第五章「赤い妖魔の伝説(前編)」
「待っていましたよ」
俺たちが大広間へ降りていくと、真っ先に声をかけてきたのは、
彼らは『邪神城』という名前に惹かれて宿を決めたという話だったから、「早く由来を聞きたいのに、あとの二人が来るまで始まらない……」と、待ちくたびれていたのかもしれない。特に杉原好恵は、興味津々といった表情に見えた。
二人とテーブルを挟んだ反対側には、五十歳くらいの女性が座っている。これが
「どうぞ、ここに座って」
杉原好恵が、自分の隣をポンポンと叩く。阪木正一と共に横へ寄って、ソファーのスペースを空けてくれたのだ。
「ありがとう。では、お言葉に甘えて」
礼を述べる
すると、ようやくといった感じで、江美子が口を開いた。
「集まりましたね。では、始めましょうか」
女性にしては野太い声、いや、若干おどろおどろしい声だと感じてしまったのは、失礼に当たるだろうか。
「この『邪神城』が建てられたのは、明治時代のことでした。もちろん当時は、そうは呼ばれておりません。『
江美子の顔に、過去の栄光を懐かしむかのような色が浮かぶ。だが、ほんの一瞬であり、すぐに翳りを帯びてしまう。
「それなのに……。『邪神城』などという、忌み嫌われる名前が
――――――――――――
明治時代後期。
当時の当主――
不必要なほどに大きく、むしろ住居としては使いづらい屋敷。それでも蛇神様のお城という意味で『蛇神城』と呼ばれていたくらいであり、
「あの建物は、蛇神様が事業で大成功を収めた記念碑なのだ」
という見方が強く、最初のうちは、好意的に受け入れられていた。人々が違和感を持ち始めたのは、数年後のことだ。
明治時代の終わりが近づき、大正時代の足音が聞こえてきた頃。
蛇神様は、
周囲の者たちは驚いた。
若くして妻に先立たれた後、ずっと独り身で通してきた蛇神様だ。今さら彼が再婚するなんて、誰も思っていなかったのだ。
しかも、この赤羽夕子は、どう見ても二十代半ば。蛇神様とは、五十歳くらい――およそ半世紀――もの開きがあった。
人々は反対するが、蛇神様の決定に逆らえる者など存在しない。こうして赤羽夕子は、蛇心家の一員となってしまった。
そんな新妻に対して、周囲の者たちは、
「蛇心家の財産が目当てで、蛇神様に取り入ったに違いない」
「女狐め、いつか必ず、尻尾を掴んでやるぞ!」
と、冷たく囁くのだった。
もともと赤羽夕子は、和装よりも洋装を好んでいたらしい。しかし田舎の名家には相応しくないと考えたようで、蛇心家に嫁いでからは、おとなしい和服ばかり着るようになっていた。
彼女なりに、気を使っていたのかもしれない。
ただ残念なことに、赤羽夕子は『
それを着て歩く赤羽夕子を見て、村人たちは石を投げつけた。
「お前は『黒蛇』の信奉者か!」
「ここは『
以降、赤羽夕子は着物そのものを嫌うようになり、かといって洋装に戻るのでもなく、高価な赤いチャイナドレスを好んで着るようになったという。
それから数ヶ月の後。
赤羽夕子が姦通事件を引き起こした。相手は蛇神様の息子の一人だ。
蛇神様は激怒し、赤羽夕子は離縁されることになったのだが……。
追い出される前に彼女は、恐るべき行動に出たのだった。追い詰められた彼女は、先手を打って蛇神様に襲いかかり、刺し殺してしまったのだ。
しかも凶行は、それだけに留まらなかった。口封じのつもりだったのか、あるいは、既に気が触れていたのか。彼女は『蛇神城』の全ての住民を、一日かけて殺して回ったのだ。蛇心家の一族だけでなく、住み込みの召し使いまでも……。
惨劇の後、村人たちが恐る恐る『蛇神城』へ足を踏み入れると、一面に広がる血の海が待っていた。赤羽夕子のチャイナドレスと同じ、紅色に染まっていたという。
これだけの大罪を犯しながらも、赤羽夕子が逮捕されることはなかった。
逃亡する姿を目撃されることもなく、忽然と姿を消してしまったのだ。まるで、最初から存在しなかったかのように。
人々は噂する。
「赤羽夕子は、悪魔の使いだったに違いない」
「いや赤羽夕子こそが、妖魔そのものだったのだろう。まさに邪神だ!」
「魔の者だからこそ、自由自在に姿を消せたということか!」
妖魔、魔の者、邪神……。
こうして『蛇神城』は、『邪神城』と呼ばれるようになっていった……。
――――――――――――
「これが『邪神城』の名の由来です」
フーッとため息をついて、江美子は物語を終わらせた。少し語り疲れたようにも見える表情だったが……。
「『邪神』赤羽夕子……」
一同の感想を代表するかのように、珠美さんがポツリと呟くと。
江美子は、鬼のような形相を向けた。
「あの女のことを、邪神なんて呼ばないでいただきたい! 妖魔で十分です!」
今の今まで彼女も『邪神』という言葉を使っていたのに、何とも理不尽な話だ。『邪神城』の由来を説明するには仕方ないけれど、他人から言われるのは許せない、ということなのだろうか。
それに俺の感覚では、妖魔も邪神も同じようなものに思える。だが、ここ蛇心家の人々にとっては、邪神は『じゃしん』という読みだから、神聖な『蛇神』という言葉に重なる一面があるのかもしれない。
そう考えれば、彼らが『邪神城』という呼び名を嫌がらずに受け入れているのも、理解できるではないか。口では『忌み嫌われる名前』などと言っておきながら、頭の中では、無意識のうちに『邪神城』を『蛇神城』に置き換えているのだろう。
「あら、すいません」
どう受け取ったか知らないが、珠美さんも、軽く受け流していた。
それでも険悪な雰囲気を感じ取ったのか、杉原好恵が、話に割って入る。
「ちょっと、いいかしら?」
まるで学校の先生に質問する生徒のように、彼女は手を挙げていた。少しだけ表情を戻した――まだいくらか険のある顔をした――江美子に対して、臆することなく、馴れ馴れしい口調で問いかける。
「その事件があった頃、蛇心家の人々は、ここ『邪神城』――まだ当時は『蛇神城』と呼ばれていたお屋敷――に住んでいたのよね?」
「そうです」
「そして屋敷の住民は、皆殺しだったのよね?」
「そうです」
「だったら……。その事件によって、蛇心家は死に絶えたことになるんじゃないの?」
核心をつく質問だった。
だが予想の範疇だったらしく、むしろ江美子の表情は和らいでいた。口元にニヤリとした笑みを浮かべながら、彼女は告げる。
「良いところに気が付きましたね。そうです、この話には、まだ続きがあるのです」
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