序章(後編)「雷光に照らされて」

   

 俺たちの進む道は相変わらず細道だったが、しばらくして、また別の道に合流した。今までの道ほど細くはないし、しっかりと土も踏み固められている。どうやら、これは獣道けものみちではなく、主要な登山道のうちの一つなのだろう。

 俺は少し安心したし、珠美たまみさんも同じだったらしい。後ろを振り返って俺に呼びかける彼女の顔には、安堵の色が浮かんでいた。

「これを道なりに進めば、下山できそうね」

「そうですね、珠美さん。万が一、逆に上へ登る方向だったとしても、それはそれで山頂に辿り着く。どちらにせよ、これ以上は迷わずに済むでしょう」

 この道ならば、傘を差したままでも並んで歩けそうだ。そう思って珠美さんと肩を並べると、彼女も俺に寄り添うように、距離を詰めてきた。

 いや、いくら『並んで歩けそう』とはいえ、こんな山道で、しかも二人それぞれ傘を持った状態で、密着して歩くのは危ないと思うのだが……。

 不思議に思って彼女に顔を向けると、俺より早く、彼女の方が口を開いた。

「ねえ、一郎いちろうさん。前にも言いましたけど……。妻が夫を『一郎さん』と呼ぶのは自然でも、夫が妻を『珠美さん』と『さん』付けで呼ぶのは、少し不自然ではないかしら?」

「いや、まあ、それは……」

「あら、別に責めているわけではないのですよ。だから、そこまで困ったような顔はしないでくださいね」

 可愛らしく言う珠美さん。それほど俺は『困ったような顔』になっていたのだろうか。

 正直、この件に関しては、俺も彼女の言い分に同意したい。自分でも『珠美さん』と呼んでしまうのは、少しおかしいと思っているのだ。


 緋蒼村の事件で出会った当初、珠美さんは『きいちろうさん』という呼び方を使っていた。それが緋蒼村における『日尾木ひびき一郎』のニックネームだったのだ。

 だが事件が終わり、二人で一緒に『巡礼の旅』に出ることになり……。しかも夫婦という体裁で旅をすることになり、彼女は『きいちろうさん』ではなく『一郎さん』と呼ぶようになった。

 そう、形の上では、今の俺と珠美さんは『夫婦』なのだ。だから彼女が『きいちろうさん』から『一郎さん』呼びに切り替えたタイミングで、俺も彼女を『珠美』と呼ぶようにすれば良かったのだろう。

 頭ではわかっていたのだが、俺には無理な話だった。それだけ俺が、彼女に心を開けていない、ということなのかもしれない。

 そもそも、いまだに俺は、珠美さんに対してタメ口ではなく丁寧語を使っているくらいだ。「夫の言葉遣いにしては不自然」というのであれば、名前の呼び方より先に、こちらの方を挙げるべきはないだろうか。

 いや、もっと言うならば。

 心の中では自分のことを『俺』と呼んでいるのに、珠美さんに対しては――他の人々に接する時と同じく――、『私』という一人称を使ってしまう。これこそ、心の距離を示す一番の証ではないだろうか。

 彼女に対して『さん』を付けなくなるのが先か。

 あるいはタメ口を使えるようになるのが先か。

 それとも一人称が『俺』になるのが先か。

 自分でも、よくわからない……。


「いや、困惑しているというわけでもなくて……。私自身、不思議なのです。あなたのことを、つい『珠美さん』と呼んでしまうので。何故でしょうね、習慣なのかな?」

「習慣……」

 と、俺の言葉を繰り返してから。

「そうね。すぐには変わらないかも。でも……」

 珠美さんは、俺の顔を見ながら微笑む。

 その笑顔は、まるで悪戯っ子の笑い方にも見えて、何だか意味ありげだったが……。すぐに彼女は、その『意味』も口にする。

「外見は、随分と変わりましたのにね」

 ああ、なるほど。

 俺は黙って、苦笑いを浮かべた。

 珠美さんと知り合った頃の『日尾木一郎』は、確かに、今の俺とは大きく異なる見た目だったはず。「まるで変装でもしているかのようだ」と言われるレベルで、髪はボサボサ、髭もボウボウに伸び放題。さらには怪しげな、黒いサングラス。

 一方、今の俺は髪も短く刈り、髭もサッパリと剃って、サングラスどころか眼鏡もかけていなかった。

「あの頃が嘘みたいな、ハンサムな一郎さん」

 珠美さんが、クスリと笑うので。

 ならば、俺も言わせてもらおう。

「いやあ、それほどでも……。逆に珠美さんは、俺とは違って、全く変わりませんね。最初に見た瞬間に感じたように、美しくて魅力的な女性です」

 正確には、彼女に対する俺の第一印象は「『きれいなお姉さん』という感じではない」だったのだが……。いや、あの時すでに「こういう顔立ちこそ『美人』と呼ぶべきなのかもしれない」とか「どちらかといえば好みの体型ではないけれど、それでも魅力的に見える」とか思ったのだから、あながち嘘でもないだろう。

 ともかく、俺がお世辞を言っていないことだけは、珠美さんにも伝わったらしい。

「あら、嫌ですわ。今さら、そんな……」

 先に『ハンサム』とか言っておきながら、俺から『美しくて魅力的な女性』と言われたら、少し照れたらしい。表情を隠すかのように、珠美さんは顔を逸らすのだった。


 そうした会話を交わしながら歩くうちに、周囲の様子も、かなり変わってきた。

 これまでは両側に高い木々が立ち並び、完全に視界が遮られていたのだが、それも徐々に減ってきていた。

 もはや、どちら側にも高い木々は存在しなかった。右側には山の岩肌が露出しており、左側は崖になって、視界が開けていた。

 そして。

「あら、あそこで休めるのではないかしら」

 先に見つけたのは、珠美さんだった。

 視線の先にあるのは、確かに、洞穴ほらあなのようだ。岩肌の一部が大きく抉られて、ちょっとした横穴になっている。近づいてみると、すぐに行き止まりになる程度の浅い洞窟でしかなかったが、二人で雨宿りするには十分な広さだった。

 中に入った俺たちは、あまり奥へは行かず、入り口付近に座る。道を隔てた反対側には視界を遮るものがないため、その位置からだと空の具合だけではなく、山の下に広がる景色――民家や田畑など――も目に入ってきた。

 珠美さんも山の麓を眺めていたようだが、すぐに、

「ねえ、一郎さん。あれって何かしら?」

 と言って、少し遠い場所を指し示す。

 珠美さんが指さした辺りに目を向けると、大きな川が流れているのが見てとれた。その川のすぐ近くには、断崖絶壁とでも言いたくなるような、切り立った崖。しかも崖の上には、ただの民家とは思えぬ規模の家屋が建られているようだった。

「本当だ。私にも、よくわかりませんが……。かなり大きな建築物ですね。あんな場所に、いったい何なのか……」

 珠美さんが気にするので、俺も気になってしまう。でも全く正体は掴めなかった。相変わらず強い雨が降っている上に空も暗いため、かなり見晴らしは悪くなっていたのだ。

 そんな感じで、ちょうど二人そろって、謎の建物に視線を向けていた時。

 一瞬、視界が明るくなった。

 稲妻が走ったのだ。

「きゃあっ!」

 叫び声を上げて、珠美さんが俺に抱きついてくる。

 形ばかりの『夫婦』とはいえ、二人の間に『夫婦』らしき行為が全くないわけでもない。だから俺だって、優しい言葉をかけたり抱き寄せたりするくらいは、普通に出来るはずだった。

 だが、この時の俺は違っていた。洋服越しに珠美さんの体の温もりを感じながらも、彼女の方へ顔を向けることすらせずに、真っ直ぐ前方を見つめるままだった。

 そんな俺に、少し違和感を覚えたらしい。

「一郎さん、どうしましたの?」

 顔を上げて、珠美さんは不思議そうに尋ねてきた。たった今悲鳴を上げたことなどケロリと忘れたかのように、落ち着いた様子だ。抱きついてきたのも、雷が怖かったというより、反射的な行動だったのだろう。

「ああ、何でもありません。ただ、一瞬とはいえ明るくなったから……。その間に、もっとよく見ておこうと……」

「あら。それで、あれが何なのか、わかりまして?」

 雷光で明るくなった瞬間、崖の上の建物がハッキリと見えたのだった。

 大きな屋敷だが、日本家屋ではなかった。円筒形に突出した構造や、屋根の尖り具合などから判断すると、和風建築ではなく西洋建築。しかも、建物の大きさも尋常ではなく、『洋館』という言葉では収まらない感じがした。

 まるで城のようだ。もちろん日本の城ではなく、西洋の城だ。ヨーロッパの旅行ガイドに掲載されているような、緑の中にそびえるいかつい城の写真。それが、俺の頭の中に浮かんでいた。

「……お城です。いや、お城のような洋館です」

 明らかに、こんな田舎には相応しくない建造物だった。雷光を背景にしたせいだろうが、とても不気味な洋館に思えてしまった。

 稲妻が消えると、また周囲は暗くなったので、問題の『城』も闇に紛れてしまったが……。

 それでも俺は、じっと同じ方角を見つめていた。妙な胸騒ぎがして、もはや影となった『城』から、目を離すことが出来なかったのだ。

   

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