第一章 第三話
高校を出て、大学には行かずにそのまま就職した織原蛍子(おりはら けいこ)は、新入社員研修の打ち上げで駅前の居酒屋にいた。
入社と同時に人事課に配属された蛍子は、前年、自分が参加していた研修のアシスタントをしていた。
研修と言っても堅苦しい講義はほとんどなく、本社や工場などの見学が多く、蛍子自身『まるでバスガイド』 と表していた。
この日、駅前のホテルで新入社員研修終了を祝う式典が行われ、社長や会長が慰労の言葉を述べた。実際ところ、人事課の蛍子は、この後提出される配属希望と各部署から出される希望人員を照らし合わせての人事業務が激務であった。
蛍子はちらりと腕時計を見る。
男性社員のほとんどは、このまま二次会三次会とハシゴをするのだろう。しかし若い社員の多い女性たちは一次会で退散する。勿論、蛍子もその一人で、隠れて帰る準備をしていた。
「織原さん、もう帰っちゃうの?」
「あ、はい。門限があるので」
「ええー? 門限って、マジ?」
「はい、一応、嫁入り前の娘ですからね」
「つまんねえなぁ」
居酒屋を出ると朝から降り続いていた雨が、幾分弱くなっていた。しかし、季節外れの冷たさと重く湿った空気には何の変りも無い。
蛍子は新しく買ったハンドバックから、使いなれた折り畳みの傘を出す。高校生の時に母から貰った花柄の傘。母は、『派手すぎて使えないわ。あなたならきっと良く似合うわよ』 と蛍子に手渡した。その母も、社会人になった蛍子の初めての給料日、急病で他界した。
駅前は、帰りを急ぐ人々で溢れている。
特にタクシー乗り場では、列が途切れることなく続き、電車が到着するたびにその長さを伸ばしている。同じようにバス停にも多くの人が並び、うんざりするほど込み合っていた。
雨の勢いが徐々に弱まり、決して鬱陶しいほどではない。
駅を迂回する表通りの循環バスならきっと空いているだろうと考え、蛍子は歩き出した。打ち上げの居酒屋で充分なほど食事をした事で、お腹も満たされている。駅前大通りから表通りに通じる途中にある本屋に寄り道をし、この後の時間を、自分の部屋でゆっくり読書を楽しむ事にした。
たったそれだけの事が、蛍子には少しばかりの贅沢の様に思えた。
駅前のロータリーを抜け、広い歩道を歩く。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
居酒屋を出た直後にも聞こえたような気がしたが、帰りを急ぐ人々とロータリーを出発するバスやタクシーの騒音でかき消されていた。それでも、蛍子には不安な気持ちが芽生えた。虫の知らせとでもいうのか、気持ちが沈んだまま。数人の同僚や上司に造り笑顔で、挨拶を済ます。それ以上の言葉も出てこない。
歩道を歩く蛍子のハイヒールの音が、シトシト降る雨の音に混ざり、大通りのビル間に響く。普段なら、僅かな雨でもレインブーツを使う蛍子だが、この日は式典もあって白いハイヒールを履いていた。足の幅の狭い蛍子にピタリと合う靴は少ない。そのために蛍子はハイヒールを特に大切に使う。
街の灯りが反射し、歩道の水溜りに映る。ネオンサインや信号機の色が滲む。
蛍子はその水溜りを覗きながら歩く。いくつかの水溜りを覗いた時、ハンドバックの中で光る輝きが目に入った。蛍子はその光の元の携帯電話を取り出す。
―― 新着Eメール 勇太
『仕事はどうだった? 疲れただろ。時間が空いたら電話をくれ。 勇太』
この街で歴史のある和菓子屋の息子、草加勇太(くさか ゆうた)。
小さい頃から家業を手伝い、今は立派に和菓子職人として独り立ちしている。蛍子はメモリーから勇太に電話をした。
「もしもし、あたし、蛍子」
「よっ、お疲れさん」
「で、何? ひょっとして、また試食?」
「ああ、新作を三つばかり作ってな。また、蛍子の仕事仲間に意見聞いてもらえないか?」
「またぁ? そりゃみんなタダで高級和菓子食べられるんだから喜ぶけど。勇太、結局は自分が納得したいだけでしょ?」
「そう言うなよ。イマイチ自信が無いんだよな?」
蛍子は相変わらず水溜りを覗きこんで歩いている。水溜りの間を縫う様にジグザグと歩く。行き交う人も少なく、街は雨の中に沈んでいた。
往復四車線の大通りを、信号が変わるたびに勢いよく走り去る自動車。その中の一台が、蛍子のすぐ脇を走り抜けた瞬間、轍に溜まった雨水が噴水のように飛び散った。
「きゃっ!」
「どうした? 蛍子」
「何でもない、ゴメン。車が水を跳ね上げて? あ? ねぇ勇太?」
「なんだよっ」
「怒んないでよ。ねぇカズくんのバイクって何色だった?」
歩道に立つ並木の脇で、後部が破損したバイクが横たわっていた。雨に濡れ、鈍く輝いている。
「赤と黒のツートンだよ? それがどうした? 女でも乗せていたか?」
蛍子は横たわったバイクの脇にしゃがみ込んだ。雨に濡れた子犬のように、痛々しく見える。蛍子は、鈍く輝くガソリンタンクに触れる。僅かに温もりを感じる。キーボックスにはキーが刺さったままだ。割れたカウリングとバックミラーが側に落ちている。バックミラーにはビニールの袋がなぜか括りつけてあり、時折通る車の風がパタパタと煽る。
「違う。大通りにあるの」
「はぁ? そりゃ一哉も大通りくらい行くだろ?」
「だから、違うって! 並木の所で、壊れて倒れているのっ」
「まさか! 確かに一哉のバイクか? あ、ほら、キーに四人で正月に行った八幡宮のお守りが付いているか?」
蛍子は、視線を移してキーボックスのキーを見た。蛍子の持っているものと同じ小さなお守り。雨に濡れて揺れている。
「うん、付いている……」
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