第四章 第三話

 電話の呼び出し音は、数回も鳴らずに途切れた。

「ハイッ」

「菜摘? 私、蛍子」

「うん、おはよ」

「今から、迎えに行くから、ドライブしない?」

「ごめん、余り行きたくない……」

「どうして? 勇太と三人で、鎌倉でも江ノ島でも。そうだ、伊豆に行こうか?」

 僅かに訪れる沈黙。

 微かに菜摘の息遣いが聞こえる。

「ごめん、部屋に居たい」


 菜摘の部屋は、人を拒むように閉ざされていた。

 郵便受けには、何日分もの新聞が溜まり、ドアノブは微かに埃が付着している。胸騒ぎを覚えインターフォンを押すと同時に、激しくドアをノックする蛍子。

「菜摘っ! 私、蛍子! いったいどうしたの?」

「菜摘っ、菜摘っ!」

 僅かな時間。

 微かな沈黙。

 何度目かのノックの途中、不意に鍵が開いた。直後にドアを開け、息を飲む勇太。絶句する蛍子。

「菜摘? いったい、あなたっ!」

 想像もしなかった。

 明るく健康的だった菜摘は見る影もなく、眼は落ち窪みやせ細り、壁に凭れ立っているのもやっとの様だった。

「あなた、いったい……」

 菜摘は、作り笑いを浮べると同時に崩れるように、その場に座りこんだ。

 蛍子と勇太は、菜摘を支え、部屋に上がる。綺麗に整頓されていた部屋は、様々な物が散乱し、散らかっていた。

「とにかく、ソファーに座りなさい」

 菜摘は、黙って頷いた。

 閉ざされたままだったためか、部屋はむっとするような匂いで充満している。

 蛍子は、菜摘をソファーに座らせると、全ての窓を開けた。勇太は、放心したように、窓の外を見る菜摘を見ている。


 たった二週間。

 仕事にも復帰したと聞いていたのが、嘘のように衰弱した菜摘。

 勇太は、自分でさえ煙草に手を出すほど、一哉の死を受け入れる事が出来なかったのに、菜摘が普通でいられる訳がない事を、この時初めて気が付いた。勇太自身が、自分のことで精一杯だったのだ。

 蛍子は、菜摘の傍らに座り、そして優しく訪ねた。

「ナッチ、どうして連絡してくれなかったの?」

「ごめんなさい」

「謝らなくて良いから。カズくんが忘れられないのは判るけど」

 菜摘は、首を振った。

 僅かに口元に笑みさえ見せ、確かに首を横に振った。

「じゃあ、どうして?」

 菜摘は胸元で揺れるペンダントを握り締めると、消え入りそうな声で話始めた。

「一哉がいるの、この部屋に」

「え? どう言うこと?」

「一哉がメールくれたり、話し掛けてくれたり……。そうだ、ギターも教えてくれたんだよ!」

「そんなバカな事! 第一、カズくんは死んだのよっ」

「知ってるよ、そんなこと。判っているもん」

「判ってない。全然、判ってない!」

「いるんだもん。一哉は、そばにいるって言ったもん」

「そんな事、ある訳ないでしょっ!」

 勇太は、蛍子の手を握って、微笑みかけ、そして首を振った。

「それで、菜摘がそんなに痩せてしまったのは、どうしてなんだ?」

 菜摘は、眼に溢れる涙を堪えながら、勇太に頷く。

「一哉が、いなくなってしまう気がして、留守にしている間に消えてしまう気がして」

「それで部屋から出なかったのか? 仕事も買い物も行かなかったのか?」

 菜摘は、小さく頷いた。

「そんな事、ある訳ないじゃない」

 蛍子は、勇太の手を振りほどき、呟いた。

「本当だよ、ほら携帯にっ」

 菜摘が、見せようとした携帯を、蛍子は奪い取って、テーブルに置いた。

「いい? 菜摘っ! カズくんは死んだの。もういないのっ!」

「ううん、いるよ。今もきっとそばで見てる」

「いないっ! じゃあ、判った。勇太、出掛けるわよっ」

 蛍子は、菜摘の手を取って無理矢理立ち上がらせた。

「痛いよ、蛍子」

「良いから、早く。勇太も!」

「どこに行くんだ?」

「行けば判るわよっ!」

 開けたままの窓から、夏の渇いた風が部屋に流れ込む。カーテンが揺れ、ソファーに置いたままのギターに触れ、微かな音を立てた。


 勇太の運転する車は、街の北側にある山の中を走っていた。

 五月蠅く蝉が鳴く。しかし、車の中は誰の声も聞こえなかった。

 山の中腹、鬱蒼と木々が生い茂る細いわき道から、車は古い寺の駐車場に入って止まった。

 菜摘だけが、なぜこんな寺に来たのか判らない。三人は別々に歩き、寺の奥へと進んで行った。

 相変わらず、蝉は五月蠅く鳴いている。


 本堂の脇、細い通路を通ると、低いフェンスに囲まれた墓地があった。蛍子は、入口の鉄格子を開け、墓地のさらに奥へ進む。二つ目の入口を入ると、真新しい墓石が並ぶ墓地にでた。

「この辺りのはずよ」

 墓石の間の細い通路を歩きながら、蛍子は墓石に彫られた名を見て行く。

 いくつ目だろうか、蛍子は突然、足を止めた。

「あった」

 蛍子は、俯いて歩く菜摘の手を引き、墓石を指差した。

「菜摘、見なさい。ここがカズくんの眠る場所」

 菜摘は、ゆっくりと視線を上げた。

―― 米村家之墓

 菜摘は胸元を押さえながら、その場にしゃがみ込んだ。ポロポロと涙が零れている。眼を真っ赤にして、菜摘は蛍子を睨み付けた。

「知ってるよ。判っているよ。でも、一哉は部屋で待っててくれてるもん。こんな所にいないもんっ!」

 蛍子は、菜摘に寄り添い、優しく微笑む。

「うん、そうよね。今はまだ、いないかも知れない、でも」

 その時、携帯の着信を知らせるバイブレーションが響いた。

 蛍子と勇太は同時に視線を合せた。

―― 新着Eメール 一哉

『二人共、あんまり、菜摘をいじめないでよ』



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