第一章 第五話
「蛍子、その場所を動くなっ。すぐに菜摘に連絡してそっちに行くから」
雨に濡れた一哉のGPZ。その傍らで、しゃがみ込んだままの蛍子。
「判った。勇太、大丈夫よね? 一哉」
「ったりめーだ。一哉がそんな簡単に……」
勇太は続く言葉を飲み込んだ。言ってしまってはいけない言葉。飲み込むことでしか打ち消す術がなかった。
作業場にある大型の木机に前掛けを置き、急いで自室に戻る。乱暴に和箪笥を開け、ジーンズとシャツに着替えた。
「勇太、どうしたの?」
「かあちゃん、悪い、一哉が事故ったみたいだ」
「カズちゃん? 大丈夫なの?」
「わかんねぇ。それを確かめに行く」
勇太は、車のキーと携帯電話を掴み、慌ただしく駐車場に向かう。外に出ると雨はいつの間にか上がっていた。
勇太は、携帯電話のメモリーから『菜摘』を選んでボタンを押した。
―― ツーツーツー、カシャ
「もしもし。勇太、どうしたの?」
電話の向こうから、いつもの菜摘の声が聞こえる。
そう言えば一哉が言っていた。
『菜摘の誕生日のプレゼント、シルバーのネックレスか指輪のどっちがいいかな? やっぱりネックレスだろ? 指輪じゃ気が早いって思われないか?』
「もしもし、菜摘? 一哉……、いるか?」
「ううん。まだ帰ってきてないの。どっかに寄り道してるのかなぁ」
「落ち着いて聞いてくれよ? 蛍子が駅前大通りで一哉のバイクを見つけた」
「ええぇ、そんなとこで何してんだろ?」
「違うんだ。一哉、事故ったかもしれねぇ」
「え?」
ほんの一瞬、会話が途切れる。その僅かな一瞬、眠っているような一哉のイメージが頭の中に広がる。
「蛍子が壊れた一哉のバイクらしいのを見つけたんだ。すぐ迎えに行くから、出かける準備をして、マンションの前で待っていてくれ」
「一哉が事故?」
「いや、まだ判らない。とにかく、迎えに行くから」
菜摘は、切れた携帯電話を握りしめていた。
木霊のように繰り返し響く言葉。
『一哉が事故った……』
「何かの間違いよ。だって、いちごのケーキ買って来るって言ってたもん。あ、シチュー温め直さなきゃ。一哉が遅いから、冷めちゃったよ……」
菜摘は立ち上がってキッチンに向かう。レンジに火を点け、ゆっくりと鍋の中のシチューをかき混ぜる。
「ゆっくりとかき混ぜなきゃダメなんだよ? 野菜が形崩れして、小さくなっちゃうから。一哉は、今どこにいるの? ねぇどうして返事くれないの? ああ、そっか、今頃、いちごのケーキを探しているのよね。駅前のケーキ屋さんが一番美味しいのよ? でも、売り切れていたら、よそのでも良いからね。早く、早く帰って来て、ねぇ、ねぇ一哉」
まるでショーウィンドーに飾られた、誰にも見られることの無いような、単調な動きを繰り返す『人形』 のような菜摘。表情も無く、ただシチューをかき混ぜている。繰り返し繰り返し、同じ動作を続けている。
―― ドンドンドンッ
激しく叩かれるドア。
「菜摘、俺、勇太。外で待ってろっいて言ったのに」
どこか他人事のようにドアを見つめている菜摘。
「菜摘ぃ! 早く開けてくれ」
「誰?」
「俺だよ! 勇太!」
菜摘は、ノロノロとドアのロックを外す。
「菜摘、何してんだ!」
勇太は菜摘の顔を見て驚いた。目を真っ赤にして、ポロポロ泣いている。手に持っていた調理具から、ポタポタとシチューが零れる。
「な、菜摘……」
「だって、一哉が返事くれないんだもん」
「とにかく、急ごう。上着、何か着ろ」
ソファーにあった菜摘のジャケットを持ち、勇太はレンジの火を止めた。そして、菜摘の手から調理具を取り、キッチンに置いた。
『菜摘の二十歳の誕生日だもんな』
勇太は菜摘の手を引いて、マンションの前まで急いだ。菜摘を助手席に乗せ、慌ただしく車を走らせる。携帯電話を掴むと勇太は、蛍子に電話をかけた。
「ああ、俺。今、菜摘を捕まえた。すぐにそっちに行くから。十分、いや五分ちょっとで、着くと思う」
電話を切り、勇太は菜摘を見た。
じっと流れる夜景を見ている菜摘。勇太は掛ける言葉もなく、ただ車を走らせた。雨上がりの夜、交通量はかなり少なくなり、街全体が淋しく見えた。
二人は、思いのほか早く蛍子の待つ『現場』 に到着した。
反対車線。バイクのそばでしゃがみ込む蛍子を見つけ、Uターンして近くに車を停める。勇太は慌ただしく車を降り、蛍子のそばに近寄った。しかし、菜摘は車から出ようともしない。ウィンドガラス越しにただ横たわったバイクを見つめるだけ。
近づく勇太に気付き、蛍子が視線をあげた。
不安そうな目を向ける。
「勇太ぁ」
勇太はバイクの横にしゃがみ込み、雨に濡れたままの壊れたバイクを見つめる。
「一哉の……」
勇太は、傷ついたバイクのタンクを撫ぜる。雨に打たれ、長く放置されたせいで、完全に冷たくなっていた。
「こんな所に、横たわったままじゃ、バイクも可哀そうだ」
勇太はバイクを起こし、路肩に停めようとするが、後輪が歪んで上手く立たない。割れたカウリングがガタッと崩れ、バックミラーと共に落ちる。結んであったナイロン袋から、潰れたケーキが飛び出し、まだ雨に濡れた路面を汚す。それを見ていた菜摘は、急にドアを開け飛び出した。
並木に寄り掛かるように立ったバイクのそばで、潰れたケーキを見つめる菜摘。
「い、イヤァァァァッ」
両耳を押さえ、何も聞きたくない。何も見たくない。そんな風に首を振りながら叫ぶ。
「菜摘……」
その時、勇太の背後で声がした。
「おいっ、君たち!」
勇太が振り向くと警官が立っていた。黒く蛍光の斜線の入ったコートを着ている。
「勝手に移動しちゃダメだよ」
「あ、すみません」
「持ち主と知り合い?」
警官は勇太と蛍子の顔に懐中電灯の光をあて、背中を向けたままの菜摘には視線だけを向けた。
「多分。お巡りさん? 運転者、今どこに?」
「ちょっと待って、私たちは現場検証と遺留品の回収に来ただけだから」
警官は、無線で問い合わせていた。
その間、菜摘は潰れたケーキを拾い集め、箱に戻している。蛍子は何も言わず、その菜摘を見ていた。
「君たち、収容先が判ったよ。三丁目の総合病院に運ばれた。すぐに行ってあげなさい」
「あ、ありがとうございます。あのう、容態の方は?」
「そこまでは判らないなぁ。すぐだから行ってあげて」
「判りました」
勇太は、ケーキのクリームで汚れた菜摘を抱えあげ車の後部座席に乗せる。蛍子も続いて菜摘の隣に座った。
「大丈夫だよ。バイクの周りには血の一滴も無かったし、カウリングは割れていたけど後輪しか壊れてなかった。きっと大丈夫だよ」
誰も返事をしない。車内には、再び沈黙が訪れた。
長く降り続いた季節外れの冷たい雨は上がり、夜空には雲の隙間から星が見えていた。
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