事件編

第一章「蛇と狼と蟷螂と」

   

 少し休んだ後、俺たちは再び歩き始めた。

 雨をしのぐという意味では、もう少し岩穴の中で休んでいるべきだったのかもしれない。だが、そこでじっとしているのは思ったよりも寒く、むしろ体を動かしている方が良い――そして早く暖を取れる場所まで行く方が良い――と判断したのだった。

 相変わらず雨は激しく降っていたが、それでも少しは弱まったようで、もう雷鳴が轟くこともなかった。


 休憩していた洞窟から十分くらい歩くと、俺たちが進む道は、舗装された道路に合流した。

「ここから先は、苦労せずに歩けそうですわ」

「そうですね、珠美たまみさん。それに……」

 笑顔を見せた彼女に、俺は力強く頷いてみせた。

 いつのまにか、また周囲には高い木々が立ち並び、麓の様子は見えなくなっていた。それでも、土が剥き出しの山道から、アスファルト舗装の道路に出たということは……。

「……こういう道があるのだから、おそらく麓の集落が近いのでしょう。かなり山を降りてきたようですね」

 と、前向きな意見を口にする。

 ただ舗装されているだけではなく、道幅も広い。自動車の通行も可能なくらいだ。

 実際、少し歩いたところで、背後から車の音が聞こえてきた。続いて俺たちは、ヘッドライトに照らされる。

 振り返ると、白いワゴン車が一台、こちらへ向かって走ってきていた。

 俺と珠美さんは、軽く顔を見合わせた後、道路脇に寄って足を止める。俺としては、ワゴン車をやり過ごすつもりだったのだが、もしかすると彼女の意図は、少し違っていたのかもしれない。

 少なくともワゴン車の主は、俺が思っていた以上に親切だったようだ。車は俺たちの近くで一旦停車して、助手席の窓から一人の男――三十代半ばくらい――が、顔を覗かせた。

「こんなところで雨の中、一体どうしたのです? 良かったら、乗っていきませんか?」

「ありがとうございます」

 男の親切に甘えて、ワゴン車に乗り込む俺たち。

 俺と珠美さんを乗せると、すぐに車は動き出した。


 乗っていたのは四人で、車内は三列シート。珠美さんと一緒に、空いている二列目に座った俺は、まず自己紹介をする。

 日尾木ひびき一郎いちろうという名前であること、売れない小説家であること、小説の資料探しを兼ねて、妻と二人で地方の寺や神社を参拝して回っていること……。

 続いて、珠美さんも事情を説明。

「どうもありがとうございました。白蛇神社はくじゃじんじゃへ行こうとしていたのですが、道に迷ってしまい、辿り着けず……。おまけに雨も降ってきて、途方に暮れていましたの」

「それは大変でしたねえ。どうぞ、これで体を拭いてください」

 確かに俺たちは、少し濡れてしまっていた。傘を差していたとはいえ、しょせんは折り畳み傘。しかも激しい雨の中で、山歩きだったのだ。

 助手席の男が、俺と珠美さんにそれぞれ一つずつ、タオルを渡してくれる。そこには『白蛇旅館』という文字が縫い込まれていた。

 神社と同じで、おそらく『はくじゃりょかん』と読むのだろう。近所付き合いで配られたタオルか何かだと思って、その名前に何気なく視線を向けていると……。

 俺の様子に気づいたらしく、助手席の男が説明する。

「うちのタオルですよ」

 ふっくらと丸みを帯びた顔つきに似合う、温和な笑顔を浮かべながら、さらに彼は続けた。

「申し遅れました。私は、蛇心へびごころ雄太郎ゆうたろう白蛇旅館はくじゃりょかんの主人です」

 ああ、なるほど。言われてみれば、彼の上着――和風の羽織――にも『白蛇旅館』という文字があった。

 それにしても『蛇心』とは耳慣れない人名だが、田舎には様々な名前があるものだ。この地方では、これが普通なのかもしれない。

「そして、こいつは使用人の健助けんすけ大神おおがみ健助です。『オオカミ』ではなく『オオガミ』ですよ」

 続けて、運転席の男を紹介する蛇心雄太郎。

 わざわざ『オオカミ』なんて持ち出したのは、一種のジョーク、彼の持ちネタなのだろうか。確かに『蛇』と『オオカミ』ならば、怖い生き物という共通点でセットになりそうだが。

 そのオオカミならぬ大神健助は、運転中なので蛇心雄太郎とは異なり、後ろを振り向くことはなかった。バックミラー越しに、軽く俺たちに頭を下げただけ。ただ、その一瞬で、どうやら彼は少し目付きが悪いらしいと俺には見てとれた。

 大神健助は目を細めて、しかも帽子――ドラマに出てくる私服刑事みたいなハンチング帽――を深々と被った状態で運転しているのだが……。もしかしたら、目付きが悪いのを恥じて、隠そうとしているのかもしれない。


 蛇心雄太郎が旅館の主人ということは、これは、旅館の宿泊客を送迎するためのワゴン車なのだろう。つまり、後列の先客二人は、今日の宿泊客なのだ。

 そう思って、俺はチラッと、後ろを振り返る。そこでは二十歳くらいの男女が一組、体を寄せ合うようにして座っていた。

 男の方は顎が小さめで、大げさに言えば、顔が逆三角形の形だ。さらに目が大きくて、鼻が細長いという特徴があり、俺は蟷螂かまきりを連想してしまった。

 女の方は、男と比べれば丸い輪郭をしており、それほど極端ではないが、平均よりは顎が小さめで目も丸くて大きい。つまり、男と似ている部分がある。

 おそらく兄妹なのだろう。俺はそう思ったのだが……。

「今度は私たちが自己紹介する番ね。私は杉原すぎはら好恵よしえ。休みを利用して、恋人の正一しょういちと旅行中なの」

 ちょうど『恋人』という言葉を口にする時、彼女は見せつけるかのように、男の腕へ手を回した。それが嬉しいらしく、男は顔がニヤけている。

阪木さかき正一です。僕と好恵ちゃんは、大学のサークルで知り合いましてね。へへへ……」

 見るからに、ラブラブのカップルだ。

 結局、宿泊客なのは思った通りだが、兄妹という予想は大外れ。どうやら、単なる他人の空似だったらしい。


 ふと、俺は考えてしまう。阪木正一の発言にあった「大学のサークルで知り合いました」という言葉をきっかけとして、この時代の『大学のサークル』について。

 いや、今この瞬間を『この時代』なんて呼ぶのは、少し斜に構えているようにも聞こえるかもしれないが……。実は俺は、未来から来た人間なのだ。

 といっても、別にタイムトラベラーを自称するつもりはない。では、どういうことかというと。

 平成の世で普通に大学生として暮らしていた俺は、友人たちとの飲み会で泥酔。そこから先の記憶を、完全にくしてしまう。次に気づいた時には、昭和の日本で、全くの別人――三十代の男『日尾木一郎』――になっていた。

 意識だけがタイムスリップして過去へ跳ばされて、日尾木一郎の肉体に入ってしまった……。そう考えても良いのだが、むしろ俺は『転生』と解釈することにした。ネット小説によくある異世界転生、あれと似たパターンだ。飲み会の途中あるいは帰り道で事故に遭い、肉体を失った俺の魂が、異世界ではなく過去へと憑依転生したのだろう、と。

 ここは、本来の俺にとっては昔々と思える日本。第二次世界大戦前とか終戦直後の混乱期とか、そこまで古くはないが、高度経済成長とバブル時代の間くらい。身近なものを基準にするならば「テレビは白黒ではなくカラーだが、まだ家庭用ビデオデッキも普及していない時代」ということになる。

 さて、平成の世で大学生をしていた頃。

 俺の通っていた大学では、いくつか怪しげなサークルが存在していた。特に問題だったのが、サークル棟から距離を置いて、一つの校舎の地下に拠点を構えるサークル。俺たち学生は、先輩たちから「あの建物の地下には近づくな」と忠告を受けるほどだった。その問題のサークルは、安保闘争の時代の学生運動の流れを、いまだに受け継ぐサークルなのだという。

 その話を聞いて俺の頭に浮かんだのは、特撮番組に出てくる悪の秘密結社の残党組織。俺にとって『安保闘争の時代の学生運動』は、それほど現実感のない、遠い遠い過去の遺物だったのだ。

 しかし今、俺はその『過去』にいる。だから『大学のサークル』と聞いて、まず安保闘争を連想して、物騒なものかと思ってしまったのだが……。あらためて頭の中で歴史の教科書を紐解いてみると、安保闘争は高度経済成長よりも前の時代のはず。大雑把に『過去』と一括りにするのが間違いであって、『この時代』から見ても、さらに過去の話に相当するのだ。

 ならば、阪木正一と杉原好恵の所属するサークルを『怪しげなサークル』などと思ってしまうのは、失礼なことだった。心の中で、二人に謝罪せねばなるまい……。


 俺がそんな思索にふけっている間に、杉原好恵が、恋人の発言を補足していた。

「勘違いしないでね。私たちのサークルは、チャラチャラした軽いサークルじゃないのよ。日々、真面目な研究をしているところなの!」

「あら、まあ。どんな研究をなさっているの?」

 杉原好恵の言葉を受けて、珠美さんが尋ねる。本当に興味があるわけではなく、ただ単に「質問して欲しそうだから、一応」というだけかもしれないが。

 俺から見れば、杉原好恵は口調が馴れ馴れしくて、会話しづらい相手なのだが……。女同士ならば、気さくで話しやすく感じるのかもしれない。

 阪木正一も口を挟もうとせず、説明は杉原好恵に任せていた。

「サークルの通称は『げん・ち・けん』。あまりお堅い名前だと新入生にも避けられちゃうから、柔らかいイメージになるように、ひらがなで略称にしてるんだけど……」

 と、答えになっていないワンクッションを挟んでから。

「……正式名称は『現代超常現象研究会』。超常現象、いわゆるオカルトを研究するサークルなの!」

 どうだと言わんばかりに、もったいぶった口ぶりの杉原好恵。

 しかし。

 むしろ俺は、呆れてしまう。確かに思い返してみると、昭和の一時期、オカルトブームの時代があったと聞いている。おそらく、ちょうど今が、その時代なのだろう。あるいは、少し前後にずれるとしても、いくらか影響があるのだろう。

 だが俺にしてみれば、オカルトなんて、しょせん怪しげな概念に過ぎない。学生運動云々とは別の意味で、やはり彼らは『怪しげなサークル』の人間……。そう俺は結論づけるのだった。

   

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