第一章 第二話

 ふた部屋とダイニングがある小さな部屋のあるマンション。

 駅からも遠く、近くに国道が走るせいか、比較的家賃が安い。三階のこの部屋のベランダから僅かに湘南の海が見える。一哉と菜摘は夜によく『僅かな海』 を見ていた。朝もやの輝く海。夕日に染まる波。額縁の中のような『小さな海』 でも、二人にとっては特別な風景だった。

 マンションの近くには、小さな漁港や砂浜、それに芝生の大きな公園がある。休みの日には散歩に出かけ、ゆっくりと流れる時間を楽しむ事ができる。


 狭いキッチンで菱木菜摘(ひしき なつみ)はシチューを作っている。

 良く出来たシチューのルーのおかげで、失敗することも無く美味しく作れる。それでも菜摘なりの拘りがあり、手間暇をかけじっくりと作り上げる。湯通ししたブロッコリーをザルにあけ、レンジでコトコト煮ていた鍋の火を止める。後は食べる直前に仕上げのブロッコリーを加えるだけ。

 一哉の好きな硬いフランスパンと安物の赤ワイン。それにシーフードサラダがテーブルに並ぶ。そして、奮発して買ったステーキ肉が冷蔵庫で焼かれるのを待っていた。


 菜摘はポケットに入れていた携帯電話を開く。一哉に送った最後のメールから、もう十五分が経っていた。

 窓辺に置いたソファーに座り、カーテンの隙間から外を見る。相変わらずの雨。一哉はきっとびしょ濡れで帰ってくるだろう。そのためにお風呂には湯が入っており、洗面所に大きなバスタオルを用意した。

『遅いぞ、一哉!』

 菜摘は、窓を少しだけ開いた。

 そうしておけば一哉の帰りがバイクの音で判る。国道を走る車の音。時折強く降る雨の音が、部屋の中に流れ込む。と、同時に、菜摘の携帯電話の着信音が鳴った。

―― 着信 お母様

 慌てて菜摘は通話のボタンを押す。

「あ、菜摘ちゃん? 米村です、一哉の母です」

「はい、菜摘です」

「実はね、今朝、一哉に叱られちゃって」

「な、何をですか?」

「うーん、あのね? 将来、自分の娘になる人の誕生日のお祝いくらいしろって」

「は、はい」

「一哉ね、自分はまだ学生だから結婚できないけど、仕事をするようになったら、すぐに嫁にもらうから、今のうちに大切にしておかないと、老後の面倒は見て貰えないぞ? って」

「……」

「え? 菜摘ちゃん?」

「……」

「あら、私、何か変なこと言ったかしら?」

「いいえ、違います」

「じゃあ、どうしたの?」

「ちょっと、嬉しくて」


 並んだフランスパンとワインボトル。

 買ったばかりのお揃いのグラス。

 いつの間にか消えた窓の外の騒音。

 菜摘は、携帯を耳にあてながら大粒の涙を流していた。


 初めて会った高一の夏。

 カゲロウ漂う校庭で汗だくになってサッカーボールを追いかけた一哉。

 図書館の窓からその姿を見ていた菜摘。

 サッカーの事は何も知らなかったけど、試合で負けたことは、何となく感じた。

 肩を落とし、項垂れる先輩たちに肩を貸しながらベンチに帰る一哉。背が高くて上級生と思い込んでいた一哉とふいに目が合った。

 校庭と三階にある図書館の窓。

 菜摘は驚いて読みかけの本に視線を戻す。急にドキドキしてページの文字がまったく頭に入らなかった。


「ごめんね? 私、また変なこと言ったのね。あ、肝心なこと忘れちゃう所だった」

「はい」

「菜摘ちゃん、お誕生日おめでとう。お祝いは、今日宅配便で送ったから、一日遅れで届くと思うわ」

「あ、ありがとうございます」

「一哉と仲良くしてやって。じゃあ、また。近いうちに一哉と夕食でも食べに来て」

「はい、必ず。失礼します」

 菜摘は、通話の切れるのを待って、携帯を閉じた。

 あまりにも突然の出来事に、まだ動悸が治まらない。

 何度もティッシュで溢れる涙を拭う。

 それでも後から後から涙が溢れて来た。

―― 菜摘は泣き虫だなぁ

 一哉が、ほほ笑みながら言ったのを思い出す。

「泣き虫じゃないもん! ちょっと涙腺が緩いだけだもん」

 菜摘は再び携帯電話を開く。最後のメールから、すでに二十分。再びメールを打つ菜摘。


―― 待ってるんだから

『いちごケーキの配達屋さんは、いまどこかな? お風呂の暖かいお湯も出来たてのシチューも、そして可愛い菜摘も待っているからね。早く帰ってこーい!』

「送信っと!」

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