第十一章「そして悲劇の幕が上がる」
「何をしている!」
俺は叫びながら、
咎めるような言い方になったかもしれないが、そんなつもりはない。ただ驚きのあまり口から出たのが、この言葉だったのだ。
あれだけ大きな音を立てて扉を叩かれたら、いくら
一瞬のうちにそう考えて、ひどく心配になったのだった。
「おや、
俺以上に驚いた顔で、大神健助は扉を叩くのを
「このような場所も何も、ここは……」
と、口にしたところで。
ようやく、俺は気が付いた。大神健助が立っていたのは、俺と珠美さんの部屋の前ではない。俺たちの305号室よりも、少しだけ廊下を進んだ場所――その分だけ建物の中央に近い位置――にある部屋だったのだ。
しかも、俺の間違いは、それだけではなかった。
彼が叩いていた扉に目を向けて、俺は「あっ」と叫んでしまう。
そこには『207番』と刻まれたプレートが、掲げられていたのだから。
今まで二階には入らなかったため、知らなかったのだが……。まあ考えてみれば、当然だったかもしれない。
二階も三階も廊下の構造に大きな違いはなく、似たような扉がズラリと並んでいる点も同じだったのだ。
そして。
考え事をしながら階段を上がっていたために、うっかり俺は、三階へ行くつもりだったのに二階へ来てしまっていた。しかも、扉のプレートに注目することなく廊下を歩いていたので、その間違いに気づいたのが、今ごろになったというわけだ。
「ああ、これは失礼。二階だったのですね、ここは。てっきり三階だと思って……。申し訳ない」
きまりが悪い思いをしながらも、正直に告げる。
すると大神健助は、軽く首を振った。
「いえいえ、いいところへ来てくれました。大奥様へお飲物を運ぶ時間なのですが、いくら呼んでもノックしても、返事がなく……」
その言葉で、さらに俺は気づいた。
俺や珠美さんだけでなく、
その中でも、ここ207号室は、蛇心
あらためて大神健助に目を向けると。
彼の顔には、不安の色が浮かんでいた。
無理もない。今日の夕方、
「この通り、鍵も掛かったままなので、困っておりました。窓もない部屋なので、この扉から入るしかないのに……」
いつになく口数が多い大神健助。
彼の言葉を受けて、俺も一応、確かめてみる。確かに、いくらノックしても反応はなく、ドアノブをガチャガチャさせても開く様子はない。扉は固く閉ざされていた。
「ここで私は、もう少し頑張ってみます。日尾木様、
昨日、蛇心
同時に。
なぜ客である俺に取りに行かせるのか、という疑問も湧く。そういう用事こそ、使用人の仕事なのではないだろうか。
一瞬、俺の表情は曇ったかもしれない。しかしすぐに、それも消えることになった。思い直して、自己解決したからだ。
もしも大神健助が合鍵の部屋へ向かって、ここに俺が残った場合。しかも、実は凶事でも何でもなく、ただ単に蛇心江美子が深く寝入っていただけという場合。寝起き姿の彼女が出てきたら、部屋の前で一人で立っている俺は、それこそ気まずいではないか。少し老けているとはいえ、彼女は
そうした思考の末、
「わかりました。任せてください」
俺は、急いで一階へと向かった。
深々と頭を下げる大神健助を、一人その場に残して。
一階へ降りるまでの間、誰とも出くわさなかった。
畳敷きの小部屋に駆け込んだ俺を、白髪頭の老人男性が出迎える。
「どうしました? そんなに慌てなさって……」
老婆としか言いようのない蛇心
少し背中が曲がっており、脚も悪いようだ。歩くのが辛そうで、とても歩幅は小さく、左脚は完全に引きずった状態だった。
俺を見て、怪訝そうな表情をしている。宿泊客の存在自体は彼にも伝えられていると思うが、初対面なので名乗っておいた方が良いだろう。
「昨日から泊まっている、日尾木
そこから始めて、事情を全て説明すると。
「そりゃあ、大変だ!」
老人の表情が変わった。まだ今日の夕方の話は聞いていないかもしれないが、少なくとも、一週間前に赤羽夕子が目撃された件は知っているはず。それが頭をよぎったに違いない。
彼は、木目調の壁に手を伸ばした。そこにはたくさんの鍵を吊るしたフックがあり、彼が手にした鍵には『207号室』と記した小さな紙が括り付けられている。
「さあ、どうぞ」
と、彼は大切そうに、それを俺に手渡した。
俺が合鍵と共に戻ると、大神健助は腕組みしながら、207号室の前で立ちすくんでいた。俺がいない間、誰も通りかからなかったらしい。お盆は床へ置いており、また、もう諦めたかのように、扉を叩くのもストップしていた。
俺を見ると、腕組みをやめて、また頭を下げる。
「ありがとうございました、日尾木様」
そう言って手を差し出す大神健助。俺が合鍵を渡すと、彼は早速ドアを開き……。
「失礼します、大奥様」
「すいません、入ります」
彼に続いて、俺も声をかけながら、部屋の中へ。
室内の造りは、俺たちの305号室と似たようなものだった。仕切があって、いくつかの小部屋に分かれている。人の気配はしなかったが、天井のライトは
そう、明るかったのだ。
だから見間違えようもなく、はっきりと視界に入ってきた。床に倒れた彼女の姿が。
仰向けで、両手を大の字に広げた蛇心江美子。
驚愕の表情だろうか、あるいは、恐怖の表情だろうか。あんぐりと口を開けて、目も大きく見開いている。胸には刃物が突き刺さって、床まで血が流れ出して……。
この状態で息があるはずもなく、明らかに彼女は絶命していた。
「まだ赤い……」
ふとした呟きが、俺の口から漏れる。
固まりかけの血を示す、茶色がかった赤色ではない。
体から流れ出てそれほど時間の経っていない、鮮やかな赤色だ。
それを見て俺は『血のように真っ赤なチャイナドレス』という言葉を思い出していた。
そう。
夕方に見た四階の人影は、確かに、これと同じ色をしていたのだ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます