第六章「赤い妖魔の伝説(後編)」
明治時代の惨劇。
その言葉を聞いて、まず俺が思ったのは「遠い遠い昔の話だ」ということ。今この時代――昭和の一時期――から見ても『明治』は昔だろうが、元々が平成時代の人間である俺にしてみれば、昔どころか「むかしむかし」と感じてしまう。
昔の日本には、姦通罪というものが存在していたと聞く。今この時代ならば、不貞行為は道徳的な罪でしかないが、それこそ明治時代ならば、刑法で裁かれる対象だったのだろう。
そして平成の世になると、この『不貞行為は道徳的な罪』という概念すら、少し薄れていく。「不倫は文化」などという浮気肯定の言葉が、まことしやかに囁かれるようになったのは、平成の初期だったと思う。
もちろん、いくら平成時代の世界であっても、平然と不貞行為を働くのは芸能人とか、それを真似する一部の一般人のみ。まだ大部分の人々にとっては「浮気は良くないこと」という意識が強かったはず。
そんなふうに、本題とは無縁な「時代の違い」にも想いを馳せながら。
黙って俺は、話の続きに耳を傾けるのだった。
――――――――――――
赤羽夕子による一家惨殺事件があっても
彼女の傍らには、世話役として常に付き添う書生の存在があった。
これで、かつての栄光も蘇るかと思われたのだが……。
残念ながら『邪神城』には、暗く重苦しい空気が纏わり付いたままだった。
「あのお屋敷には、邪神が取り憑いておる」
という噂が流れ始めたのだ。
発端は、赤羽夕子の姿が『邪神城』で目撃されるようになったこと。
人知れず逃亡したはずの彼女が、のんびりと自室で過ごしている……。その様子が何度も、部屋の窓ガラス越しに確認されたのだ。
問題の部屋は、事件の後に封印されていたが、四階にあるため、敷地内の庭から見上げても結構な距離。だから目撃談も間近からではなく、遠くから見たに過ぎなかったが、
「赤羽夕子に間違いない。特徴的な、血のように真っ赤なチャイナドレスを着ていたのだから」
目撃者たちは口を揃えて、そう証言する。
また、彼女の部屋とは別の場所でも、赤羽夕子の存在が屋敷内で感じられることがあった。そちらは姿こそ見えないものの、恨みがましい声が聞こえるのだという。
そうした話が蓄積されるにつれて、新たな噂が生み出される。
「もしかしたら赤羽夕子は逃げたのではなく、まだ『邪神城』の中に潜伏しているのではないだろうか」
村人を集めて、大がかりな捜索が行われることになった。春日良介あらため蛇心良介が先頭に立ち、屋敷内をくまなく探したが……。結局、何の痕跡も発見されなかった。
それでも、窓ガラスに浮かぶ姿は目撃され続けた。頻度こそ減ったものの、何年経っても、何十年経っても。時を経ても当時と同じく、赤いチャイナドレスを着た若い女性の姿で。
だから人々は噂する。
「やはり赤羽夕子は、邪神だったのだ。人間ではないから老いることもなく、いつまでも若い姿を保っていられるのだ。永遠に『邪神城』に取り憑いているのだ」
そう。
その名の通り『邪神城』には、今もなお、邪神が取り憑いているのだ……。
――――――――――――
重苦しい空気が漂う中。
気後れすることなく、その静けさを破ったのは、
「ずっと『赤羽夕子』って呼んでるけど……。彼女って、昔の蛇神様と結婚して、しかも正式に離婚する前に、事件を引き起こしたのでしょう? ならば、まだ名前は『蛇心夕子』のままじゃないの?」
しかし
「いいえ、それは違います。『まだ』も何も、最初から最後まで赤羽夕子です。私たちは誰も、あの妖魔を蛇心家の一員とは認めていませんから。この村で『蛇心夕子』と呼ぶ者なんて、一人もおりません!」
語気を荒げる江美子を見ていると、急いで話題を変えた方が良いと感じるが……。
俺が助け舟を出すよりも早く、杉原好恵の彼氏である
「その赤羽夕子の姿が目撃されたという話、とても興味をそそられますね。邪神とか妖魔とか言っていますが、話を聞く限りでは、むしろ幽霊や亡霊に近いように思えるので……」
面白いことを言う。
邪神も妖魔も幽霊も亡霊も、どれも同じようなものではないか。一瞬そう思ってしまうが、あらためて考え直してみれば、確かに俺の感覚でも、そこには一応の差があった。
邪神や妖魔は絶対に実在しない、フィクションの中の存在。一方、幽霊や亡霊は「見た!」と言い張る人が出てくる程度には「いても不思議ではない」という存在。
このあたりの線引きは、阪木正一や杉原好恵――
いや、そもそも超常現象云々について言うのであれば、未来から憑依転生してきた俺の存在こそが、もう超常現象そのものと言えるのだろうが……。
そう俺が考えている間にも、阪木正一は質問を続けていた。
「『何年経っても、何十年経っても』という話でしたが、一番最近では、いつ目撃されたのでしょうか?」
ふっと江美子の表情が変わり、遠い目をし始める。
「妖魔が現れる度に、ひとつ、またひとつ。『邪神城』に不幸が訪れる……。そう言い伝えられています。例えば、私の姉である
「……よしえ?」
杉原好恵が名前に反応するが、それには構わず、江美子は語り続けた。
「兄の
これを聞いて、俺は心の中で「あっ!」と叫んでしまった。
今の今まで、江美子を『蛇心江美子』ではなく『江美子』と表記してきたのだが……。それは、彼女も蛇心一族の者だという確信が持てないからだった。
だって、そうだろう。こうして詳しく過去の伝説を語る態度を見れば、確かに江美子は蛇心家の生まれに思える。しかし
蛇心雄太郎は自身のことを「現在の当主、つまり蛇神様」と紹介していたので、それだと婿養子でも『蛇神様』になれる、ということになるではないか。『蛇神様』という称号の由来を考えたら、それはそれで不自然な気がする……。
そんなわけで、雄太郎が蛇心家に婿入りしたと考えても、逆に安江が嫁入りしたと考えても、どうにもスッキリしない感じだった。だが、その疑問も、今ようやく解けたのだ。
なんのことはない。どちらがどちらという話ではなく、二人とも、生まれつき蛇心家の一員だったのだ。つまり、二人は
そして。
このように、俺が頭の中で人間関係を整理している間に、蛇心江美子の話は先に進んでいた。
「十年前、父の良介が病死した際も、赤羽夕子の姿が、何度か目撃されました」
ここで再び、俺は心の中で「あっ!」と叫んでしまう。
とっくの昔に亡くなった人々の話だと思って聞いていたが、美枝と良介というのは、目の前にいる蛇心江美子の両親だったのか。確かに、彼らの年齢を計算してみれば、そういう関係になるのだろう。
「そして、一週間前。十年ぶりに、あの妖魔は姿を現しました」
一週間前。
思いのほか最近の話に、その場の人々が――俺も含めて――ハッとする。
あらためて蛇心江美子に意識を向けると、いつのまにか彼女は、壁の方を眺めていた。たくさんの肖像画が並んだ、薄茶色の壁。その中の一枚を指差しながら、彼女は俺たちに告げる。
「昔と変わらず、あの絵と同じ姿で、四階の部屋の窓ガラスに映っていたのです」
蛇心江美子の示す先に描かれているのは、真っ赤なチャイナドレスを着た、燃えるような赤毛の女だった。
そう。
最初に大広間を通った時、妙に印象に残った肖像画の女。彼女こそが、邪神とも妖魔とも呼ばれる、赤羽夕子その人だったのだ。
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