二部 弟一章 第三話
週刊誌を広げたくらいの小さなネオンサインの灯りが、人通りの少なくなった繁華街の裏通りを照らす。その灯りの中、細くて長い下り階段が続く。掠れた木製のドアの向うに、その店はあった。
『Profile』
歴史のある名の知れたライブハウス。
店内は十坪ほどで、様々な形のテーブルが並び、人が通るのにも狭いほど、詰め込まれている。昔は、名の通ったミュージシャンが毎日の様にライブを行なっていたが、最近は数えるほどしかない。それでも、若い音楽家たちの溜まり場である事には変わりはなかった。
店の奥には、こじんまりしたステージがあり、必要最低限の機材が整然と並んでいる。そのステージ上でMCの男性が、満員の観客の前でガナリ続けていた。
「大晦日から続いたライブも、とうとう最後のゲストを迎える時間になったっ!」
舞台と客席が一体となって盛り上がる中、ラストを迎える演目に不満をぶちまける観客。
「エエッ! もっとやろうよ!」
「まだまだ、これからだぜ!」
口々に観客が叫ぶ。
「まぁまぁ、その代わりと言っちゃ何だけど、お前らみんなちょーラッキーだぜ! 何つっても、最後のスペシャルゲストは、コイツだっ!」
MCが指差すその先、入口を入ったばかりのクロークにいた一哉にスポットライトが当った。
「言っちゃ悪いが、こいつは、有り余る才能があるくせに、それをまったく見せやしねぇ。やつが初めてこのステージに立って、今年で五年。今夜がやつの最後のステージ!」
「?」
「シークレットスペシャルゲストッ!」
百人以上の観客が一瞬にして、水を打つ様に静まり返った。
「そうさ! ヨネムラッ、カ・ズ・ヤッ!」
唖然と見詰める菜摘。一哉は、そんな菜摘の頬に手の平を当てて、耳元で小さく囁いた。
「…ん…く…び……が…り」
「えっ? なに? 何て言ったの??」
騒音と言う人もいるかもしれない。観客のほぼ全員が足を踏み鳴らし、手を叩いた。一哉は観客に引き摺られ、ステージに上がる。残された菜摘たちは、最前列のテーブルに案内された。
「蛍子? 一哉って何者?」
不思議そうに見詰める蛍子。勇太が菜摘の肩をポンと一つ叩いて、先に椅子に座った。
「ナッチ知らなかった?」
「菜摘は高一の夏休みからだもんな」
そういえば一哉と話す様になった二学期の始め、一哉が何かのコンクールで賞を取ったと間接的に聞いた事があった。入道雲が姿を消し、朱色のいわし雲が空を泳ぐ頃、噂はいつの間にか秋風と共に消えてしまった。
菜摘は、その事をふと思い出した。
「一哉んちは金持ちだろ? それにあの厳しいおばさんがいたから、一哉は小さい頃からなんやかんやと、習い事をしてたんだ。ピアノは、一哉の遊び道具の一つじゃなかったのかな」
―― ギターとサッカーだけじゃなかったんだ。
ステージの上で笑顔で話す一哉。しかし、菜摘の耳には聞こえなかった一哉の言葉が木霊する。
『…ん…く…び……が…り…』
―― 何て言ったの? 一哉?
舞台中央に置かれたキーボード。
一哉が椅子に座ると明るかった照明が消え、真上からだけの、浮かび上がる様な灯りに変わった。
「僕が初めてこのステージに上がったのは、もう四年前。賞を頂いたピアノコンクールの五ヶ月後でした。Profileのオーナーでジャズピアニストの大原豊氏のお誘いで、名サックス奏者の夏目淳一氏とのジョイントライブが、その初舞台でした」
話しながら、何気なく弾くキーボード。たったそれだけで、満員の観客を黙らせるのに、充分な効果があった。
「レコードでしか見た事が無い、一流のアーティストの皆さんとの音楽活動は、この上なく幸せで刺激的なものばかりでした」
笑顔であるものの、どこか淋しげな雰囲気が、会場全体に伝染している。
「僕が僕で有る限り、音楽を辞める事はありませんが……」
観客が騒めく。
「辞めないでっ!」
静まり返った会場に悲痛な女性の声が響く。
「……」
「そうだ、辞めんなよ!」
一哉の鍵盤を叩く指が一瞬止まる。そして、自らの指をじっと見詰める一哉。
「時々で良いから、聞かせて!」
「一哉! 続けてくれよ!」
会場全体が異様な雰囲気に包まれる。
一哉の指が微かに震えているのを、菜摘は見ていた。一哉がこんなにも人々に愛されていたのに、嬉しくもあり、反面それを知らなかった自分が淋しい気もした。
唐突に一哉の指が動き出す。アップテンポの軽快なリズム。ほんの数秒で会場内は一哉の演奏で満たされた。
「僕には夢があります。一つは医師になること。そして、世界中を回り、苦しんでいる子ども達を助けること。今年、何が何でも医大に合格し、一つ目の夢を叶えたい」
菜摘自身、一哉と将来を語りあった事など無かった。
「母のおかげで小さい頃から音楽に親しんで来ました。でもそれは、決して僕が音楽家になるためではなく、母の愛情表現ではなかったのかと思っています」
会場にいる観客全員が、音楽と言うゆりかごに揺られ、赤子が母を見詰めるのように一哉に見入っている。
「最初の曲は、母の深い愛情をイメージしたものです。みなさんの心にどんな風景がうまれるか、とても楽しみです」
キーボードの音とは言え、ピアノがこんなにも奥深い楽器であることを、会場内のほとんどの観客は知らなかったであろう。
単純な旋律が、時には、風が木々を揺らす囁きに聞こえ、時には、木漏れ日の日差しの温もりを感じた。
深い森の中、木漏れ日に輝く小さな水場。
様々な生き物たちが、母の胎内のように育まれた場所。
優しさに満ち溢れ、全ての生命の繋がり。
正にそんな曲だった。
曲が終り、一哉の指が鍵盤から離れても、会場内は静かなまま。どこからかの、たった一人の拍手から、堰を切った水の様に、洪水となった喝采が渦巻いた。
一哉は立ち上がり観客に一礼する。しかし、拍手が鳴りやまない。一哉は片手を上げ、再び礼をして、椅子に座った。
「音楽を始めたのと同じころ、僕はサッカーも始めました。地元のスポーツ少年団。最初はサッカーどころか、ボールも満足に蹴れなくて」
横に置いてあったノートパソコンを操作しながら、再び話し始めた一哉。客席からは、画面を見ることは出来ないが、何かを確かめながら、CDを入れ替えている。
「サーフィンもその数年後に始めました。音楽とサッカーとサーフィン。世界中、どこへ行っても、この三つのどれかは通じると思いませんか?」
暗がりの舞台袖に向かって小さく頷く。同時に背景の照明が淡いブルーに変わり、一哉がまるで海の中にいるように見えた。
「次の曲は、海の様々な姿をイメージして作りました。光も届かない深海、月明りに煌めくホタルイカの群、嵐に荒れ狂う波、そして、朝陽に輝く凪。思い付く限りの音源を使い、楽曲にしました。聞いてみて下さい」
―― キーン、キーン
もし、深い深い何も見る事も出来ないほどの深海で、たった一つ五感に感じる事が出来る音があるとすれば、誰もがイメージするかも知れない、身体を突き抜ける金属的なノイズ。たった、二度のノイズが観客の全てを深海に誘い、虜にしてしまう。一哉の音楽が『カズヤマジック』と呼ばれる所以かも知れない。
テクノポップスと言えばそうかもしれない。しかし、一哉の演奏する曲は、金属的なデジタル音楽ではなく、フォルクローレのような自然の温もりや強さ・弱さ、そして、親密な愛情に溢れていた。その音楽はまるで、地球の誕生から、最後のひとときを見せられている錯覚に陥らせる。
二十分はゆうに超える長い曲だった。
演劇やドラマで涙を流す人は、決して少なくない。しかし、歌詞も無いインスツルメンタルで、涙を流すほど感動する人がいるだろうか?この日、この小さなライブハウスの観客は、かつて無い『奇跡』を目撃したに違いない。
演奏が終わった一哉は、菜摘を見詰めていた。しかし、観客が一哉が見ているのが、一人の女性だと気付くのに、少しばかりの時間が必要だった。菜摘自身、一哉に見詰められていることに気付くまで、二度の溜め息を繰り返した。
一哉の口が声を出さずに僅かに動く。
「……」
菜摘は、その瞬間、空気が失せたように息が詰まった。
「えっ? 」
一哉が微笑む。
優しく、微笑む。
いつもの一哉。
いつもの、笑顔。
「僕には、好きな人がいます。いつも笑って側に寄り添ってくれる人。僕はその人を、四年前の高一の夏、学校の校舎の三階にある、図書館の小さな窓に見つけました。本を読む横顔に僕は」
菜摘の心臓が、『どくんっ』と驚く。
―― どくん、どくん、どくん
「カズ、ヤ」
菜摘の脳裏に、髪を靡かせて走る一哉が甦る。
一哉の声。飛び散る、汗。指先一つの動きまで鮮明に思い出される。そして、三階の図書館の窓とグラウンド。一哉と菜摘の交差する視線の中、不意に見せる一哉の笑顔。
『そう、あの時、一哉は私の事を知っていたんだ』
「僕にとって、彼女は、幸せそのものなんです。彼女がいるだけで、僕はとても幸せで、彼女がいないと幸せを感じられない。一緒にいることが全て」
菜摘は小刻みに震えていた。
一哉の言葉に身体が痺れ、心の底で震えた。それが再び身体に伝わり、指先まで一哉の言葉が染み込む。
ただ、好きだった。菜摘には、その気持ちしか望むものは無かった。
『好きでいて、良いですか?』
それが菜摘の全て。何かを期待したり、望んだりした訳じゃない。ただ、ずっと好きでいさせて欲しいと願っただけ。
思いもよらなかった。
「最後の曲。思いのままに詞を書き、メロディーを付けました。僕の唯一の歌詞のある曲です。この曲を大切な人『菜摘』に贈ります。良いよね、菜摘?」
微笑む一哉が、見えなかった。涙で照明が滲み、ぼやけて、掠れて。それでも、涙を拭う事も出来ずに、菜摘は小さく頷いた。
―― うん
一哉は、小さく溜め息をつき、笑顔で頷く。
―― うん
そして、最後の曲が始まった。
時を止めて、君を見ていたい
公園のフェンスにもたれ、笑う君
じっと、そのまま
ずっと、そのまま
風が吹いて、揺れるブランコ
動き出す、時間
叶うなら、今を永遠に独り占めしていたい
忘れない、君の事
どんなに時が流れ、世界が移り変わっても
愛している、なんて言わない
それは一瞬の気持ち
僕の言葉
ずっと、ずっと、ずっと
僕の心は、永遠に変わらない
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