最終章 最終話

「間も無く、開場しまーす。本番は、オンタイムの予定です! 宜しくお願いしまーす」

 会場入口で、叫ぶスタッフ。

「録音、始めろ!」

「須藤さん、まだ客入れですよ?」

「構わない。ピアニストのリクエストなんだ。それから、このメモリーカードに同録しておいてくれ」

 そう言って、須藤は三枚のメモリーカードを音響スタッフに渡した。

「映像にも、収録を始めろって、伝えておいてくれ」

 須藤は、そう言うと、音響室から出て行った。

 大原は、入口のクローク前で、開場が始まるのをじっと待っている。

「開場しまーす。ただ今より、開場しまーす!」

 スタッフの合図と共に、静かに入口ドアが開いた。

 向いあった女性スタッフが、ドアを通る観客のチケットをちぎって行く。それぞれの半券には、手書きの座席番号が記入してあり、それを見た運営スタッフが、そろぞれの席を教え、エスコートする。混雑もトラブルも無く観客の入場は続く。

 性別や年齢の違いこそあれ、どの顔も笑顔に溢れ、再会の喜びを分かち合い、そして、その幸福を噛み締めていた。

 優しいBGMが流れる中、静かに『米村一哉追悼演奏会』の幕は明けた。


 入口ロビーで、大原と須藤は、一哉の母、和子と話していた。

「その節は、お世話になりました」

「こちらこそ、こんな立派な演奏会を開いて頂いて、一哉は本当に幸せな子です」

 和子はいつもの様に優しく微笑む。

「誰か! 案内してあげてください」

 駆け寄ってきた運営スタッフが、和子を座席に連れて行く。離れ際、和子は一度振り向き、深く頭を下げた。

―― 須藤さん、聞えますか?

 須藤の首に掛けたインターカムから、微かに声が聞こえる。須藤は無線を握り、返事を返した。

「何だ? どうした?」

―― ノイズが乗っているんです。送風機だと思うんですが、大原さんに切るようにお願いして頂けませんか?

 近くにいた大原は、首を左右に振る。

「エアコンも送風機も全て切ってあるぞ?」

「一度、確認してくれ!」

 再び無線を握る須藤。走り去る大原。

「送風機もエアコンも、電源が落としてあるそうだ。今、確認してくれている。とにかく、そっちに行くから」

―― 判りました。こっちも心当たりをチェックします

『最新鋭のデジタルだぞ? ノイズなんてあり得ないんだ!』

 音響室は、数名のスタッフが慌ただしく機材のチェックをしていた。

「あ、須藤さん! どうもこうも、こんなの初めてですよ」

「ケーブル関係は?」

「勿論、最初に疑いました。総とっかえしましたよ。疑わしい機材も全てチェックしました。後、見るトコなんてありませんよ。お化けの悪戯くらいしか……」

「おっおい、録音は大丈夫だろうな?」

「勿論、モニターもバッチリです」

「ノイズはともかくとして、絶対に録音は切らすな! 幽霊だろうが、地震だろうが、録音だけは、社の威信に賭けても続けろよ」

「勿論!」

「映像チームは、どうなんだ?」

「向うも同じみたいです。うちより酷いみたいですよ」

「何て事だ。判った。回ってみる」

 空きの控室でモニターテレビを並べて、映像のチェックをしているスタッフが須藤の顔を見るなり、泣き付いた。

「須藤さん、どうにかしてくださいよ。音声はそちらにお任せするにしても、映像にノイズが走るんです。あっ、また!」

 信じられない現象が起きている。まったく違う回線、電源、それに理論上あり得ないトラブルが起きている。

 須藤には、超常現象としか思えなくなっていた。それでも、出来る事は全て行い、復旧を願うだけだった。

「仕方ない、予定通りで行くぞ」

 客席の明りが少しずつ暗くなり、同時にピアノの音が響き始める。

―― V1、入ります。二分十八秒

 スクリーンに一哉の笑う顔が写し出される。


 誰かと話す、一哉。

 サーフボードを抱えた、一哉。

 自転車に乗ってふざける、一哉。

 汗だくで笑う、一哉。

 一哉の指。

 ピアノを弾く、一哉。

 フラッシュバックで、様々な一哉がスクリーンに映る。

―― V2、オーバーラップ。十二分二十四秒

 一哉の笑顔に被って、五年前の初ステージの映像が流れる。その時また、インターカムが須藤を呼ぶ。

―― 須藤さん、聞えますか?

「また、ノイズか? 今度はなんだ?」

―― いえ、それが……

「何なんだ?」

―― 消えたんです。綺麗さっぱりと

 須藤は、映像モニターを見た。

「ノイズは?」

 須藤は、目の前にいる映像スタッフに聞いた。

「あ、そう言えば、出ませんね」


 今は亡き天才ピアニストの五年前の映像を見入っていた観客は、誰一人気付かぬうちに、そのピアニストの魔法の罠に落ちて行く。それは、空気に潜む毒薬のように、息を飲む度に感覚を痺れさす。

 ある時は、空を自由に飛ぶように。

 ある時は、川を流れる木の葉のように。

 またある時は、悪夢にうなされた赤子のように、観客の心を揺さぶる。

 痺れた感覚は、抗う事を許されず、覚める事のない幻覚を見せる。

 観客は、完全に虜となり、五線譜が四肢と心を、鎖のように拘束する。

 今、Profileの店内は夢遊病者で溢れ始めた。

―― V2、ラスト三十秒。下手からMCの大原さん、出ます

 スクリーンにエンドロールが流れる。


―― 200X年5月

 Profile

 Kazuya-Yonemura

 1st Live


 舞台、下手からProfileのオーナーの大原が現われた。

 スポットライトが照らす中、大原は自慢の口髭を指先で摘みながら話し始める。

「恐らく、今、この会場にいる皆さんは、紛れも無い奇跡をご覧になることでしょう。若くしてこの世を去った天才ピアニスト、米村一哉。そして、彼の意志を継ぎ、再び鍵盤に向かうもう一人の天才ピアニスト、織原蛍子。この二人の天才の演奏は、単に素晴らしいだけではありません。もう、お気付きになっていらっしゃるでしょう。そうです。魅了されてしまう。そして、それぞれの心の中に、五線譜として記されていきます。一度でも彼らの演奏を聞けば、もう囚われ人となってしまう。それが、彼らの音楽」

 狭い空間にぎりぎりまで入った観客。それでも、誰一人物音ひとつ立てずに、大原の言葉を聞き入っている。

「実は、この演奏会には、三つの目的があります。ひとつは、二人の天才の演奏を堪能すること。そして、二つ目が、二か月後に発売が決まった故米村一哉と織原蛍子のCD収録」

 舞台、下手袖で、椅子に座った蛍子は、じっと大原の話を聞いている。

「そして、三つ目の目的。一哉の意志、音楽の可能性。私たちが今できること」

蛍子にとって、この演奏会そのものが、奇跡だったのかも知れない。米村一哉と言う、一人の天才ピアニストに出会い、音楽に対する考え方そのものが判らなくなり、『楽しくなけりゃ、音楽をする意味が無い』その当たり前の事を見失い、ただ与えられた曲を演奏するだけ。

『演奏する側が楽しくなけりゃ、聞く側が楽しいはずも無い。楽しく演奏するからこそ、聞く人たちも楽しめるんだ』

 蛍子は、防波堤で楽しそうに話す一哉を思い出した。

「この追悼演奏会の入場料収益は全額寄付されます。発売される二枚組のCDも販売価格の10%が寄付されます。自然環境を守ったり、子供たちを助けたり、考えられる様々な事に役立てていかれます」

 陽に焼けた横顔。

 幸せそうな笑顔。

 どんな事にも、一生懸命で、誰にも優しい。自然が大好きで、子供たちが大好きで、笑った顔が素敵な一哉。

「正月のライブ収録のCD化の企画が上がった時、一哉の契約条件が、恒久的な自然保護と病気や飢餓で苦しむ子供たちを助ける活動をすることでした」

 いつの間にか、数名の音楽家たちが、舞台袖に集まっていた。どの顔も見た事のある人ばかり。

「それに、一哉も蛍子も、一円のギャラも要求していません。そこで私たちは、少しでもこの意志をより多くの人達に伝え賛同して頂けるように、チカラを合わせる事を決めました。紹介しましょう」

 客席や袖から続々と舞台に上がる人々。

「音楽家、俳優、画家、職業も様々です。そして今後、我々の活動を全面的に支援してくれる、S&Mコーポレーション、専務取締役須藤謙一」

 蛍子の背後から、須藤は蛍子の肩をひとつ叩くと舞台に出て行った。

 大原からマイクを受け取り、舞台の中央で話始める。

「こんにちは。あ、今晩は、かな? S&Mコーポレーションの須藤です。単刀直入にお話します。我が社は、故米村一哉の意志を継ぎ、恒久的な援助活動を行なう事になりました。自然・飢餓・健康・教育、この四つを柱に国際機関と協力し、全ての我が社の活動とリンクさせて行きます」

 バックのスクリーンに、世界中の子供たちの笑顔が映し出される。

「長く続けるために、勿論、ビジネスとしても成功させなくてはいけません。生まれたばかりで、我々の活動はまだ小さなものです。どうか、チカラをお貸しください。そして、このProfileから、世界に向けたメッセージを送りましょう!」

 勇太が蛍子の側に来て、蛍子の肩にそっと手を置く。そして、小さく微笑み、頷いた。

「一哉が本当にしたかった事は、きっとこんな事なんだね」

「うん、そうかも知れない」

 そして、蛍子は再び舞台の大原に視線を戻した。

「それでは、三年前の秋のライブシーンと今年、正月のスペシャルライブを続けてご覧ください」

 舞台がゆっくりと暗くなり、ゲストたちがそれぞれの場所に戻る。

―― V3、二十八分三十秒

 同時に、幻想的なピアノ独奏が聞えて来た。スクリーンには、深い森の木漏れ日が映し出されている。

 オオムラサキと呼ばれる絶滅に瀕した『蝶』が、フワフワと飛びながら画面を横切って行く。

 オオムラサキは木々の間を抜け、澄んだ水をたたえた小さな水辺に出た。

 苔むした倒木。

 湧き出る清水。

 澄み切った光。

 色鮮やかな草花。

 何百年も守られてきた自然。

 その水辺に群がるオオムラサキの大群。

 たった一台のキーボードが、この幻想的な映像を奏でている。

「やっぱり、何度聞いても、一哉は凄いよ」

 蛍子は、溜め息をつき、うっとりと一哉の演奏を聞いていた。そこに大原が声を掛けた。

「蛍子ちゃん、三年前のこのライブの後、実は一哉は蛍子ちゃんの事を話していたんだよ」

「えっ?」

「一哉は、今が自分の才能の限界だから、これ以上の曲は創れないけど、織原はまだまだ伸びるピアニストなんだ。だから、織原が再び弾くようになったら、必ず助けてあげて欲しいって」

「うそっ?」

 蛍子は、一度もピアノを弾けと、一哉に言われなかった。今考えれば、自身から弾きたくなるのを、待っていたのかも知れない。

「それにね、いつも一哉は、『早く蛍子がピアノ弾かないかなぁ』って、言っていたんだよ」

―― 私、皆をずっと待たせていたんだ

―― V3、残り三十秒、カットインで、V4入ります。五分五十八秒


 一哉のスクリーンライブが始まるその頃、佐知子と別れた菜摘は、大通りから海へ続く道を走っていた。

 手には、一哉の携帯が握られている。

―― お願い、もう少し、もう少しで良いから

 雨上がりでタクシーも捕まらない。バスも来ない。菜摘は、必死に走っていた。

―― お願い、お願い。消えないで

 赤いインジケータが、鈍く光る。

 この光が消えた時、携帯は完全に機能を停止する。菜摘にとって、それは一哉との永遠の別れの様に思えた。全てを失うような気がしていた。

―― お願いだから、まだ逝かないで

―― 新着Eメール 一哉

『大丈夫。菜摘、大丈夫』

 菜摘は、大粒の涙を流しながら、一哉からのメールを見た。

「一哉、一哉っ!」

 次第に走る速度は緩やかになり、いつしか止まりそうなほどになっていた。

 菜摘は、一哉の携帯を胸に抱き、部屋へと続く暗い道を一人歩く。

―― 離れたくない、離れたくないよぉ

 子供のように、泣きながら歩く、菜摘。拭っても拭っても、後から後から、途絶える事無く涙が流れる。

―― いや、いや! 離れたくない

 夏、深く

 秋、まだ早し

 されど、秋の虫

 夏に別れ唄を奏でる

―― リーンリーン、リーン


 部屋に戻ると菜摘は、一哉の携帯の充電器を探した。

―― 確か、ここにしまったのに。あった!

 菜摘は急いで一哉の携帯に充電器をつなげる。

―― ぁ? あれっ?

 充電を知らせる光が点かない。

―― どうしたの? どうしたの?

 不安と焦りから、再び涙が溢れて来た。ポタポタと零れる涙。一哉の携帯を濡らして行く。

『大丈夫』

「一哉っ」

『もう、ダメだと思う。ごめん』

「なぜ? どうして?」

 一哉の携帯を胸に抱き、泣きながら叫ぶ菜摘。

『ごめん、菜摘』

 菜摘は引きちぎる様に、充電器を外した。

『菜摘、覚えているか? ボクが、この部屋で菜摘と住み始めた日のこと』

「うん」

『医大の合格発表の日』

 菜摘は、見えない手に導かれ、窓辺のベッドに上がる。窓がスルスルと開き、夜の冷えた風が流れ込む。

『あの日、ボクは一番に菜摘に報せたくて、この部屋に来たよね』

「覚えているよ? 朝の十時ころだった」

 菜摘は、ベッドの端に座り、小さく切り取られた海を見詰めた。

『なのに菜摘は、ちゃんと朝ご飯作って、待っていてくれた』

「どうして? 変?」

 菜摘は、背中から優しく包まれるように感じた。

 いつも一哉がしてくれた抱擁。

 温かく安心していられる場所。

 じんと染み込む、優しさ。

『だって、ボクが何故部屋に来ると思ったの? 報せるだけなら、電話でもメールでも良いじゃない』

「何となく、一哉なら報せに来ると思ったの。そして、きっと最初に『腹、減った!』って言いそうな気がした」

 じんわりと、身体の中に一哉が入って来る。菜摘の身体と一哉の『それ』 が重なる。

『不合格とか、もっと遅く報せるとか、ひょっとしたら来ないかもって、考えなかった?』

「ううん、考えなかった。一哉なら、きっと報せに来ると思ってた」

 見えない手が、菜摘を包む。髪の毛から指先まで、全てが重なり、優しさに満たされて行く。

『あの日、ボクはひとつだけ菜摘にマチガイを言った』

「何? マチガイって」

 胸に抱いた一哉の携帯から、熱い感情が流れて来る。菜摘の胸を中心に、それはどんどん広がり、指先まで届いた。

『あの日、ボクは「死ぬまで、一緒」 って言っただろ?』

「……」

『判った事があるんだ。ボクと菜摘は、死ぬまでじゃない」

 菜摘の心は、雨に濡れた子猫のように震えた。

 淋しさ、辛さ、孤独感、それらが一気に押し寄せて、大波が何もかもをさらって行く様な、そんな恐怖心に潰されそうになった。

『ボクと菜摘は、何百年も昔から、ずっと繋がっていた』

「えっ?」

『ずっと昔から、ずっと』

「……」

『だからいつか、また必ず逢えるから。きっと、逢えるから』

 全身に感じる一哉の記憶。

 一哉に抱かれ眠った日々。

 何度も交わした口づけ。

 ただ、こうして抱かれているだけで良い。

 何も望まない。

 あなたが、そばにいるだけで充分。

 それで、幸せ。

 それだけで、幸せ。

 あなたが、好き。

 誰より、大好き。

 いつまでも、いつまでも、

 ずっと……。


 一哉のギターが聞こえる。

 弾く人のいないギター。

 聞き飽きることの無い旋律。

 懐かしいメロディー。

 その調べが、身体を包む。

 羽毛の様に、優しく包む。

―― 忘れないよ。何度、生まれ変わっても。一哉といた事、決して忘れない

 いつしか、菜摘の意識は、深く沈み始めた。

 穏やかな気持ちのまま、ゆっくりと沈む。

 深い深い意識の底。

 夢では無く、現実でもない。

 魂だけが辿り着く事を許された世界。

―― ここは、どこ?

 霧に包まれて深い森。

 その神秘的な影を映す湖。

 風の吹く音も鳥の鳴き声も、聞こえない。

 確かなものは何も無く、流れる霧だけが、その存在を示す。

 霧が不可思議な光の屈折を導き、森と湖面を刻々と移り変わる色彩に変える。

 金色の光が霧を通り抜け、湖の中に差し込むと、黄金の光の粒となり、ゆらゆらと湖面から浮上る。

 粒は、まるで逆さまになった雫のように、あとから幾つも生まれ、湖面の僅か上空に漂っている。

 霧が流れ、深い森に影を落す。

 影は、湖に吸い込まれ、深い青……、瑠璃色に変えた。

 金色の光の粒は、深い蒼の金色に変わり、塊となって、遥か上空に消えた。

 菜摘は、いつの間にか浅い湖の中に立っていた。

 透き通った夜空の様な深い蒼。

 足首に当る輝く水の感触。

 手の平で掬うと、水は仄かな輝きを失う。

 何処からか、喝采が聞こえる。


 舞台中央。

 Steinwayの前に座る蛍子の演奏に対して、割れんばかりの拍手が起こる。

 何度となく繰り返されたスタンディングオベーション。

 響く喝采。

「ここに一枚のCDがあります。これは、一週間前に、一哉のお母様から戴いたもの。この中には、未発表の一哉の最後の曲が入っていました。私にとって、最初で最後の一哉とのジョイント。では、聞いてください」

 蛍子は、傍らに置いたノートパソコンにCDを挿入した。ひとつ大きく息を吸い、胸に手を当てて瞳を瞑る。インターカムから須藤の耳に微かに聞こえる。

―― 須藤さん、聞えますか?

「どうした?」

―― またです。また、ノイズが始まりました!

「原因はパソコンか?」

―― いえ、分かりません。

会場内に響くピアノの単音。

―― ポン

誰も最初、それが曲だとは気付かなかった。ただ、間隔を置いて響くピアノの単音。

―― ポン

 その時、スクリーンに斜めに横切る光がうつる。

「この曲にVなんてあったか?」

 独り言のように呟く須藤。

―― ありません。ただのノイズです。

「ばかな! これがノイズ?」

 スクリーン中央に、小さな光の粒が現れ、それが螺旋を描き広がる。ひとつまたひとつと、光の粒は増え、渦の様にスクリーンの中を巡る。やがて、それは一本の流れに変わり、無秩序に動き回った。

―― これが、ノイズ?

「映像チームです。信じられません! 再生機は完全にストップしてます。電源も落としました!」

「何……なんだ?」

「綺麗」

 スクリーンを見詰める蛍子。切っ掛けを待っていただけだったはずが、いつしか映像に見入っていた。

―― 須藤さん!

「今度は何だ!」

―― どうもこうも、何もかも、ノイズだらけっすよ!

「録音は?」

―― モニターすら出来ないくらい、ノイズが出ています。無理っすよ!

 スクリーンの光の帯は、絡まる様に集まり、繭のカタチを創る。僅かに脈動する繭は、その度に色彩を変え、光度を高めて行く。やがて眩いばかりの輝きを放つと、突然、弾けた。

―― 蛍子、行くよ。

「カズ……くん?」

 単音だったピアノの音が、いつしか流れるメロディーに変わっていた。

―― さぁ

 蛍子は、咄嗟に鍵盤を叩いた。

 CDから流れる一哉のメロディーと蛍子の弾くSteinwayの和音がシンクロする。絡まり合うように、膨らみ、サウンドの渦となって客席を取り込んだ

―― 須藤さん、客席に出て、舞台見てください

 須藤のやり取りを聞いて、大原までもが、不安そうな顔をしている。

「どうしたんだ?」

「客席に出ろとよ!」

 舞台裏から、楽屋通路を通り、上手客席の背後にでた。不思議と観客は、二人に見向きもせず、舞台を見つめている。

「どうした?」

―― ピアノの下!

「ピアノの下?」

 大原が先に異変に気付く。

 地下の二階に位置するProfileは、客席も舞台も下はコンクリートしかない。ほとんどの電気・通信関係のケーブルは、天井や壁面を走っている。ネズミ一匹通る隙間すらない。

「あんな場所から、ドライアイスが出せる訳がない!」

「煙か?」

「須藤! 何かの煙なら、まず臭いがする。それに、見ろ! 上に上がらず、床を這ってる」

 霧の様な『それ』は、床から滲み出る様に広がって行く。蛍子は、足元の『それ』に気付くことも無く、無心にピアノを弾いている。

 霧の様な『それ』は、舞台から溢れだし、観客までも包み始める。

「一哉、凄い! 凄いよ!」

 渦巻くサウンドと観客席を包み込む『それ』が、新たな異変を生み出し始めた。

―― 須藤さん、僕たちは、何を見ているんですか? 奇跡なんですか?

「奇跡……、そうかも知れん」

 湧き出ていた『それ』は、光の粒を作り始めた。ひとつふたつとその数を増やし、蛍子に群がる様に包んで行く。

「なっ!」

 舞台袖から見ていた勇太は、蛍子を包んでいた様に見えていた光の粒が、蛍子の横に『もう一人の人物』を作っていたことに気付いた。

「そ、そんな事?」

 蛍子は、身の回りに起こっている異変にまったく気付いていない。それどころか、酔った様に無心にピアノを弾いている。

―― 一哉と逢えて良かった。信じられないくらい

 誰もが、身動きさえできずに、息を飲む。

 無心に鍵盤を叩く蛍子。

 勇太も須藤も大原も、冷静な思考力を失っていた。

 光は明確なカタチを形成する。

 金色に輝くそれは……

「一哉っ!」

 勇太の叫ぶ声に、蛍子が振り向こうとする。その瞬間、傍らで起きていた異変に気が付いた。

「かっ、カズ……ヤ?」

 思わず演奏を止めてしまう蛍子。光の一哉に目が奪われてしまった。

―― ダメだよ。弾かなきゃ

 光の中で微笑む、一哉。

―― さぁ! 蛍子

 客席では、蛍子を包んでいた光の粒が、本当は別のモノだと判った。その瞬間、会場全体に広がり、無数の妖精のように無秩序に飛び交う。

―― さぁ、フィナーレだよ、蛍子

「うん」

 蛍子と一哉の奏でるサウンドと飛び交う光、そして、霧のような『それ』 が混ざり合い、徐々にピアノの真上に集まる。

「一哉……くん」

「一哉」

「カズ……くん」

 凝縮された光は、真っ白な閃光を放つと、線香花火のように弾けて消えた。


 無音の会場内。

 僅かな物音も聞こえない。

 誰もが聴力を失ったかと錯覚した、その瞬間。

「ブラボー!」

「一哉っ!」

「蛍子!」

 地響きの様な歓声が、会場全体を揺るがす。

 誰もが、立ち上がり、称賛の拍手を送る。

 蛍子は、ただその客席を見つめていた。

―― 一哉の言っていた事って、この事だったのね

 誰もが笑顔で、蛍子を見つめている。

『楽しくなけりゃ、音楽じゃない』


 追悼演奏会が終わって、すでに一時間が経とうとしていた。観客は残らず会場を去り、一部の関係者だけが残っていた。

 蛍子は客席に座り、よく冷えたミネラルウォーターを飲んでいる。蛍子の隣りで、和子が蛍子の額の汗を拭いながら、勇太に聞いた。

「勇太くん、菜摘ちゃんはどこにいるの?」

「それが」

「あなたたちと一緒じゃなかったの?」

「はい、メールも電話もしたんですが」

 瞬く間に、和子の表情が険しくなった。

「今、何時?」

 その変化に、ぐったりしていた蛍子までが驚く。

「おば様?」

「何時なの?」

 勇太が腕時計を見ながら「十一時三十分」と答えた。

「勇太くん、車よね? すぐに菜摘ちゃんの所へ連れて行ってちょうだい!」

「おばさん? まだ」

「良いから、早く!」


 十一時五十分。

 深夜のマンションはシンと静まり返っていた。

 その中を、勇太と蛍子、そして和子の足音が響く。

「早く!」

 階段を駆け上がり、ドアホンを鳴らす。

―― ピンポーン!

「電話して!」

 微かにドアの向こうから、着信メロディーが聞こえる。

「菜摘ちゃん! 私、判るわよね!」

 ドアを叩きながら、叫ぶ和子。

「きっと、遊びに行くか……」

 勇太の言葉に振り向く和子。

「菜摘ちゃんには、菜摘ちゃんには、親戚も家族も誰もいないのよ! それがどんな事か判っているの?」

 和子の叫び声に、隣人がドアを開けて顔を出した。

「こんな真夜中になんですか!」

「あ、すみませ……」

 突然、和子が隣人の手を掴み、そして「あなたの部屋から、この部屋のベランダに行けるわよね!」 そう言って隣人の部屋に入ろうとする。

 勇太は、その和子の腕を掴んで、首を左右に振った。

「おばさん、僕が行きます。スミマセン。友達の様子が変なんです。お願い出来ますか?」

 隣人に、頭を下げる勇太。


 ベランダを乗り越え、菜摘の部屋の窓の前に立つ勇太。窓には、鍵が掛り、暗さとカーテンで中が見えにくい。

 勇太は、携帯のライトで部屋の中を覗いた。

「菜摘? 菜摘っ!」

 ベッドに横たわる菜摘が見えた。

「菜摘っ!」

 勇太は、足下に転がる植木鉢を持ち上げた。勇太がベランダを乗り越えた時に蹴飛ばしたアサガオ。

―― ガシャン!

 菜摘に当たらないように窓を割り、そのまま部屋の中へ入る。ドアの鍵を外すと、和子が靴も脱がずに、菜摘に駆け寄った。

「菜摘ちゃん! 菜摘ちゃん! 逝っちゃダメ! 戻りなさい!」

 勇太は菜摘の手首を掴んだ。その時、握られていた携帯が床に転がる。そして、僅かに明りを点けていたインジケータが、フワッと一度明るくなると、すっと消えた。

「蛍子! 救急車!」

「菜摘ちゃん! ダメよ! 菜摘ちゃん!」

 ピクリとも動かない菜摘。

 幸せそうで、穏やかな表情。

 今にも、目を覚ましそうなのに、勇太の握った手首にはあるはずの『鼓動』がない。

 蛍子は、震える手で携帯を開く。

「ナッチ?」

「蛍子! 早くっ!」

―― 12:00

「もしもし、友達が!大切な友達がっ。救急車を……」

 木霊する叫び声。

 割れた窓から差し込む月明りに、菜摘の胸のペンダントが輝く。

「一哉っ、お願い! 菜摘ちゃんを助けて! 連れて行かないでっ!」


 救急車に菜摘が運ばれて行った後。

 割れた窓から、潮の香る風が流れ込んで来た。

 カサカサとアサガオの葉を揺らし、テーブルに散乱した薬品を飛ばす。

 一哉が他界した後に、菜摘が複数の病院から掻き集めた、精神薬。

 その側に、一哉のお守りと菜摘のお守りが並んで置いてある。そして、一哉のお守りの中に小さく畳んだおみくじが入れてあった。

『待ち人、来たる』

 誰もいなくなった部屋。

 オモチャのバケツに入ったままの線香花火。

 土がこぼれた、アサガオ。

 光を失った、一哉と菜摘の携帯電話。

 踏みつぶされた、いちごのショートケーキ。


 なにも望まない。

 いっしょにいるだけで良い。

 あなたの背中を見ているだけで良い。

 手を繋いで、声を聞いて、笑いかけて。

 長い睫毛が好き

 照れくさそうに、笑うあなた

 遠くを見つめるその瞳が好き

 いっしょにいたい

 いつまでも、ずっと。

 いつまでも、ずっと。

 あなたと、ずっと……。


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