気がします」
「……」
「私には、彼くらいの弟がいたの。勿論、生きていればの話しだけど」
「お亡くなりに、なったんですか?」
佐知子は、小さく頷いて、持っていたバックから、手帳を出した。そして、最後のページに挟んであった写真を、菜摘に見せた。
笑いながら肩を組む二人の男女。長い髪をヘアバンドで止める佐知子に、頬を寄せ笑う少年。
「私が故郷を出るひと月前の写真」
今は短い髪の佐知子。
「パテシェの勉強がしたくて、家を飛び出したの」
「……」
「家出同然だったけど、弟だけが助けてくれた」
佐知子は、雨の上がった夜空を見て、ふっと溜め息をついた。
「結局、弟には何も返す事も出来なくて」
「……」
「彼を見た時、弟を思い出して。それでタオルを貸してあげた」
菜摘はもう一度写真を見た。何度も何度も見ていたのだろう。擦り切れて、ひび割れている。
「きっと弟さん、佐知子さんに頑張って欲しいんだと思います。きっと、そんな気がする」
「そうかも知れないわね」
佐知子は、笑って頷いた。
「一哉の携帯、見付けてくれてありがとう」
菜摘は、写真を佐知子に返した。
「これも何かの縁なのかな? 菜摘さんも頑張ってね」
そう言って、佐知子は店の方に戻り始めた。
「店で勉強するわ! イチからやり直しね」
笑顔で歩いて行く佐知子。菜摘は、その背中を黙って見送った。
―― 一哉、天国って、どんなとこ?
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