第五章 第一話
軍需工場の多かったこの街は、大戦の空襲でほとんどが焼けてしまった。しかし、隣り街に近い西の旧市街の一部は、空襲を免れ、今現在も美しい町並みを残す。一哉の実家は、この旧市街の一角、並木の綺麗な通りに面して建っていた。
時代香る家構え、庭に茂る松の木、格子戸の玄関。全てが『和』 の調和を保ったまま、長い時を重ねて来た。
屋敷の一番奥。
普段はめったに使われない八畳ほどの座敷に、一哉の仏壇が置かれている。鴨居には、楽しそうに笑う一哉の遺影。一哉の母、米村和子は、一人遺影を見詰めていた。凛とした和服姿で正座する和子に、一哉はどことなく良く似ている。しかし、憔悴した愁いが、その面影さえ奪っている様であった。
一哉が他界してすでに三週間。
余りにも悲痛な思いが、和子の時の流れまで塞き止めていた。
―― リリリリーン、リリリリーンッ
広い屋敷に古い電話のベルが響く。最近、見掛けなくなった、黒い電話。
和子は、まるで夢遊病者の様な無表情でゆっくり立ち上がると、居間にある電話を取った。
「はい、米村でございます」
「もしもし? 織原です。織原蛍子です」
「ああ、蛍子さん? 一哉のお葬式の時には、お世話になったわね。助かったわ、ありがとう」
「いえ、あの……」
「どうしたのかしら?」
「菜摘の事なんですけど」
「そうね、お葬式以来、一度もいらっしゃらないわ。初七日も法要も」
「実は……」
広い屋敷に和子の相槌の声だけが響く。皺の無い、透き通る美しい声だ。
「そうね。一度、会いに行こうかしら。きっと大丈夫」
格子の窓から漏れる光が、日焼した畳に碁盤の影を落している。和子は、静かに受話器を置いた。
和子は、用事がない限り滅多に外出しない。
大和撫子と言うのか、『男は外で闘い、女は家を守るもの』 そう考えているようだ。本来、社交的で活動的ではあるが、結婚と同時に家に籠った。
蛍子からの電話のあと、和子は仏壇の前に戻り、線香に火をつけ手を合せた。そして、線香の火が消えるまで、ずっと一哉の遺影を見続けた。
和子は、電話でタクシーを呼び、外出の準備を始めた。
古い三面鏡で髪を整え、淡い紅を引く。美人と言っても、お世辞にもならないほど整った顔立ちに、僅かな生気が戻る。小さな手提げに必要な物を入れ、下駄箱から箱に入った草履出した。
―― ごめんください。お迎えにあがりました。
和子は、急いで草履を履き、玄関にでた。日差しは強く、眩しい。思わず和子は、眼を細めた。
一哉の実家は歴史に名を残すほどの名家である。しかし、子孫に恵まれず、一人娘であった和子に、一哉の父である祐一朗を婿として迎えた。一哉を生んだ後、病から子を生めぬ身体となった和子は、名が絶える事も恐れず、一哉を心血注いで育てた。その一哉を亡くし、和子の心痛は、計り知れないほど悲しみに犯されていた。
「菜摘ちゃん? 私、米村です」
突然の電話だった。
菜摘にとって、今、一番会いたくない人かも知れない。
「お母様……」
「ちょっと、お時間、良いかしら?」
「はい」
「それじゃ、そう、ほら臨海公園の芝生広場のベンチで会えない?」
「あ、はい」
「ごめんね、十分くらいで着くから」
「判りました」
「じゃあ、十分後に」
ただ、苦しさでいっぱいだった。
一哉を亡くした責任を感じ、期待を裏切った後悔に溢れ、何より笑顔で会えない事が苦しかった。
菜摘が自転車で公園に入ると、すでにベンチに座る和子が見えた。そこは、夢に見た場所。余りにも悲しい偶然に、菜摘は声を詰まらせた。
―― お母様
自転車を降り、押しながら歩く。溢れ出る涙が、菜摘の足を何度も止める。いくら拭っても、拭っても、涙は後から後から溢れた。
声を漏らせて泣く菜摘に、和子は気付いた。子どもの様に、手の甲で流れる涙を拭っている菜摘。
和子は、口元に笑みを浮べ、菜摘に近付いた。
「菜摘ちゃん」
「エッエッエッ、ゴッ、ごめんなさいっ」
微笑む和子にすがりつく菜摘。母が赤子にする様に、背をトントンと叩く和子。
「大丈夫よ、大丈夫」
「うぐっ、ぐすん」
「そうだ! ねぇ、お部屋、見せてくれない? 一哉と暮らしていたお部屋、見たいわ」
返事の旨く出来ない菜摘は、何度も何度も頷いた。
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