第十八章「あらためて考えてみる」
「あの優しい
それは夕食前のひとときだった。
「ふむ。しかし、今となっては、ここに書かれているのが本当なのか嘘なのか、もう確かめようがありませんな」
老婆の剣幕にも恐れず、軽く受け流す芝崎警部。
それを蛇心美枝が、きつく睨みつけたところで、
「御夕食の準備が整いました。大食堂までお越しくださいませ」
と、正田フミが現れる。
また今日も彼女は計ったようなタイミングで登場したな、と俺は思ってしまった。
夕食後、部屋に戻って。
「ねえ、
ソファーに座り込んだ珠美さんが、面白いことを言い出した。
まさに俺の感じ方と同じではないか。思わず苦笑しながら頷くと、
「ですが今日は、いつもと雰囲気が違いましたわ。内心で不穏な企てを謀るのが魔女だとしたら、あれほど怒りを露わにするのは、むしろ人間味が溢れているようで……」
「そうですね。私たちから見れば、赤羽夕子の事件なんて、昔々の伝説のようなもの。でも彼女にしてみれば、当事者ですからねえ。長い間ずっと恨み続けてきたならば、あの手記を信じられずに怒りが爆発したのも、当然の話なのでしょう」
「あの手記の内容、一郎さんは全て信じていますの?」
珠美さんは、真剣なまなざしで俺の顔を覗き込みながら、質問してきた。
赤羽夕子が書き記したものは……。どちらかといえば、これまで蛇心家の人々から聞かされてきた話よりも、信憑性が高いのではないだろうか。特に一家惨殺事件については、誰も関係者が生き残っていないのに――その目で見た者は一人もいないのに――「犯人は赤羽夕子だ!」と伝えられてきたのだから。
しかし。
少し考え込んでから、俺は慎重に答える。
「いいえ、全てではないですね。腑に落ちない点が、いくつかありますから」
まず何よりも、赤羽夕子を除く全員が死んだという点。これは都合が良すぎて、不自然ではないか。蛇心義彦の死に関しては「あのひとが力尽きる前に返り討ちにしたのか、それとも、全員を殺した後で罪の意識にさいなまれて自殺したのか」という解釈が記されていたが……。
相討ちなんて、かなりの偶然が重ならなければ成り立たない。かといって、手記に書かれていた蛇心義彦の人物像を考えると、とても罪の意識で自殺するような人間とは思えない。
ならば彼を殺したのは、最後に生き残った人物。つまり、赤羽夕子としか考えられないのだ。
そして、蛇心義彦を殺したくせにそれを隠しているのであれば、今度は「赤羽夕子の嘘は本当にそれだけなのか」という疑問も浮かんでくる。もしかすると、赤羽夕子が殺したのは蛇心義彦だけではなく、他の人々――彼が殺したとされる蛇心家の者たち――の中にも、彼女の手による被害者が含まれているのではないだろうか。
そもそも、赤羽夕子が完全に無罪であるならば、隠れ続ける必要はない。堂々と出てきて、主張すれば良いのだ。
いくら迫害されていたと言っても、犯人扱いされるかどうか、まだ決まっていない。だが、あの通路に閉じ込められたままでは、餓死することは100%確定だ。生き延びるためには、何が何でも、中から助けを呼ぶしかなかったのだ。
それくらい、赤羽夕子にも理解できていたはず。それなのに、そうしなかったのは……。後ろめたい気持ちがあったから、つまり有罪だったからではないだろうか。
また「どうせ、あのひとも亡くなってしまった世界です。もはや、生きていても仕方ありません」という記述。これも、俺は鵜呑みに出来なかった。彼女は結構、生に執着していたように思えるからだ。
もはや生きる意味はないと本当に考えていたならば、最初に村人が屋敷に来た時点で、隠れる必要もなかったではないか。その時すでに『あのひと』が死んでいるのを目にした後なのだから……。
「一郎さんは、そのように考えたのですね……」
俺の意見を聞き終わった珠美さんは、しみじみとした声で呟く。
「そうやって理屈付けてはいませんが、私も、何か違うという引っ掛かりは感じていました。おそらく一郎さんの言う通り、蛇心義彦を殺したのは赤羽夕子なのでしょうね」
彼女が賛同してくれたので、俺は心の中でガッツポーズ。だが、これは少し早計だったらしい。
「でもね、それは『あのひと』の仇討ちだったのではないかしら。そのように、好意的に解釈してあげたいのです」
という言葉を皮切りにして。
珠美さんは、俺とは意見が重ならない部分について、語り始める。
「一郎さんは、赤羽夕子の『どうせ、あのひとも亡くなってしまった世界です。もはや、生きていても仕方ありません』という言葉も信じていないようですが、あれも私は、彼女の本心だと思いますの」
「でも、それならば、村人が屋敷に来たからといって隠れる必要はないはず……」
先ほどの論点を再び述べ立てる俺に対して、珠美さんは、遮るかのように手を前に突き出して、さらに大きく首を振って否定する。
「その時は恐くなって、とっさに隠れてしまったのでしょう。その後しばらくの間も、まだ『生きたい』と思っていたのかもしれません。でもね、人の気持ちというものは、特に女心というものは、変わりやすいものですわ。暗い場所に長く身を置くうちに、彼女の心境も変わっていったのではないかしら。その終着点が『もはや、生きていても仕方ありません』ということなのでしょう」
珠美さんに「女心というものは」と言われてしまうと、もう俺には、返す言葉はなかった。
別に珠美さんは、俺を言い負かそうと思ったわけではないのだろう。黙ってしまった俺を見て、少し話題を変える。
「それにしても……。内側からのスイッチを押さなかったのは、幸運でしたわね」
「内側からのスイッチ?」
「そうです。『内側から出入口を開閉できるスイッチが、故障してしまいました』と、手記に書かれていたでしょう? 私たちの場合、出入口は開いたままにして、通路の内側でスイッチなんて探しませんでしたが……。もしも見つけていたら、誰かしらが押してしまったでしょうね」
「でも、珠美さん。壊れているのであれば、押したところで、何も反応しないのでは?」
「あら、そうとも限りませんわ。壊れ具合によっては『開けることは無理でも閉めることは出来る』という可能性もあるでしょう? その場合、私たちも閉じ込められて……。考えただけでも、ゾッとしますわ」
そう言って珠美さんは、ブルッと体を震わせた。
しかし。
正直なところ、俺は彼女に賛同できなかった。
珠美さんにも告げた通り、俺は「壊れている」イコール「何も反応しない」と受け取っている。珠美さんに違う可能性を提示されても、それは無理矢理な解釈であり、その可能性は限りなく低いと思えるのだ。
その点を議論したところで、お互いに平行線になるだけだろう。先ほどの赤羽夕子の心境に関してもそうだが、今夜は、妙に意見が食い違うように感じる。こういう日に下手に会話を続けていると、些細なことを発端に、険悪な雰囲気になりかねない。
俺はそう危惧したのだが、彼女は、まだ話し足りないような顔をしていた。そこで、会話を打ち切る代わりに、何か考えが一致しそうな話題を探してみる。
「ところで、珠美さん。手記の内容はともかくとして、死体が発見されたことで、一つハッキリしましたね。赤羽夕子は、不老不死の妖魔でも何でもない、普通の人間だった……」
「そのようですわね。私たちや好恵さんが推理したように、赤羽夕子目撃談の真相は、大きく分けて二つあったのでしょう」
どうやら、この話題ならば、意見が食い違うこともなさそうだ。
俺は頷いて、彼女の言うところの『二つあった』を、少し具体的に言い直す。
「最初のうちは『邪神城』内部に隠れていたから目撃された。いなくなった後は、迷信深い人々による見間違えに過ぎない……。ただ、私たちの推理で間違っていたのは、その『いなくなり
「そうね。逃亡したと思っていたのに、実は亡くなっていただなんて……」
ここまでは、特に問題もない。それに、この調子で議論できるならば、面白い推理も導き出せそうだ。
そう思って、俺は一歩、踏み込んでみる。
「でも、そうなると、新たな疑問が湧いてきますね。私たちが昨日の夕方に見た赤羽夕子の正体。あれは、いったい何だったのか」
「あら、それでしたら……」
俺の問題提起に対して、珠美さんが悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。
彼女には、何か考えがあるのだろうか。コロンブスの卵のように、気づいてしまえば拍子抜けするようなアイデアが。
俺はそう思ってしまったが、
「……好恵さんが、色々と考えているみたいですわ」
彼女自身が答えを持っているのではなかった。それに、特に杉原好恵から何か聞かされているわけでもないという。
「ただ、あの子を見ていると、そんな気がするのですよ。また新しい推理を考えているような……。一郎さん、このままでは好恵さんに、名探偵のお株を奪われてしまうのではなくて?」
クスクスと笑う珠美さん。
杉原好恵が名推理を抱えている様子など、俺は全く気づかなかったが……。一般的に女性の方が観察眼は鋭いのだろうし、珠美さんの眼力を信じておこうと思う。
とはいえ、完全に納得したわけではない。例えば、杉原好恵が解明したのが、赤羽夕子目撃に関する謎とは限らないではないか。もしかすると、蛇心
そこまで考えた時だった。
トントンと、ノックの音が聞こえてくる。
「あら、誰かしら……?」
「私が出ましょう」
ドアを開くと、大神健助が立っていた。
少し目付きが悪い彼は、それを恥じているかのように、下向き加減でいることが多い。だがこの時は顔を上げて、真っ直ぐ前を向いていた。ただし、顔色は良くない。いかにも「何か悪いことがありました」という感じだ。
まさか……。
嫌な想像をしてしまう俺に対して、大神健助は、端的に告げるのだった。
「杉原様が殺されました」
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