ずっと……。
森出雲
ずっと……。
第一章 第一話
暦の上では、もう初夏と言っても良い七月の上旬。季節外れの冷たい雨が朝から降り続いていた。
この年、一浪の末に希望する医大に無事合格し、授業料の足しにと始めた土日だけのアルバイト。米村一哉は、小さなマーケットの裏口で、夜の暗く垂れこんだ空を見上げて、小さくため息をついた。
「一哉くん、今日もバイク? 気を付けないとだめよ?」
「はーい、じゃあお疲れ様」
一哉は、右手にバイクのヘルメット、左手に小さな化粧箱を持っている。この日は、高校からずっと付き合い、今、同棲している彼女、菜摘の二十回目の誕生日。化粧箱の中には、プレゼントに買ったシルバーのネックレスが入っていた。
一哉は、化粧箱をライダージャケットのポケットに押し込む。完全に防水の利いたジャケットのポケットなら、少々の雨でプレゼントが台無しになる事もない。
マーケットの搬入口。片隅に置いた一哉のバイク。川崎重工製のGPZ900R。赤いボディが暗がりで鈍く光り一哉の帰りを待っていたようだ。
所々ひび割れ穴のあいたプラスチックの屋根が、風に煽られパタパタと耳障りな音を立てている。それでも一哉のバイクだけは雨から守り、ほんの僅かの水滴も付いていない。ヘルメットをバックミラーに引っ掛け、腰に着けていたキーをキーボックスに差し込む。ジャケットのチャックを首まで上げ、ヘルメットをかぶった。
―― ブーン、ブーン
ジーンズの後ろのポケットに入れていた携帯電話が着信を知らせ、震える。一哉は、ヘルメットをしたまま携帯を取り出した。
―― 新着Eメール 菜摘
親指の先で二つ折りの携帯を開ける。長く使い込んだせいで、所々が擦れて塗料が剥げている。
―― タイトル「お願い!」
『ねぇ、いちごの乗ったケーキが食べたいなぁ』
―― 返信
『了解! 帰りに買うよ。で、菜摘は無事にシチュー出来た?』
一哉は、人差し指で携帯をパチンと畳み、再びポケットに入れた。
バイクを雨の中に引き出し、向きを変えて跨ぐ。ヘルメットのシールドを引き上げ、キーを時計回りに回す。いくつかの小さなランプが灯り、雨の滴で鈍く光った。
一哉は素手でハンドルグリップを握りセルを回した。一秒に満たない一瞬でGPZ900Rは、待ちわびていたように息を吹き返した。
ゆっくりと裏口の前を通り、表通りの舗道の前で停車する。
店頭のワゴンに雨除けのビニールを掛けなおしていた従業員の女性が一哉に気づき、笑顔で声をかける。
「一哉くん、気を付けてね」
「ありがとう、おばちゃん。じゃ、お疲れ様」
歩道と車道の流れが切れた一瞬を見つけ、一哉はバイクを車の流れに滑り込ませた。
バイク乗りにとって、夜の雨は一種の天敵である。
一つは、雨で視界が極端に悪くなること、もう一つが、路面が滑りやすくなること。特に雨の夜は、水滴がシールドで滲み、見えないに等しい。それに、濡れたマンホールの蓋や金属製のプレートは、スケート場のように滑りやすくなる。一哉は、シールドを開けたままバイクを走らせた。
『ケーキ屋は、駅前がお薦めなんだよな?』
普段ならこのまま表通りをまっすぐに走り、海沿いの道の手前を左に曲がり部屋に帰る。しかし、ケーキを買うために一哉は、表通りから駅に通じる道を右に曲がる。夜になり多少は少なくなったものの、この通りは交通量の多い道。青の矢印信号で右折し、ケーキ屋を目指した。
冷たい雨が開けたシールドから顔に当たる。
小さな雨粒でも、時速六十キロくらいから当たると痛い。夜に目が慣れてきた一哉は、シールドを半分だけ下ろし顔に当たる雨粒を防いだ。
歩けば三十分ほどの距離でもバイクなら五分ほど。
タクシーが並ぶ駅前のロータリーを一周し、反対車線にあるケーキ屋の前で一哉はバイクを停めた。クリーム色で統一されたケーキ屋には、ガラスケースの向こう側に店員の女性が一人。バイクを停めている一哉に気付き、じっと見ていた。
ジャケットが完全防水とは言えジーンズは、雨でぐっしょり濡れている。特に直接雨が当たる太もも辺りから水分が浮き上がり、スニーカーは歩くたびに音がするほど雨水を吸っていた。
ガラスの自動扉を開き店内に入りヘルメットを外す。雨で湿った前髪を掻き上げると、水滴が飛び散った。
「わぁ、ずぶ濡れ」
「すみません。床、濡らしちゃって」
「ちょっと待っていて」
店員は、それだけを言うと、店の奥に消えた。
一哉は、もう一度髪を掻き上げ店員の消えた後のガラスケースを覗く。空になったステンレスのトナーが目立つ。残り少ないケーキでいちごの乗っているものはない。一哉はふっとため息をついた。
「これ、店で使っているタオルなんだけど、良かったら使って?」
店員は店と同じクリーム色のタオルをガラスケースの上に置いた。
「ありがとう。あの、いちごのショートケーキは?」
「あ、ごめん。売り切れちゃって。そうだ、このホールを切っちゃおう」
「良いんですか?」
「いいのいいの、だって売れ残りは捨てるんだから。で、いくつ?」
「二つ、いえ、三つにしてください」
「あはっ。彼女、ケーキ好きなのね。ちょっと待ってね、すぐ切るから」
店員がケーキを切っている間、一哉は借りたタオルで髪を拭いていた。ヘルメットを被っているとは言え、首回りや髪の裾は思っていた以上に濡れている。
「彼女の誕生日?」
「ええ、まあ。あ、それ一つと二つに分けて頂けますか?」
「分けるの? 違う箱に入れれば良いのね?」
「はい」
一哉は、髪を拭いた借り物のタオルを綺麗に畳んでガラスケースの上に置いた。
「お待ちどう様。こっちが一つ、こっちが二つ入っているから。えっと、千五十円になります」
「はい、千と五十円。それから、これプレゼント。タオルのお礼です」
「え? まあ……。ありがとう、嬉しいわ」
「僕こそ、わざわざ切り分けてもらって。彼女、いちごのケーキじゃないとダメなんです。ホント、だから助かりました」
雨は、一層強く降っていた。
一哉はテレビで、大型の低気圧がゆっくりと東に移動していると言っていたのを思い出した。
目の前を、水しぶきを上げながら乗用車が通り過ぎる。噴水のように水をまきあげる。
『ケーキ、どうしよう』
冷たい雨の降る中、一哉はケーキの入った袋をバイクのタンクの上に置き、ビニール袋の端を両側のバックミラーに括り付けた。ちょうどフロントカウリングの下にケーキの袋が入り、雨からも守れる。我ながら良い考えだ、と言わんばかりに一哉は微笑んだ。
エンジンをかけ、一哉は再び車の流れに滑り込む。
『雨で見えねぇや』
轍に前輪を取られそうになりながら、一哉はバイクを走らせる。その時、一台のワゴン車が後方から近付いてきた。ヘルメットをしていても聞こえるほど爆音でカーステレオを鳴らし、車内で騒いでいるのか、微妙に車が左右に揺れている。
目の前の信号が青から黄、赤に変わり、一哉は停止線の直前にバイクを止めた。ほぼ同時にワゴン車も一哉に並ぶように停止する。爆音のカーステレオに交じって、男女の騒ぐ声が聞こえ、一哉が車内を見ると助手席に座っていた男と目が合った。
スルスルと窓が開き、一哉を睨みつける男。同時に一層カーステレオの音が響く。
「何、見てんだ? てめぇ!」
信号が青に変わり、一哉はバイクを走らせる。バイクが巻き上げる水しぶきが顔を出して叫んでいる男にかかる。
「つめてぇ! 待て、このヤロー」
先行する一哉のバイク。追いかけるように、タイヤを滑らせてワゴン車は急発進。バックミラーでそれを見ていた一哉。
『やべっ、雨の次はイカレかよっ!』
一哉は、アクセルを開けワゴン車を引き離す。雨がシールドに滲み、それに対向車のヘッドライトが反射して、益々見難くなる。それでもスピードを緩めるわけにもいかず、一哉のGPZは疾走する。
パンパンと音を立ててシールドに弾ける水滴。カウリングの中で揺れるケーキが、風に煽られ逆さになりそうになった。
思わずアクセルを緩め左手で抑える一哉。
ほんの一瞬、スピードが緩み、猛追するワゴン車が急接近する。
―― ズズッザッザザーッ
同時にくすんだ様なスリップ音が聞こえ、バックミラーには間近に迫ったワゴン車が映っていた。目を見開き、バイクを睨み付けるドライバー。両手を顔の前で交差し、顔を背ける助手席の男。
絶叫に似た叫び声が、一哉の耳にまで届いた。
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