第一章 第六話

 この街で救急指定されている総合病院はそう多くない。

中でも市が運営するこの総合病院は、夜間診察も行う大型の病院であり、設備、人員とも最高の優れた医療施設と言える。

 勇太は夜間診察のために解放された駐車場に車を停め、菜摘と蛍子を連れて、夜間通用口から受付に急いだ。ロビーはシンと静まり、人の姿は見えない。

「すみません。誰かいらっしゃいますか?」

 勇太は明かりの点いた受付から人を呼んだ。看護師が、薄暗い廊下を走ってくる。

「あのう」

「急患ですか?」

「いえ、バイクの事故で米村一哉と言う男性が運ばれてきたと思うんですが?」

 看護師は、ふと何かを考えた。

「お知り合い?」

「はい、高校の同級生です」

「そう……。この廊下の突き当たりに警察の人がいるから、そっちで聞いてくれる?」

「警察? あ、はい判りました」

 勇太と菜摘、蛍子は薄暗い廊下を進む。

『なぜ警察に聞くんだ?』

 勇太は小さな疑問が、大きな不安に変わるのを感じた。


 煤けたような病院の廊下。中庭の外灯が、くすんだ灯りを滲ませている。窓際には、目立たない茶色のベンチ。等間隔の天井灯はぼんやりと数珠繋ぎ空間を作っている。ねっとりとした重い空気の中を勇太、蛍子そして菜摘の不規則な足音が響く。

 廊下の端に、事故現場にいた警官と同じコートを着た警官がいた。立ったまま、何かの書類に書き込んでいる。無線の耳障りな雑音がかすかに聞こえた。

「あの、すみません」

「はい、何か?」

「バイクの事故で米村一哉と言う男性が、この病院に運ばれてきたと聞いたのですが?」

「君たちは?」

「高校の同級生です」

「同級生ね。そっちの女性も?」

「あ、はい」

「あ、そう。じゃあ、こっち来てくれるかい?」

 勇太の不安が自らの足を止めた。

「菜摘、蛍子と待っていろ」

「いや、私も行く!」

「待っていろっ」

 不安が苛立ちに変わり、勇太は菜摘に怒鳴ってしまう。

「俺が、先に見てくるから、菜摘は蛍子と待っていてくれ。頼むから」

 三人が三人とも、考えたくない不安と闘っていた。

 ただの怪我なら、この場所にいるのは警官ではなく、医者か看護師ではないだろうか。勇太の不安は苛立ちに、蛍子の不安は戸惑いに、そして菜摘の不安は怯えに変化して行った。


 窓のない重い扉を開く。眩しいくらいの光の部屋。

一哉は、白い小さな部屋の真ん中で、ストレッチャーに乗せられ横たわっていた。

処置が終わったばかりなのか、上半身が裸、ジーンズはまだ濡れたまま。そして、胸の上で手を組んで、静かに眠っているように見える。すぐにでも『ああ、良く寝た』 って起き上がりそうに見える。

「お巡りさん?」

「即死だったそうだよ」

「即……死?」

 勇太は自分の耳を疑った。警官の言葉が耳に木霊する。

「私も多くの事故を見て来たけど、こんなに綺麗な仏さんは初めてだよ」

 勇太は横たわる一哉に近付いた。

 濡れたままの髪の毛、薄っすらと青みがかった顔色、長い睫毛。確かに間違いなく大切な友人の一哉が横たわっていた。

「米村一哉くんに間違いないかい?」

「……はい」

 勇太は、胸の上で重ねられた一哉の手に自らの手を添える。

 まだ、ほんのりとした温もりがある。重ねるうちに、勇太の手が僅かずつ小刻みに震え出した。

「一哉」

 どうしようもない涙が零れた。

 悔しいとか怒りとか心残りとか、色んな感情が身体の芯から湧き上がる。止めどもない悲しみが同時に渦巻き、箍が外れて感情が噴き出す。

「くそっ、何だ、何なんだっ!」

 警官が勇太の肩に手を掛ける。

「彼の遺留品が、そこに置いてあるから」

 勇太が振り向くと、入って来たドアの横。ステンレスのテーブルの上に、ヘルメットと襟の部分に血がべっとりと付いたライダージャケットが置いてあった。

 勇太は、ヘルメットを持ち上げた。

『メットはやっぱショウエイかアライだよな?』

 バイクと同時に一哉が最新のヘルメットを買ったのを思い出す。嬉しそうに無邪気に笑う一哉。そのヘルメットの後頭部辺りが、大きく割れている。よほどの強い衝撃でない限り、こんなにはならない。

 勇太は、振り向き一哉を見る。まるで微笑んでいるように横たわる一哉。

 勇太は、大きくため息をついた。空気が、肺の中で澱む。そして、入ってきたドアから薄暗い廊下に出た。

 廊下のベンチに座った菜摘は、不審な目で勇太を見ている。勇太は、菜摘と目を合わせられない。視線をそらし、蛍子を見つめた。

「蛍子……」

「勇太?」

 その時、看護師に案内され一哉の両親が、薄暗い廊下を走って来た。

「……」

「勇太君、一哉はどこ?」

 勇太の後から警官が廊下に出てきて、一哉の両親に『米村一哉さんのご両親ですか』 と当たり前の質問をする。その当たり前がなぜか苛立つ勇太。誰かに当たり散らしたい。神にさえ殴りかかりそうな、そんな気持ちを押え切れない。

 勇太は冷たい廊下の壁にもたれ、もう一度一哉のヘルメットを見た。

 割れた強化ヘルメットが、痛々しく鈍く輝く。


 一哉の両親は、菜摘・蛍子と一哉の横たわる部屋に入った。

 その直後、押し殺すような嗚咽が聞こえる。そして、泣き叫ぶ菜摘。慰める蛍子。繰り返し、誰もが一哉の名を叫ぶ。

 勇太は、足から力が抜けるのを感じ、そのまま廊下に座り込んでしまった。抱きかかえたままのヘルメット、そして血の付いたライダージャケット。ぼろぼろと流れる勇太の涙が、それらを濡らした。

「嘘だろ? 一哉」



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