第十章「部屋を訪れる者」

   

「見間違いなんかじゃないし、夕陽のせいでもない! 僕たちは赤羽あかばね夕子ゆうこを見たんだ! この目で、はっきりと!」

 顔を紅潮させて叫ぶ、阪木さかき正一しょういち

 明らかに、彼は興奮気味だった。

 そもそも、今の発言は誰に対する言葉なのだろうか。杉原すぎはら好恵よしえに対して言っているようには見えないし、ましてや、俺や珠美たまみさん相手でもなかった。

 誰に聞かせるでもなく、ただ魂の叫びが口から飛び出した、という感じなのかもしれない。

 そんな恋人とは対照的に、

「……」

 杉原好恵は、すっかり黙り込んでいた。先ほどまで、あれだけ明るく喋っていたのに。

 自説を打ち砕かれたのが、それほど衝撃的だったに違いない。だが驚いたのは、俺たちも同じだった。俺と珠美さんの間でも、杉原好恵と同じように推察していたのだから。

 つまり、ある時期以降の目撃談は、思い込みや目の錯覚に過ぎない、と。

 それなのに……。

 はっきりと今、この場の四人全員が、赤いチャイナドレスの人影を見てしまったのだった。


 夕食の席でも、阪木正一のテンションは高いままだった。嬉々として、彼は報告する。

「僕たちも見ましたよ、赤羽夕子を」

 当然のごとく、蛇心へびごころ家の人々に衝撃が走った。

 その度合いが最も強烈に見えたのは、大奥様とも呼ばれる蛇心江美子えみこ。彼女は表情を凍りつかせて、ガチャンとスプーンを取り落としたくらいだ。

「まあ、怖いわ」

 と、不安がる蛇心安江やすえに対しては、その肩を抱き寄せるようにして、蛇心雄太郎ゆうたろうが優しく慰めていた。

 さすがは当代の蛇神様じゃしんさま、たいして動揺していないらしい。一瞬そう思ったが、

「大丈夫、私がついているから……」

 妻に向ける彼の声には、若干の震えが混じっていた。


 そうした三人の様子を見渡しながら、大きな眼球をギョロリと動かして、蛇心美枝みえが俺たちに尋ねる。

「肖像画の通りだったかえ?」

「はい、全く同じでした。真っ赤なチャイナドレスを着ていたし、あそこに描かれていたような長髪で……。後ろ髪だけでなく、それこそ前髪も目に被さるくらいに長かったですよ」

 喜んで老婆の相手をする、阪木正一。昨日の彼とは大違いだ。

「そうかい、そうかい。ならばやはり、あの絵は、壁に掛けておかないといけないのう。妖魔が現れた時に、本当に赤羽夕子なのかどうか、確かめるためにもねえ」

 半ば独り言のように呟いてから、続いて蛇心美枝は、一族の三人に向かって告げた。

「不吉だから外そうとか、お前たちは言いよるが……。ほれ、見てみい。あった方がいいじゃろうが」

 面白いことを言う。

 なるほど、よく考えてみれば、赤羽夕子の肖像画が大広間に飾られているのは、理屈に合わない話だった。

 彼女は蛇心家の一員として扱われていないどころか、この屋敷の住民を皆殺しにした大罪人だ。危うく家系が断絶するところだったのだから、蛇心家の者たちから見れば、憎んでも憎みきれない存在のはず。村人たちからも、妖魔だとか邪神だとか言われて、忌み嫌われているくらいだ。

 にもかかわらず、蛇心家の者たちと一緒に、絵が並べられているのは……。

 蛇心美枝が、少し奇抜な理屈を振りかざして、あの肖像画に利用価値を見出しているせいだった。どうやら当代の蛇神様である蛇心雄太郎よりも、むしろ最年長者である彼女の方が、まだ発言権が強いらしい。

「ありゃあ、わざと飾ってあるのじゃ。わしの目が黒いうちは外させぬわい。フォッフォッフォッ……」

 そう言って笑う蛇心美枝の姿は、今日も大きめの黒衣に包まれているせいか、やはり魔女のように見えるのだった。


 夕食後。

「今日は疲れたから、先に休ませてもらいますね……」

 部屋に戻った途端、珠美さんはベッドに横になった。

 いくら何でもまだ眠るには早過ぎると思うし、それに、食後すぐに寝るのは体に良くないとも聞くが……。

 スヤスヤとした、穏やかな寝息が聞こえてくる。どうやら、もう眠りに就いたらしい。そこまで身体からだが休息を要求するくらい、疲れていたのであれば、無理をさせることもない。

 ならば俺も、サッサと風呂に入って、今晩は早めに寝よう。そう考えて、一人で大浴場へと向かうことにした。


 一階にある大浴場。

 男湯と書かれた暖簾をくぐり、竹筵たけむしろの敷かれた脱衣場に入る。

 入って右側に見えるのは、明らかに宿泊客の数よりも多い籠と棚。蛇心家の人々や使用人たちも同じ風呂を使うからであり、実際、昨晩の入浴では蛇心雄太郎とバッタリ出会っていた。

 棚を見ると、使用中の脱衣籠は見当たらない。今日は夕食直後のせいか、まだ誰もおらず、俺一人でノンビリと風呂にかれそうだった。

 左側にある大きなガラス戸を開けると、モウモウとした湯気が立ち込めている。温泉独特の熱気が、すでに心地良い。

 そう、ここの風呂は、きちんと源泉からお湯を引いてきているのだ。『邪神城』などという昔の呪われた建物の使い回しだが、こういうところは、まともな温泉旅館だった。

 体を洗って温泉に入ると、思わず声が漏れた。

「ふう……」

 本格的な岩風呂とは違うようだが、黒い石造りの湯船になっている。以前に――この時代に来る前に――、浴槽の素材として人工大理石という言葉を聞いた覚えがあるのだが、この黒石がそれなのだろうか。

 お湯の中で手足を伸ばし、開放的な気分で、とりとめもない考え事をするうちに……。

「あの赤羽夕子……。あれは、いったい何だったのか」

 ふと、俺の口から漏れたのは、夕方目撃した人影のことだった。

 他に誰もいないのだから、声に出して整理するには良い機会かもしれない。

「あれって、幽霊とは言えないよなあ」

 お湯の注がれる音だけが流れる静かな大浴場に、俺の言葉が、よく反響する。

「どう見ても、生身の人間のようだった……」

 明治時代の悪女、赤羽夕子。とはいえ、同じく明治時代に生まれた蛇心美枝だって、まだ健在なのだ。今でも赤羽夕子が生きているとしても、不思議ではないのだが……。

「それならば、もう百歳近いはず。いや、せいぜい九十歳くらいか? どちらにせよ、そんな年齢には見えなかったぞ……」


 風呂を出た後も相変わらず、俺の頭の中は、赤羽夕子のことで占有されていた。

 一人で思索に耽りながら階段を上がり、廊下を右へ。突き当たりのT字路で左へ曲がり、L字のコーナーでは道なりに、また左へ曲がると……。

 人影が一つ、視界に入ってきた。

 ポットとコップを載せたお盆を左手に持ち、右手で部屋の扉をドンドンと、激しく叩いている男。

 使用人の大神おおがみ健助けんすけだった。

   

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