第二部 序章

 狭い座席に座って窓枠に肘をつくと、微かな振動が心地良く響く。

左右に大きく揺れながら、少し小さな路面電車が、海沿いをギシギシ走る。休日なら観光客で賑わう車内も、今は学生たちと仕事帰りの人達がいるだけ。乗客より座席の数が僅かに多い。

 沈み始めた夕陽が、海面に金色の光の道を作り、仄かな温もりを菜摘の頬に残した。

 八月

『あさがおの花の色は、何色が好きですか?』

 藤沢から江ノ島を経て、海沿いを鎌倉まで。

―― ギシッ、シュー、キィィィィッ

 江ノ電の愛称で親しまれている路面電車。菜摘は、稲村ヶ崎近くを走る江ノ電の車中にいた。

 何処までも続く砂浜。整備された自転車道が、ゆっくりとした時間を描いている。散歩する人。残り少ない『今日』 を楽しむ人。水辺で遊ぶ子供たち。惜しむように今日を名残惜しそうに佇む人。様々な人が、湘南の浜辺で『今日』 を分かち合っていた。

 遠くでサーファーたちが、まるで水鳥のように浮かんでいる。一哉も、かつてその中の一人だった。沖合から手を振る一哉。眩しいくらい輝いていた一哉。菜摘の脳裏には、消える事無く鮮明に一哉が残っていた。


 鎌倉駅東口は、思ったより人が多かった。

 参拝帰りの観光客。デートを楽しんだ恋人たち。菜摘は、人々の溢れる参道を背に、海辺へ続く道を歩き出した。

 夕陽が一人歩く菜摘を照らす。海風が潮の香りと波の音を肌触り良く運んでいる。菜摘は、すぐ側で両手を広げ海の香りを胸一杯に吸い込んでいる一哉を感じた。

『あさがおの花の色は、何色が好きですか?』

 目の前を一哉が歩く。勇太もいる。蛍子もいる。そして、菜摘がいる。

 ほんの七ヶ月前。たった七ヶ月前。

 何の不安も無かった。何もかもが幸せだった。

 菜摘は、目の前を楽しそうに歩く自分を見ながら泣いた。涙が止まらない。自分ではどうする事も出来ない現実。受け入れるしかない事も、分かっているつもりだった。それでも後悔しかない。幸せ過ぎた自分を後悔するしかない。どうする事も出来ないからこそ、また涙が溢れてくる。

「一哉……」

 眩しいくらいの夕日が、また沈んで行く。

「僕は、何色が咲いても良い。花を咲かせるまでが一番好きなんだ」



二部 

第二章 第一話


 鎌倉、若宮大路。

 鶴岡八幡宮の大鳥居の傍を歩いている四人。

 暮れから始まった寒波が、この日も日本列島を覆っている。日本海側では降雪が続き、風に運ばれた雪が時折、舞っていた。


「お正月から、海に行くの?」

 着物に結い上げた髪、小又でそそと歩く菜摘が、一哉のダウンジャケットの裾を掴んで不思議そうに訪ねた。

「ナッチ、サーフィンばか二人は、脳みそまで海水に侵されているから、何を言っても無駄よ?」

 鶴岡八幡宮への初詣の帰り。羽織袴姿で、駅に預けていたボードケースを肩に担いだ勇太が、すまなさそうに頭を掻く。

「和服美人を二人も待たすんだから、この穴埋めは安くないよね」

「私、イタリアンが良い! 蛍子は?」

「うーん、イタリアンも良いけど、お正月だから、日本酒とお寿司?」

 女性二人の会話がまるで聞こえない風に、歩く速度を早める一哉と勇太。

「一哉、いくら持ってる?」

「ばーか、貧乏浪人生に聞くか?」


 鎌倉海岸の駐車場。

 サーフィン仲間のワゴンでドライスーツに着替え、菜摘たちの待つドラム缶の焚き火のそばに急ぐ一哉と勇太。数人の仲間たちが、和服姿の菜摘と蛍子を囲んで騒いでいる。

「うひょぉ、蛍子もナッチもお淑やかで、まるで別人!」

「ん? それは、いつもお淑やかじゃないって事?」

 男は、「へへへ」 と笑って、肩をすぼめた。

 ドライスーツを着ているにしても、真冬の海には長く入っていられない。冷えた身体を焚き火で温め、また入る者もいるが、よほどでない限り身体と一緒に気持ちまで冷めてしまう。

 一哉と勇太は、小さく合図をして、ボードを抱えた。

「今年は良い年になりそうだな?」

一哉が笑顔で言う。

「久しぶりに良い波だ」

 タイドグラフと気象図で一哉が予想した通り、頭を超える波が立っていた。

「猶予は一時間ってとこ。波が消える前に、な!」

 二人は、リーシュコードを揺らしながら、砂浜を走って海に入って行った。

―― ざざっ、ザバンッ!


 波が大きくなると、それに比例して身体に当る衝撃も、強くなる。ほんの僅かなミスでも、一瞬で海中に押し付けられ、木の葉の様に揺れる。海水の見えない力に翻弄され、海底の砂が動く音が聞こえると、敗者の証である。

―― おお、すげっ!

 本格的にサーフィンを始めてすでに八年。コンペティーターを目指していた訳ではないが、大波には心が踊る。一哉は、波待ちをする間も惜しむ様に、ポイントに着くとすぐに波を捕まえた。

―― ぐんっ

 身体が、一瞬で浮き上る。ほんの数回、力任せにパドリングすると、持ち上がったボードが、ボトムに向かって滑り落ちる。降りる、そんな生易しい感覚では無く、落下に等しい。それも、その落下が繰り返し続く。しかし、その速度に恐れる事も、追い詰められる事も許されない。仮に僅かでも、臆病になったとしたら、容赦ない渦巻く海水に飲み込まれ、天地を見失った天国に最も近い地獄を見る事になる。

 低い姿勢から、ノーズに僅かに体重を移し、速度を充分に引き揚げると、一哉のボードは、アップスアンドダウンを繰り返し、鋭角にボトムに走る。トライフィンを見せながら水飛沫を撒き上げ、踊るようにバックサイドターンを描く。

「あのスピードでも、一哉は振られないもんなぁ」

エッジを効かせ、フェイスからトップへ直線的に走り、押し込む様にデッキを蹴る。

『 すっげー パワーッ!』

 久しぶりのビッグウェーブに心も身体も躍る。足元の海水が、全く間に水の壁になり、波の押し寄せる力によって、垂直に近い角度で『海水の壁』 を駆け上がる。

―― スッ、ザンッ!

 ほんの一瞬、一哉がボードと共に宙に静止した。一哉を中心に、噴水のように広がる海水のスプレー。誰もがその一瞬に息を飲む。沈み行く夕陽、シルエットとなった一哉を浮かび上がらせた。

 エアーボーン。

 左手を真横に広げたその姿は、まるで大空を舞う鷹のようだった。

「わおっ!」



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